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稲尾和久とは?

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稲尾 和久
1956年の日本シリーズ制覇
豊田泰光(左)、三原脩(右)とともに祝杯を挙げる

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大分県別府市
【生年月日】
(1937-06-10) 1937年6月10日
【没年月日】
(2007-11-13) 2007年11月13日(70歳没)
身長
体重 180 cm
80 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1956年
【初出場】
1956年3月21日
【最終出場】
1969年10月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1993年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


稲尾 和久(いなお かずひさ、1937年6月10日 - 2007年11月13日)は、大分県別府市出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ監督解説者評論家血液型はB型。

現役時代は西鉄ライオンズの主戦投手としてチームの3年連続日本一に貢献し、連投・多投の中で好成績を挙げたことから「鉄腕」の異名で呼ばれた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 西鉄ライオンズ入団
    • 1.3 神様、仏様、稲尾様
    • 1.4 現役末期
    • 1.5 現役引退後
      • 1.5.1 指導者として
      • 1.5.2 晩年
  • 2 プレースタイル
    • 2.1 投球術
    • 2.2 起用法と記録
  • 3 人物
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別投手成績
    • 4.2 年度別監督成績
    • 4.3 タイトル
    • 4.4 表彰
    • 4.5 記録
    • 4.6 背番号
  • 5 関連情報
    • 5.1 著書・書籍
    • 5.2 映画
    • 5.3 出演番組
    • 5.4 CM
  • 6 脚注
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

1937年、7人兄弟の末っ子に生まれる。漁師を継がせたいと考えていた父親の意向で、幼い頃からを仕込まれに出されていた。稲尾は当時について、「薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がついた」と語っている。また、強靭な下半身はこの漁の手伝いによって培われたものと言われているが、本人は「バランス感覚は養われたかも知れないけど、下半身のトレーニングにはあまりなっていないよ」と否定している。

西本幸雄が監督兼選手として率いた実業団チーム・別府星野組第20回都市対抗野球大会で全国制覇し、オープンカーで別府市内をパレードした。観衆の中には少年時代の稲尾がいた。稲尾は「星野組はスターだった」と回顧している。中部中学時代のポジションは捕手で、同校の生徒会長を務めた。

西鉄ライオンズ入団

1956年大分県立別府緑丘高等学校を卒業後、西鉄ライオンズに入団。高校時代の先輩に河村久文、同期入団に畑隆幸がいる。

高校時代は1年秋に投手に転向し、2年夏にはエースで4番を打つが、全国的には全く無名の選手だった。南海ホークスが獲得に動いていると知って初めて西鉄も獲得に乗り出したという。この時南海とは一旦契約寸前まで話が進んだが、父・久作の「大阪に行くよりも、何かあればすぐに戻って来られる九州の方がいい」という言葉や、西鉄に高校の先輩河村がいたこともあり、西鉄入団を決意した。このとき河村は西鉄経営陣に稲尾獲得を進言したとも言われている。

入団当初は注目された選手ではなく、監督の三原脩も「稲尾はバッティング投手(打撃投手)として獲得した」と公言していた。実際、島原キャンプでは中西太豊田泰光高倉照幸ら主力打者相手の打撃投手を務めており、口の悪い豊田からは「手動式練習機」とも呼ばれていた。この時、稲尾は各打者の打撃練習中に4球に1球ボール球を投げるように指示された(ストライクを投げ続けていると打者が打ち疲れてしまうため)。この4球のうちの1球をストライクゾーンのコーナーギリギリを狙って投げる練習をし、制球力を磨いた。キャンプ後半になると、投手として成長した稲尾の前に逆に打者が打ち取られる場面が増えたため、中西と豊田が三原に「稲尾を使ってみてほしい」と進言したという。

