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笑福亭鶴瓶とは?

笑福亭 鶴瓶(しょうふくてい つるべ、1951年昭和26年〉12月23日 - )は、日本落語家(6代目笑福亭松鶴門下)、タレント俳優司会者。本名、駿河 学(するが まなぶ)。大阪府中河内郡長吉村(現在の大阪市平野区)出身で、兵庫県西宮市在住。所属事務所はデンナーシステムズで、松竹芸能にも籍を残す。トレードマークはM字の髪型。身長163cm。血液型O型。

愛称は「鶴瓶さん」「べーさん」「鶴瓶師匠」「べー師匠」「鶴瓶ちゃん」「まーちゃん」、「まなぶくん」「パット」「ミスターフルチン」など。落語家として上方落語協会相談役を務めている。

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 生い立ち・学生時代
    • 1.2 入門・弟子入り
    • 1.3 タレント活動
    • 1.4 落語への回帰
  • 2 家族・親族
  • 3 芸に関して
    • 3.1 落語
      • 3.1.1 帝塚山・無学
      • 3.1.2 つるべ、らくごのお稽古
      • 3.1.3 演目
  • 4 人物
    • 4.1 趣味・嗜好
    • 4.2 タレント活動時
    • 4.3 露出にまつわるエピソード
    • 4.4 その他
  • 5 出演番組
    • 5.1 テレビ番組
      • 5.1.1 過去に出演した番組
    • 5.2 ラジオ番組
      • 5.2.1 過去に出演した番組
    • 5.3 テレビドラマ
    • 5.4 映画
    • 5.5 テレビアニメ
    • 5.6 劇場アニメ
    • 5.7 吹き替え
    • 5.8 ライブトーク
    • 5.9 レコード・CD
    • 5.10 CM
    • 5.11 その他
  • 6 書籍
    • 6.1 共編著
  • 7 弟子
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 参考文献
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

来歴

生い立ち・学生時代

大阪府中河内郡長吉村長原(現在の大阪市平野区長吉長原)出身。5人兄弟の末っ子で、4軒長屋の自宅に祖母を含めた8人暮らしだった。

1961年頃(10歳前後)、学校へ行く途中で近所のおっちゃんに競馬場に誘われて、学少年が適当に指名した馬券をそのおっちゃんが購入した所、それが的中し万馬券に化ける。驚き感嘆したおっちゃんは、約40万円の払戻金を丸々、学少年に手渡した。夜中に家族が寝静まった頃を見計らい、貰ったお札を数えていた所、その現場を母親に発見され大事に発展した。夜中にもかかわらず、競馬に連れ出した近所のおっちゃんをたたき起こし、事の顛末を聞き出したことにより、正式に駿河家のお金となった。後になってこの出来事を思い出し、母親にお金の使途を執拗に問質した所、実家の建て増し資金になっていたことが判明。この話をテレビ朝日の『徹子の部屋』で話したところ、さらに母親から叱られたという。

中学生の頃、2代目桂伸治が演じる「堀の内」に魅せられ、学校の教室で手作りの高座を用意し我流の「堀の内」を演じる。

浪速高等学校に進学。高校ではボクシング部にも所属した(先輩からの打撃で目を痛め、退部)。ボクシング部を退部後の2年生の終わり頃に、落語研究会を他の2人の生徒と立ち上げ、浪花亭無学の高座名を名乗った。

1969年、頭のいい人間に対抗心を持っていたため、京都大学や、大阪大学の入試の合格発表に行き、落ちていそうな生徒の隣で「あった!」と合格したフリをして、胴上げされるという悪戯をする。この時、大阪大学でNHKの取材を受け、模様が夕方のニュース番組で流れたため、それを見ていた親戚から祝電が届くなど両親に恥をかかせてしまう。

高校時代にすでに落語家になることを志望していたが、父からは反対を受ける。「うちの家から変わった人を出したい」という思いから、3年生の時には父から将来を問われて思いつきで「渥美清への弟子入り」を口にし、実際に上京して会いに行ったこともある(渥美が不在で会えず、大学進学を選択)。「過去を一旦捨てたい」という理由で友人たちが受けない英知大学京都外国語大学京都産業大学関西大学を受験、関大以外から合格通知を得た中で、京都産業大学に進学する。京都産業大学を選んだのは、入学金が他の大学より破格に安かったことと、推薦入試を受ける友人に付き添って行ったときに出会った女性(のちに妻となる玲子)と再会できるのではないかという理由だった。

大学では落語研究会に所属し、童亭 無学(どうてい むがく)を名乗る。入学後まもなく偶然玲子と再会し、共通の友人がいたことから落語研究会にマネージャーとして勧誘、玲子には「レモン亭円(まどか)」という高座名も与えられた。一時期はここでの芸名を本名であるスルガ・マナブやプロになってからtsurubeと名乗ったこともある。親は入学金は出したが、それ以外の費用は自活するよう言われ、入学直後から六角通の旅館「三木半」でアルバイトをする。この旅館であのねのね清水国明(1期上)と知り合った。同じくあのねのねの原田伸郎(同期)とは落語研究会に入った日に出会った。大学でも高校時代にようにクラスで皆を笑わせたいという欲求があったが、大教室は広すぎる上に出入りも自由で期待した効果がないため、最初の小教室の授業で、カセットテープに録音した出囃子を教授が教室に入る際に鳴らして笑いを取った。

清水国明、原田伸郎、玲子とともに、あのねのねのメンバーとなった(玲子はボーカル、鶴瓶は踊るだけ)。この時玲子は『ひょっこりひょうたん島』のテーマを歌っている。清水とは下宿で共同生活を送った時期もあった。アルバイト先で、歌や話芸で誰が一番人気か競いあったという。また、原田が大学時代にサークルをサボって女子生徒と遊んでいた所を目撃し、彼をトイレで殴って便器に顔を突っ込んだことがある。やがて、あのねのねがスターになり、鶴瓶の結婚式に二人が札束を持ってきたエピソードもよく語られる。鶴瓶の結婚式・披露宴の代金をあのねのねがすべて負担し、それでも余ったという。

いずれ大学をやめて落語家になると公言していた鶴瓶は、あるとき落語研究会の先輩2人から「いつになったら落語家になるんや」とからかわれたのに激昂、2人を便所に連れ込んで「俺がどないしようと俺の勝手やないか!おまえらにガタガタいわれる筋合いはないわい!おまえらにいわれんでも、やめる時が来たらやめるんじゃ!」と殴打した。まもなく鶴瓶は大学を中退する。

入門・弟子入り

五枚笹は笑福亭一門の定紋である。

大学時代の鶴瓶は当初3代目笑福亭仁鶴への弟子入りを考えていた。しかし、観覧した落語会での6代目笑福亭松鶴の口演、とりわけ、客先にいた僧侶を見てネタを忘れたという理由でオチだけを話して高座を降りたことに「おもろい」と強い印象を受け、弟子入り先に決める。1971年1月の「京都市民寄席」の楽屋口で弟子入りを試みたが、「知らん人が見たらヤクザ」のような松鶴と弟子の姿におののいて声をかけられず、1年後に自宅を訪れることになった。

この訪問では居留守を装われ、粘って根負けして会った松鶴からは、入門は親の承諾が条件で、連れてくるように言われる。鶴瓶は一計を案じて、「喧嘩で相手を負傷させ、謝らなくてはならない」という理由で父親を同行させ、松鶴から正式な入門の許しを得た。

1972年2月14日、11番弟子として入門する。入門から間もない頃、まだ高座名も与えられない時に島之内寄席で来場者の下足番を任された際に、名前も社名も言わずに入場しようとした新聞記者に対し、それまでの横柄な態度を腹に据えかねて「顔パス」を咎めたところ、下足札を投げつけられて「お前誰や!」と問われる。松鶴の弟子と答えると、松鶴のいる楽屋に連れて行かれた。鶴瓶は松鶴から問われてこの経緯を話した。すると松鶴は、鶴瓶を「向こう行け」と遠ざけてから、将来取材する対象になるかもしれない相手ではないかと記者を罵倒した。この件で鶴瓶は、「このおやっさんに付いていこ」と心服する。

「鶴瓶」という高座名が付くまでの経緯については、鶴瓶自身は時期によって異なる説明をしている。1982年の著書では、

としていた。これに対して2013年の聞き書きでは

としている。

同年9月26日に島之内寄席にて初舞台。初舞台の演目について、新野新の著書(1975年)では「東の旅 発端」としているが、鶴瓶自身は2013年の聞き書きで(同じ「東の旅」の一編である)「煮売屋」であったと述べ、人体の「逆さ言葉」を言う下りの「耳」のところで「ミンミン餃子、おいしいな」というくすぐりを入れて受けを取ったが松鶴から「よけいなこと入れやがって!」と叱られたとしている。

松鶴からはほとんど落語の稽古を付けられることはなかった。兄弟子である笑福亭松枝のエッセイのほか、鶴瓶自身の回想によれば、鶴瓶は「ある意味えらい怒られて稽古をつけてもらえなかった」存在であり、松鶴が機嫌のよいときに兄弟子の笑福亭松葉に「稽古を頼めよ!」とけしかけられて稽古を頼み込むと、鶴瓶の目の前に顔を突き出した挙句、「嫌や!」と突き放されたこともあった。ついには、「鶴瓶が聞いとるさかい風呂行って稽古しょう!」と他の弟子を引き連れて逃げ回られる事態に発展した。松鶴の盟友であった5代目桂文枝はこのことについて「稽古の必要はないと思ってるからや」と分析しており、また鶴瓶が松葉など年の近い兄弟子に可愛がられるための、松鶴による気配りであることを示唆している。また、鶴瓶と5代目文枝ともども、松鶴自身が5代目松鶴からあまりネタを教えてもらうことがなかったことが、稽古をつけなかったことの伏線とみなしている。鶴瓶自身は、松鶴が形にはめるよりも「あんまりいじくりまわさんほうがええ」と考えていたのではないかと述べている。松鶴の不在時に、松鶴の妻(「あーちゃん」と呼ばれていた)から三味線や落語の稽古を付けられることもあった。

ある落語コンクールでは、前記の『堀の内』に古典落語なのにオートバイに乗った人物を登場させるなど、「男子校向け」のアレンジを適当に加えて演じた。審査員からは「時代錯誤も甚だしい」と酷評され、やはり審査員である松鶴からは「こんなん、落語やおまへん。こいつには稽古つけてまへん」とまで言われる。だが、松鶴は帰り道に鶴瓶の尻を叩いて「おまえのが一番おもろかった」と告げた。

そのほかにも、高座にラジカセを持ち込み、笑いが欲しいシーンでスイッチを入れて笑い声を出し、客の笑いをあおるなど、当時としては斬新なアイデアを披露したりしたが、これも松鶴に楽屋で叱られてしまった。ただしその松鶴も、若手時代には高座でバレリーナに扮して先代から怒られている。3代目桂米朝によれば、3代目桂米之助作の新作落語「白鳥の死」の口演のためだという。

入門当時には、小学6年生で12歳の兄弟子・笑福亭手遊(おもちゃ、入門は1971年10月で廃業が1974年)がおり、入門順が序列となる落語界のしきたりに従い、彼を「兄さん」と呼び、手遊からも「兄弟子」として振る舞われることがあった。ただし、小学生の手遊を大人の鶴瓶が「兄さん」と呼んで話す様が面白がられて二人でラジオ番組に何度も出演し、結果として番組に出る機会が増え、「鶴瓶いうやつ、おもろいねんな」と思われるようになったと、2013年の聞き書きでは述べている。一方、手遊の上の兄弟子である笑福亭松葉(没後に7代目笑福亭松鶴を追贈される)には面倒を見てもらい、仲のよい兄弟弟子となる。のちに松竹芸能の社長から7代目松鶴は誰がいいかと問われたときに、鶴瓶は「松葉と答えた」という。

若手時代、鶴瓶はアフロヘアーオーバーオールという落語家らしくないスタイルを続けていた。3代目桂春団治や師匠の松鶴からは髪を切れと何度も言われたが(春団治は「金をやるから切ってくれ」とも言い、実際に金銭を渡した)、鶴瓶は従うことはなく、また松鶴や春団治もそれを楽しんでいる風があって、松鶴は途中から何も言わなくなったという。鶴瓶は、吉本興業所属の桂三枝や笑福亭仁鶴と比べ、自身の所属する松竹芸能の落語家が年齢が高いというイメージがあり、落語家の「古臭い感じ」に対する反発からそうしたファッションをしていた。

1970年代前半は、ユリ・ゲラーをはじめとする超能力・エスパーブームの時期だった。活動の場が早く欲しかった鶴瓶は、超能力(透視とスプーン曲げ)が使えることを松鶴に打ち明け、鶴瓶の超能力を目の当たりにした松鶴は驚愕し「ウチに超能力を使う弟子がおる」と松鶴自らがテレビ局に鶴瓶を売り込む。当然ながら超能力はテーブルマジックの類で、周囲に仕掛けを漏らしつつ頭から超能力を持つ弟子と信じ切っている松鶴という場面に持ち込み、必死になって売り込む松鶴に便乗して業界関係者に顔と名前を覚えてもらい、これを手がかりにテレビ、ラジオと進出する足場を作る。後に兄弟子の笑福亭仁鶴が鶴瓶のイカサマ超能力を暴き、松鶴は梯子を外された格好になった。また、このスプーン曲げは上岡龍太郎の不興を買った。鶴瓶は正直に事情を話し、上岡も笑って誤解を解いた。鶴瓶と上岡はこれが縁で互いの楽屋を訪れるようになり、その鶴瓶の楽屋話が面白いということで『激突夜話』『パペポTV』へとつながっていった。

1974年10月12日に結婚。結婚式は大阪市中央区の「高津神社」で執り行われた。鶴瓶と玲子は交際を始めた年に「10年後の1980年12月23日に結婚する」と約束していたが、玲子が妊娠したことから6年早い結婚となった。玲子の親の承諾を得ないままでの結婚だったため、玲子側の参加者がいない異例の式だった。仲人は師匠の松鶴が務めたが、弟子13人の中で鶴瓶が一番「アホ」というスピーチをした。

タレント活動

入門4日目で、兄弟子の笑福亭呂鶴の代役を求める近畿放送ラジオ(現・京都放送)から松鶴への電話に留守番で出たことで、「誰でもいいなら」と応じて出演した。

初のレギュラー番組は近畿放送の『丸物ワイワイカーニバル』で、以降、近畿中京地区でラジオ・テレビを中心に活動。1970年代半ばには東京のテレビ局の制作番組にも出演したが、自身に対するスタッフの扱いに反発して局部露出事件(詳細は後述)を起こしたこともあり、その後約10年は東京での活動をおこなわなかった。

1978年に始まった『ぬかるみの世界』で人気が上昇し、1982年から4年間続いた毎日放送の『突然ガバチョ!』の司会で再び脚光を浴びる。この番組は関西以外の地方でもネットされた。1982年、テレビ大阪の開局記念番組で取材を受けた際「アフロヘアーをトレードマークにしている」という声を耳にして、「けったくそ悪い」という思いを抱き、取材を受けている最中に髪を切り落とした。

鶴瓶は1982年の著書『哀しき紙芝居』で東京への(再)進出を「是非とも挑戦したいもの」と記し、同時に「そこをできるだけ自然に通り過ぎたい」と、自分のスタイルを変えずに行くことを望んでいた。満を持して1986年に、ビートたけしが出演する『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『オレたちひょうきん族』の裏枠のMCとして起用されるも、いずれも短期間で打ち切られ、「東京進出失敗」と週刊誌に書かれる。この状況で、鶴瓶に着目していたフジテレビプロデューサーの横澤彪が抜擢する形で、1987年から『森田一義アワー 笑っていいとも!』のレギュラーとなった。『笑っていいとも!』および1988年から全国ネットとなった『鶴瓶上岡パペポTV』により、広く受け入れられるようになる。

1990年代以降は、本業の落語家やテレビタレントのみならず俳優や司会者としても活躍するようになり、顕著な活躍を見せている。その傍ら、関西圏のラジオ局では現時点でもまだレギュラー番組を持ったことがないラジオ関西を除き、必ずレギュラー番組を1番組は持っている。

2001年にコカ・コーラとのタイアップで、日本テレビと吉本興業が組んで制作されたドラマ『明日があるさ』にも、鶴瓶が松竹芸能からただ一人ゲスト出演した。

落語への回帰

道頓堀角座が健在のころは「『大安売り』と『いらちの愛宕詣り』ばっかりやってました」。しかし、当時の角座の昼席は落語にさして興味のない団体客を入れていたため、「落語を聞きに来るお客」がメインであった夜席を好んでいた。

1986年の6代目松鶴の死後、笑福亭梅香を襲名させる計画があった。初代桂文枝(正確には桂梅香)、2代目曽呂利新左衛門の前座名という由緒名であるが、一門での慣例から「梅香」の読みは「ばいか、ばいこ、うめこ」のいずれではないかと(本人は)推察。遺書に読み仮名が無かったため正確な読みは不明のままに加え、名前が自分に似合っていないということから辞退している。

2002年9月、江戸落語の春風亭小朝との二人会で『子別れ(子は鎹)』(落語を本格的に始めるにあたって4代目桂文紅にじきじき『子別れ』を稽古を付けてもらった)を演じたことを機に、落語への回帰を強めている。2003年には小朝、林家こぶ平(現:9代目林家正蔵)らと落語の「六人の会」に「半ば巻き込まれるように」参加。また同年5月に上方落語協会理事に就任している。その後広報委員長を経て、2008年6月に副会長に就任した(2018年に退任、相談役に)。

多忙なタレント活動の合間を縫って「鶴瓶噺」「笑福亭鶴瓶落語会」などの独演会を展開する一方、六人の会が主催する「東西落語研鑚会」にも参加。大阪・帝塚山の6代目松鶴旧宅で行われる演芸イベント「帝塚山・無学の会」を主宰するなど、精力的に落語に取り組んでいる。古典落語にも「東西落語研鑚会」で『鴻池の犬』『らくだ』などに挑戦している。特に2004年の東西落語研鑚会で口演した『らくだ』は松鶴の十八番(おはこ)であり、松鶴門下では直々に稽古を付けられていた6代目笑福亭松喬しか、舞台での披露を許されていなかった題目である。『らくだ』には2003年頃から取り組み始め、そのために円形脱毛症を発したという。

鶴瓶の落語への取り組みは、弟子(ほとんどの弟子が落語をしないころの鶴瓶に弟子入り志願していたことで、落語家に弟子入りした感覚がない)に対する影響が少なくない。例えば筆頭弟子の笑福亭笑瓶は新作や古典の改作に取り組み、笑福亭純瓶は怪談噺に力を入れ、笑福亭銀瓶韓国語落語を打ち立てた。2007年3月には、銀瓶以降の6人の弟子が「シックスセンス☆六瓶の会」と題した落語会を大阪で開いている。

2004年から年に1回、桂南光桂文珍との落語会「夢の三競演 三枚看板 大看板 金看板」を開催。落語会としては異例の6,000円を超える料金も話題となる。チケットは、過去3回共完売。その他この3人は、2005年から「文珍南光鶴瓶+1 しごきの会」と題して、年に数回、baseよしもと(現在は天満天神繁昌亭)で若手落語家育成の為の会を開いている。

ヘヴィメタル雑誌「BURRN!」編集長であり多くの落語関連著書を執筆している広瀬和生は落語家としての鶴瓶について「落語演らない落語家」「鶴瓶噺なるジャンルを確立させた」と評している。

家族・親族

家族は妻、長男、長女がいる。妻の玲子は既述の通り、あのねのねの元メンバーである。ある時期より鶴瓶の番組の企画書作りなどを手伝うようになり、『鶴瓶上岡パペポTV』の企画書は彼女がまとめたとされる。長男は俳優兼音楽ユニット「Human Note」のボーカル・駿河太郎。2008年7月26日、浜松近郊の病院(長男の第一子)が生まれたことを『FNS27時間テレビ!!みんな笑顔のひょうきん夢列島!!』で発表した。ちょうどこの時は鶴瓶と従兄弟弟子の明石家さんま大竹しのぶ元夫妻とののトークコーナーが放送されており、「早う、孫に会いに行きたいわ」とボヤいていた。2015年3月時点では計4人の孫がいる。

鶴瓶の実父は絵を趣味としながら梱包材を扱う店を営んでいた。死去した際、師匠の松鶴は「普通は弟子のお父さんの葬式なんかに行かない」ところを葬儀に出席したが泥酔の挙句大暴れし、鶴瓶の実姉に「松鶴かなんか知らんけど、人の親が死んでンねがな」と説教され、「あー、恐……」と言って鶴瓶になついていたという。

芸に関して

落語

自身の身の回りで起こった日常の話題を面白おかしく話すスタイルは「鶴瓶噺」(つるべばなし)と呼ばれ、独自のジャンルを構築し、2000年には上方お笑い大賞を受賞した。2007年まで年1回5日間、青山円形劇場にて「鶴瓶噺」を開催している(2008年からは会場が世田谷パブリックシアターに変更)。

2007年から全国ツアーを開催。2009年には「Japan Tour『White』」と称してファースト、セカンドツアーに分けて全国ツアーを開催。鶴瓶に縁のある落語家や、開催都市出身の落語家が出演。

落語については「今が大事」という考えからDVDなどは出さないようにしている。高座の撮影を続けているディレクターはおり、彼に対しては「撮るのはええけど、俺が死ぬまで、外に出したらあかんで」と言い含めている。

帝塚山・無学

帝塚山・「無学」(2013年11月撮影)

「帝塚山・無学」は、師匠6代目松鶴の旧自邸を鶴瓶が改築した純和風ホール。月1回「無学の会」を開催し、一般にも公開している。毎回ゲストを招いているが、前もってゲストの名前を発表されることは無く、毎回シークレットになっている。

これまでのゲストにタモリ、明石家さんま、木梨憲武イッセー尾形、3代目桂米朝、3代目桂春団治ももいろクローバーZらを迎えている。また、松嶋尚美を迎えた際の模様は、「無学版きらきらアフロ」として『きらきらアフロ 2008 DVD』に収録されている。

つるべ、らくごのお稽古

帝塚山・無学と下北沢Live bar 440にて、「つるべ、らくごのお稽古」と題して定期的に稽古会を行なっている。

演目

古典落語
子は鎹』、『鴻池の犬』、『らくだ』、『愛宕山』、『立ち切れ線香』、『厩火事』、『堪忍袋』、『宮戸川』、『二人癖』、『粗忽長屋』、『所帯念仏』、『へっつい幽霊』、『化物使い』、『打飼盗人』、『いらちの愛宕詣り』、『大安売り』、『鶴瓶版 死神』、『転宅』、『錦木検校』、『お直し』、『癇癪』、『妾馬』、『明烏』、『長短』、『三年目
私落語
『長屋の傘』、『青木先生』、『ALWAYS -お母ちゃんの笑顔-』、『青春グラフィティ松岡』、『Mr.ドリーマー』、『春雷』、『回覧板』、『CHINGE』、『琵琶を弾く観音像』
創作落語(桂三枝(現:6代目桂文枝)からネタを譲り受けたもの)
『湯けむりが目にしみる』、『悲しみよありがとう』
タモリからネタを譲り受けたもの
『山名屋浦里』

人物

趣味・嗜好

18代目中村勘三郎は親友。好きなアーティストaiko2PMで、洋楽のファンでもある。また、デューク・エイセスさだまさし吉田拓郎小田和正やしきたかじんとも古くから親交がある。

若者文化に対する造詣も深い。ももいろクローバーZと親交が深く、2015年には地上波のトークバラエティ番組として『桃色つるべ?お次の方どうぞ?』がスタート。2017年からは、ももいろクローバーZが大晦日の夜に開催する『ももいろ歌合戦』(BS日テレフジテレビNEXTニッポン放送など)に出演するのが恒例になっている。さらに関ジャニ∞とも親しく、自身が司会をつとめる『きらきらアフロTIM』や『a-studio』などでも共演しており、メンバーの丸山隆平主演の『地獄先生ぬ~べ~』の最終回にゲスト出演もした。

