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第四次中東戦争とは?

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年10月)
中東戦争 > 第四次中東戦争
第四次中東戦争
ヨム・キプール戦争/十月戦争
Yom Kippur War/October War
中東戦争

写真のキャプション

左段

  • スエズ運河を渡河するエジプト軍
  • 撃墜されたA-4攻撃機の尾翼

中央段

右段

  • 前線を視察するアサド大統領とトラス国防相
  • 集結したサダト大統領とエジプト軍首脳
  • スエズ運河西岸に展開したクウェート軍

【時】
1973年10月6日 - 10月24日
(スエズ市の戦いまで)
【場所】

【結果】


【衝突した勢力】

 | 
【指揮官】

イスラエル

首相

国防相

参謀総長

空軍司令官

  • イツハク・ホフィ

北部方面軍司令官

  • シュムエル・ゴネン

南部方面軍司令官

  • ハイム・バーレブ

南部方面軍(9日より)

 | 
エジプト

大統領

  • アフマド・イスマイル=アリ

国防相

  • サード・エル=シャズリ

参謀総長

  • モハメド・アブドゥル・ガニ・エリ=ガマシィ

作戦部長

空軍司令官

  • サード・マムーン

第2軍司令官

  • アブドゥル・ムネイム・ワッセル

第3軍司令官

シリア

大統領

  • ムスタファ・トラス

国防相

  • ユースフ・シャクール

参謀総長


【部隊】

戦闘序列参照 | 戦闘序列参照
【戦力】

イスラエル

  • 人員31~35万名
    (動員時)
兵器
  • 戦車2,000輌
  • 装甲車4,000輌
  • 野砲570門
  • 戦闘機・攻撃機352機
 | 
各国の戦力

エジプト

  • 人員31.5万名
兵器
  • 戦車2,200輌
  • 装甲車2,400輌
  • 野砲1,210門
  • 戦闘機・攻撃機550機

シリア

  • 人員14万名
兵器
  • 戦車1,820輌
  • 装甲車1,300輌
  • 野砲655門
  • 戦闘機・攻撃機275機

イラク

  • 人員2万名
兵器
  • 戦車300輌
  • 装甲車300輌
  • 野砲54門

ヨルダン

  • 人員5,000名
兵器
  • 戦車220輌
  • 装甲車200輌
  • 野砲36門

その他のアラブ諸国

  • 人員2.5万名
兵器
  • 戦車370輌
  • 装甲車120輌
  • 野砲100門

【被害者数】

イスラエル

  • 戦死2,523~4,000名
  • 負傷8,800名
  • 捕虜・行方不明508名
兵器
  • 戦車840~1,000輌
  • 装甲車400~2,000輌
  • 野砲50~75門
  • 戦闘機・攻撃機103機
 | 
各国の損害

エジプト

  • 戦死5,000名
  • 負傷1万2,000名
  • 捕虜・行方不明8,031名
兵器
  • 戦車650~1,100輌
  • 装甲車450輌
  • 野砲300門
  • 戦闘機・攻撃機223機

シリア

  • 戦死3,100名
  • 負傷6,000名
  • 捕虜・行方不明500名
兵器
  • 戦車600~1,200輌
  • 装甲車400輌
  • 野砲250門
  • 戦闘機・攻撃機118機

イラク

  • 戦死300名
  • 負傷1,000名
  • 捕虜・行方不明500名
兵器
  • 戦車200輌
  • 装甲車:不明
  • 野砲:不明

ヨルダン

  • 戦死28名
  • 負傷49名
  • 捕虜・行方不明なし
兵器
  • 戦車54輌
  • 装甲車:不明
  • 野砲:不明

その他のアラブ諸国

  • 戦死100名
  • 負傷500名
  • 捕虜・行方不明:不明
  • 兵器:不明

合計

  • 戦死8,528名
  • 負傷19,549名
  • 捕虜・行方不明8,551名
兵器
  • 戦車1,500~2,554輌
  • 装甲車850~1,000輌
  • 野砲500門
  • 戦闘機・攻撃機391機

