このキーワード
友達に教える
URLをコピー

美空ひばりとは?

移動先: 案内検索
 | 

この記事には複数の問題があります改善ノートページでの議論にご協力ください。

  • 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2013年8月)
  • 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2013年8月)
  • 大言壮語的な記述になっています。(2013年8月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2013年8月)
  • 言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2013年8月)

美空 ひばり

美空ひばり(1955年)

【基本情報】

【出生名】
加藤 和枝(かとう かずえ)
【生誕】
1937年5月29日
【出身地】
日本 神奈川県横浜市磯子区滝頭
【死没】
(1989-06-24) 1989年6月24日(52歳没)
【学歴】
精華学園高等部卒業
【ジャンル】
歌謡曲演歌ジャズ
【職業】
歌手女優
【担当楽器】

【活動期間】
1949年 - 1989年
【レーベル】
日本コロムビア
【事務所】
ひばりプロダクション
【公式サイト】
http://www.misorahibari.com/ 美空ひばり公式ウェブサイト

美空 ひばり(みそら ひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、日本歌手女優神奈川県横浜市磯子区滝頭出身。横浜市立滝頭小学校、精華学園高等部卒業

12歳でデビューして「天才少女歌手」と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで活躍し自他共に「歌謡界の女王」と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手の1人であり、女性として史上初の国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤 和枝(かとう かずえ)。愛称は御嬢(おじょう)。身長147cm。

目次

  • 1 略歴
    • 1.1 幼少期
    • 1.2 デビュー
    • 1.3 師・川田晴久との出会い
    • 1.4 全国的人気を獲得
    • 1.5 三人娘の時代
    • 1.6 小林旭との短い結婚・離婚後
    • 1.7 母・喜美枝との二人三脚時代
    • 1.8 兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死
    • 1.9 晩年・病魔との闘い
    • 1.10 伝説のステージ「不死鳥コンサート」東京ドーム・復帰公演
    • 1.11 生涯最後のシングル「川の流れのように」
    • 1.12 昭和から平成へ・再入院
    • 1.13 死去
    • 1.14 死後
    • 1.15 評価
  • 2 エピソード
  • 3 ひばりの作詞
    • 3.1 生前に書き残し没後リリースされた詩
  • 4 息子・和也
  • 5 主な代表的作品
    • 5.1 ひばり代表曲・シングル売上
    • 5.2 主な出演映画
    • 5.3 シングル
  • 6 ドキュメンタリー
  • 7 NHK紅白歌合戦出場歴
    • 7.1 紅白歌合戦でひばりの持ち歌が歌唱された例
  • 8 テレビ番組
  • 9 ひばりを描いたドラマ・舞台
  • 10 受賞
  • 11 その他
  • 12 脚注
    • 12.1 注釈
    • 12.2 出典
  • 13 参考文献
  • 14 関連項目
  • 15 外部リンク

略歴

幼少期

神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。増吉は栃木県河内郡豊岡村(現:日光市)、喜美枝は東京山谷の出身。妹は佐藤勢津子、弟はかとう哲也香山武彦。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受け、ひばりは歌謡曲や流行歌を歌うことの楽しさを知ることとなった。

1943年6月、第二次世界大戦に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を歌った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの歌による慰問活動を始めるようになった。

デビュー

デビュー当時の美空ひばり

戦敗間もない1945年、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。

1946年、NHK『素人のど自慢』に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にすることはできないと告げた。横浜市磯子区の杉田劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、ひばり母子は審査員の古賀政男のもとに駆けつけて「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールを送った。

1947年、横浜の杉田劇場漫談井口静波俗曲音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、1947年4月28日、高知県長岡郡大杉村(現長岡郡大豊町)の国道32号でひばり母子が乗っていたバスが前方からのトラックを避けようとした際に崖に転落。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。ひばりは左手首を切り、鼻血を流し気絶し、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」と怒鳴ったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。

師・川田晴久との出会い

1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。川田に大きな影響を受けたひばりは、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。

川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた反面、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人作詞家サトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。

同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。

なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される。

全国的人気を獲得

1953年のひばり

1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画のど自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たした。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の史上最高記録)国民的認知度を得た。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。

1950年、川田晴久とともに第100歩兵大隊二世部隊戰敗記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに2人の主演で『東京キッド』に出演。映画とともに同名の主題歌も前作同様の大ヒットとなった。

