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福岡ソフトバンクホークスとは?

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ソフトバンクグループ > 福岡ソフトバンクホークス
 | この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年6月)
福岡ソフトバンクホークス
【会社名】
福岡ソフトバンクホークス株式会社
【創設年度】
1938年
所属リーグ

パシフィック・リーグ


歴代チーム名

本拠地
福岡 ヤフオク!ドーム(福岡県福岡市中央区)

【収容人員】
福岡 ヤフオク!ドーム
38,530人
【フランチャイズの遍歴】


永久欠番

なし



獲得タイトル
日本一(8回)

リーグ優勝(20回)

セ・パ交流戦優勝・最高勝率(7回)
(2015年以降は最高勝率)


成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)

2011


日本シリーズ出場(17回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(9回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

4勝5敗


プレーオフ(2004-2006)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

0勝3敗


プレーオフ(前後期制)(1回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)

1勝0敗




球団組織
【オーナー】
孫正義(代行:後藤芳光)
【運営母体】
ソフトバンクグループ
【監督】
工藤公康

福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、英語: Fukuoka SoftBank Hawks)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグ所属。現在の監督は工藤公康、法人の会長は王貞治である。なお、王本人は球団のゼネラルマネージャーも務めている。

福岡県フランチャイズとし、同県福岡市中央区にある福岡ヤフオク!ドーム本拠地、同北九州市小倉北区にある北九州市民球場準本拠地としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は同県筑後市津島にあるHAWKSベースボールパーク筑後である。

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 南海時代
      • 1.1.1 球団設立
      • 1.1.2 戦前
      • 1.1.3 鶴岡監督時代
      • 1.1.4 パリーグ加入後
      • 1.1.5 飯田、野村監督時代
      • 1.1.6 広瀬監督時代 - 南海身売り
    • 1.2 ダイエー時代
      • 1.2.1 平和台時代
      • 1.2.2 福岡ドーム時代
    • 1.3 ソフトバンク時代
      • 1.3.1 王監督時代
      • 1.3.2 秋山監督時代
      • 1.3.3 工藤監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 その他の記録
  • 4 歴代本拠地
  • 5 歴代監督
  • 6 歴代主将
  • 7 準永久欠番扱いの背番号
  • 8 チームの特徴
    • 8.1 南海時代
    • 8.2 福岡移転後
  • 9 球団愛称
  • 10 ユニフォームの変遷
    • 10.1 南海時代
    • 10.2 ダイエー時代
    • 10.3 ソフトバンク時代
    • 10.4 特別ユニフォーム
    • 10.5 復刻ユニフォーム
  • 11 球団旗の変遷
  • 12 マスコット
  • 13 運営会社
  • 14 ユニフォーム等のスポンサー
  • 15 主な球団歌・応援歌
    • 15.1 歴代
    • 15.2 現在
  • 16 主なキャンプ地
  • 17 スローガン
  • 18 キーワード
    • 18.1 没収試合で掴んだ初優勝
    • 18.2 毎回得点試合・毎回失点試合
    • 18.3 日本シリーズ最少観客動員記録
    • 18.4 こけら落しがサスペンデッドゲーム
    • 18.5 堺市への幻の移転計画
    • 18.6 生卵事件
    • 18.7 保護地域でのロードゲーム
    • 18.8 台湾での公式戦
    • 18.9 東京での主催ゲーム
    • 18.10 大阪での主催ゲーム
  • 19 地元・福岡との連携
    • 19.1 ホークスサポーターズクラブ
    • 19.2 小売業との連携
    • 19.3 アビスパ福岡との連携
    • 19.4 公共交通機関
    • 19.5 在福マスコミとの連携
    • 19.6 ホークス応援隊
    • 19.7 その他
  • 20 放送
    • 20.1 中継番組
    • 20.2 応援・報道番組
  • 21 イベント
    • 21.1 ○○デー
    • 21.2 鷹の祭典
    • 21.3 タカガールデー(旧称・女子高生デー)
    • 21.4 ドォーモデー
    • 21.5 ASAHI SUPER DRY LIVE POP HAWKS
  • 22 応援スタイル
    • 22.1 メガホンダンス
    • 22.2 ジェット風船
    • 22.3 アウトテーマ
    • 22.4 伝統を引き継ぐ動き
    • 22.5 その他
  • 23 福岡ソフトバンクホークスマーケティング
  • 24 ファンクラブ
  • 25 タカマル
  • 26 ショップ
  • 27 モバイルゲーム
  • 28 関連書籍
  • 29 脚注
    • 29.1 注釈
    • 29.2 出典
  • 30 関連項目
  • 31 外部リンク