第四次中東戦争
ヨム・キプール戦争/十月戦争
Yom Kippur War/October War
戦闘序列と指導者一覧
ゴラン高原方面
ゴラン高原の戦い - ナファク基地攻防戦 - ドーマン5作戦 - 涙の谷 - ダマスカス平原の戦い - ヘルモン山攻防戦
シナイ半島方面
バドル作戦 - タガール作戦 - ブダペスト - ラザニ - 第一次反撃戦 - 10月14日の戦車戦 - 中国農場の戦い - アビレイ・レブ作戦 - スエズ市の戦い
海上戦
ラタキア沖海戦 - ダミエッタ沖海戦 - ラタキア港襲撃
アメリカ・ソ連の対イスラエル・アラブ援助
ニッケル・グラス作戦

第四次中東戦争(だいよじちゅうとうせんそう)は、1973年10月にイスラエルエジプトシリアをはじめとするアラブ諸国(以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で行われた戦争の名称。中東戦争の一つに数えられる。

目次

  • 1 概要
  • 2 名称
  • 3 戦争の背景
    • 3.1 第三次中東戦争(1967年)
    • 3.2 消耗戦争・ヨルダン内戦(1968年 - 1970年)
      • 3.2.1 消耗戦争
      • 3.2.2 ヨルダン内戦
    • 3.3 アラブの戦争準備・イスラエルの油断(1971年 - 1973年9月)
      • 3.3.1 アラブの戦争準備
      • 3.3.2 イスラエルの油断
    • 3.4 開戦前夜(1973年9月13日 - 10月6日)
  • 4 戦争の推移
    • 4.1 アラブの二正面作戦(1973年10月6日 - 10月10日)
      • 4.1.1 ゴラン高原方面
      • 4.1.2 シナイ半島方面
      • 4.1.3 その他
    • 4.2 イスラエルの反撃(1973年10月11日 - 10月17日)
      • 4.2.1 ゴラン高原方面
      • 4.2.2 シナイ半島方面
      • 4.2.3 その他
    • 4.3 停戦(1973年10月18日 - 10月25日)
      • 4.3.1 ゴラン高原方面
      • 4.3.2 シナイ半島方面
      • 4.3.3 停戦交渉と米ソの対立
  • 5 戦争の影響
    • 5.1 政治的影響
    • 5.2 社会的影響
    • 5.3 軍事的影響
    • 5.4 日本への影響
  • 6 第四次中東戦争およびそれに関連する事項を題材とした作品
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク
  • 9 脚注
    • 9.1 注記
    • 9.2 出典
    • 9.3 参考文献

概要

1973年10月6日イスラエルにおけるユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」(贖罪の日、ヘブライ語: יום כיפור‎、英語: Yom Kippur)に当たったこの日、6年前の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土の奪回を目的としてエジプトシリア両軍がそれぞれスエズ運河ゴラン高原正面に展開するイスラエル国防軍(以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。

「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受け、かなりの苦戦を強いられたが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、10月24日、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。

純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ第一次第二次、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は(イスラエルはアラブ側に対して負けるはずはないという)「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは1979年エジプト・イスラエル平和条約を締結し、1982年にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した)。

この戦争は、冷戦期における地域紛争の中でも新しい兵器が大規模投入され、特にミサイル兵器(9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル、双方が史上初めて対艦ミサイルを使用したラタキア沖海戦など)はめざましく、第三世代主力戦車の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。

また、戦争中行われたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う石油輸出国機構(OPEC)の石油価格引き上げは第1次オイルショック(第1次石油危機)を引き起こし、日本をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。