1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とした。

1952年映画『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が当時の史上最高記録となる70万枚を売り上げる大ヒットとなった。

1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶようになった。初代中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之介とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂(のち東映社長)に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた。

三人娘の時代

1954年、『ひばりのマドロスさん』で第5回NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。

1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズ小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。

1957年1月13日、浅草国際劇場にて、ショーを観に来ていた少女から塩酸を顔にかけられ浅草寺病院に緊急搬送されて入院した。その後、歌舞伎座公演に復帰(奇跡的に顔に傷は残らなかった)。塩酸をかけた少女はひばりの熱烈なファンだったという。現場に居合わせたブロマイド業者らによって犯人の少女は取り押さえられ警察に突き出された。また、紅白の裏番組として放送されていたラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)の『オールスター大行進』に出演していたため出場していなかった紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、出場2回目にして渡辺はま子二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリ(大トリ)を務めあげ、当時のひばりは既に芸能界における黄金期を迎えていた。

1958年4月1日、山口組三代目田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となり、同年6月にはひばりプロダクションを設立して副社長に田岡一雄が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。1960年から始まった『べらんめえ芸者』シリーズでは二作目以降、岡田茂に頼まれ、高倉健を相手役として迎えた。東映と専属契約を結んだ1958年から1963年の間、多くの時代劇、チャンバラ映画に主演し、東映時代劇の黄金期を支え、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。岡田茂は「美空ひばりは東映の女優の中で、会社にとって最も重要な役割を果たした」と述べている。今日、映画女優としての側面に必ずしも多くの光が当たっているとはいい難いが、生涯で150本を超える映画に出演し、そのほとんどが主演という、戦後を代表する映画女優であった。

1960年、『哀愁波止場』で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。

小林旭との短い結婚・離婚後

1962年、小林旭と結婚。出会いは雑誌が企画した対談の場だった。交際を始めるが、小林は結婚をまだ考えていなかったにも関わらず、ひばりが入れあげ、父親代わりでもあった田岡一雄に、自分の意志を小林へ伝えるよう頼んだ。ひばりの意を汲んだ田岡は小林に結婚を強引に迫ってきたので、小林は断れず1962年(昭和37年)に結婚した。喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。 小林は「結婚生活でのひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林は入籍を希望していたが、ひばりの母に不動産処分の問題があるからと断られ続け、入籍しておらず、戸籍上ではひばりは生涯独身であった。ひばりは一時的に仕事をセーブするようになるが、実母にしてマネージャーである喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならなかった。また、ひばり自身も歌に対する未練を残したままだったため、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍にいてほしい願いも叶わなかった。また結婚した翌1963年には、増吉が肺結核により52歳で亡くなっている。

別居後の1964年、わずか2年あまりで小林と離婚。ひばり親子に頼まれた田岡から会見2日前に、「おまえと一緒にいることが、ひばりにとって解放されていないことになるんだから、別れてやれや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと小林は自著で述べている。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった。「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と離婚は小林の本意でなかったとも語っている。

その1時間半後にひばりも田岡に同席してもらい、記者会見を行った。ひばりは田岡に口添えされながら、「理由をお話したいのですが、それを言ってはお互いに傷つける」「自分が幸せになる道を選んだ」と答えた。また「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」とも語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。

離婚直後に発表した『』は東京オリンピックともあいまって翌1965年にかけて大ヒット。180万枚というひばりとしては全シングルの中で最大のヒット曲となった。この曲で1965年、第7回日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』が145万枚を売り上げ、1967年には『芸道一代』、ポップス調の楽曲でグループ・サウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演やミニスカートの衣装が大きな話題となり、140万枚を売り上げた『真赤な太陽』と、ひばりの代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。

母・喜美枝との二人三脚時代

1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。

1970年8月日系ブラジル人の求めに応じてサンパウロブラジル公演。

1970年、第21回NHK紅白歌合戦で紅組司会・大トリを担当。紅白史上初の組司会とトリの兼任である(組司会と大トリの兼任は女性に限れば唯一)。この時の歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の「人生将棋」。歌手兼司会の前例はあったが、組司会がトリを務めるということはまだなかったため、ひばりが紅組司会に決まった時点で、紅組トリは青江三奈(当時女性歌手のヒットNo.1)との構想が固まっていた。ところがひばりは司会発表会見で「お話を頂いた時は司会だけで歌手としては出場できないのでは…と思いました。来年は歌手生活25周年にもあたります。やはり歌手としてはトリを歌いたい」と発言、結局ひばりの紅組司会兼大トリが半ば強引に決定した。

