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突撃隊とは?

突撃隊
Sturmabteilung
突撃隊のシンボル

【創設】
1921年9月10日
【廃止】
1945年5月8日
【所属政体】
ヴァイマル共和政
ナチス・ドイツ
【所属組織】
国家社会主義ドイツ労働者党
部隊編制単位
総軍
【人員】
450万(長いナイフの夜時)
【所在地】

ミュンヘン バラー通り

Barerstraße, München
通称号/略称 SA
愛称
褐色シャツ隊
標語

Alles für Deutschland

(全てをドイツに)
【上級単位】
親衛隊(1934年以降)
【最終位置】
ドイツ国
【主な戦歴】
コブルク闘争(Deutscher Tag)
ルール対仏闘争(Ruhrbesetzung)
ミュンヘン一揆
街頭闘争
第二次世界大戦

突撃隊(とつげきたい、: Sturmabteilung, 略号:SA)は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の準軍事組織制服の色から「褐色シャツ隊(Braunhemden)」とも呼ばれた。

概要

突撃隊はナチスの前身であるドイツ労働者党(DAP)集会の会場警備隊が改組されて創設された。初期の頃はエルンスト・レームの斡旋により義勇軍から流れてきた者を多く受け入れたため、党からの半独立的な性格を持っていた。1923年11月のミュンヘン一揆に参加したが、失敗によって党と共に一時期禁止された。1925年に再建され、党に従属する組織として再出発した。党集会の警備やパレード行進の他、ドイツ社会民主党(SPD)の国旗団ドイツ共産党(KPD)の赤色戦線戦士同盟などとの街頭闘争を行った。はじめフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊最高指導者として指揮したが、党首アドルフ・ヒトラーとの軋轢から1930年に辞職。以降はヒトラー自らが最高指導者に就任するとともに、日常的指揮は突撃隊幕僚長に任命されたレームに委ねられた。1933年ナチスが政権を獲得すると、突撃隊は補助警察となり、政敵の摘発や弾圧にあたった。しかし突撃隊は失業に喘ぐ下層民が多い大衆組織であったため、社会主義的な思想を持つ隊員も多く、国防軍などの保守勢力との連携を深めるヒトラーにとって厄介な存在となり、1934年6月末から7月初旬にかけてレーム以下突撃隊幹部が親衛隊(SS)によって粛清された(長いナイフの夜)。粛清後は勢力を失い、重要な役割のほとんどが親衛隊に移され、突撃隊は国防軍入隊予定者の訓練を主任務とするようになり、第2次世界大戦の敗戦まで存続した。

歴史

前身

ヴァイマル共和政期のドイツでは、政党の集会や演説会に他党の党員・支持者が殴り込みをかけるのが日常化しており、各党は警備や他党派攻撃のための武装組織を保有していた。バイエルン州ミュンヘンで活動するDAPも例外ではなかった。1919年11月のエーベルブロイケラーでのDAP党集会において、初めて会場警備を専門とする部隊が設置された。この会場警備部隊はDAPがナチスに改組された後の1920年夏に「整理隊」と名付けられ、党集会の防衛や敵対政党への妨害活動に動員された。発足当初の隊員数は25名程度で、エミール・モーリスが隊長を務めた。

クリンチュ時代

「コブルク闘争」事件当日の記念写真(1922年)

1921年7月29日、ミュンヘンに駐留する陸軍第7軍管区司令部将校エルンスト・レーム大尉(彼は義勇軍と志願制郷土軍の維持強化の任にあたっていた)の支持を取り付けたアドルフ・ヒトラーがナチ党首アントン・ドレクスラーを失脚させ、代わって党首に就任した。

党首となったヒトラーは同年8月3日に「整理隊」を「体育およびスポーツ部(Turn- und Sportabteilung)」と改称のうえ、ハンス・ウルリヒ・クリンチュ海軍少尉を新しい隊長に任じた。

クリンチュはナチ党員ではなく、エアハルト海兵旅団から派生した極右テロ組織「コンスル」のメンバーであった。この人選はレーム大尉の要請によるものであった。レームは政府により禁止された義勇軍や郷土軍を体育およびスポーツ部に送り込み、義勇軍の維持を図ろうとしていた。そのためにクリンチュを新しい隊長に推挙したのだった。一方ヒトラーもエアハルト海兵旅団を高く評価していたので、この要請を承諾したという。以降、義勇軍組織(特にエアハルト海兵旅団)とナチスの連携関係ができあがった。