名称

イスラエル・欧米での名称(1) - 「ヨム・キプール戦争」

「ヨム・キプール」の日に戦争が勃発したことに由来。
ヘブライ語: "מלחמת יום הכיפורים"‎(ミルヘメット・ヨム・ハ=キプリム)または"מלחמת יום כיפור"(ミルヘメット・ヨム・キプール)
英語: "Yom Kippur War"(ヨム・キプール・ウォー)

アラブ側・欧米の名称(2) - 「十月戦争」

10月に戦争が勃発したことに由来。
アラビア語: "حرب أكتوبر"‎(ハルバ・ウクトーバー)または"حرب تشرين"(ハルバ・ティシュリ)
英語: "October War"(オクトーバー・ウォー)

または「ラマダン月10日戦争」

単に「ラマダン戦争」とも。イスラム暦の断食月(ラマダーン)10日に戦争が勃発したことに由来。
アラビア語: "حرب العاشر من رمضان"‎(ハルバ・アシュラ・ミム・ラマダーン)
英語: "Tenth of Ramadan War"(テンス・オブ・ラマダン・ウォー)

欧米の名称(3) - 「1973年アラブ・イスラエル紛争」

単に「1973年の戦争」という表記も見られる。
英語: "1973 Arab-Israeli Conflict"(ナインティーセヴンティースリー・アラブ・イスラエリ・コンフリクト)

日本の名称 - 「第四次中東戦争」

第4次中東戦争」という表記も存在。「消耗戦争」を「第四次中東戦争」とし、本戦争を「第五次中東戦争」とする文献もある。
日本語: だいよじ(よんじ)ちゅうとうせんそう、だいごじちゅうとうせんそう

以下、戦争名はすべて「第四次中東戦争」で統一する。

戦争の背景

第三次中東戦争(1967年)

イスラエルは第三次中東戦争の勝利により、上図の肌色の部分を占領した。アラブ側はこの戦争の復讐を誓い、第四次中東戦争の要因の一つとなった。

1967年6月5日イスラエル空軍エジプトヨルダンシリアイラクの各空軍基地を攻撃、第三次中東戦争が勃発した。

以前からチラン海峡の封鎖や部隊の展開により、「イスラエルの破壊」を声高に唱えていたアラブ側(エジプト・ヨルダン、シリアなど)にとってこの「先の先」を狙ったイスラエル軍の攻撃はまさに「奇襲」であり、開戦一日でアラブ側の航空戦力は壊滅、続く地上戦でもイスラエル軍の前にアラブ軍は敗走を重ね、イスラエルは6日間でエジプトからシナイ半島全域を、ヨルダンからヨルダン川西岸を、そしてシリアからゴラン高原を奪取して戦争は終結した。

イスラエルはこの圧倒的勝利により、アラブ側がすぐに講和に応じるものだと思っていたが、アラブ側にとって領土を喪失したままでいられるはずも無く、9月のハルツーム会議における「3つのノー」(Three No's) に代表されるようにあくまでイスラエルとの徹底抗戦を望んだ。

だが、第三次中東戦争以降イスラエル軍とアラブ軍の戦力差はイスラエル優位で隔絶しており、アラブ側にとってこれまでの中東戦争で見られたように「イスラエルの破壊」を狙って全面戦争を仕掛けるよりも、限定的なものではあるとはいえ、領土奪還と同時にイスラエル軍に打撃を与えることで「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、アラブ優位の状態でイスラエルを交渉のテーブルにつかせる方が現実的であった。

消耗戦争・ヨルダン内戦(1968年 - 1970年)

消耗戦争

詳細は「消耗戦争」を参照

1967年10月21日、北アフリカ北東沿岸において哨戒中のイスラエル海軍所属駆逐艦エイラートがエジプト海軍のオーサ型ミサイル艇からの対艦ミサイル攻撃で撃沈された(エイラート事件)。

