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第一次世界大戦とは?

この項目「第一次世界大戦」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:ドイツ語版&oldid=173272248英語版&oldid=821659949)
修正、加筆に協力し、現在の表現をより原文に近づけて下さる方を求めています。ノートページ履歴も参照してください。(2018年5月)
第一次世界大戦

上段:西部戦線の戦場
中段左:ドイツ軍のアルバトロス D.III複葉機
中段右:イギリス軍のMk.IV戦車
下段左:ソンムの戦いでのヴィッカース重機関銃と英兵
下段右:ガリポリの戦いで沈む戦艦イレジスティブル
戦争:第一次世界大戦
年月日:1914年7月28日 - 1918年11月11日
場所:ヨーロッパ中東アフリカ中国太平洋
結果:連合国(協商国)の勝利
交戦勢力
連合国
フランス共和国
イギリス帝国
ロシア帝国
セルビア王国
モンテネグロ王国
ベルギー
大日本帝国
イタリア王国
ルーマニア王国
ポルトガル共和国
アメリカ合衆国
ギリシャ王国
中華民国
他多数 | 中央同盟国
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
オスマン帝国
ブルガリア王国
ほか共同参戦国あり
指導者・指揮官
ジョルジュ・クレマンソー
レイモン・ポアンカレ
フェルディナン・フォッシュ
ジョージ5世
ハーバート・ヘンリー・アスキス
ホレイショ・ハーバート・キッチナー
デビッド・ロイド・ジョージ
ニコライ2世
ペータル1世
ニコラ1世
アルベール1世
大正天皇
大隈重信
ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世
ヴィットーリオ・オルランド
フェルディナンド1世
ウッドロウ・ウィルソン
アレクサンドロス1世
段祺瑞
他多数 |  ヴィルヘルム2世
パウル・フォン・ヒンデンブルク
エーリヒ・ルーデンドルフ
ヘルムート・フォン・モルトケ
フランツ・ヨーゼフ1世
カール1世
メフメト5世
メフメト6世
三人のパシャ
フェルディナンド1世
他多数
戦力
  • 12,000,000
  • 8,841,541
  • 8,660,000
  • 5,615,140
  • 4,743,826
  • 1,234,000
  • 800,000
  • 707,343
  • 380,000
  • 250,000
  • 50,000