この時期も田岡一雄は父親代わりの存在としてひばりを庇護し、ひばりは1981年の田岡の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになった。

兄弟とひばりのトラブル・相次ぐ肉親の死

1973年、実弟が起こした不祥事により、ひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂や市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、バッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組トリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現:テレビ朝日)の取り計らいで、同局『美空ひばりショー』に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。

1970年代~1980年代前半のひばりは大きなヒット曲には恵まれなかったものの、この時代に入ると幅広いジャンルの楽曲を自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。岡林信康(「月の夜汽車」〈1975年〉)、来生たかお(「笑ってよムーンライト」〈1983年〉)、イルカ(「夢ひとり」〈1985年〉)、小椋佳(「愛燦燦」〈1986年〉)など、時代の話題のアーティスト / クリエイターなどとのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年には誰もが唄える歌として発表した『おまえに惚れた』は、この地道な活動が功を奏す形で久々のヒット曲となった。又1982年には、『裏町酒場』もロング・ヒットを記録する。

しかし1980年代に入り、1981年には実母が転移性脳腫瘍により68歳で死去。また、父親の代わりを担っていた田岡も相次いで亡くなった。1982年に「三人娘」以来の良きライバルで有り、大の親友だった江利チエミが45歳で急死した。1984年は「銭形平次」を18年間主役を演じ、同番組の最終回にひばりが特別出演するなど親交のあった大川橋蔵も55歳で死去した。さらには、ひばりの2人の実弟哲也(1983年)と香山武彦(1986年)まで、共に42歳の若さで次々と肉親を亡くすという悲運が続く。ひばりは加藤和也を1977年に養子として迎えていたが、悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいたタバコの量は日に日に増し、徐々にひばりの体を蝕んでいった。

晩年・病魔との闘い

1985年5月、ひばりの誕生日記念ゴルフコンペでプレー中に腰をひねり、両足内側にひきつるような痛みが走ったという。その頃からひばりは原因不明の腰痛を訴えるが、徐々に腰の痛みが悪化していく中でも、ひばりはそれを微塵も感じさせない熱唱を見せていた。だが2年後の1987年(昭和62年)、全国ツアー四国公演の巡業中、ひばりの足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥った。

同年4月22日、公演先の福岡市で極度の体調不良を訴え、福岡県済生会福岡総合病院に緊急入院。重度の慢性肝炎および両側特発性大腿骨頭壊死症診断され、約3か月半にわたり同病院にて療養に専念となった(入院当時実際の病名は「肝硬変」であったが、マスコミには一切発表しなかった。ひばりの病状は深刻だったが隠し通して、公表する病名の程度を低くした)。またそれに伴い同年5月に予定された、明治座の公演中止を発表。入院して約1か月後の同年5月29日、ひばりは丁度50歳の誕生日を迎えていた。その闘病の最中にひばりは、マスコミ陣及び大勢のひばりファン達に対して「今はただ先生達のご指示をしっかり守り、優等生患者として毎日を過ごしています」「あわてない慌てない、ひとやすみ一休み」等と吹き込まれた、肉声入りのカセットテープを披露する。

入院中の1987年6月16日に鶴田浩二(享年62)、7月17日には石原裕次郎(享年52)と、ひばり自身とも親交が深かった昭和の大スターが相次いで亡くなる中、ひばりは入院から3か月経過後の同年8月3日に無事退院を果たし、病院の外で待っていた沢山のひばりファン達に笑いながら投げキッスを見せた。退院後の記者会見では「『もう一度歌いたい』という信念が、私の中にいつも消えないでおりました。ひばりは生きております」と感極まって涙を見せる場面もあったが、最後は「お酒は止めますが、歌は辞めません」と笑顔で締めくくった。退院後の約2か月間は自宅療養に努め、同年10月9日に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディング(シングルレコード発売は12月10日)より芸能活動の復活を果たす。

しかし、病気は決して完治した訳ではなかった。肝機能の数値は通常の6割程度しか回復しておらず、大腿骨頭壊死の治癒も難しいとされた。ある日、里見浩太朗が退院後のひばりを訪ねた際、階段の手すりに掴まりながら一歩一歩下りてきたと後に語った。それが里見自身ひばりとの最後の対面だったという。