この事件は単に史上初めて対艦ミサイルが使用された攻撃 であったのみならず、第三次中東戦争以降下がり気味であったアラブ側の士気高揚に役立った。エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル(以下ナセル)大統領は、小規模で効果的な攻撃を仕掛けることでアラブ側の士気を高め、逆にイスラエルに「戦争でも平和でもない」状態を強制することでイスラエルの疲弊と士気低下を狙ったのである。そして69年3月、ナセルは「消耗戦争」を称してイスラエルへの攻撃を本格化させ、スエズ運河では砲撃戦が行われた。これに対しイスラエルはエジプト本土への空爆、小部隊の襲撃をもって徹底的に応戦した。消耗戦争は断続的に約1年間続いたが、1970年8月6日、アメリカの仲介によって停戦した。

また同年9月28日、ヨルダン内戦(後述)の仲介工作を行った直後にナセルが急死し、ナセルの後継者にはエジプト革命時にナセルの同志でもあったアンワル・アッ=サーダート(以下サダト)副大統領が昇任することになった。だが、当時知名度がナセルよりはるかに低かったサダトは世間から「つなぎ」の大統領だとみなされていた。

ヨルダン内戦

シリア方面では、1969年2月28日の政変でハフェズ・アル=アサド国防相が実権を握ったあと、1970年11月のクーデターで全権を握った。これに前後してアサドは当時ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(以下PLO)との間で戦闘が行われていた(ヨルダン内戦)ヨルダンに介入し、陸軍をヨルダンに侵入させ、PLO支援を図った。このままではヨルダンとシリアの戦争に発展してしまうことは明らかであった。そこで、アメリカは空母部隊を地中海のイスラエル沖に派遣し、ヨルダンの行動を支持すると共に、軍事介入したシリアに対する牽制とした。イスラエルは地上部隊をゴラン高原に展開し、シリア軍に対して警戒を強めた。当初はこのヨルダンの混乱に乗じてイスラエルが軍事作戦を展開する動きもあったが、その計画は見送られた。

結局、ナセルがヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。

アラブの戦争準備・イスラエルの油断(1971年 - 1973年9月)

アラブの戦争準備

エジプト大統領に就任したサダトはナセルの外交路線を転換、親ソ連から親米路線を目指し、アメリカの仲介によってイスラエルとの交渉を進めようとしたが、当時のアメリカ国務長官ヘンリー・キッシンジャーの言葉を借りれば「勝者の分け前を要求してはならない」 すなわちアラブ側が「負けっぱなし」のままでは交渉仲介に乗り出すことはできない、というのがアメリカの対応であった。このためサダトは領土奪還だけではなく、親米路線転換のきっかけとしても対イスラエル戦争を位置づけるようになった。1972年に入るとエジプトの戦争計画の具体化が進められ、イスラエルに「弱いアラブ軍」や「ソ連との不和」 をイメージさせる情報を流す裏で、軍の改革や兵士の能力向上、ソ連からの供与兵器(AT-3対戦車ミサイルやSA-6自走対空ミサイルなど)を有効活用した戦術の研究が進められた。同様に、シリア軍も地上部隊や対空戦力の増強を進めた。

1973年夏には、来たるべき対イスラエル戦争の作戦名が「バドル作戦」(アラビア語: عملية بدر‎;Operation Badr) と定められ、開戦日にイスラエルの安息日かつ「一切の労働」 が禁じられる、ユダヤ暦で最も神聖な日「ヨム・キプール」に当たり、その他の理由からも最適な1973年10月6日が選定された。 エジプトはシリアと連携して作戦計画の作成を活発化させ、同時に石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)への戦争協力を要請した。

イスラエルの油断

イスラエルは諜報機関であるイスラエル参謀本部諜報局(以下アマン)やイスラエル諜報特務庁(以下モサド)を通してアラブ側の戦争準備の動きをほぼ完全に捕捉していたが、第三次中東戦争での圧倒的勝利によってイスラエルには、(アラブ側の工作の結果もあって)「アラブ側の戦争能力を非常に低く見積もる」風潮があったため、ほとんど注意を払うことがなかった。

ここにアマンの局長エリ・ゼイラ少将が作成した当時のイスラエルの状況認識を表した「コンセプト」(The Concept)という理論がある。すなわち、

  1. シリアがイスラエルに対して戦争を仕掛けるにはエジプトとの同時攻撃が不可欠である。
  2. エジプトが攻撃を決意するには第三次中東戦争の二の舞を避けるために空軍力の再建と、(Tu-16スカッドなど)『攻撃的兵器』の装備が必要である。
  3. エジプトが空軍再建や『攻撃的兵器』の調達を実現するのはソ連が貸与を渋っているため、1975年までかかる。
  4. したがってアラブ側は少なくとも1975年まで戦争を仕掛けてこない(その時にはイスラエルの軍事力はさらに向上している)。

1975年より前にアラブ側が戦争準備を行ったとしても、それらはすべて「本格的な戦争準備ではなく」、もし仮にアラブ側が戦争を行おうとも、「諜報機関が開戦48時間前にその情報をキャッチして動員が可能で、開戦2日目には反撃して第三次中東戦争以上の圧倒的勝利を収められる」とされた。その他にも第三次中東戦争の経験から、「遮蔽物のほとんどないシナイ半島の砂漠では対戦車砲歩兵を戦車に見つからないよう隠すことは非常に困難であり、イスラエル軍戦車部隊は歩兵・砲兵の随伴がなくとも単独で突破戦力としての任務を遂行できる」(いわゆる「オールタンク・ドクトリン」)や、「地上部隊が少兵力でも、イスラエル空軍が『空飛ぶ砲兵』として地上軍を常時援護できる」といった理論が語られた。

だが、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのであった。

1971年からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の動員令を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、とくに1973年5月の動員は6,200万イスラエルポンド(45億円) という経済損失から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。

また1972年5月30日の日本赤軍によるロッド空港乱射事件や9月5日のミュンヘンオリンピック事件などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や報復作戦に忙殺されることとなった。

開戦前夜(1973年9月13日 - 10月6日)

1973年9月13日、シリアの湾岸都市ラタキアに面するラタキア沖上においてイスラエル空軍とシリア空軍が空戦、イスラエル1機、シリア13機の航空機を喪失。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた。同時にスエズ運河正面では「タヒール(解放)23」(Tahir 23) 軍事演習と称してエジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。当初イスラエルは、ゴラン高原では空中戦の影響があり、またスエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。

9月29日、チェコスロバキアオーストリア国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せてウィーンに向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相ブルーノ・クライスキーシェーナウのユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府もゴルダ・メイア首相が直々にオーストリアまで向かうなど の対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。

10月5日、依然アマンは「戦争の可能性は低い」としていたものの、参謀総長のダビット・エラザール中将は、イスラエル軍に「Cレベル」 の警戒を発令、同時に第一線部隊の増強が図られた。しかしながら戦争に発展する確信がなく、5月の失敗(前述)からも動員令は発令されず、第一線部隊だけでアラブ軍を相手にするには不安があった。

10月6日午前4時、「ヨム・キプール」の日の朝、これまでのアラブ側の動きを「本格的な戦争の準備ではない」としてあらゆる戦争の可能性を一蹴し続けてきたアマン局長のゼイラ少将はこれまでの主張を覆して「今日の夕方18時にも戦争が勃発する」との警告を出した 。この報告を受けて、エラザールは国防相のモシェ・ダヤンに空軍の先制攻撃 の許可を求めたが、アメリカをはじめとする諸外国から第三次中東戦争同様イスラエルは好戦的な国家であると見なされないために、これは却下された。また20万名の総動員も同様の理由から却下された。結局午前10時に15万人の動員令が発令され、第一線部隊も戦闘準備を行った。だがゼイラの予測より早い14時、エジプト・シリア両軍のイスラエルへの攻撃が開始された。

イスラエルは第三次中東戦争でアラブ側がそうであったように、(皮肉にもそのアラブ側から)「奇襲」を受けることとなった。

戦争の推移

以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。

アラブの二正面作戦(1973年10月6日 - 10月10日)

ゴラン高原方面

「涙の谷」手前の対戦車壕で撃破・遺棄されたシリア軍のT-55、T-62戦車とBTR-152装甲兵員輸送車。
ナファク基地手前で(停戦ライン上の「拠点116」とする文献も存在する)撃破されたシリア軍のT-55戦車。
詳細は「ゴラン高原の戦い」、「ナファク基地攻防戦」、「涙の谷」、および「第一次ヘルモン山攻防戦」を参照

ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃の後、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。 対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団(第36機甲師団)、戦車数にしてシリア軍1,220輌対イスラエル軍177輌 である。

ゴラン高原北側へのシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の第7機甲旅団は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車や車輌を次々と撃破したのちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の共和国親衛旅団の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260と他車輌500 を失う。

これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の第188機甲旅団(戦車定数72輌)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上でシリア軍戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65km だが、うち40kmを第188機甲旅団が担当した)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌 にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した 第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。

6日夜、これらのシリア軍とイスラエル本土の間にイスラエル軍の部隊が皆無なことに気付いたイスラエル軍は、動員を完了した予備役部隊を中隊ごと、時には小隊ごとに逐次ゴラン高原に投入しなければならなかった。こうした部隊を率いた戦車兵の一人、ツビ(ツビカ)・グリンゴールド中尉が指揮した小隊規模の戦車隊「ツビカ隊」は夜間にゴラン高原を南北に走るTAPライン上に展開、ゴラン高原中部に位置する第36機甲師団の指揮所があったナファク基地に向かおうとする第5歩兵師団の戦車を一晩中延滞させることに成功した。

だが7日正午にはシリア軍第1戦車師団のT-55戦車がナファク基地に突入、第36機甲師団長ラファエル・エイタン少将や師団参謀も武器を取るほどの混戦となったが、「ツビカ隊」をはじめ各戦車隊がこれを撃退。

この頃になると、イスラエル軍の予備役部隊である2個機甲師団(第210第146予備役機甲師団)がゴラン高原展開を完了。8日からこれら2個師団によりゴラン高原南部で反撃に出たイスラエル軍は、10日までにシリア軍をゴラン高原から追い出した。

これに前後して10月6日、シリア軍第82空挺大隊がヘルモン山頂のイスラエル軍監視哨を占領。イスラエルにとって「国家の目」であるヘルモン山をシリア軍が砲兵観測所として利用されるのを恐れたイスラエル軍は8日、ゴラニ歩兵旅団による奪回作戦を試みたが、失敗した。

シナイ半島方面

シナイ半島方面(南部戦線)の戦況。
左:1973年10月6日 - 13日、右:同14 - 15日
赤:エジプト軍、青:イスラエル軍

シナイ半島方面ではエジプト軍の5個歩兵師団がスエズ運河を渡河、橋頭保を築くと同時に運河沿いに作られたイスラエル軍の拠点群、通称「バーレブ・ライン」に対して攻撃をかけた。 イスラエル軍はすぐさま第252機甲師団(3個旅団基幹、以下第252師団)と空軍機が反撃を行ったものの、第252師団の3個機甲旅団はすべてエジプト軍の構築した対戦車兵器による防衛網によって 次々と壊滅させられた。空軍機も同様に、低空用・高空用対空火器を巧妙に組み合わせたエジプト軍の「ミサイルの傘」の前にほとんど有効な航空攻撃を行えなかった。

ゴラン高原同様7日から8日にかけてイスラエル軍予備役部隊の第162予備役機甲

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出典:wikipedia
2019/12/06 23:13

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