合計:42,959,850

 | 
  • 13,250,000
  • 7,800,000
  • 2,998,321
  • 1,200,000

合計:25,248,321


損害
戦死者 553万人
戦傷者 1283万人
行方不明 412万人 | 戦死者 439万人
戦傷者 839万人
行方不明 363万人

第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、英語: World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称
  • 3 背景
    • 3.1 政治と軍事同盟
    • 3.2 軍備拡張競争
    • 3.3 バルカン半島の紛争
  • 4 開戦
    • 4.1 サラエボ事件
    • 4.2 ボスニア・ヘルツェゴヴィナの騒動
    • 4.3 七月危機
  • 5 1914年の戦闘
    • 5.1 中央同盟国の緒戦での混乱
    • 5.2 1914年のセルビア戦役
    • 5.3 西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行
    • 5.4 1914年の東部戦線
    • 5.5 オスマン帝国の参戦
    • 5.6 北欧の中立宣言
    • 5.7 アジア・太平洋戦役
    • 5.8 アフリカ戦役
  • 6 1915年の戦闘
    • 6.1 Uボート作戦
    • 6.2 東部戦線決着への試み
    • 6.3 1915年の西部戦線
    • 6.4 ガリポリの戦い
    • 6.5 イタリア王国の参戦
    • 6.6 アルメニア人虐殺
    • 6.7 ブルガリア王国の参戦、1915年のセルビア戦役
    • 6.8 その他の戦線
    • 6.9 1915年の社会と政治
  • 7 1916年の戦闘
    • 7.1 モンテネグロとアルバニアの占領
    • 7.2 ヴェルダンの戦い
    • 7.3 ティルピッツの辞任とユトランド沖海戦
    • 7.4 ブルシーロフ攻勢とソンムの戦い
    • 7.5 南チロル攻勢とイゾンツォの戦い
    • 7.6 ルーマニア王国の参戦と敗北
    • 7.7 ファルケンハインの更迭とヒンデンブルクの任命
    • 7.8 ヴェルダンの反攻とジョフルの辞任
    • 7.9 ポーランド摂政王国と中央同盟国の講和案
  • 8 1917年の戦闘
    • 8.1 潜水艦作戦の増強とアメリカ合衆国の参戦
    • 8.2 日本海軍艦隊の欧州派遣
    • 8.3 カブラの冬
    • 8.4 ロシア革命
    • 8.5 ドイツ、西部戦線で守勢に
    • 8.6 その他の戦線
    • 8.7 1917年の政治と講和の試み
  • 9 1918年の戦闘
    • 9.1 ゼネストとウィルソンの十四か条の平和原則
    • 9.2 ロシアとの講和とドイツの春季攻勢
    • 9.3 百日攻勢
    • 9.4 停戦と降伏
  • 10 余波
    • 10.1 正式な終戦
    • 10.2 講和条約
    • 10.3 国民意識
    • 10.4 疫病の問題
    • 10.5 社会の傷跡
    • 10.6 ドイツでの不満
    • 10.7 経済への影響
    • 10.8 文化への影響
    • 10.9 国際平和への努力
    • 10.10 今なお残る不発弾
  • 11 軍事技術
    • 11.1 陸上戦
    • 11.2 海戦
    • 11.3 空戦
    • 11.4 暗号
  • 12 戦時下の社会
    • 12.1 捕虜の処遇
    • 12.2 戦争への支持
    • 12.3 反戦運動
      • 12.3.1 反乱
      • 12.3.2 徴兵
    • 12.4 外交とプロパガンダ
  • 13 研究史
  • 14 脚注・注釈
    • 14.1 脚注
    • 14.2 注釈
  • 15 参考文献
  • 16 関連図書
  • 17 関連項目
  • 18 外部リンク

概要

7千万以上の軍人(うちヨーロッパ人は6千万)が動員され、史上最大の戦争の1つとなった。第二次産業革命による技術革新と塹壕戦による戦線の膠着で死亡率が大幅に上昇、戦闘員900万人以上と700万人以上が死亡した(ジェノサイドの犠牲者を含む)。史上死亡者数の最も多い戦争の1つであり、この戦争は多くの参戦国における革命などの政治変革を引き起こした。終戦後も参戦国の間には対立関係が残り、その結果わずか21年後の1939年には第二次世界大戦が勃発した。

戦争は世界全ての経済大国を巻き込み、それらを連合国(ロシア帝国フランス第三共和政グレートブリテン及びアイルランド連合王国三国協商に基づく)と中央同盟国(主にドイツ帝国オーストリア=ハンガリー帝国)という2つの陣営に二分した。イタリア王国はドイツおよびオーストリア=ハンガリーと三国同盟を締結していたが、オーストリア=ハンガリーが同盟の規定に違反して(防衛ではなく)侵略に出たため、イタリアは中央同盟国に加入しなかった。諸国が参戦するにつれて両陣営の同盟関係は拡大されていき、例えば大日本帝国アメリカ合衆国は連合国側に、オスマン帝国ブルガリア王国は中央同盟国側に加入した。

戦争の引き金となったのは1914年6月28日、ユーゴスラヴィア民族主義者の青年ガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォへの視察に訪れていたオーストリア=ハンガリーの帝位継承者フランツ・フェルディナント大公暗殺した事件だった。これにより、オーストリア=ハンガリーはセルビア王国最後通牒を発するという七月危機がおこった。各国政府および君主は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争計画の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展したとされる。そして、それまでの数十年間に構築されていた各国間の同盟網が一気に発動された結果、数週間で主要な列強が全て参戦することとなった。

まず7月24日から25日にはロシアが一部動員を行い、28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは30日に総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求、それが断られると8月1日にロシアに宣戦布告した。東部戦線で人数的に不利だったロシアは三国協商を通じて、同盟関係にあるフランスに西部で第二の戦線を開くよう要請した。1870年の普仏戦争の復讐に燃えていたフランスはロシアの要請を受け入れて8月1日に総動員を開始、3日にはドイツがフランスに宣戦布告した。独仏国境は両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに基づきベルギールクセンブルクに侵攻、続いて南下してフランスに進軍した。しかしその結果ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。イギリスと同盟を結んでいた日本も8月23日にドイツに宣戦布告した。

ドイツ陸軍のパリ進軍が1914年9月の第一次マルヌ会戦で食い止められると、この西部戦線消耗戦の様相を呈し、1917年まで塹壕線がほとんど動かない状況となった。東部戦線ではロシアがオーストリア=ハンガリーに勝利したが、ドイツはタンネンベルクの戦い第一次マズーリ湖攻勢ロシアによる東プロイセン侵攻を食い止めた。1914年11月にオスマン帝国が中央同盟国に加入すると、カフカースメソポタミアシナイ半島の戦線が開かれた。1915年にはイタリアが連合国に、ブルガリアが中央同盟国に加入した。ルーマニア王国とアメリカはそれぞれ1916年と1917年に連合国に加入した。

ロシアでは1917年3月に二月革命によって帝政が崩壊し、代わって成立したロシア臨時政府十月革命で打倒され、軍事上でも敗北が続くと、ロシアは中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結して大戦から離脱した。1918年春にはドイツが西部戦線で春季攻勢を仕掛けたが、連合国軍は百日攻勢でドイツ軍を押し返した。1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーはヴィラ・ジュスティ休戦協定を締結、ドイツも革命がおこったため休戦協定を締結、戦争は連合国の勝利となった。

戦争終結前後にはドイツ帝国、ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国などのいくつかの帝国が消滅した。国境線は改めて策定され、独立国には9つの国家が建国されるかあるいは復活した。また、ドイツ植民地帝国は戦勝国の間で分割された。

1919年のパリ講和会議においては「五大国」(イギリス、フランス、日本、アメリカ、イタリア)が会議を主導し、一連の講和条約を敗戦国に押し付け、敗戦国の領土を分割した。大戦後には、再び世界大戦が起こらないことを願って国際連盟が設立されたが、この取り組みは失敗した。世界恐慌民族主義の復活、後継国家の弱体化、敗戦国側(特にドイツ)の屈辱感は、やがて二度目の世界大戦である第二次世界大戦を引き起こすこととなった。

名称

第一次世界大戦の勃発から第二次世界大戦が勃発するまで、第一次世界大戦は単に世界戦争(World War)または大戦争(Great War)と呼ばれていた。あるいは、欧州大戦(War in Europe)、戦争を終わらせるための戦争(the war to end wars)という表現もあった。第二次世界大戦以降は主に第一次世界戦争(First World WarまたはWorld War I)と呼ばれるようになった。このうち、「世界戦争」(ドイツ語: Weltkrieg)という用語が初めて使われたのはドイツ帝国であり、この名称が使われた背景にはドイツの帝国主義政策「世界政策」(Weltkpolitik)の存在などがあったという。1917年のアメリカ合衆国参戦後、合衆国国内でも「世界戦争」という名称が、従来の「ヨーロッパ戦争」に取って代わった。

「第一次世界戦争」(First World War)という語がはじめて使われたのは1914年9月、ドイツの生物学者、哲学者であるエルンスト・ヘッケルが「恐れられた『ヨーロッパ戦争』は疑いもなく(中略)完全な意味での初の世界戦争(the first world war)となるだろう」と述べたときだった。1939年に第二次世界大戦が勃発した後、「第一次世界戦争」という用語が主流になったが、イギリスとカナダの歴史家はFirst World Warを、アメリカの歴史家はWorld War Iを多用した。

一方、「大戦争」(英語: Great Warフランス語: la Grande Guerre)という語は、大戦中、主にイギリスとフランスの二国で用いられた。カナダでも1914年10月号のマクリーンズ誌が「大戦争」(Great War)とした。1930年代以降、英仏両国でも「世界戦争」が第一次世界大戦の名称として使われるようになるが、2014年現在も第一次世界大戦を指して「大戦争」と呼ぶ用法は両国内で広く用いられているという。

歴史家のガレス・グロヴァー(Gareth Glover)は著書の『100の物が語るウォータールー』(Waterloo in 100 Objects)で、「この前置きは大戦争という名称が常に1914年から1918年までの第一次世界戦争を意味する環境で育った人にとっては当惑するものかもしれない。しかし、1918年以前を生きた人々にとって、大戦争という称号はイギリスが1793年から1815年までの22年間、フランスと戦った革命戦争ナポレオン戦争を意味した」と述べた。例えば、歴史家のジョン・ホランド・ローズは1911年に『ウィリアム・ピットと大戦争』(William Pitt and the Great War)という著作を出版したが、題名の「大戦争」はフランス革命戦争とナポレオン戦争を指している。

木村靖二によれば、日本で定着した名称「世界大戦」は、「世界戦争」と「大戦争」のいずれでもなく、両者を組み合わせたものであり、他国には見られない珍しい名称であるという。

背景

詳細は「第一次世界大戦の原因」を参照
1914年時点で2つの陣営に分けられたヨーロッパ。緑は三国協商で茶色は三国同盟である。正式な同盟は三国同盟だけで、残りは非公式な支援関係である。

政治と軍事同盟

19世紀の間、ヨーロッパ列強は勢力均衡を維持しようとして様々な手を使い、1900年までに複雑な政治と軍事同盟網を築き上げた。その端緒となったのは1815年にプロイセン王国ロシア帝国オーストリア帝国の間で締結された神聖同盟であった。1871年にドイツが統一を成し遂げると、プロイセン王国はドイツ帝国の一部となった。直後の1873年10月、ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクオーストリア=ハンガリー、ロシア、ドイツの間の三帝同盟を交渉したが、オーストリア=ハンガリーとロシアがバルカン半島政策をめぐって対立したため、ドイツは1879年にオーストリア=ハンガリーと単独で独墺同盟を締結した。これはオスマン帝国衰退を続ける中、ロシアがバルカン半島での影響力を増大させるのに対し両国が対抗するためだった。1882年にはイタリア王国が加入して三国同盟になった。

ビスマルクはフランスとロシアとの二正面作戦を防ぐべく、ロシアをドイツ側に引き込もうとした。しかし、ヴィルヘルム2世ドイツ皇帝に即位すると、ビスマルクは引退を余儀なくされ、彼の同盟網は重要性が薄れていった。例えば、ヴィルヘルム2世は1890年にロシアとの独露再保障条約の更新を拒否した。その2年後にはロシアが三国同盟への対抗としてフランスと露仏同盟が締結した。イギリスも1904年に英仏協商を、1907年に英露協商を締結した。これらの協定はイギリスとフランス、ロシア間の正式な同盟ではなかったが、フランスとロシアが関与する戦争にイギリスが参戦する可能性が出て、これらの二国間協定は後に三国協商と呼ばれた。

軍備拡張競争

ドイツがイギリスのドレッドノートへの対抗として建造したナッサウ級戦艦ラインラント

普仏戦争後の1871年にドイツ統一が成し遂げられ、ドイツ帝国が成立すると、ドイツの政治と経済力が大きく成長した。1890年代中期以降、ヴィルヘルム2世率いるドイツ政府はそれを基盤として莫大な資源を投入、アルフレート・フォン・ティルピッツ提督率いるドイツ帝国海軍を設立して、海軍の優越をめぐってイギリス海軍と競争した。その結果、両国は主力艦の建造でお互いを追い越そうとした。1906年にイギリスのドレッドノートが竣工、イギリス海軍の優勢を拡大させた。英独間の軍備拡張競争は全ヨーロッパを巻き込み、列強の全員が自国の工業基盤を軍備拡張に投入、汎ヨーロッパ戦争に必要な装備と武器を準備した。1908年から1913年まで、ヨーロッパ列強の軍事支出は50パーセント上昇した。

バルカン半島の紛争

1908年のオーストリアによるボスニア併合宣言を読むサラエボの住民、1908年10月。

オーストリアは1878年にオスマン帝国領だったボスニア・ヘルツェゴヴィナを占領したが、1908年にそれを正式に併合して、1908年から1909年にかけてのボスニア危機を引き起こした。これはセルビア王国とその後援国で汎スラヴ主義を支持していたロシア帝国を激怒させた。バルカンでの平和合意はすでに揺らいでおり、さらにロシアの政治活動もあってバルカンは「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至った。1912年から1913年にかけて、バルカン同盟と徐々に解体していったオスマン帝国の間で第一次バルカン戦争がおき、その講和条約であるロンドン条約ではアルバニア公国が独立した一方、ブルガリア王国、セルビア王国、モンテネグロ王国ギリシャ王国は領土を拡大した。1913年6月16日にブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃して第二次バルカン戦争が勃発するが、この33日間の戦争ではブルガリアが大敗、マケドニアの大半をセルビアとギリシャに、南ドブルジャルーマニア王国に割譲せざるをえず、バルカンが更に不安定になった。列強はこのときは紛争をバルカン半島内に抑えることに成功したが、次の紛争はヨーロッパ全体に飛び火し、戦火はやがて全世界を巻き込んだ。

開戦

サラエボ事件

詳細は「サラエボ事件」を参照
この写真は一般的にはガヴリロ・プリンツィプが逮捕される瞬間とされているが、一部の文献では見物人の1人であるフェルディナント・ベール(Ferdinand Behr)としている。

1914年6月28日、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボを訪問した。ユーゴスラヴィア主義組織青年ボスニアからの暗殺者6人(クヴジェトコ・ポポヴィッチガヴリロ・プリンツィプムハメド・メフメドバシッチネデリュコ・チャブリノヴィッチトリフコ・グラベジュヴァソ・チュブリロヴィッチ)はセルビア黒手組の物資提供を受けて、大公を暗殺すべく大公の車列が通る街道で集まった。チャブリノヴィッチは手榴弾を車に投げつけたが外れ、近くにいた人々が負傷しただけに留まった。大公の車列はそのまま進み、チュブリロヴィッチ以外の暗殺者が動けないのを尻目に無事通過した。

フェルディナントは爆発で怪我した者の見舞いにサラエボ病院に行ったが、約1時間後の帰りでは車が道を誤って方向転換、ちょうどプリンツィプのいた道に入った。プリンツィプはピストルで大公と大公妃ゾフィー・ホテクを銃殺した。オーストリア人の間では反応が薄く、ほぼ無関心に近い状態だった。歴史家のズビニェク・ゼマンは後に「事件は人々に印象を残すことにほとんど失敗した。日曜日と月曜日(6月28日と29日)、ウィーンの大衆はまるで何も起こらなかったように音楽を聴いたりワインを飲んだりした」。一方、帝位継承者の暗殺という事件は政治に重大な影響を与え、21世紀の文献では「9月11日効果」と形容するものもある。また、大公夫婦とは個人的には親密ではなかったが、皇帝 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/07/21 12:57

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