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福本豊とは?

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福本 豊
【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大阪府大阪市生野区
【生年月日】
(1947-11-07) 1947年11月7日(70歳)
身長
体重 168 cm
68 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
外野手
【プロ入り】
1968年 ドラフト7位
【初出場】
1969年4月12日
【最終出場】
1988年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2002年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身で東大阪市育ちの元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。

通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時はMLB記録も超えた)で、「世界の福本」 「世界の盗塁王」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者野球評論家タレントとして活動している。

現役通算2543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃、NPB歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打を記録した俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二山田久志加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。血液型はB型。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 現役引退後
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 盗塁術
      • 2.1.1 他球団の福本対策
    • 2.2 打撃
    • 2.3 守備
    • 2.4 記録など
  • 3 解説者として
  • 4 人物
  • 5 福本語録
    • 5.1 現役時代
    • 5.2 現役引退後
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別打撃成績
    • 6.2 タイトル
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 解説者としての出演番組
      • 7.1.1 現在
      • 7.1.2 過去
    • 7.2 連載コラム
    • 7.3 著書
    • 7.4 関連著書
  • 8 注釈
  • 9 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

経歴

プロ入り前

大鉄高等学校時代は、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて球拾いに専念していた。しかし、練習中に右翼手の守備に就き、一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降右翼手のレギュラーに指名された。1965年の高校3年生夏に、第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たす。同校は夏の甲子園初出場であった。1回戦では、この大会で4強入りした秋田高校と対戦するが、延長13回裏、福本と二塁手が打球をお見合いしてしまい、サヨナラ負けを喫した。1年下のチームメートには、高橋二三男(元西鉄ロッテ、外野手)がいた。

卒業後は社会人野球松下電器(現・パナソニック)に進む。俊足が武器であったため、監督に「(俊足のスーパースターであった)広瀬叔功になれ」と言われ、当時の広瀬の背番号である12を背中に付けて広瀬をよく観戦しにいったという。福本は後年に「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」と語っている。

1年目の1966年から外野手のレギュラーを獲得。同年の都市対抗に二番打者として出場し、三塁打を放つなど活躍。社会人3年目の1968年には、同僚の加藤秀司(後の英司)・岡田光雄(元近鉄)と共に富士製鐵広畑の補強選手として都市対抗に出場。岡田と神部年男の好投もあって決勝に進出、河合楽器を降しチームを優勝に導く。同年の社会人ベストナインのタイトルを獲得したが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。

同年秋のドラフト会議で、阪急ブレーブスに7位指名を受けた。入団当時の背番号は「40」。なお、阪急ブレーブス以外に、南海ホークスも、早くから福本の俊足に注目していた。しかし168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた。

プロ入りのきっかけは、松下電器時代既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。試合でスカウトが来ている時に本塁打を打ったり、都市対抗野球でホームへ好返球をしたりする(ドラフト同期の山田が福本の名を知ったのはこのプレーだという)等のプレーが認められたものだった。これについて、福本は「たまたまあのときだけ、一番いいプレーが出たんや」と語っている。さらにスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝したことが「プロ向きのいい根性を持っている」と勘違いされ、これも指名される要因になったのではないかと述べている。別の著書では、1968年夏に日本生命球場での試合に阪急球団マネージャーの矢形勝洋(のちに球団常務)とスカウトの藤井道夫が加藤の視察に訪れた際、「ついでに」リストアップされたという。また、阪急以外で接触があったのは近鉄バファローズのスカウトが「念のため」として住所と電話番号を尋ねた(それ以来「何の音沙汰もなかった」という)ことと、都市対抗野球出場時、読売ジャイアンツ(巨人)の多摩川グラウンドで練習した際に、巨人のスカウトから「君はいい選手だけど、惜しいねぇ。身長があと5センチあればなぁ…」と言っただけで帰った出来事だけであると記している。