稲尾はオープン戦に登板したものの、スコアボードに「稲生」と間違って表示されるなど、未だ無名であった。しかしここで結果を残して開幕を一軍で迎え、開幕戦(対大映スターズ戦)で11-0と西鉄が大量リードで迎えた6回表から、河村の後を継いで2番手としてプロ初登板し4回を無失点に抑えた。その後もしばらくは敗戦処理などで登板していたが、投手陣の故障などから登板機会が増え、最終的には1年目から21勝6敗、パ・リーグ記録の防御率1.06という成績を残し最優秀防御率新人王のタイトルを獲得した。

日本シリーズでは、2007年の吉川光夫と共にシリーズ史上2人しかいない「パ・リーグ高卒新人投手として先発登板」を記録(セ・リーグ高卒新人では堀内恒夫石井一久)。

神様、仏様、稲尾様

1957年に当時のプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど35勝を挙げ、史上最年少でのリーグMVPに選出。1958年には33勝で史上初の2年連続MVPを獲得した。

読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは、第1戦を稲尾で落とし、第2戦も敗戦。平和台球場に移動しての第3戦、稲尾を再び先発に立てるも敗れて3連敗と追い込まれた。降雨による順延で中一日をはさんだ第4戦、三原監督は稲尾を三度目の先発投手に起用してシリーズ初勝利。第5戦でも稲尾は4回表からリリーフ登板すると、シリーズ史上初となるサヨナラ本塁打を自らのバットで放ち勝利投手となった。そして舞台を再び後楽園球場に移しての第6・7戦では2日連続での完投勝利で、西鉄が逆転日本一を成し遂げた。稲尾は7試合中6試合に登板し、第3戦以降は5連投。うち5試合に先発し4完投。優勝時の地元新聞には「神様、仏様、稲尾様」の見出しが踊った。三原はこのシリーズで稲尾を登板させ続けたことについて、「この年は3連敗した時点で負けを覚悟していた。それで誰を投げさせれば選手やファンが納得してくれるかを考えると、稲尾しかいなかった」と告白した。後年、病床に伏していた三原は、見舞いに訪れた稲尾に対し「自分の都合で君に4連投を強いて申し訳ないものだ」と詫びたが、稲尾は「当時は投げられるだけで嬉しかった」と答えている。

1959年も30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録した。中西や豊田、大下弘仰木彬らと共に、3年連続日本一(1956年 - 1958年)を達成するなど、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄黄金時代の中心選手として活躍した。本多猪四郎監督による映画「鉄腕投手 稲尾物語」が製作され、全国上映されている。日本シリーズには通算4回出場し、通算8回出場の堀内恒夫と並び日本シリーズ最多タイの通算11勝を挙げている。

1961年は78試合に登板(パ・リーグ記録)し、ヴィクトル・スタルヒンに並び史上最多タイとなるシーズン42勝(阪急11勝1敗、南海11勝2敗、大毎9勝4敗、近鉄6勝1敗、東映5勝6敗)を記録した。
なお、1961年当時、現在では42勝となっているスタルヒンの1939年の勝利数は40とされていた。スタルヒンの記録は当初42勝であったが、当時は勝利投手の基準が曖昧で記録員の主観で判定していた部分があり、戦後スコアブックを見直した際に明らかにスタルヒンに勝利を記録することが適当でないと思われる2試合があったため修正を行っていたのである。稲尾が41勝を達成した時、マスコミも「新記録達成」と大きく報道し、本人もチームが優勝争いから脱落していたこともあって勝利数に関しては「もういいだろう」と思っていたという。それでもあと2試合登板したのはシーズン奪三振記録の更新に目標を切り替えていたためである。この間に1勝を上積みし、シーズン42勝とした。しかし、稲尾が「新記録」を樹立したことで改めてこの記録の扱いが議論に上り、最終的には「あとから見ておかしなものでも当時の記録員の判断に従うべき」という理由で再びスタルヒンの記録が42勝に変更された。それに伴い稲尾の記録も新記録からタイ記録へと変更された。結果的にあと1勝を上積みしたことによって稲尾はタイ記録に名を残すことができたが、稲尾は「それまでの記録が42勝と知っていれば、何が何でも43勝目を狙いに行っていただろう」と述懐している。

この42勝を挙げた年は、目の前に升目のようなスポットが見え、自分の中に目標物のような感覚ができ、そこで離せば狙い通りにいったという。極論すると、18メートル先の向こうを見ていなかったと語っている。同年は開幕2試合目からそれが出てきて楽だったが、翌年からはほとんど見えなくなったという。

1962年8月25日、通算200勝を達成。25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録で、プロ入り7年目での達成は史上最速であった。

1963年も28勝を挙げて西鉄優勝に貢献。しかしマスコミの論調は28勝は稲尾にしてみれば「並の成績」という扱いだった。同年からMVPはタイトルの日本語名が「最高殊勲選手」から「最優秀選手」に改められ、「優勝チームから選出」という制約が外されていた。この結果、西鉄が優勝し稲尾はその立役者だったにもかかわらず、MVPは当時のプロ野球新記録となる52本塁打を記録した南海の野村克也が選ばれた。

日本シリーズはON砲が開花した巨人に初めて敗北を喫したものの、一本足打法を会得して一気に中心打者に成長した王貞治(このシリーズでもタイ記録となる4本塁打を放った)に関しては、微妙にステップを遅らせるフォームを猛練習することにより11打数1安打とほぼ完璧に抑えている。ただし、王は稲尾については「タイミングをずらすフォームよりも、外角のボールゾーンからストライクゾーンに入ってくる絶妙にコントロールされたスライダーが印象強かった」と語っている。

この年まで、プロ入りから8年連続で20勝以上を挙げ、「鉄腕」の名をほしいままにした。この8年間の平均登板数は66試合、平均の投球回数は345イニングである。

現役末期

しかし、それまでの酷使がたたって肩を故障し、1964年はプロ入り後初めて1勝も挙げられないシーズンとなった。以降、毎日走り続けたり、温泉でのリハビリを繰り返したりしたが、肩の痛みは一向に消えず、翌1965年の元日に半年ぶりにボールを握ってキャッチボールをするも、違和感が消えていなかったという。そのため、知人に頼んで硬球と同じ大きさの縫い目のついた鉄球を作ってもらい、それを投げるという荒療治を実行した。稲尾は後年にこの時のことについて、「どうしたら治るのか。素人の考えることは恐ろしい。(中略)ボールを投げて痛みがあるのなら、それ以上の痛みを与えれば、ボールを投げるくらいの痛さは気にならないのではないか、と思った。鉄球を投げて肩を悪くするかもしれないけど、何もしないで悪いままなら、やってみようと」と語っている。鉄球を投げてみると、あまりの激痛に涙が出たという。

その後も鉄球練習を続け、キャンプ中の2月15日、突然痛みが消えて投げられるようになった。稲尾は「突然、痛みが消えたんだ。慌ててブルペンで捕手を座らせて投げてみた。痛くない。信じられない気持ちでボールを投げたよ」と述べている。痛みは消えたものの、球威やキレなどは以前とは比べ物にはならないくらい凡庸になっており、この時のブルペン捕手は大きく顔を歪めたという。それでも稲尾は肩の違和感なく投げられたことを大きく喜び、1軍のマウンドに戻れる手応えを感じた。同年6月5日の東映戦でマウンドにあがり、8安打5失点の投球内容だったが約2年ぶりの白星を手にした。稲尾は「ひとつ勝つということがこれだけ大変なことなのか、と思った。でも、復活勝利の記憶はないんだ。1勝するまでに投げられたという思いの方が強かったから」と振り返っている。

1966年にリリーフに転向し、最優秀防御率のタイトルを獲得。10月4日の対東京オリオンズ戦では75球で完投し、オリオンズの小山正明投手も87球で完投したため、合計162球の最少投球数試合の記録を作っている。この頃の稲尾は投手コーチも兼任し、若手投手(池永正明など)の指導をすることが楽しみのひとつだったという。同年と翌1967年には2年連続でチームの2桁勝利投手を4人同時に輩出している。