伝説のステージ「不死鳥コンサート」東京ドーム・復帰公演

1988年(昭和63年)初頭はハワイで静養、2月中には帰国。同年4月に開催予定の東京ドーム復帰公演に向けて、下見や衣装、当日の演出など準備段階は止められない処まで来ていたが、足腰の痛みは殆ど回復する事はなく、体調が思わしくないまま公演本番の日を迎える。

1988年4月11日、東京ドームのこけら落しとなるコンサート「不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を実施(実際にはそれ以前にミック・ジャガーBOØWYがコンサートを同場所で既に行っていた)。この復活コンサートのようすは、現在もテレビ番組でしばしば映像が使われ、後にビデオ・DVD化もされている。なお「不死鳥」をイメージした金色の衣装など、舞台衣装は森英恵がデザインしたものである。

この東京ドーム公演の会場客席には、中村メイコ浅丘ルリ子森光子島倉千代子岸本加世子など、懇意の芸能人達も駆けつけていた。ひばりはフィナーレの「人生一路」を歌い終えると、思い通りに歌えなかったのかマイクをスタンドに戻す際に一瞬首を傾げていた(彼女の日記にも、自身が満足のいく出来にできなかったことへの苦悩とこの調子であと何年もつのかという不安が書かれている)。この頃のひばりは既に、体調の悪化で前年の退院会見の頃と比べると痩せて、脚の激痛に耐えながら合計39曲を熱唱した。常人であれば歌うことはもちろん、立つことすら難しい病状の中でステージに立った。

公演当日は会場に一番近い部屋を楽屋とし、簡易ベッドと共に医師も控えていた。また、万一の事態に備えて裏手に救急車も控えていた。公演の際に楽屋を訪れた浅丘は、まるで病室のような楽屋とひばりの様子に衝撃を受けたと語る。楽屋でひばりはベッドに横たわっており、浅丘が心配そうに「大丈夫?」と問いかけると、ひばりは「大丈夫じゃないけど頑張るわ」と笑顔で答えたという。ドーム公演のエンディングで、約100mもの花道をゆっくりと歩いたひばりの顔は、まるで苦痛で歪んでいるかのようであった。とても歩ける状態ではないにも拘らず、沢山のひばりファンに手を振り続けながら全快をアピール。そのゴール地点には和也が控え、ひばりは倒れこむように和也の元へ辿り着き、そのまま救急車に乗せられて東京ドームを後にしたという。当時マスコミ各社はひばりの「完全復活」を報道したが、ひばり自身にとっては命を削って臨んだ、伝説のステージとなった。

東京ドーム公演を境に、ひばりの体調は次第に悪化し、段差を1人で上ることさえ困難になり、リフトを使い舞台上にあがる程の状態だった。ドーム公演後全国13カ所での公演が決まっており、翌1989年2月7日小倉公演までの10か月間、全国公演を含めテレビ番組収録など精力的に仕事を行った。1988年6月7日には極秘で一時入院したが、すぐ仕事を再開。同年7月29日に「広島平和音楽祭」(「一本の鉛筆」を歌唱)に加え、8月21日には「佐久音楽祭」に出演した。ひばりにしては珍しく「佐久音楽祭」では屋外ステージで歌った。映像は残され、現在の特番でも放映されている。

生涯最後のシングル「川の流れのように」

1988年10月28日には、前日神津はづきからの友達紹介で、森田一義アワー 笑っていいとも!テレフォンショッキングコーナーに最初で最後の出演を果たした(ひばりからのお友達紹介は岸本加世子)。またその頃、秋元康の企画による『不死鳥パートII』との題名で、生前最後となるオリジナルアルバムのレコーディングも行い、秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。そのアルバムの中には、生涯最後のシングル曲となった『川の流れのように』もレコーディングされている。なお、ひばりのスタッフ陣は当初『ハハハ』をシングル化する予定だったものの、ひばりが自ら「お願いだから、今回だけは私の我が儘を聞き入れて!」と、スタッフに対して『川の流れのように』のシングル化を強く迫りながら懇願し、結果としてひばりの希望通りの形となった。