本人はスカウトが自分に興味がないと思っていたことからドラフトに指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と言われ、そこで初めて自分が指名されたことを知ったという。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から肉料理をご馳走され、「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留していたが、そうしているうちに何度も食事に誘ってもらったため断りにくくなってしまったという。結局、4回目の食事の時に入団を決意した。

前記の経緯から、福本は「松下電器に加藤がいたおかげで、僕も阪急ブレーブスの一員になれた」と著書に記している。

現役時代

プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日開幕戦(対東映フライヤーズ)、長池の代走で盗塁を試みるも、宮崎昭二鈴木悳夫のバッテリーに盗塁刺され、翌日の同一カードダブルヘッダー第2試合でフランシス・アグウィリーの代走に起用された際、桜井憲種茂雅之のバッテリーからプロ初盗塁を記録した。このため、プロデビューは、腰痛の治癒を待って8月に入団した山田や、初年度は2軍で多くを過ごした加藤(1969年の公式戦出場は9試合)よりも早かった。だが、オールスター戦前に監督の西本幸雄から「一度ファームへ行って、盗塁の練習でもして来い」と2軍行きを命じられる。2軍ではひたすら打撃練習(寮でも「植木の葉の先にバットを当てる素振り」をしたという)に励んだ。入団当初の福本は周囲のレベルの高さを見て「自分は(ドラフト)7位でそれほど期待もされていない。3年間だけ我慢してそれなりの結果が出なければ、プロ野球は諦めよう」と考えていた。2年目は力のある打球を飛ばせるようになり、本塁打も8本記録した。2年目のキャンプ時、見違えるようなスイングを西本監督に「誰に教えてもろたんや?」と言われ、「いやだなぁ、監督ですよ。監督に言われたとおりに素振りしていたらこうなりました」と答えたという。

1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年から背番号を7に変更し、同年には日本プロ野球史上唯一の3桁、達成当時はMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)も破るシーズン106盗塁 を記録、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海ホークス戦(西宮球場)の4回に二盗に成功し、それまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録(596個)を更新(このとき、広瀬は中堅手の守備に就いており、グラウンド上で記録更新を目撃した)。その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。初めて盗塁王を獲得してからは、特別なケースを除いてベンチから盗塁の指示(サイン)が出ることはなくなり、福本の判断で走れるようになった(いわゆるグリーンライト)。出塁すれば「自動的にツーベースヒットと同じ意味を持」ち、加藤秀司が「三振さえしなけりゃ、どんな形でも三塁から」生還できると評した福本は、1971年からの8年間で6度のリーグ優勝、さらに3年連続の日本シリーズ優勝に大きく貢献した。阪急が初めて巨人に勝った1976年の日本シリーズでは打率.407(11安打)、2本塁打でシリーズMVPに選ばれている。1977年の日本シリーズ第2戦では初回に四球で出塁すると、盗塁と二つの内野ゴロによりノーヒットで先制点を挙げ、著書で「これこそ、僕らが公式戦でやってきた普段着の野球」と記している。

1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)の9回に三塁への盗塁を決め、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。福本は新記録を本拠地の「西宮球場の競り合ったゲームで作る」と決めており、球団からも「西宮での達成」を求められていた。試合はその時点で大差のリードを許し走る気もなかったが、西武の遊撃手である石毛宏典がたびたび牽制のベースカバーに入ったことで「ついカッとなって」走ったという。福本は「何とも気の重い世界記録になってしまった」と記している。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、固辞した。この際、「立ちションもできんようになる」と言ったと報じられた。真意として、賞の第一号であった王貞治のような「野球人の手本」になれる自信がなかったこと、麻雀喫煙もたしなむため他の受賞者に迷惑がかかると考えたことを、2013年の取材に対して述べている。ただし大阪府知事賞詞(現:感動大阪大賞)の受賞は受け、大阪府知事の岸昌から賞詞を受け取っている。また、記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。

このシーズンの盗塁は55に終わり、60盗塁を記録した大石大二郎(近鉄)に連続盗塁王の記録を13年で阻まれた。福本によると、939盗塁の達成前に「しんどかった」ことに加え、大石が自分と同じタイプの選手で「西本さんの教え子」でもあることから、「もう走れへんから、(タイトルを)お前にやるわ」と言ったという。連続記録に「こだわりはなかった」というが、相手が大石でなかったら「きっと14年連続を目指して、頑張っていたと思う」とも述べている。

1984年8月7日には1000盗塁に到達。その後は記録を1065まで伸ばした。

1985年頃からはレフトを守る機会が増え、盗塁のサインがダグアウトから出されるようになる。

1987年4月18日の対ロッテ戦(川崎球場、先発・山田久志)で佐藤健一のライナーを無理に取ろうとして右肩を脱臼する。救急搬送された病院での診断は「全治2か月」であったが、かかりつけの整体師(愛知県在住)に「任せてダメなら引退する」覚悟で2日おきに診察を受け、2週間で復帰した。福本にとって最初で最後の大きな故障離脱であった。この年のオールスター戦には監督推薦で出場、盗塁を試みたが失敗に終わる、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしている。これが福本が出場した最後のオールスター戦となった。

1988年のシーズンにはスタメンに入ったのは23試合にとどまり、出場試合数も92に減った(福良淳一ダラス・ウイリアムズなどが主な1番打者となる)。それでも福本は現役を続行する意思があり、山田が引退を表明(10月10日)してから数日後、千里阪急ホテルに監督の上田利治と球団常務の矢形勝洋に呼ばれて面談した際にそれを「伝えたつもりでいた」が、その場に記者が来たときに矢形の指示でテーブルの下に隠れたという。シーズン終了間際の10月19日、ブレーブスのオリエント・リースへの売却が伝えられた。後の福本の回想によると、その日は来季の身分を、選手兼任コーチと専任コーチのいずれにするかの回答を球団から伝えられる予定だったが、売却により白紙になったという。阪急球団が作成していた1989年カレンダーには1月の箇所に「外野手」として打席での福本の写真があしらわれていた。

10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦があり、試合後の挨拶で監督の上田が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、急に引退すると決めた福本は周囲から「冷たい奴や」と言われたと回顧している。

後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」とも語っている。また、『ベースボール・マガジン』など一部メディアでは、前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなると言うことで引退を決めたと書かれている。『週刊ベースボール』でのインタビューによれば、当初は自由契約を希望したものの、受け入れられず任意引退の形を取られ(取らされ)、それならばと思いコーチ兼任を希望したが拒否されたという。結果的に知人のアドバイスにより引退を決意した。一時は阪神タイガースへの移籍も考えていたという。

他方で、その8日前、阪急身売りが公表される前の10月15日、毎日放送の野球中継中(南海対近鉄第25回戦)、門田博光の活躍に触れる際、同年代の選手として引き合いに出す形で福本がその年限りで辞めると述べていたことが井上光央アナウンサーによって言及されている。

現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っていたが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている。

1989年3月の引退試合(対巨人オープン戦・西宮球場)では、山田とともに阪急のユニフォームで出場し、福本は打席に入って香田勲男と対戦した。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。

現役引退後

引退後の1989年はオリックスの一軍打撃コーチ、1990年から1991年まで同球団二軍監督を務めた。1992年から1997年まで6年間朝日放送サンテレビジョンの野球解説者を務める。この間の1992年6月16日、MLBのリッキー・ヘンダーソンが福本の持つNPB通算盗塁記録を超える1066盗塁を記録した。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、福本は記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で見事福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛し、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と述べた。

1998年阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任し、翌1999年は一軍外野守備・走塁コーチを務めた。阪神のコーチ時代、1999年に監督就任した野村克也に現役時代の盗塁術を買われて三塁ベースコーチを任せられたが、「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁できる確率も少ない。出塁ができなければ盗塁もできない」という持論から選手に打撃指導ばかりしていたため、同年限りで解任された。

その後は2000年から朝日放送サンテレビジョンの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。

2002年野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、日本身体障害者野球連盟の名誉理事長も務めている。また、2006年1月からは、阪南大学野球部特別コーチに就任。

2011年5月7日ほっともっとフィールド神戸で開催されたオリックス・バファローズ千葉ロッテマリーンズ戦では、山田・加藤とともに、阪急時代を再現したユニフォーム姿で始球式を務めた。

2016年2月には、オリックス・バファローズの春季キャンプで、臨時コーチとして打撃や走塁を指導した。

2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。

野球以外では、阪神甲子園球場そばにあるベースボールバー「G.LOVE」のオーナーを務めており、店内には本人の阪急時代のユニフォームや阪急西宮スタジアムの座席などが飾られている(現在は本店舗を含め計3店舗を展開している)。

選手としての特徴

盗塁術

1年目の4盗塁から2年目に75盗塁できたのは、1964年東京オリンピック400メートル競走選手が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている。

打力が付き、レギュラーに定着したが、出塁しても盗塁のタイミングが全く分からずに牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。前記の通り、結果次第では3年でプロ野球をやめる可能性があったため、自分がプロに在籍した証を残そうと、友人(高校時代の野球仲間)に8ミリカメラで試合を撮影してもらっていた。1969年のオフに自宅でその映像を早回しで眺めたところ、投手の個性が見えたという。それを実戦で確かめたのは3年目のシーズンだった。福本は「相手投手のクセではなく、僕は投球リズムを盗んだ」と記している。これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。その後、フィルム撮影は球団の手で行われることとなった。

しかし、近鉄の神部年男鈴木啓示の2人だけはなかなか特徴を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおした。神部は軸足(かかとが数ミリ伸び上がったら投球する)、鈴木は顔(顎が下がれば牽制、走者を一度見たら投球)に「癖」があることをついに発見、両投手の攻略に成功した。

東尾修は投球時に左肩が本塁方向に流れることを見抜き、「最初はモーションを盗みやすかった」という。1972年のオフ、ミズノが開いたアドバイザリースタッフとの懇親会で、東尾に頼まれて「すぐに直せるものではないから」この「癖」を教えた。翌シーズンになると東尾はその点を修正した上、逆にわざと左肩を流すようにして牽制球を投じる「ボークすれすれ」の方法も織り交ぜた。東尾はキャンプで審判を集めて「肩が入っていない」とアピールし、福本は塁に出ると審判に東尾の左肩に注意するよう頼むといった攻防もおこなった。

盗塁の3要素と言われる「3S」こと、スタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについては、つま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。また、野手をかわすスライディングを高校時代に試みて捻挫した経験があったため、捕手からの送球をかわすことはせず、ベース正面から左足を伸ばして右足を折りたたんで突入するフックスライディングしかしなかった。

スパイクシューズも特注で、普段の靴のサイズ(25 cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた。

福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。福本自身、「有能なサポーターがおらんと、盗塁なんてひとつも成功しない」と語っている。当初は阪本敏三、ついで大熊忠義がその任にあたった。大熊は打席で福本を見ながら、ファウルボールや空振りをするなど、巧みなアシストをした。1975年のシーズンに、盗塁を目論んで一塁からよいスタートを切れたにもかかわらず、大熊がその投球をファウルにしたことに対し、「見送ってくれたら、二塁は楽勝でセーフやったのに」と言った結果、大熊の機嫌を損ねた。頭にきた大熊の申し出で、その翌日から2番打者がウイリアムスになった。ウイリアムスは直球を打ちに行くため、福本は丸1週間全く盗塁出来なくなった。アシストがないと走れないと謝罪し、大熊は元の2番に戻ってくれたという。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足なのを生かして、この年から1983年まで25盗塁以上を記録した。

このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。これらのことから、盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。福本の前の通算日本記録保持者である広瀬叔功は、「勝つために走る」「チームが必要としている時に走る」自らの姿勢と(盗塁技術習得の一環として)「失敗を恐れずにどんどん走るべき」という福本の考え方を比較して「私の考え方と相容れない」としながらも、「ゲームの中で走ることによって、彼は彼なりの方法で盗塁の技術を極限まで高めた」「私がとやかく言えるような選手ではない」と評している。福本は広瀬の日本記録を更新した際に「お師匠さん(広瀬)にかなわんことがぎょうさんある。その一つにボクのスタートは完全やない。ここ一番の心理状態も及ばない」「師匠の前で記録を作りたくなかった」とコメントしている。

1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープ高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。

野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている。

1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。掛け金が25万円で、福本が負傷してプレーできなくなった場合に球団に1億円が支払われるというものだった。後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使い、なにより「これだけ金をかけてる以上は絶対に大事にしないといけない」という心構えから、福本は現役中一度も足を怪我しなかった。保険は3年間で打ち切られたという。

大熊は福本の盗塁後に送りバントやゴロを打って三塁に進めてくれたため、福本はホームに生還できるための技術も磨いた。中腰のポーズで打球がヘルメットのつばの上下どちらに行くかを、スタートする判断の目安としていた。

通算1065盗塁の内訳は二盗915(失敗265)・三盗149(失敗27)・本盗1(失敗6)である。三盗については「セカンドからヒット一本でホームに帰れるのに、わざわざ危険を冒す必要もないし、二盗のような駆け引きもないからつまらない」と述べている。1度だけの本盗に成功したのはシーズン最多盗塁を記録した1972年で、7月1日の対近鉄戦であった。このとき福本は「滅多にないテレビ中継があるので狙っていた」という。この本盗では珍しくヘッドスライディングしており、試合後にその理由について「間一髪を争うプレー。手からいくとタッチは上から押さえつけるようになる。この方がセーフの確率が高くなるでしょう」とコメントしている。

1試合の最多記録は5盗塁(1972年5月3日・パリーグ記録)だが、4盗塁以上が9回、3盗塁以上は40回あり、宇佐美徹也は「ご立派の一言に尽きる」と評している。

他球団の福本対策

福本の盗塁が脅威になると、他球団も対策に真剣に乗り出すようになった。

  • 南海時代の野村克也は福本の盗塁に対抗する手段として、現代野球で広く投手に用いられているクイックモーションを考案し、野球を進化させた。それ以前にも野村は福本をイニングの先頭打者として迎えたくない思いから、2死走者なしの状態で9番の投手四球で歩かせ、1番の福本と勝負するという策(当時のパ・リーグはまだ指名打者制導入前だった)や、福本が二盗を試みると二塁にわざとワンバウンドの送球を投げ、脚にぶつけることも考えていた。しかし、前者は一度目は成功したものの、二度目には狙いがばれて、阪急監督の西本幸雄が投手に盗塁をさせたため、キャッチャーの野村は盗塁を刺さざるをえなくなり、後者は「脚に球をぶつけて怪我をさせようとしたが、実際には背中に球が当たってしまい、(怪我させるという)狙いがばれて、えらい怒られた」という。
  • 福本によると、妨害策が「真っ先に頭に浮かぶ」チームはロッテだという。ブロックのために野手の足にプラスチック製のプロテクターを装着させたり、本拠地だった宮城球場の走路(一塁の先と二塁の手前)に水を吸わせた土を入れた「砂場」を作り走りづらくさせた。グラウンドキーパーから「福本さん、足、気ぃつけてください」と言われたともいう。後者については、本来の走路以外(ベースラインの内と外)を走る「実験」をして、内側だと牽制球がほとんど来ないことに気づき(投手からの見え方の違いによる)、2つの走路を使い分ける手法を覚えたという。また福本は、飯塚佳寛弘田澄男有藤通世らロッテの俊足の選手もこのために走れなくなり「阪急より大きな損をしたように思う」と記している。
  • 1971年の日本シリーズの前には、コーチの牧野茂の発案で、牽制球で一塁にわざと勢いのある悪送球を投げ、一塁側の内野フェンスに跳ね返ったボールを送球して二塁で福本を封殺する練習を繰り返していたが実行されることはなかった。
  • 森昌彦は1971年の日本シリーズ直前、二塁ベースにボールを当てる練習を繰り返していた。自身が投手から受けたボールを二塁ベース目がけて送球し、二塁手が二塁ベース上で捕球したところに福本の足が入ってくる形で補殺するため(福本の場合、タッチではアウトにできないと考えられたため)だった。この作戦は成功し、日本シリーズ第1戦の9回裏、1塁走者だった福本は初球から盗塁を試みたが、二塁ベース上で牽制死した(福本が滑り込んだのは、送球を受け取った土井正三のグラブだった)。福本は試合後、「アウトになるなんて、考えてもいなかったですね。あれしかない、たったひとつ、あのプレーで阪急は死んじゃったですね。針の穴を通せなかったぼくの責任は大きかったです」と語っている。
  • 日本シリーズで足を封じられた原因として、福本本人は後年「巨人のエース・堀内恒夫の存在が大きかった」と振り返っている。堀内は森と対策を考え、自分はクイックで投げて牽制もするからと、森に二塁にきちんと投げるよう頼み、森はトスされたボールを二塁に投げる練習を繰り返した。また、福本によると堀内の牽制球は「1球ごとにタイミングが違」った上に、自分は短期決戦のプレッシャーから硬くなっていたという。福本は堀内を「日本一走りづらいピッチャー」「クイックも牽制もうまいし、クセも見つからなかった」と評し、堀内はその理由について、重心移動がうまくセットポジションで左肩を一塁に開き気味にしたまま本塁に投球できた点を挙げている。1971年の日本シリーズではこのあと福本は一度も盗塁を企図できなかった。
  • のち巨人の監督が長嶋茂雄に代わり、捕手も吉田孝司となった1977年の日本シリーズでは、第2戦の初回に堀内のクイックをかわして盗塁に成功している。
  • 梨田昌孝は二塁送球の時間を短縮するため、福本が出塁すると右足を半歩下げて構えていたという。阪急と近鉄の試合前、福本と梨田はよくどちらが勝つか賭けをしていたという。ただし、上記のとおり、福本は特に癖のない投手すらも癖を盗むことに成功していたため、いかに強肩の梨田であっても福本が勝つことが多かった。福本は、盗塁を許すのはピッチャーの責任が7割、キャッチャーが3割としている。梨田は前記の構えのほかにも、捕球してから二塁送球までの時間を短縮するためボールをミットの掌の部分に当てて跳ね返ったところを右手でつかんで投げたり、目を閉じた状態でも二塁に正確に投げる訓練をしたり、慌てないよう福本のスタートを見ずにベンチからの声でスローイングするといった対策を重ねた。

打撃

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編集する前に:このページのノート先頭打者本塁打記録に関する記述に関する議論がありますのでご覧ください。

盗塁だけでなく打撃においても優秀な選手であったのは、2500本安打を達成したことや、8000打数以上の選手中で歴代4位となる通算打率.291の数字を残していることなどからも証明されている。しかし、新人時代はプロのスピードに押されっぱなしで、福本は打撃練習の際に三塁側へ「当て逃げ」のような打撃を繰り返していた。「足が速いので三塁側に転がせば内野安打になります」と監督の西本幸雄に話したこともある。しかし、西本には「そんな楽な練習しかしていなかったら力など絶対つかない」「いくら体が小さくてもしっかり振り切るバッティングをしなきゃいかん。オフの間にバットをしっかり振れる体を作ってこなければレギュラーには使えん」「ツボに来た

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出典:wikipedia
2018/05/20 14:30

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