9月10日にヒトラーは体育およびスポーツ部を改組して突撃隊を創設することを発表した。11月4日にナチ党集会に乱入してきたSPD党員800人を50人足らずの体育およびスポーツ部が撃退し、これを機に、突撃隊の名称が正式に与えられた。

突撃隊となった後も隊長は引き続きクリンチュが務めた。初期の突撃隊幹部は、ヒトラーの要請に応じて派遣されたエアハルト海兵旅団の指導者たちが占めていた。クリンチュと、後に突撃隊最高指導者となるフランツ・プフェファー・フォン・ザロモンはその代表である。クリンチュらの俸給はエアハルト海兵旅団から支払われており、派遣された団員達は引き続き同団の指揮下にあり、半独立的な義勇軍組織としての一面を持っていた。エアハルト海兵旅団はカップ一揆に参加して非合法化されたため、突撃隊への参加は組織を温存するためにも有効であった。またこの時点のナチスにもエアハルト海兵旅団の高い声望を利用し、オーバーバイエルン全体に勢力を広げることができるというメリットがあった。そして軍の立場からナチスに関与していたレームにも、連合国によって解散命令の出たドイツ義勇軍隊員の受け皿として、突撃隊拡充は歓迎すべきことであった。やがてエアハルト海兵旅団のみならずベルリンロスバッハ突撃隊のミュンヘン支部のエドムント・ハイネスらも突撃隊に参加するようになった。

ヒトラーは再三にわたって「突撃隊は党の組織であって、党中央の決定に従わねばならない」ことを強調したが、こうした他の組織から来ている隊員らは、あまりナチスの規律を気に留めなかったという。1923年3月まで突撃隊への実質的な指示は、ミュンヘンの義勇軍の統括者たるレームが行っており、そのためヒトラーもしばしば彼の元を訪れなければならなかった。とはいえ突撃隊に流れてくる義勇軍兵士は義勇軍の中でも「政治化」した部類の者たちが多かった。ヒトラーと義勇軍の間に政治的意見の相違はほとんどなかったから、ほとんどの場合彼は突撃隊を自由に政治運動へ参加させることができた。この頃の突撃隊員は、ミュンヘン市内での交通費・飲食費などは自腹であり、末端の突撃隊員にとっては頻繁に動員されることは重い負担であったが、自己の信念から自発的に参加し続けていた。ミュンヘン一揆前の突撃隊は他の義勇軍とほとんど変わりがなく、軍事・政治知識の授業、隊列を組んでの行進、党および友好団体への参加などを行っていた。

この頃の隊員数は1921年末の時点で100人未満、1922年9月の時点で800人未満であったと推定されている。1922年夏に突撃隊は百人隊と呼ばれる単位によって編成されることとなったが、百人隊は必ずしも100人の隊員がそろっていたわけではなかった。

1922年3月18日には年齢的に突撃隊に入隊できない若年層のために青少年部を設置することが発表された。これが後のヒトラーユーゲントとなる組織であるが、当初は突撃隊の下部組織と定められていた。ヒトラーユーゲントが突撃隊から独立するのは1932年5月になってのことである。

コーブルク勲章

1922年10月14日、ヒトラーとナチスは「ドイツの日」という右翼諸政党が開催していた愛国的集会に参加するためにコーブルクを訪れた。そこで集会に反対する共産主義者のデモ隊と口論になり、初めてナチスがミュンヘンの外で他勢力と争った。 これらの事件をヒトラーは後に『我が闘争』に「コーブルクへの列車」として記し、ナチス、とりわけ突撃隊の重要な闘争史として位置づけた。10年後の1932年、闘争10周年を記念して「コーブルク勲章」が制定され、闘争参加者に授与された。

ゲーリング時代

小銃で武装し、バイクでパトロールする突撃隊員(1923年)

1923年1月にフランス軍が「ドイツのヴェルサイユ条約不履行」を理由にルール地方を占領した。ドイツ陸軍総司令官ハンス・フォン・ゼークト大将は憤慨し、「フランスによる不法占領には再軍備で答える」と宣言した。その影響で突撃隊もミュンヘンの国軍第7軍管区司令部から民間防衛組織として軍の指揮下に入る事を求められた。ヒトラーは当初嫌がっていたが、レームの説得でしぶしぶ了承した。こうして3月から突撃隊は軍の訓練を受ける事となった。

しかし突撃隊の実質的な指揮権までも軍に奪われる事を恐れたヒトラーは、レームの息のかかったクリンチュを解任して自身の熱心な支持者であったヘルマン・ゲーリングを代わりの突撃隊司令官に任じている。ゲーリングはエアハルト旅団から参加した信用のおけない隊員を一掃し、突撃隊をヒトラーに忠誠を誓う組織に改編していった。ゲーリングは突撃隊を3個大隊からなる1個連隊で編成し、13個中隊で1個大隊を構成させた。連隊長にはヴィルヘルム・ブリュックナーが就任した。隊員数も増し、1923年11月のミュンヘン一揆までに3000人ほどになった。

突撃隊の訓練を行ったのは軍の工兵第7連隊と歩兵第19連隊第一大隊で、突撃隊は小銃、機関銃等の扱いを学んだ。また突撃隊に砲兵隊や騎兵隊、自転車中隊や軍楽隊などの組織が作られることになった。軍の影響力はさらに強まり、7月11日には「(突撃隊は)党の地区組織や党指導部から分離された、国民社会主義運動内部における別個の組織である。隊は突撃隊司令部の命令に従う」という命令が出された。

8月13日グスタフ・シュトレーゼマン内閣が成立し、これまでドイツ政府が取ってきたフランス軍ルール地方占領への「受動的抵抗」路線が放棄され、西欧列強との関係回復を目指すことになった。これに反発した右左双方によるシュトレーゼマン批判が強まった。

ミュンヘンでも中央政府打倒の機運が高まった。これに乗じてヒトラーは9月2日に突撃隊やオーバーラント義勇軍などを結集させて右翼軍事組織連合「ドイツ闘争連盟」を結成させた。実質的指揮権はヒトラーが握りつつ、エーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将に名誉総裁に就任してもらっている。中央政府への批判を強め、バイエルン州総督グスタフ・フォン・カールによる「ベルリン進軍」の動きを支持するようになった。しかしやがてカールは中央政府からの圧力でベルリン進軍を日和見するようになり、これに固執するナチスを除外した右翼大連合政府を立ち上げようとしたため、ヒトラーは一揆を起こすことを決意した。9月26日にはレームも軍を退役し、ヒトラーの下に参じた。

ミュンヘン一揆

詳細は「ミュンヘン一揆」を参照
一揆に参加する「ヒトラー・ミュンヘン衝撃隊」(1923年)

1923年11月8日午後8時30分、ヒトラーはドイツ闘争連盟を率いて、カール総督らが演説中のビュルガーブロイケラーを占拠し、一揆を起こした。ただし連絡が不十分であったため、突撃隊員全員が一揆に参加したわけではなかった。たとえば突撃隊第1大隊(600名)は100名ほどしか参加していない。第1大隊はオーバーラント義勇軍第3大隊とともに国軍第19連隊第1大隊から武器を確保しようとしたが、交渉に失敗して退却、その後ビュルガーブロイケラーへ帰還した。第2大隊は郷土軍が解散の際に隠した武器を確保してヴィッテルスバッハ橋で小休止した。第3大隊はビュルガーブロイケラーで待機した。一方レームは「帝国旗団」や「ミュンヘン闘争団」、突撃隊の一部を率いて軍司令部を占拠した。また突撃隊の学生グループはルドルフ・ヘスの指揮のもとに州首相オイゲン・フォン・クニリングらの監禁にあたった。

軍の協力は得られず、逆に鎮圧軍が編成されたのを知ったヒトラーは、11月9日12時30分、ルーデンドルフとともにドイツ闘争同盟を率いてミュンヘン中心部のオデオン広場へ向かってデモ行進を開始した。「ヒトラー・ミュンヘン衝撃隊」が隊列の左側、オーバーラント同盟が隊列の右側、そして突撃隊は隊列の中央に付いて行進した。しかし警官隊から銃撃を受けて失敗した。突撃隊司令官ゲーリングは腰に銃弾を受けて倒れ、突撃隊員に運ばれてその場を逃れ、オーストリアへ国外逃亡した。一方マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒターと腕を組んでいたヒトラーは彼が撃たれた時に一緒に引きずられて倒れ、肩を脱臼した。突撃隊員に抱えられてその場を離れたが、結局逮捕された。軍司令部を占拠したレームたちも午後2時頃に鎮圧軍に投降した。