球団の歴史

南海時代

1944年から1947年にかけての「近畿日本」、「グレートリング」と言う名称だった時代も含む。

球団設立

1938年3月1日南海鉄道を親会社とする「南海軍(なんかいぐん)」が結成され(運営会社は「南海野球株式会社」)、関西の私鉄界では阪神電気鉄道阪神急行電鉄(阪急)に続く3番目のプロ野球球団となった。阪神の細野躋や阪急の小林一三が南海の寺田甚吉社長と小原英一取締役に設立を勧め、寺田のツルの一声で決まったとされている。誕生に際しては「陣痛の苦しみを知らぬおおらかさで産声を上げた」と『南海ホークス四十年史』で記述されている。本拠地は大阪府堺市堺大浜球場

同年3月29日に行われた日本職業野球連盟の総会で加盟が承認されたが、この総会の状況についてはいくつかの異なる証言がある。当時連盟理事長の鈴木竜二が「古い話で誰が言ったか定かでない」と述べているが、名古屋金鯱軍山口勲が反対意見を出したのが定説とされる。反対意見は既に1937年度から8チームでのリーグ戦を開催していたため、南海軍の出場を認めると9チームで開催することとなり、日程上1チームは試合から外されてしまう事への抵抗だったとされる。一方で大阪タイガース常務の細野躋が南海の加盟が認められないなら脱退も辞さぬと述べたともされるが、そのような険悪な雰囲気はなかったと、総会に参加した書記の野口務の報告にある。また、当時の部員は監督と選手合わせて14名と人数的にも少なかった。しかし、連盟とリーグ参加各チームは条件付きの参入を決めた。これは春季リーグの参加は開幕が近づいており、日程編成の調整が難しかったことも考えられているが、一番の理由としては「選手を補強し、その実力を考慮に入れた上で秋季リーグからの参加を認める」というもので、春季リーグはいわばリーグ戦に参加できない準加盟チーム扱いでのスタートだった。その為秋季リーグ戦から参加となる。

戦前

1938年7月22日、南海の初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦が後楽園球場で行われるが、先発の劉瀬章が3回3失点で降板など8対5で敗れている。7月28日、堺大浜球場において阪急軍との「南海結成記念試合」が行われ、3回に2点を先制したものの直後に雨天中止となっている。8月27日に秋季リーグ戦が開幕し、南海のリーグ公式戦初試合となる対東京巨人軍戦(後楽園)が行われ、巨人に3点を先制され、その後南海が同点としたものの、リリーフで登板したヴィクトル・スタルヒンに抑えられた上、決勝のタイムリーも打たれて4対3で敗戦に終わる。9月6日の対名古屋金鯱軍でリーグ公式戦で初勝利するが、初めて参加したリーグ戦は11勝26敗3分に終わり、首位から18ゲーム差の9チーム中8位に終わる。

1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に阪急西宮球場阪神甲子園球場で行われた。応召で抜けた岩本義行の後の主将にこの年入団したばかりの鶴岡一人がなり、鶴岡は初年度から10本塁打で球団初のタイトルとなる本塁打王を獲得するなど活躍するが、鶴岡もこの年限りで応召され、戦前はこの年限りとなっている。リーグは年間通じての1シーズン制となり、便宜上、春夏秋の3季制となるが、南海は春、夏季には負け越したが秋季は勝ち越し、年間通じては首位の巨人から25ゲーム差の5位に終わる。

1940年4月6日の対阪急軍戦で、南海軍は2対32の30点差をつけられての記録的大敗を喫する。応召で鶴岡などの主力が抜けた穴を埋める事が出来ず、勝率.283で首位から45.5ゲーム差の9チーム中の8位に終わる。この年の有料入場者数は88万人近くと戦前最高となった。オフには東京6大学野球の選手や、阪急から石田光彦翼軍から鬼頭政一などを加入させるなど、それまでに無い選手の補強に乗り出している。

1941年、応召は続き、投手陣は神田武夫川崎徳次の2人で全試合の8割を投げているという状況だった。春、夏はそれぞれ12勝16敗と負け越すが、秋季は最後まで巨人と首位争いとなり、既に巨人の年間優勝が決まった後であったが、最終戦は1ゲーム差で巨人と戦うが3対2で敗れ、19勝9敗として、年間通しては初の勝ち越しとなる43勝41敗で8球団中4位となる。

1942年、前年12月に始まった太平洋戦争の影響で主力選手の応召がさらに続き、戦力補強で中学出身の選手などを多数入団させるが、翌年度から主力となる別所昭以外は戦力にならなかった(別所はこの年2試合のみ登板)。川崎が病気で欠場となり、その分神田に比重がかかったが、春季は開幕から23試合までは巨人と1勝差ながら首位となり、その後4連敗で首位陥落し、夏季も開幕5連勝の後に12戦で1勝11敗で順位を落とし、首位巨人と26.5ゲーム差の8球団中6位に終わる。

1943年、川崎らが応召で抜け、前年まで2年間チームを支えた神田が7月に病気で死去するなど戦力低下が続く。2年目の別所が投手陣の柱となり5月26日の対大和軍戦で球団初のノーヒットノーランを達成したが、春季は最下位阪急と1.5ゲーム差の6位に終わり、 夏季は2勝11敗とした7月29日に監督を加藤喜作に代えるものの、これと前後して6連敗と4連敗を記録するなど6勝19敗で最下位。秋季は開幕から2勝1敗として、直後に11連敗となり、以降浮上することはなく、球団史で最も悪い成績となる勝率.185、5勝22敗1分とし最下位に終わり、年間通じても首位の巨人と28.5ゲーム差の最下位に終わる。投手陣は別所と丸山二三雄の2人で投げている状態だったが、丸山はこの年限りで応召。

1944年、戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併して同年6月1日より近畿日本鉄道(近鉄)となり、合わせて球団名を「近畿日本軍(きんきにっぽんぐん)」へ改称。相次ぐ選手の応召によって、1943年には20人、1944年には14人(当時の6球団合わせても90人弱)という陣容で行われていた。

この年は春季が3勝12敗で最下位に終わる。夏はここまで5年連続優勝の巨人がエースのスタルヒンが活動できなくなったこともあり、一時最下位になるなど低迷、近畿日本は巨人と同率の3位となるが、全球団の相次ぐ選手の応召でリーグ戦を開催するのが困難となり、戦前におけるリーグ戦は夏季限りとなり、近畿日本としての最後の試合は8月27日の対巨人戦(甲子園)で、近畿日本が6対1で勝利している。秋季は9月、リーグ戦の代わりに日本野球総進軍優勝大会の東京大会(後楽園)と大阪大会(甲子園)が開催されるが、単独チーム編成は困難となり、近畿日本は阪急と混成チームを組んでの出場となった。

鶴岡監督時代

1946年、プロ野球が8球団によって再開されリーグに復帰。球団名を「グレートリング」に改称した。愛称は「近畿」で、「近畿グレートリング」と呼ばれることもあった(詳細については球団愛称節を参照。また、当時のプロ野球における愛称面全般については日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称を参照)。最終戦まで優勝争いとなり、11月5日に巨人がセネタースに負けたことにより、球団初優勝。最終的に2位の巨人とは1ゲーム差。

1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせて球団名を「南海ホークス」に改称した。この年チームは59勝を挙げているが、そのうち半数の30勝が別所によるもので、打線は機動力はすぐれていたが、選手兼任監督山本一人以下21名という少数精鋭の欠点が目立ち、別所が上位に勝った翌日に下位に負けることが多く、5月5日時点で首位の中日から0.5ゲームとしていたが、6月以降は首位の大阪に離されて、最終的に19ゲーム差の8球団中3位となる。

1948年、前年の少数精鋭を補うべく、シベリアから復員した柚木進木塚忠助などを補強しシーズンに臨む。中谷信夫が開幕から12連勝。11月8日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、2年ぶり2度目の優勝、2位の巨人に5ゲーム差をつける。オフ、エースの別所が読売ジャイアンツに引き抜かれる事件が発生した。詳細は別所引き抜き事件を参照。1949年、勝率5割で首位の巨人から18.5ゲーム差の8球団中4位に終わる。シーズンオフの2リーグ分立パシフィック・リーグに加盟。

パリーグ加入後

1950年

新本拠地として大阪市内中心部の難波大阪球場が完成し、自前の球場を確保する。5月11日に2厘差で首位に立つものの1日で首位陥落し、それ以外は開幕からすべて毎日オリオンズが首位となった。8月に6連敗するなど10ゲーム差となり、最終的に毎日と15ゲーム差がつき、7球団中2位に終わる。

1951年

シーズン終了後に日米野球が行われるため、シーズン途中で打ち切りとなり、21試合を残し9月23日に2位の西鉄に18.5ゲーム差をつけてパ・リーグ加盟後、初優勝となる。一塁飯田徳治、二塁鶴岡一人、三塁蔭山和夫、遊撃木塚忠助による「100万ドルの内野陣」と呼ばれた内野陣で他球団を圧倒、長打力に欠けたものの、得点はリーグ最多、失点はリーグ最少。しかし初めて出場した日本シリーズでは、巨人と対戦するが、シリーズ通してその内野陣が5盗塁で終わるなど、得意の機動力が発揮できずに、初戦からの3連敗もあり1勝4敗で敗れる。

1952年

この年は7球団で108試合まで戦い、以降はそれまでの上位4球団による4回戦制となった。6月までは毎日が独走だったが、6月以降は、南海が5連勝以上を4度記録するなど9月に108試合目となるまでは2位以下を圧倒したが、上位4球団による争いとなってからは不振に陥り、毎日と優勝争いとなるが、最終戦の対大映(大阪)に勝利したことで、2位の毎日と1ゲーム差でリーグ2連覇を決める。日本シリーズでは前年に続き巨人と対戦するが、2勝4敗で敗れる。

1953年

前年16勝の服部武夫と11勝の江藤正が1つも勝てず、柚木進も16勝は挙げたが故障で2カ月離脱するなど、前年までの投手陣が壊滅状態となり、かわって2年目の大神武俊が19勝、井上慎一が14勝で投手陣の柱となる。首位が28回入れ替わる混戦だったが、南海が残り試合1とした10月6日に2位の大映が負けたことで、リーグ3連覇を決める。日本シリーズでは3年連続で巨人と対戦するが、2勝4敗1分けで敗れる。

1954年

開幕から西鉄ライオンズが11連勝で抜けだすが、8月から9月にかけて南海は日本プロ野球記録の18連勝、1敗を挟んで8連勝で、この間26勝1敗と追い上げ、終盤まで西鉄と優勝争いとなるが、西鉄の90勝を上回る91勝をあげるものの、引き分けの差で西鉄と0.5ゲーム差の8球団中2位に終わる。

1955年

この年は南海が開幕より10連勝で抜けだすが、この年も西鉄と首位争いとなり25度に渡って首位が入れ替わり、2度3位となったが、阪急に10勝10敗とした以外はすべて勝ち越し、8連勝を1度、7連勝を2度、6連勝を1度するなど8月24日以降は首位を渡さないまま、10月6日に対西鉄戦(平和台)に勝利して、2位の西鉄とは9ゲーム差をつけ2年ぶり5度目のリーグ優勝を決める。99勝は日本プロ野球史上最多記録。4度目の日本シリーズで巨人と4度目の対戦となるが、3勝4敗で敗退。「ナンカイ(何回)戦っても巨人に勝てないナンカイ(南海)」と揶揄された。二軍チームが同年創設のウエスタン・リーグに参加。

機動力野球では巨人に対抗できないと考えた鶴岡は、チーム構想を長打力重視の「400フィート打線」へと転換したが、なかなか軌道に乗らなかった。

1956年

2月、球団初の日本国外遠征となるハワイ遠征を行う。序盤、4月15日に首位に立つと途中6月半ばに一時首位を陥落したものの、6月末に首位に返り咲くと首位を譲らないまま、9月上旬の時点では2位の西鉄に7ゲームをつけていた。しかし9月22日からの平和台での対西鉄4連戦に3敗1分けと勝てずに同月30日には西鉄に首位を明け渡し翌日に南海が再度返り咲くなど、西鉄との首位争いとなるが、この後南海が対大映4連戦に2勝2敗とし、西鉄が5勝1敗と勝ち越し、10月6日に西鉄の優勝が決まっている。南海は全球団から勝ち越し、かつ西鉄と同数の96勝を挙げたものの、1954年同様に引き分け1つの差の8球団中2位に終わっている。投手陣はこの年のリーグ規定投球回数230イニングに達した投手が一人も出ず、これまで2年で50勝の宅和本司が6勝、前年23勝の中村大成が5勝に終わるなど、絶対的と呼べるエースがいなかったとされ、また打撃陣も飯田、木塚、蔭山らに陰りが見え、新旧過渡期と言える1年となった。

1957年

この年も西鉄との首位争いとなったが、途中7月から8月にかけて西鉄が対南海戦7連勝を含む14連勝をするなど、シーズン通しての対戦成績は南海の7勝15敗と8つの負け越しとなり、これが大きく響いて西鉄に7ゲーム差をつけられの7球団中2位に終わる。オフには「立教三羽烏」のうち、長嶋茂雄杉浦忠を獲得しようとするが、当時杉浦より入団が確実とされた長嶋が巨人入りし、杉浦のみの入団に終わる。また、チームの若返りをはかるため、飯田を国鉄、木塚を近鉄にそれぞれ金銭トレードで放出している。

1958年

この年以降、パ・リーグは6球団制となる。杉浦忠が開幕戦で勝利投手になるなど、チームは4月を12勝3敗とし、序盤から独走状態となり、オールスター前に杉浦が20勝(3敗)を挙げ、2位の西鉄に11ゲーム差をつけていた。しかし後半戦になると、杉浦が調子を落とし8月には西鉄戦で3敗するなど、7勝9敗に終わっている。西鉄は稲尾和久がチーム36勝のうち31勝に関与するなど活躍を見せ、南海を追い上げ、8月16日に4ゲーム差、9月末最後の首位攻防戦2連戦直前の時点では6厘差としていた。その首位攻防戦の9月27日の試合は杉浦が先発、途中からリリーフで登板の稲尾との投げ合いで10回引き分けとしたものの、翌日には杉浦が連投で先発したものの1回で降板するなど2対7で敗戦し、首位を西鉄に明け渡し、10月1日に西鉄が優勝し、3年続けて、序盤首位に立った南海を逆転した西鉄の優勝という形となった。

1959年

この年は大毎との優勝争いとなり、10月4日に対大毎戦(後楽園)に勝ち、4年ぶり7度目のリーグ優勝を決める。月間成績でも優勝が決まった10月を除いてすべて勝ち越し、10敗以上はしない安定した成績で、4月28日に立って以降は8月に10連勝の大毎に首位を奪われた以外はすべて、首位だった。38勝を挙げた杉浦忠をはじめ10勝以上投手が4人出ており、杉浦は最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手三冠王を獲得し、最優秀選手に選ばれている。打者では杉山光平が首位打者を獲得。日本シリーズでは、4回の対戦でいずれも敗退した巨人と5度目の対戦となり、杉浦が第2戦以外の3試合で先発、第2戦でもリリーフで登板するなど4連投し、シリーズ史上初と球団史上初となるストレート4連勝で1リーグ時代から約11年ぶり3度目、2リーグ制になってから初の日本一達成となった。大阪市内の御堂筋で大阪球場前からスタートしたパレードは20万人(警察発表)のファンで埋め尽くされた。

1960年

開幕戦では前年より無失点を続けていた杉浦が56イニングぶりに失点するなど、阪急に4対5で敗れ、14年ぶりに開幕戦で敗れている。前年に続き大毎との優勝争いとなるが、8月に9連敗したのが大きく響き、首位の大毎に4ゲーム差の2位に終わる。