1969年限りで現役引退(実働14年)。稲尾自身は通算300勝を目標としており、リリーフや中継ぎならまだ現役を務められるという意識を持っていた。球団からの監督就任要請後も、黒い霧事件の発覚で投手を失う可能性も出ていたため、選手兼任を望んでいたが、悪化するばかりの状況の中で引退を余儀なくされた。黒い霧事件で主力投手が抜けてしまった頃、引退間もない稲尾は本気で現役復帰を考えたという。

稲尾が現役時代に着けていた背番号24』は、監督時もそのまま着用していたが、翌1973年の親会社の身売りを機に背番号を81に変更している。この時、24番を永久欠番とする話を自ら断ったという。

こうした経緯から、経営を引き継いだ福岡野球株式会社(太平洋クラブ、クラウンライター)は、「将来有望な選手に与えたい」として保留欠番とし、1976年古賀正明が着用した。

その後、西武ライオンズ(埼玉西武ライオンズ)となった後も、背番号『24』は小川史秋山幸二平野謙小野和義金村義明眞山龍松永浩典ら、そのまま他の選手が使用していた。しかし2012年、稲尾の生誕75周年の記念と功績を称え、永久欠番に指定されることになった。永久欠番になる前に最後に24をつけた選手はライアン・マルハーンであった。

現役引退後

指導者として

1970年からライオンズの監督に就任。32歳での監督就任は専任監督として最年少である。「黒い霧事件」のため次々と主力を失い、球団が西日本鉄道から福岡野球株式会社に売却される(太平洋クラブは、ネーミングライツによる冠スポンサー)という中で指揮をとり、3年連続最下位になるなど低迷した。

ただし東尾修加藤初を酷使と批判されながらも若手時代に積極的に起用した。1973年には、太平洋球団フロントが話題作りにと画策した「ロッテとの対立を演出する」という営業方針に、ロッテ監督の金田正一からの誘いに応じる形で同意したが、関係者の予想を上回る反応をよび「遺恨試合」とまで呼ばれる事態に至った(ライオンズとオリオンズの遺恨を参照)この演出を画策した当時の球団専務である青木一三は金田にのみアイディアを話したと著書に記している。しかし、1974年に球団がポスターにドン・ビュフォードが金田を乱闘で押し倒した図柄のポスターを作成する(警察の要請を受けて回収)と「何も乱闘まで営業材料にする必要はあるまい」と、球団の経営方針に相容れないものを感じるようになっていたという。同年オフ、青木一三の「東尾か加藤をトレードに出す」という方針に反対したところ、後日「来季の監督は江藤君に決めたから」として解任された。

1975年からRKB毎日放送の野球解説者となる。主にRKBラジオでの太平洋クラブ・クラウンライター戦の解説を務めた。他、時折キー局・TBSラジオ制作の全国中継に出演する事もあった。スポーツニッポン野球評論家としても活動した。その後、1978年から1980年まで中利夫監督の下で中日ドラゴンズ一軍投手コーチを務め、2年目の1979年には藤沢公也が新人王に輝き、小松辰雄が抑えの切り札としてデビューするなど手腕を発揮。

1979年に知人の日本航空パイロットからの誘いで「日本航空棒球隊」総監督になり、何度も中国に赴き中国チームとの親善試合、技術指導をしていた。その縁で、亡くなる直前の2007年9月29日、日本航空羽田上海虹橋線就航セレモニーの特別ゲストとして祝辞を述べていた。1981年、中日コーチを辞任しRKB・TBSに復帰。1982年に大阪に移り、1983年まで朝日放送(ABCラジオ)で野球解説者を務めた。

1984年ロッテオリオンズ監督に就任。一軍バッテリーコーチに醍醐猛夫、一軍投手コーチに佐藤道郎を招聘。在任中は「自主管理野球」を掲げた。埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡に移転させる条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなく、1986年限りで退任(これで完全にユニフォーム生活から引退)。この間に肘の手術明けだったエース村田兆治を毎週日曜日に中6日で登板させる起用法をとった。それに応えて開幕から11連勝した村田は以降「サンデー兆治」と呼ばれるようになった。

晩年

指導者を退いてからは日刊スポーツ野球評論家、再び朝日放送の野球解説者を務め、2000年からは再びRKB毎日放送の野球解説者を務めた。RKBでは、テレビの夕方ワイド番組『今日感テレビ』にもコメンテーターとして出演した。1993年野球殿堂入り。

2001年プロ野球マスターズリーグが発足すると福岡ドンタクズの監督としても活動した。この時に後輩であり愛弟子でもある池永正明を表舞台に久々に登場させ、彼の復権に大きな力を発揮した。長らく沢村賞選考委員を務めていたが、2006年に当時委員長だった藤田元司が亡くなったことを受け、同年の委員長を務めた。

2007年10月2日、故郷の別府市に完成した別府市民球場内に「稲尾記念館」が開館した。記念館には稲尾が現役時代に使用したスパイクやトロフィー、写真などの資料が展示されている他、現役時代の稲尾の姿をかたどった銅像も建立されている。10月14日のクライマックスシリーズ第1ステージ第2戦が最後の解説となった。晩年は体調面の問題もあり、現場第一線から離れつつ『今日感テレビ』にはぎりぎりまで出演を続けていたが、体調不良を理由に10月29日に行われた沢村賞の選考会議に欠席(意見書は書面で提出していた)。

10月30日に手足の痺れを訴え、福岡市内の病院に入院。当初は検査をしても原因が判明しなかったという。11月13日午前1時21分、悪性腫瘍のため死去。70歳没。この日は稲尾が委員を務めていた正力松太郎賞選考委員会が開かれ、愛弟子の落合博満が選出された日でもあった。死去当日の『今日感テレビ』では急遽追悼特番が組まれた。法名は「最勝院釋信明(さいしょういんしゃくしんみょう)」。

12月11日に日本政府は多年に亘る稲尾和久の日本野球界への貢献、そして野球ファンに感動と勇気を与えたその功績を称え、死去した11月13日付で稲尾に旭日小綬章を授与することを閣議決定した。12月29日にヤフードームで西鉄ライオンズOBによる追悼試合が行われた。

生誕75周年となる2012年5月1日、稲尾の現役時代の背番号「24」が永久欠番となることが埼玉西武ライオンズから発表された。また、7月1日にライオンズ・クラシック2012としてライオンズの監督・コーチ・選手全員が背番号24をつけて試合を行った。また、稲尾が現役時代を過ごした福岡でも7月4日の試合で同様にライオンズの監督・コーチ・選手全員が背番号24をつけて試合を行った。メジャーリーグでは黒人として初のメジャーリーガーとなったジャッキー・ロビンソンを称え、全球団の全選手が背番号42をつけて毎年4月15日に試合に臨むジャッキー・ロビンソンデイ(Jackie Robinson Day)というイベントが存在するが、日本では初の事例となった。

プレースタイル

投球術

足の裏を全て地面に付けず、爪先で立つように投げるフォームは、漁師であった父の仕事の手伝いで、小船で櫓を漕ぎ続けていたことによって得たものだった。1961年にプロ入りして中日ドラゴンズのエースとして活躍した権藤博は、「稲尾さんのコピーを目指した」という程、稲尾のフォームを徹底して観察し、手本にしたという。しかし、肩を痛めて以降は腕を強く引くことができず、かかとを上げるだけのゆとりが持てなくなってこのフォームは出来なくなった、と稲尾自身が自分の投球フォームの分析時に語っている。

同じ投球フォームから直球・変化球を投げ分けることができた。得意の球種はシュート、スライダー。当初稲尾はマスコミに「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で、本当の決め球はシュートであった。これを見抜いていたのは野村克也(南海)だけだった。野村から面と向かって「お前、本当はシュートピッチャーやな」と言われたとき、稲尾は「見抜かれたか」と内心でギョッとしたという。しかし、スライダーも屈指のもので、青田昇も「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。また、リリースポイントの直前に握りを変え、シュートとスライダーを投げ分けることもできたという。

この他にフォークボールも習得していたが、これは一歳年上であり、大毎オリオンズの主砲だった榎本喜八を打ち取るためだけに習得したもので、榎本との対戦以外では1球も投げなかった。稲尾は榎本について「対戦した中で最高にして最強のバッター」「ひとりのバッターのために新しいボールを覚えたというのは、後にも先にも榎本さんだけです」と評しており、当時20歳で打率3割を打ったこともなかった榎本に、打者としての只ならぬ雰囲気を感じ、2年目(1957年)からフォークボールを投げ始めたという。その後、実際に榎本はリーグを代表する打者になった。稲尾は「シュートもスライダーもきれいに打たれてしまうので、榎本さんにだけはフォークを投げた。たったひとりのバッターを抑えるために新しいボールを覚えなければならなかったんです。榎本さんとの勝負だけは野球をやっている感じがしませんでした。スポーツではなく真剣勝負、そう、果たし合いだったような気がします」と語っている。また、フォークボールについては「榎本さん限定で1試合5球だけ」としていた。

野村克也は、稲尾の変化球による絶妙な左右への揺さぶりと、その完璧な制球力を絶賛しており、「技巧派」の投手の代表格として稲尾の名前をあげている。直球については「稲尾のストレートは当てられないほどではないが、凡打、三振させられてしまうのは、その球質に原因がある。球速、球威が最後まで衰えない、いわゆる『球がホップする』球質なのである。稲尾の球速は145キロ程度、しかし手元でよく伸びてくる。体感速度が速い。『来た!』と思ってバットを振ったときには、すでに手元までボールが来ている。だから差し込まれてしまう」と語っている。

ある大学が「プロの投手の集中力と精神力」を調査するため、稲尾を含む西鉄投手陣に、捕手の構えるところに正確に、続けてボールを投げ込むことができるかどうか、という実験を依頼した。稲尾は外角低め、外角高め、内角低め…と、何十球も連続して捕手の構えるところに、少しもミットを動かせることなくボールを投げ込み続けた。この制球力を見て他の投手は「やっていられるか」と呆れ、実験の参加を辞退したという。特に外角のコントロールに優れていたが、主審が浜崎忠治の時にはボール2、3個外れてもストライクとなった。これを他チームは稲尾-浜崎ラインと呼んで恐れた。

現在では一般的な投球術となっている、相手打者を打ち取る球から遡って配球を組み立てる、いわゆる「逆算のピッチング」を編み出したのも稲尾とされている。これを会得したのは、1958年の日本シリーズ第6戦における長嶋茂雄との対決だったという。また、同シリーズで「長嶋は何も考えず、感性で体が投球に反応している」と気づいた稲尾は、自分も長嶋の体の微妙な動きから瞬時に狙い球を読みとり、球種を変更するという作戦で押さえ込むことに成功した。

マウンド上のマナーが優れていたことで知られる。イニングが終わって相手投手にマウンドを譲るときは、必ずロージンバッグを一定の場所に置き、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならしていた。対戦した杉浦忠はこれに感銘し、真似するように努力したという。その杉浦は「しかしどうしても、私はピンチの後などにマウンドのことなど忘れてしまうことがあったのだが、稲尾は一回たりとも荒れた状態のマウンドを渡したことはなかった」と振り返っており、稲尾のマウンドマナーを絶賛している。

後年は「ささやき投法」でも知られた。これはマウンド上から「じゃあ次はここではどうかな」「そうか、外角は捨ててるんだな、じゃあ…」などと聞こえるように独り言を言うことで打者の集中力を霍乱するものであった。また細い目は打者にどこを狙っているのかを分からなくさせるのに役立ったという。

ピッチャーの目的として、最初は速い球を投げる、コントロールの良い球を投げると思っていたが、試合で戦ってるうちにバッターをアウトにすることが目的だと気づいたという。同様に、ランナーを出してもアウトをとり点を与えなければよく、それが防御率の良さにつながるから、ピッチャーの価値は防御率で決まると述べている。

起用法と記録

当時「エース」と呼ばれる投手は先発・リリーフの双方をこなすことが当たり前で、週2・3回の登板や連投も珍しくなかった。稲尾が42勝を挙げた1961年には登板78試合(パ・リーグ記録)のうち先発で30試合(うち完投が25試合)、リリーフで48試合に登板している。当時は中3日で「休養十分」と見なされていたが、この年の稲尾は中3日以上空けて登板した試合はわずか18試合に過ぎなかった。逆に3連投4回を含め連投が26試合ある。

それに加え、三原脩監督が稲尾を重点的に起用する方針を採ったため、米田哲也梶本隆夫(阪急ブレーブス)、土橋正幸(東映フライヤーズ)といった同世代のエースと比較しても稲尾の登板試合数は極端に多い。米田と土橋は共に63試合が最高で、60試合以上登板したのも共に2シーズンだけであり、梶本は68試合が最高だが60試合以上登板したのはその1シーズンのみである。これに対して稲尾は60試合以上登板したシーズンが6シーズン、そのうち70試合以上登板したシーズンが4シーズンある。特に入団初年度の1956年からは4年連続60試合登板を記録し、かつ61→68→72→75と年を経る毎に増えている。

稲尾自身は、連投も最後は習慣になっていたと述べている。連投になっても嫌だと思って投げたことは無く、ここを抑えたらチームは勝つという思いだけだったと言う。そして、3点リードしたら力を抜き、一点差になったら力を入れ、そうやって翌日の登板に備えて余力を残していたと述べている。実際に20連勝した1957年は、1点差での勝利が10試合だった。

稲尾の重点起用で西鉄が3年連続日本一という結果を出して以降、稲尾や杉浦忠(南海ホークス)、権藤博(中日ドラゴンズ)など酷使が原因による故障などで選手寿命を縮める投手が相次ぎ、これがきっかけで先発ローテーション制を整備する動きが見られるようになった。

同一シーズンでの20連勝を達成した投手は稲尾が達成してから、半世紀以上にわたって現れることがなかったが、楽天田中将大2013年9月6日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で開幕20連勝を達成して肩を並べ、続く9月13日の対オリックス戦(クリネックススタジアム宮城)に勝利したことで、56年ぶりに記録を更新した。

人物

幼少時に父の漁を手伝ったときに関西汽船の客船をよく見かけ、「自分も大きくなったら船長になりたい」と思っていたという。その後2007年6月にダイヤモンドフェリーの新造船「さんふらわあごーるど」の名誉船長に就任し、同年7月の同船の進水式にも参加した(ただし『さんふらわあごーるど』は稲尾の故郷である別府航路ではなく大分航路に就航している)。

体はごついが、優しい目をしているサイに似ていたほか、私生活がサイのようにゆったりとしていたことから、親しみを込めて『サイちゃん』と呼ばれていた。温厚な性格で、落合博満野村克也榎本喜八豊田泰光杉浦忠権藤博など多くの野球関係者がその人柄とエースとしての品格を賞賛している。ロッテ監督時代の教え子だった落合からは良き理解者として慕われ、稲尾がロッテ監督を解任された際、落合は「稲尾さんのいないロッテにいる必要がない」と中日ドラゴンズに移籍した(詳しくは落合の項を参照)。榎本は「本当に良いライバルでした。どんなに打たれても、あの人だけは一回もひげそりボール(ブラッシュボール)を投げてこなかったです。素晴らしい人間でした」と賞賛している。そして杉浦は「サイちゃんは成績だけじゃない。人間的にも素晴らしく、とても優しい人だった」と語っている。また稲尾は、同郷の後輩であり中日コーチ時代のチームメイトでもある大島康徳を「ヤス」と呼んで弟のように可愛がっていた。