アレルギーのため、鯖料理が苦手。

タレント活動時

あのねのねの当初のメンバーであったことや、ラジオのパーソナリティを長くやっていたことから、フォークソングに対する造詣も深く、『鶴瓶噺』や『朝まで生つるべ』、『朝まで歌つるべ』(テレビ朝日)などで、フォークソングを絡めている。

『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』(ラジオ・OBC)での、ファンであるリスナーに会った際の口癖「覚えてるよー」は、当時関西で鶴瓶のモノマネ定番セリフになった。リスナーにイベントで、前向きに行動するよう「がんばりやー」もよく口にしていた。

露出にまつわるエピソード

東京でまだ無名だった頃に、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の深夜番組『独占!男の時間』と日本テレビのバラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』で、3度にわたって生放送の最中に裸にまつわる騒動を起こし、さらに有名になった後にもフジテレビ系列で2003年に生放送された『FNS27時間テレビ みんなのうた』においても、下半身を露出した。

著書で「僕は世にいう露出狂などでは、断じてない。…(中略)…僕の場合は、決して快感のためにやっているわけではないからだ」と述べて否定する一方、「ただ、快感を得るためにではないにしろ、例の部分を露出することに、さして抵抗を感じていないことだけは、事実かも知れない」とも語っている。なお、2007年8月の『週刊文春』の対談記事で家庭では全裸で過ごしていることを明かした。

その一方で、「鼻毛は絶対に人には見せん」というポリシーを持っていると述べている。

その他

下積み時代、余興を企画したイベント会社社長の、若手芸人をバカにするぞんざいな態度が気に入らず、出演せずに劇場を後にしたことがある。一年半後、スターとなった鶴瓶に同じ企画会社から仕事が入ったが「売れていない弱い立場の芸人には平気で高飛車に命令をしておいて、少し売れてくるとたちまち態度を変える。僕はそんな方と一緒に仕事したくないんです」と直接言って仕事を断っている。

「フォークとロックの会」というライブイベントの司会をしたとき、ロックバンドのベーシストから「俺は、お前が嫌いや。嫌いやねん」と言われたことに激昂し「なんやその言い方は!!勝手に自分たちで司会をしとけ!!」と言いながらベーシストを鼻血が出るまでマイクで殴り続けたことがある。これは、その侮辱的な発言はもちろん、同バンドのギタリストチューニングが遅れたため急遽繋ぎのトークを行ったのにも拘らず、謝るどころか鶴瓶の質問を無視し続けたその態度が気に入らなかったためである。なお、後日談としてこのベーシストと偶然再会して話す機会があり「心のなかの汚点が、スッと洗い流されるような、さわやかな気持ちに、しばしひたったものだった」と述べている。

ラジオ番組『ミッドナイト東海』で漫画家鳥山明と対談した事がある。鳥山明は漫画家デビュー前から『ミッドナイト東海』のリスナーで、葉書に鶴瓶の似顔絵を描いてラジオに送った事もあった。その絵は許可を貰って鶴瓶の手ぬぐいのイラストに使われている。鳥山明が『Dr.スランプ』に遊び心で鶴瓶を描いたところ、『ミッドナイト東海』に同番組リスナーから、その絵の切り抜きが送られてきた。その絵を見た鶴瓶が番組内で鳥山明に呼びかけると、鳥山明からラジオ宛に「ぜひお電話ください」と手紙で返事があり、対談に至った。また、その後『週刊セブンティーン1981年4・5合併号』では鶴瓶と鳥山明の対談記事「新春あこがれ対談 Dr.スランプVS鶴瓶」が掲載された。

平和安全法制に反対を表明している。なお、本業がお笑いであることから、本流ではない政治に関する発言は極力避けている。

出演番組

2015年、第28回東京国際映画祭にて、木村文乃(写真右)と

テレビ番組

レギュラー

特番

出典:wikipedia
2019/07/13 19:53

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