禁止時代

ヒトラーやレームら逮捕された一揆指導者は裁判にかけられ、1924年4月1日に判決が下った。ヒトラーは城塞禁固刑5年の実刑判決(ただし執行6カ月後に保護観察に切り替える事も公約)、レームは1年3カ月の有罪判決を受けたが、彼は判決のその日のうちに仮釈放を受けた。ランツベルク刑務所に収監されることとなったヒトラーは突撃隊やドイツ闘争連盟をレームに委任した。

『フロントバン』隊員バッジ

レームは5月31日にドイツ闘争連盟の元隊員を集めてフロントバンを組織した。さらに他の全国準軍事組織との連絡のためにフロントリンク(Frontring)を結成した。8月28日にフロントバンの正式な設立大会が行われ、ヒトラー、ルーデンドルフ、アルブレヒト・フォン・グレーフェの三人が政治指導者、レームが軍事指導者と定められた。またルーデンドルフが名誉総裁に就任している。フロントバンの隊員数は3万人にものぼったが、統一性は弱く、小右翼軍事組織の寄せ集めであった。また、突撃隊員が全員参加したというわけではなかった。フロントバンは突撃隊よりも政党から独立した準軍事組織の性格が強く、こうした非政治色に反発し、参加を見合わせた隊員も多かった。

再建

1926年7月、エッセン大管区指導者ヨーゼフ・テアボーフェン(背広の人物)とエッセンの突撃隊員達

1924年12月20日にヒトラーは仮釈放され、1925年2月27日ビュルガーブロイケラーでナチスの再結党を宣言した。フロントバン・ミュンヘン司令部の隊員達が真っ先に党に復帰して突撃隊の活動を再開した。それ以外の隊員達も1925年末までにほとんどが突撃隊へ戻った。フロントバンに残っていた最後の者たちは「人狼団」に吸収されて消滅した。一方でフロントバンの隊員の中にはルーデンドルフがフロントリンクを改組した「タンネンベルク同盟」に参加した者もいる。

3月末から4月にかけてヒトラーとレームは突撃隊の再建にあたって、突撃隊をナチ党から独立した準軍事組織にするか党に従属する党の宣伝・集会防衛組織にするかで激論した。前者の立場がレーム、後者がヒトラーの立場である。結局二人は決裂し、4月30日にレームは突撃隊司令官職とフロントバン司令官職を辞し、政界を去った。

ヒトラーは5月24日に突撃隊の再建命令を下したが、どこの党支部も組織の再建で手いっぱいであり、手が回らなかった。バイエルンでは比較的早期に突撃隊が再建されたが、それ以外の地区ではだいたい1926年春ごろ以降に再建されている。ベルリンではクルト・ダリューゲルール地方ではヴィクトール・ルッツェが中心となり、突撃隊の再建が行われた。

再建時から突撃隊の制服にはロスバッハ突撃隊指導者ゲアハルト・ロスバッハ中尉が1924年に安価に入手した褐色シャツ制服が使用されるようになった(詳細については後述)。

ザロモン時代

1927年8月、ニュルンベルクでの党大会。ヒトラーの右後ろの人物が突撃隊司令官フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン

党組織の再建がだいぶ進んでくると、ヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。1926年7月27日にヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者(OSAF)を新設し、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン11月1日から同職に就任させると発表した。

ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。旅団(2〜5個連隊で構成)、連隊(2〜5個大隊で構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、(6〜12人で構成)という指導者原理に基づく垂直組織で構成させ、特に大隊を日常の活動の基本単位とした。1927年初頭には、18個大隊が編成された。突撃隊員はザロモンに忠誠を誓い、彼は党中央執行部のメンバーとして議長であるヒトラーに忠誠を誓う形となった。しかしこのために、大管区指導者など党の政治組織の指導者からの指示に突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々の対立を招くことになる。

隊員数は、ザロモンの隊最高指導者就任時に2万人、1927年8月に3万人、1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった。隊員は大多数が10~20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、大多数は従軍経験のない世代に変貌した。

ニュルンベルクで突撃隊部隊を率いて行進するホルスト・ヴェッセル(1929年)
制服の着用が禁止された時期の集会。 ベルリン・スポーツ宮殿(1931年)

1930年1月14日、突撃隊員ホルスト・ヴェッセル赤色戦線戦士同盟隊員に銃撃され、瀕死の重傷を負う事件が起き、2月23日にその傷が原因で死去した。ヴェッセルはヨーゼフ・ゲッベルスによって殉教者として宣伝に利用されるとともに、彼が作詞した「旗を高く掲げよ」は党歌となった。

同年3月頃にはナチスのヤング案反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、国旗団や赤色戦線戦士同盟などの左派武装組織との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった。そのため6月5日バイエルン州でナチスの制服が禁止され、さらに6月11日にはプロイセン州政府、6月13日にはバーデン州でも禁止された。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた。

ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった。

ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊が傘下となっており、1934年までその状態が続いた。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海軍突撃隊(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している。

シュテンネスの反乱

ヴァルター・シュテンネス

ナチスが有力政党として活動するようになると、保守勢力と協調する必要が生まれた。このため社会主義的な思想を持つ古参党員や党内左派の不満が増大した。特に突撃隊は労働者階級が多数を占めていたため、そういう者が多かった。

1930年7月18日に国会が解散された後の8月1日、ザロモンは突撃隊指導者を国会議員選挙名簿に加えるよう要求したが、ヒトラーは「突撃隊員を国会議員にすれば本来の突撃隊の任務が疎かになる恐れがあるし、また政治組織と突撃隊の区別も曖昧になる」としてこれを拒否した。不服に思ったザロモンは8月12日に突撃隊司令官を辞職したため、9月1日にヒトラーが自ら突撃隊最高指導者に就任することになった。これが直接の引き金となり、各地の突撃隊員が党の政治組織から依頼された宣伝活動をボイコットするようになった。一番過激だったのはベルリンの突撃隊だった。1930年8月28日に突撃隊ベルリン東部指導者であったヴァルター・シュテンネスがミュンヘンの党本部に対してベルリン大管区指導者であったゲッベルスの解任を要求した。党本部がこれを拒否すると、8月30日にシュテンネス一派はベルリン大管区本部の襲撃を開始した。ゲッベルスはクルト・ダリューゲの親衛隊部隊を投入したが、突撃隊の方が数に勝り、鎮圧に失敗した。結局ゲッベルスは警察に介入してもらって鎮圧した。9月1日にはヒトラー自らがベルリンを訪れてシュテンネスを直接説得してひとまず収めた。

ヒトラーは、突撃隊の監視を強化するため、1930年11月7日に親衛隊は突撃隊指揮官の命令に従う必要はないと定めた(ただし形式的には長いナイフの夜事件まで親衛隊は突撃隊の傘下にあった)。

レーム時代

突撃隊員を閲兵するヒトラーとレーム(1931年9月)

選挙後の1930年11月末にヒトラーは突撃隊暴動再発を阻止すべく、隊員の待遇改善を約束し、隊員の人望厚いレームを南米ボリビアから呼び戻して突撃隊幕僚長に据えることを宣言した。1931年1月5日にレームを正式に突撃隊幕僚に任じた。

1931年春、レームによって突撃隊を政治組織に従属させるための機構改革が行われた。大管区の突撃隊連隊は大管区指導者の指揮下とした。これによって大管区指導者は政治宣伝やデモに突撃隊員を動員できるようになった。突撃隊の編成も変更した。全国を4つ(後に5つ)の上級集団に分け、その下に総計18の集団を置き、集団は複数の連隊をもって構成させた。4人の上級集団長は、ベルリン上級集団長ヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフ伯爵、ハノーファー上級集団長ヴィクトール・ルッツェコブレンツ上級集団長アウグスト・シュナイトフーバーインゴルシュタット上級集団長ハンス・ゲオルク・ホフマンだった。

1931年4月2日にシュテンネスの再反乱があったが、ゲッベルスが動員したダリューゲの親衛隊部隊が鎮圧に成功した。鎮圧後、ゲッベルスは反乱に参加した突撃隊員を片っ端から除名した。結果、シュテンネス一派の1万人が去ることとなった。

しかしこれによって突撃隊の過激派勢力が弱まったわけではなかった。ヒトラーやレームは党勢拡大のために入隊希望者を無制限に受け入れ、彼らに食事や宿舎の提供を行った為に世界恐慌の影響で巷にあふれかえる失業者がナチスや突撃隊に続々と参加したためである。こうした者は反資本主義的で革命的な政治的急進派が多かった。こうした革命志向の隊員達は、「制服は褐色だが中身は赤い」としてステーキに例えられていた。

1930年には7万人だった突撃隊隊員数は1931年末には17万人、ナチ党が政権を獲得する直前の1933年1月には50万人以上に達した。結果として隊員の質の低下は避けられず、しばしばゴロツキ同然の振る舞いを行う突撃隊員が増加した。またあまりに増大した突撃隊員に対する待遇は悪化した。突撃隊はますます過激化し、隊員達はヒトラーの「合法路線」にしびれを切らして、武装蜂起を求めるようになった。レームも隊員の不満を抑えるためにこうした声を代弁するようになり、1931年末にはヒトラーに武装蜂起を進言している。

1932年3月、ヒトラーが大統領選挙に出馬し、30パーセントの票を獲得した。4月14日、ナチ党の勢いを恐れたハインリヒ・ブリューニング首相が突撃隊と親衛隊の禁止命令を出し、各地の突撃隊施設が当局に差し押さえられた。しかしこの禁止命令に国防次官クルト・フォン・シュライヒャーは反対であり、彼はナチ党と連携して倒閣活動を行った。その結果、ブリューニング内閣は倒れ、6月1日にシュライヒャーを国防相とするフランツ・フォン・パーペン内閣が成立した。パーペン内閣のもとで6月16日に突撃隊・親衛隊禁止命令は解除された。

一方レームが突撃隊幕僚長になってから突撃隊内では同性愛が公然化していた。社民党の機関紙『ミュンヒナー・ポスト』も「ナチスは反同性愛政党でありながら身内の同性愛行為には目をつぶっている」と批判した。当時のドイツでは同性の性交渉は刑法175条によって禁止されていた(この条項は1994年になって廃止された)。レームは「私のところにいる男たちは法律に反した特別な事(=同性愛)に慣れねばならない」と述べており、突撃隊で同性愛が横行したのは彼らの革命的性質とも無関係ではなかったようである。

政権掌握

ヒトラーの首相就任を祝い、ブランデンブルク門を松明行進する突撃隊員たち(1933年1月30日)

1933年1月30日夕刻、ヒトラーのドイツ首相就任を知った人々は大統領官邸に押し寄せていた。午後6時頃にヒンデンブルク大統領とヒトラーとパーペン副首相が人々の前に姿を見せた。続いて松明を持った突撃隊がベルリン市内を行進し、その勢いを示した。ベルリンは翌1月31日に入った午前1時ぐらいまでお祭り騒ぎになった。

社会民主党勢力の強いプロイセン州の内務大臣となったゲーリングは、突撃隊と親衛隊の隊員を警察幹部に就任させた。ハノーファー警察長官にヴィクトール・ルッツェドルトムント警察長官にヴィルヘルム・シェップマンブレスラウ警察長官にエドムント・ハイネスポツダム警察長官にヴォルフ=ハインリヒ・フォン・ヘルドルフなどが就任している。

共産党員を逮捕する突撃隊員(1933年3月6日)

ゲーリングは1933年2月20日に突撃隊員と親衛隊員合わせて5万人と鉄兜団1万人をプロイセン州警察の補助警察官として動員する事を決定した。2月24日には突撃隊がドイツ共産党本部カール・リープクネヒト館を襲撃している。2月27日に国会議事堂放火事件が発生すると、ゲーリングは4000人の共産党員の逮捕を命じ、4月末までに2万5000人に及ぶ大量の左翼(共産党に加えて一部社民党員も)が補助警察官によって逮捕された。彼らを収容するために突撃隊員はあちこちに私的収容所を創設した。後にゲーリングに承認され、州公認の収容所となったオラニエンブルク強制収容所はそのひとつであった。4月1日にはボイコット委員会委員長ユリウス・シュトライヒャーの指揮の下に突撃隊員がユダヤ人商店のボイコット運動をドイツ全国で行い、ユダヤ人商店を強制的に閉鎖していった。5月2日には左翼系労働組合の事務所を襲い、その財産を奪取した。6月21日には鉄兜団が突撃隊に吸収された。

突撃隊員によるユダヤ人商店街のボイコット運動(1933年4月1日)。プラカードには「ドイツ人よ、自分の身を守れ! ユダヤ人から物を買うな!」と書かれている

ハインリヒ・ヘルトのバイエルン州政府が解体された後、レームは同州の州委員に任じられた。1933年3月12日にレームはバイエルンの7つの郡知事庁に治安維持と政敵排除に責任を負う「突撃隊最高指導部特別委員」を設置させ、彼らの指揮下に突

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出典:wikipedia
2020/03/26 10:20

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