1961年

それまで最下位争いを続けていた東映フライヤーズ水原茂を監督に迎えて躍進、南海と首位争いとなる。10月11日からの南海対東映5連戦で3勝した方が優勝という状況で、10月15日の駒沢での試合で南海が勝ち、3連勝で2年ぶり8度目のリーグ優勝を決める。巨人との日本シリーズでは南海の2勝1敗で迎えた第4戦、南海が1点リードでの9回裏二死で、ジョー・スタンカが2ストライクとした後の投球へのボールの判定に南海側が猛抗議したものの判定が覆らず、この後サヨナラ負けしたことがこのシリーズの明暗を分け、巨人に2勝4敗で敗れる。野村克也がこの年からパ・リーグ記録となる8年連続本塁打王を獲得。広瀬叔功は初の盗塁王を獲得、この年から5年連続で獲得。

1962年

開幕戦を連勝スタートしたものの直後に6連敗、2連勝を挟む形で8連敗、5連敗と敗戦を重ねて6勝19敗で、首位とは10.5ゲーム差となり、5月24日の対阪急戦後に監督の鶴岡が一時休養している。その後6月末から7月にかけて11連勝するなどもあり、鶴岡が8月に復帰した直後の8月9日に勝率を5割に戻す。9月19日には首位東映と4.5ゲーム差まで詰め寄るが、20日からの直接対決で負けたことで追いつけず 、東映とは5ゲーム差の2位に終わる。

1963年

夏場まで首位独走、5月5日の時点で2位の東映に8ゲーム差をつけていたが、オールスター直前に6連敗するなど成績が下降。前半戦4位の西鉄が後半追い上げ、9月を19勝9敗、10月も8連勝するなど、南海が10月17日にリーグ全日程を終了した時点で、西鉄が残り4試合を西鉄が2勝以下で南海優勝という状況で西鉄が4連勝し、最大14ゲーム差を逆転され優勝を逃す。野村が右打者としての当時年間最多本塁打を樹立。。

1964年

東京オリンピック開催の影響で、開幕が3月14日となり、3月を9勝7敗としたものの31日から5連敗で5位に転落。5月までに2位としたものの、直後に7連敗で5位に戻る。前半戦はこの年より監督として指揮をとる西本幸雄の阪急が独走状態で、オールスター前後から追い上げた南海との首位争いとなり8月5日には南海が首位にたっている。9月には南海が7連敗で阪急と3毛差となるが、9月19日に阪急が東京に敗れたことで、2リーグ分裂後最短で4年ぶり9度目のリーグ優勝を決める。阪神との初の関西地区同士のチームの対決となった日本シリーズジョー・スタンカの2試合連続完封で制し、4勝3敗で1リーグ時代から数えて4度目の日本一達成。この年は首位打者と盗塁王、最多得点を広瀬叔功、本塁打と打点を野村克也が獲得するなど主な打撃部門のタイトルを南海が独占している。

1965年

開幕から本拠地の大阪球場で19連勝するなど、序盤より連勝を重ね、2連敗を一度した以外は連敗がないまま、7月7日の時点で59試合で50勝9敗というペースで勝ち進み、これを前後して17連勝も記録した。オールスター以降の勝率は5割を切ったものの、序盤からの独走もあり、2位に12ゲーム差をつけて9月26日に対東映戦ダブルヘッダー(大阪)に連勝し、2年連続10度目のリーグ優勝を決める。 日本シリーズではこの年からV9時代に入る巨人に1勝4敗で敗れる。鶴岡が監督を辞任するが、後任の蔭山和夫が就任4日後に急死したため、鶴岡が監督に復帰している(詳細は南海蔭山新監督急死騒動を参照)。野村克也が2リーグ制以降初の打撃部門三冠王を達成する。

1966年

5月まで26勝12敗で、6月は負け越したものの、以降はすべての月で勝ち越す。西鉄、東映との首位争いとなり、一時5.5ゲーム差をつけていたものの西鉄に追い上げられ、南海が全日程を終了後、4試合4連勝が優勝の条件だった2位の西鉄が10月9日に敗れたことで、南海の3年連続リーグ優勝が決まる。日本シリーズでは2年連続で巨人と対戦するが、第1戦と第3戦を城之内邦雄に抑えられて敗戦、第4戦では延長14回にケント・ハドリが城之内からサヨナラ本塁打で勝利するが、第6戦に今季4勝の益田昭雄に5安打完封負けで、2勝4敗でシリーズ敗退。

1967年

序盤から最下位争いをするなど低迷

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出典:wikipedia
2018/04/12 13:15

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