そのきっかけとなったのが、同年10月11日にオリジナルアルバム制作の報告も兼ね、日本コロムビア本社内で行われたひばり生涯最後の記者会見の時であった。この記者会見前にひばりは、アルバム内の1曲『ハハハ』を秋元康が立ち合いの下、公開初披露された後で会見が組まれた。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されている10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー…もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」との全てを覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、制作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったエピソードが残されている。

同年12月中旬、翌1989年(昭和64年)1月4日にTBSテレビで放送の、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子、森繁久彌尾崎将司が出演。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。ひばりは演出スタッフに向かって「この番組が最後になるのよ、これ」と話していたという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味の最後かは定かではないが…」と話している。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。この頃既に間質性肺炎の症状が出始めていたとされており、立っているだけで限界だったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁久彌からの激励の録音メッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。

1988年12月25日、26日と帝国ホテルにて、生涯最後のクリスマスディナーショーが行われ、石井ふく子王貞治らひばりの友人も足を運んだ。無理を押しての歌中、激しいツイストで観衆を沸かせていた。ディナーショー終了後、石井と王らが会食していた神楽坂の料亭に連絡なしにいきなり現れたひばりが、浪曲「唄入り観音経」を歌唱。石井は2010年6月にTBS系で放映された特番で「全身が総毛立ったの。素晴らしかったですよ。なんで録っておかなかったんだろうと今でも悔いています」と語った。

昭和から平成へ・再入院

そして年が明け、1989年1月7日に昭和天皇が崩御。その翌日の同年1月8日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、ひばりは「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」という短歌を詠んだ。その3日後の1989年(平成元年)1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売される。しかしこの時のひばりの肺は、既に病に侵されていた。

1989年1月15日、演歌の花道ミュージックフェアへそれぞれVTRで出演、各番組の最後で『川の流れのように』など数曲を歌ったが、「ミュージックフェア」が放送時間上ひばりにとって、結果的に生前最後のテレビ出演となった。同番組の1989年第1回目の放送は『美空ひばり特集』で、元々は同年1月8日放送予定だったが、昭和天皇の崩御にともない特別編成が組まれ、1週間先送りとなった。この頃のひばりはドーム公演時から見てもさらに痩せ、明らかに体調は悪化していた。なお、1月中のひばりは熱海への家族旅行や両国国技館大相撲見物の他、自宅での静養が多かったとされる。体調が一時期平行線であっても、好転することはなかった。

1989年2月、ひばりにその運命の時が訪れる。コンサートの数日前、早めに現地入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。それでもこの年の全国ツアー「歌は我が命」でスタートさせた初日、2月6日福岡サンパレス公演で、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態となる。公演中の足のふらつきなど、舞台袖から見ても明らかであったが、ひばりは周囲の猛反対を押し切り、翌日の小倉公演までの約束でコンサートを強行した。

翌日の1989年2月7日、九州厚生年金会館での公演が、ひばりの生涯最後のステージとなった。同日、ひばりは車や新幹線での移動に耐えられない程衰えていたため、急遽ヘリコプターを使用しての往復移動となり、会場の楽屋入り後すぐひばりは横になった。酸素吸入器と共に医師が控え、肝硬変の悪化からくる食道静脈瘤も抱え、いつ倒れて吐血してもおかしくない状態だったという。当時同行した和也は後に「おふくろはもう気力だけで立っていたんだと思います…お医者さんには、間髪入れずに『倒れて出血したらもう終わりです。喉を切開して血を抜かないと、窒息をしちゃいますよ。いつ倒れてもおかしくないからですからね』と言われてたんで、袖で陣取っていたんですけど、ここの時ほど心細い時はなかった。本当…死んだ親父やばあちゃんがいたらな…って思いましたよ」と語っている。開演時間になるとひばりは起き上がり、ステージへ向かう。廊下からステージに入る間の、わずか数センチの段差も1人では乗り越えられなかった。またコンサート中大半がいすに座りながらでの歌唱であった。あまりの体調の悪さに元々予定されていた楽曲を一部カットしていた(村田英雄無法松の一生など)。息苦しさをMCでごま

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/01/17 17:43

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「美空ひばり」の意味を投稿しよう
「美空ひばり」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

美空ひばりスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「美空ひばり」のスレッドを作成する
美空ひばりの」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
無料コミックを探す
占い・診断
着メロを探す
GAMEを探す
デコメを探す
きせかえツールを探す
FLASH待ち受けを探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail