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福澤諭吉とは?

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福沢 諭吉
明治24年(1891年)頃の肖像

【人物情報】

【全名】
福澤 諭吉
(ふくざわ ゆきち)
【別名】
範(はん)、子囲(しい)、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)
【生誕】
福澤 諭吉
(ふくさわ ゆきち)
(1835-01-10) 1835年1月10日
日本摂津国大坂堂島浜
【死没】
(1901-02-03) 1901年2月3日(66歳没)
日本東京府
東京市芝区三田二丁目
(墓所:大崎 (品川区)常光寺麻布善福寺)
【出身校】
適塾(大阪大学)
【学問】

【時代】
19世紀
【活動地域】
日本
【学派】
啓蒙思想
【研究分野】
蘭学
政治思想
哲学
教育
【研究機関】
中津藩
晩香堂
光永寺
江戸幕府外国方翻訳局
外国奉行
慶應義塾
明六社
興亜会
東京学士会院
時事新報
【特筆すべき概念】
国家独立
独立自尊
権理
自由
男女同等論
国民
私立
官民調和論
尚商立国論
【主要な作品】
西洋事情
学問のすゝめ
文明論之概略
帝室論
福翁自伝
瘠我慢の説

福澤 諭吉(ふくざわ ゆきち、新字体:福沢 諭吉天保5年12月12日(1835年1月10日) - 明治34年(1901年)2月3日)は、日本武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者著述家啓蒙思想家教育者(はん)。子囲(しい、旧字体:子圍)。揮毫の落款印は「明治卅弐年後之福翁」。雅号は、三十一谷人(さんじゅういっこくじん)。もともと苗字は「ふくさわ」と発音していたが、明治維新以後は「ふくざわ」と発音するようになった。現代では「福沢諭吉」と表記されることが一般的である。なお「中村諭吉」と名乗っていた時期がある。

慶應義塾(旧:蘭学塾、現在の慶應義塾大学はじめ系列校)の創設者であり、商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、北里柴三郎の伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)、土筆ヶ岡養生園(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。新聞『時事新報』の創刊者。ほかに東京学士会院(現:日本学士院)初代会長を務めた。そうした業績を基に「明治六大教育家」として列される。

昭和59年(1984年)11月1日発行分から日本銀行券一万円紙幣(D号券・E号券)表面の肖像に採用されている。

経歴

出生から中津帰藩、長崎遊学

生誕の地と中津藩蔵屋敷跡の記念碑(大阪府大阪市福島。現在のほたるまち朝日放送グループホールディングス社屋前)
福澤諭吉旧居(大分県中津市)

天保5年12月12日(1835年1月10日)、摂津国大坂堂島浜にあった豊前国中津藩(現:大分県中津市)の蔵屋敷で下級藩士・福澤百助と妻・於順の次男(末子)として生まれる。諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が『上諭条例』(乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。福澤氏の祖は信濃国更級郡村上村網掛福澤あるいは同国諏訪郡福澤村を発祥として、前者は清和源氏村上氏為国流、後者は諏訪氏支流とする説があり、友米(ともよね)の代に豊前国中津郡に移住した。

友米の孫である父・百助は、鴻池加島屋などの大坂の商人を相手に藩の借財を扱う職にあり、藩儒・野本雪巌帆足万里に学び、菅茶山伊藤東涯などの儒教に通じた学者でもあった。百助の後輩には江州水口藩・藩儒の中村栗園がおり、深い親交があった栗園は百助の死後も諭吉の面倒を見ていた。中小姓格(厩方)の役人となり、大坂での勘定方勤番は十数年に及んだが、身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った。そのため息子である諭吉はのちに「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」(『福翁自伝』)とすら述べており、自身も封建制度には疑問を感じていた。兄・三之助は父に似た純粋な漢学者で、「死に至るまで孝悌忠信」の一言であったという。

なお、母兄姉と一緒に暮らしてはいたが、幼時から叔父・中村術平の養子になり中村姓を名乗っていた。のち、福澤家に復する。体格がよく、当時の日本人としてはかなり大柄な人物である(明治14年(1881年)7月当時、身長は173cm、体重は70.25kg、肺活量は5.159ℓ)。

天保6年(1836年)、父の死去により中村栗園に見送られながら大坂から帰藩し、中津(現:大分県中津市)で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり、孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。お札を踏んでみたり、神社で悪戯をしてみたりと、悪童まがいのはつらつとした子供だったようだが、刀剣細工や畳の表がえ、障子のはりかえをこなすなど内職に長けた子供であった。

5歳ごろから藩士・服部五郎兵衛漢学一刀流の手解きを受け始める。初めは読書嫌いであったが、14、5歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いということで勉学を始める。しかし始めてみるとすぐに実力をつけ、以後さまざまな漢書を読み漁り、漢籍を修める。18歳になると、兄・三之助も師事した野本真城白石照山の塾・晩香堂へ通い始める。『論語』『孟子』『詩経』『書経』はもちろん、『史記』『左伝』『老子』『荘子』に及び、特に『左伝』は得意で15巻を11度も読み返して面白いところは暗記したという。このころには先輩を凌いで「漢学者の前座ぐらい(自伝)」は勤まるようになっていた。また学問のかたわら立身新流居合術を習得した。

福澤の学問的・思想的源流に当たるのは亀井南冥荻生徂徠であり、諭吉の師・白石照山は陽明学朱子学も修めていたが亀井学の思想に重きを置いていた。したがって、諭吉の学問の基本には儒学が根ざしており、その学統は白石照山・野本百厳・帆足万里を経て、祖父・兵左衛門も門を叩いた三浦梅園にまでさかのぼることができる。のちに蘭学の道を経て思想家となる過程にも、この学統が原点にある。

長崎光永寺(大正)、手彩色絵葉書

安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学ぶ。長崎市の光永寺に寄宿し、現在は石碑が残されている。黒船来航により砲術の需要が高まり、「オランダ流砲術を学ぶにはオランダ語の原典を読まなければならないが、それを読んでみる気はないか」と兄から誘われたのがきっかけであった。長崎奉行配下の役人で砲術家山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだ。山本家には蛮社の獄の際に高島秋帆が没収された砲術関係の書物が保管されており、山本は所蔵していた砲術関係の書籍を貸したり写させたりして謝金をもらっており、諭吉は鉄砲の設計図を引くことさえできるようになった。山本家の客の中に、薩摩藩松崎鼎甫がおり、アルファベットを教えてもらう。その時分の諸藩の西洋家、たとえば村田蔵六(のちの大村益次郎)・本島藤太夫菊池富太郎らが来て、「出島のオランダ屋敷に行ってみたい」とか、「大砲を鋳るから図をみせてくれ」とか、そんな世話をするのが山本家の仕事であり、その実はみな諭吉の仕事であった。中でも、菊池富太郎は黒船に乗船することを許された人物で、諭吉はこの長崎滞在時にかなり多くの知識を得ることができた。そのかたわら石川桜所の下で暇を見つけては教えを受けたり、縁を頼りに勉学を続けた。

適塾時代(大坂)

大阪市福島区の福澤諭吉生誕の地記念碑

安政2年(1855年)、その山本家を紹介した奥平壱岐や、その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり、中津へ戻るようにとの知らせが届く。しかし諭吉本人は前年に中津を出立したときから中津へ戻るつもりなど毛頭なく、大坂を経て江戸へ出る計画を強行する。大坂へ到着すると、かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に務めていた兄を訪ねる。すると兄から「江戸へは行くな」と引き止められ、大坂で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大坂の中津藩蔵屋敷に居候しながら、当時「過所町の先生」と呼ばれ、他を圧倒していた足守藩下士で蘭学者緒方洪庵適塾(適々斎塾、のちの大阪大学)で学ぶこととなった。ところが腸チフスを患い、洪庵から「乃公はお前の病気を屹と診てやる。診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷うて、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳けで、しまいには何の療治をしたか訳けが分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」(自伝)と告げられ、洪庵の朋友、内藤数馬から処置を施され、体力が回復すると一時中津へ帰国する。

安政3年(1856年)、再び大坂へ出て学ぶ。同年、兄が死に福澤家の家督を継ぐことになる。しかし大坂遊学を諦めきれず、父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済したあと、母以外の親類から反対されるもこれを押し切って大坂の適塾で学んだ。学費を払う経済力はなかったため、諭吉が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書(C.M.H.Pel,Handleiding tot de Kennis der Versterkingskunst,Hertogenbosch、1852年)を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶこととなる。

安政4年(1857年)には最年少22歳で適塾の塾頭となり、後任に長与専斎を指名した。適塾ではオランダ語の原書を読み、あるいは筆写し、時にその記述に従って化学実験、簡易な理科実験などをしていた。ただし生来血を見るのが苦手であったため瀉血や手術解剖のたぐいには手を出さなかった。適塾は診療所が附設してあり、医学塾ではあったが、諭吉は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだということのようである。また工芸技術にも熱心になり、化学(ケミスト)の道具を使って色の黒い硫酸を製造したところ、鶴田仙庵が頭からかぶって危うく怪我をしそうになったこともある。また、福岡藩主・黒田長溥が金80両を投じて購入した『ワンダーベルツ』と題する物理書を写本して、元素を配列してそこに積極消極(プラスマイナス)の順を定めることやファラデーの電気説(ファラデーの法則)を初めて知ることになる。こういった電気の新説などを知り、発電を試みたりもしたようである。ほかにも昆布荒布からのヨジュウム単体の抽出、淀川に浮かべた小舟の上でのアンモニア製造などがある。

江戸に出る

幕末の時勢の中、無役の旗本で石高わずか40石の勝安房守(号は海舟)らが登用されたことで、安政5年(1858年)、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられる(差出人は江戸居留守役の岡見清熙)。江戸の中津藩邸に開かれていた蘭学塾の講師となるために古川正雄(当時の名は岡本周吉、のちに古川節蔵)・原田磊蔵を伴い江戸へ出る。築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み、そこで蘭学を教えた。まもなく足立寛、村田蔵六の「鳩居堂」から移ってきた佐倉藩沼崎巳之介沼崎済介が入塾し、この蘭学塾「一小家塾」がのちの学校法人慶應義塾の基礎となったため、この年が慶應義塾創立の年とされている。

元来、この蘭学塾は佐久間象山象山書院から受けた影響が大きく、マシー・ペリーの渡来に先んじて嘉永3年(1850年)ごろからすでに藩士たちが象山について洋式砲術の教授を受け、月に5〜6回も出張してもらって学ぶものも数十名に及んでいる。藩士の中にも、島津文三郎のように象山から直伝の免許を受けた優秀な者がおり、その後は杉亨二(杉はのちに勝海舟にも通じて氷解塾の塾頭も務める)、薩摩藩士の松木弘安を招聘していた。諭吉が講師に就任してからは、藤本元岱神尾格藤野貞司前野良伯らが適塾から移ってきたほか、諭吉の前の適塾塾頭・松下元芳が入門するなどしている。岡見は大変な蔵書家であったため佐久間象山の貴重な洋書を、諭吉は片っ端から読んで講義にも生かした。住まいは中津藩中屋敷が与えられたほか、江戸扶持(地方勤務手当)として6人扶持が別途支給されている。

島村鼎甫を尋ねたあと、中津屋敷からは当時、蘭学の総本山といわれ、幕府奥医師の中で唯一蘭方を認められていた桂川家が500m以内の場所であったため、桂川甫周神田孝平箕作秋坪柳川春三大槻磐渓宇都宮三郎・村田蔵六らとともに出入りし、終生深い信頼関係を築くことになった。また、親友の高橋順益が近くに住みたいと言って、浜御殿(現・浜離宮)の西に位置する源助町に転居してきた。

安政6年(1859年)、日米修好通商条約により外国人居留地となった横浜の見物に出かける。そこではもっぱら英語が用いられており、諭吉自身が学んできたオランダ語がまったく通じず看板の文字すら読めないことに衝撃を受ける。それ以来英語の必要性を痛感した諭吉は、英蘭辞書などを頼りにほぼ独学で英語の勉強を始める。世界の覇権は大英帝国が握っており、すでにオランダに昔日の面影がないことは当時の蘭学者の間では常識で、緒方洪庵もこれからは英語やドイツ語を学ばなければならないという認識を持っていた。しかし、オランダが鎖国の唯一の例外であり、現実にはオランダ語以外の本は入手困難だった。

諭吉は、幕府通辞の森山栄之助を訪問して英学を学んだあと、蕃書調所へ入所したが英蘭辞書が持ち出し禁止だったために1日で退所している。次いで神田孝平と一緒に学ぼうとするが、神田は蘭学から英学に転向することに躊躇を見せており、今までと同じように蘭学のみを学習することを望んだ。そこで村田蔵六に相談してみたが大村はヘボンに手ほどきを受けようとしていた。ようやく蕃書調所の原田敬策と一緒に英書を読もうということになり、蘭学だけではなく英学も習得していくことになる。

渡米

文久2年(1862年)、パリフランス国立自然史博物館にて撮影)東京大学史料編纂所蔵
咸臨丸難航の図(鈴藤勇次郎画)
福澤諭吉とアメリカの少女テオドーラ・アリス・ショウ。万延元年(1860年)、米国サンフランシスコにて。(慶應義塾福澤研究センター所蔵)

安政6年(1859年)の冬、日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することとなり、その護衛として咸臨丸アメリカ合衆国に派遣することが岩瀬忠震の建言で決定した。万延元年1月19日(1860年2月10日)、諭吉は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、アメリカへ立つ。翻訳途中だった『万国政表』(統計表)を、留守中に門下生が完成させている。同年5月5日(1860年6月23日)に帰国。のちに諭吉は、蒸気船を初めて目にしてからたった7年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べている。

諭吉と咸臨丸の指揮官を務めた勝海舟とはあまり仲がよくなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた。一方、木村摂津守とは明治維新によって木村が役職を退いたあとも晩年に至るまで親密な交際を続けており、帰国した年に、木村の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方(現:外務省)に出仕することになった。その他、戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。

アメリカでは、科学分野に関しては書物によって既知の事柄も多かったが、文化の違いに関してはさまざまに衝撃を受けた。たとえば、日本では徳川家康など君主の子孫がどうなったかを知らない者などいないのに対して、アメリカ国民が初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が現在どうしているかということをほとんど知らないということについて不思議に思ったことなどを書き残している(ちなみに、ワシントンに直系の子孫はいない。当該項参照)。諭吉は、通訳として随行していた中浜万次郎(ジョン万次郎)とともに『ウェブスター大辞書』の省略版を購入し、日本へ持ち帰って研究の助けとした。

帰国し、アメリカで購入してきた広東語・英語対訳の単語集である『華英通語』の英語にカタカナで読みをつけ、広東語の漢字の横には日本語の訳語を付記した『増訂華英通語』を出版する。これは諭吉が初めて出版した書物である。この書の中で諭吉は、「v」の発音を表すため「ウ」に濁点をつけた文字「ヴ」や「ワ」に濁点をつけた文字「」を用いているが、以後前者の表記は日本において一般的なものとなった。また、再び鉄砲洲で講義を行う。しかしその内容は従来のようなオランダ語ではなくもっぱら英語であり、蘭学塾から英学塾へと方針を転換した。また幕府の外国方に雇われて公文書の翻訳を行った。これら外国から日本に対する公文書にはオランダ語の翻訳を附することが慣例となっていたため、英語とオランダ語を対照するのに都合がよく、これで英語の勉強を行ったりもした。このころにはかなり英語も読めるようになっていたが、まだまだ意味の取りづらい部分もあり、オランダ語訳を参照することもあったようである。

渡欧(幕臣時代)

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文久2年(1862年)江戸幕府使節としてヨーロッパ歴訪の際ベルリンにて。
文久2年(1862年)オランダにて。右から柴田貞太郎、福澤諭吉、太田源三郎福田作太郎

文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣することとなり、文久2年1月1日(1862年1月30日)、諭吉も翻訳方としてこれに同行することとなった。同行者には松木弘安・箕作秋坪がおり、行動を共にした。

途上、立ち寄った香港植民地主義帝国主義を目の当たりにし、イギリス人中国人同然に扱うことに強い衝撃を受ける。シンガポールを経てインド洋紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨンパリロンドンロッテルダムハーグアムステルダムベルリンペテルブルクリスボンなどを訪れた。

ロンドンでは万国博覧会を視察し、蒸気機関車電気機器植字機に触れる。樺太国境問題を討議するために入ったペテルブルクでは、陸軍病院で外科手術を見学した。なお、オランダのユトレヒトを訪問した際にドイツ系写真家によって撮影されたと見られる写真4点が、ユトレヒトの貨幣博物館に所蔵されていた記念アルバムから発見された。

幕府から支給された支度金400両で英書・物理書・地理書を買い込み、日本へ持ち帰っている。ヨーロッパでも土地取引など文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、ヨーロッパ人にとっては通常であっても日本人にとっては未知の事柄である日常について調べた。たとえば病院や銀行郵便法徴兵令選挙制度・議会制度などについてである。これら遣外使節団などへの参加経験を通じて、諭吉は日本に洋学の普及が必要であることを痛感する。また、フランスの青年レオン・ド・ロニーと友好を結び、「アメリカおよび東洋民族誌学会」の正会員となり、外国の学会の正会員に最も早い時期で就任している。

同年12月11日(1863年1月30日)に帰国後、『西洋事情』(慶応2年(1866年)〜)などの著書を通じて啓蒙活動を開始。「幕府機構の改革を唱えた。またアメリカ独立宣言の全文を翻訳して『西洋事情』(初編 巻之二)中に「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」として掲載して日本に伝えた。『西洋事情』は「理化学器械学」が特に強調されており、病院・銀行・郵便・徴兵の制度や設備について言及している。

品川に到着した翌日の12月12日には英国公使館焼き討ち事件が起こり、文久3年(1863年)3月に入ると孝明天皇賀茂両社への攘夷祈願、4月には石清水八幡宮への行幸を受けて、長州藩が下関海峡通過のアメリカ商船を砲撃するなど過激な攘夷論が目立つようになった。同僚の手塚律蔵東条礼蔵が切られそうになるという事件も起こり、夜は外出しないようにしていたが、同僚の旗本・藤沢志摩守の家で会合したあとに帰宅する途中、浪人と鉢合わせ、居合で切り抜けなければと考えながら、すれちがいざまに互いに駆け抜けたことがある。この文久2年ごろ〜明治6年ごろまでが江戸が一番物騒な世の中であったと回想している。

文久3年(1863年)7月、薩英戦争が起こったことにより幕府の仕事が忙しくなり、外国奉行松平康英の屋敷に赴き、外交文書を徹夜で翻訳にあたった。その後、翻訳活動を進めていき、「蒸気船」→「汽船」のように三文字の単語を二文字で翻訳し始めたり、「コピーライト」→「版権」、「ポスト・オフィス」→「飛脚場」、「ブック・キーピング」→「帳合」、「インシュアランス」→「請合」などを考案していった。また、禁門の変が起こると長州藩追討の朝命が下って、中津藩にも出兵が命じられたがこれを拒否し、代わりに、以前より親交のあった仙台藩大童信太夫を通じて、同年秋ごろに塾で諭吉に師事していた横尾東作を派遣して新聞『ジャパン=ヘラルド』を翻訳し、諸藩の援助をした。

元治元年(1864年)には、諭吉は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎三輪光五郎ら6名を連れてきた。同年10月には外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として150俵・15両を受けて御目見以上となり、「御旗本」となった。慶応元年(1865年)に始まる幕府の長州征伐の企てについて、幕臣としての立場からその方策を献言した『長州再征に関する建白書』では、大名同盟論の採用に反対し、幕府の側に立って、その維持のためには外国軍隊に依拠することも辞さないという立場をとった。明治2年(1869年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書『洋兵明鑑』を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳した。

明治維新

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慶応3年1月23日(1867年2月27日)には使節主席・小野友五郎とともに江戸幕府の軍艦受取委員会随員としてコロラド号という郵便船で横浜から再渡米し、ニューヨークフィラデルフィアワシントンD.C.を訪れた。津田仙尺振八が同乗していた。同年6月27日(1867年7月28日)に帰国した。現地で小野と揉めたため帰国後はしばらく謹慎することとなったが、中島三郎助の働きかけですぐに解けた。紀州藩仙台藩から資金を預かり、およそ5,000両で辞書や物理書・地図帳を買い込み、帰国後、『西洋旅案内』を書き上げた。この年の末(12月9日)、朝廷王政復古を宣言した。江戸開城後、諭吉は新政府から出仕を求められたが辞退し、以後も官職に就かなかった。翌年には帯刀をやめて平民となった。

慶応4年(

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出典:wikipedia
2020/04/08 00:32

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