若手時代、杉浦忠とのエース対決となった平和台野球場での対南海戦。0対0で迎えた8回裏に先制の2ラン本塁打を放った稲尾は、ベンチに帰るなり「『鉄腕稲尾のひとり舞台、投げて完封・打って2ラン』。明日の新聞の見出しはこれで決まり!」と口走った。これに中西太が「野球は1人じゃ出来ない」と反発すると、豊田泰光も中西に同調した。直後の9回表、先頭打者がサードに転がすと中西が取り損ね、続く打者をショートゴロ併殺打に打ち取ったと思ったら、今度は豊田がトンネルする。稲尾は「わざとエラーをしたんじゃないか」と中西と豊田に疑いの目を向けるが、2人とも「わざとじゃない」と言うばかりだった。その後は送りバントを自ら捕って二塁ランナーを三塁で封殺、続けて仰木彬へのセカンドゴロ併殺打に打ち取って試合を決め、完封勝利を収めた。この時は中西と豊田のエラーについて疑いが消えなかったため、三原脩監督に事の経緯を報告した。中西と豊田は試合後に「誰かからわざとエラーするように指示されたのか?」と三原に怒られたという。

後年、稲尾は上記のエピソードについて「『野球は1人でやるものじゃない』の意味が分かった。これが西鉄の愛の鞭だと思った」と語っており、以降はチームプレーについて強く考えるようになったという。信頼関係の重要性に気づいてからは「エースの品格」を自己のテーマに置くようになり、「ブラッシュボール(故意に打者に当てる球)は投げない」「次の投手にマウンドを譲るときは、自分の投球で掘れた部分を丁寧にならし、ロージンバックを一定の位置に戻す」といった行動に繋がった。稲尾は「エースと言うのはトランプで切り札の意味。20勝する人と言う意味ではなく、チームが一番苦しい時に勝てる人の事を言うのだと思う。単に勝利数ではない。相撲横綱のように品格が求められる。さすがエースと呼ばれる人は違うな、と周りの人が思うような、人間性を伴って初めてエースと言えるのでは」と述べている。

1964年に故障して投げられなくなったことについて、稲尾は「順風満帆の人生などありえないだろうし、仮にあったとして、挫折知らずで『ナギ』続きの航路が本当に幸せかどうか。あの挫折で私は人の痛みを知ることが出来た。本当の人情に触れることができた。鉄腕のままでいたら、私はきっとおかしくなっていた」と振り返っており、「カムバック後の勝利数はちょうど昭和36年(1961年)の1年で稼いだ白星と同じだ。36年の白星は勢いに乗って無我夢中で投げているうちについてきた。それに対し昭和40年(1965年)以降、引退するまでの白星はもがきながら一つずつ、5年をかけてつかみ取ったものだ。だから自分の中では、最後の42勝が挫折前の234勝に匹敵する宝物になっている」と語っている。

豊田は国鉄時代の同僚金田正一と稲尾について、「カネやんはチームより自分本位。これで通してきたことが大きかったと思います。勝てそうな状況になると『よっしゃ、ワシが行くで』となる。私は西鉄で誰も行きたがらないしんどい場面で『私の出番でしょう』と出ていく稲尾和久の減私奉球ぶりを知っていますから。ずいぶん違うもんだなあと認識を新たにしました。まあ、カネやんとしては自分の数字がすべてということだったのでしょうね」と述べている。

2005年、仰木彬が亡くなり、プロ生活の大半を過ごした関西地方(場所は神戸市)でお別れ会の話が出た際、稲尾は「福岡(福岡県)は仰木さんの故郷で親類や知人も多い。神戸まで足を運べない人の為にも」と福岡・神戸でのお別れ会同時開催を提案した。この心遣いに、遺族や親類・知人からは惜しみない賛辞が贈られた。

評論家生活の傍ら、「

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出典:wikipedia
2018/04/20 03:55

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