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羽田孜とは?

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日本政治家
羽田 孜
はた つとむ

内閣官房内閣広報室より
公表された肖像写真

【生年月日】
1935年8月24日
【出生地】
日本 東京府東京市蒲田区
(現、東京都大田区蒲田)
【没年月日】
(2017-08-28) 2017年8月28日(82歳没)
【死没地】
日本 東京都
【出身校】
成城大学経済学部
【前職】
小田急バス社員
【所属政党】
(自由民主党→)
(新生党→)
(新進党→)
(太陽党→)
(民政党→)
(民主党→)
民進党
【称号】
従二位
桐花大綬章
【配偶者】
羽田綏子
【子女】
羽田雄一郎(長男)
羽田次郎(次男)
【親族】
羽田貞義(祖父)
羽田武嗣郎(父)
羽田健一郎(従兄弟の息子)
第80代 内閣総理大臣

【内閣】
羽田内閣
【在任期間】
1994年4月28日 - 1994年6月30日
天皇
上皇(平成の天皇)
副総理
第121代 外務大臣

【内閣】
細川内閣
【在任期間】
1993年8月9日 - 1994年4月28日
第96代 大蔵大臣

【内閣】
宮澤内閣
【在任期間】
1991年11月5日 - 1992年12月12日
第12代 農林水産大臣

【内閣】
竹下改造内閣
【在任期間】
1988年12月27日 - 1989年6月3日
第9代 農林水産大臣

【内閣】
第2次中曽根第2次改造内閣
【在任期間】
1985年12月28日 - 1986年7月22日
その他の職歴

衆議院議員
(1969年12月28日 - 2012年11月16日)

羽田 孜(はた つとむ、1935年(昭和10年)8月24日 - 2017年(平成29年)8月28日)は、日本政治家

衆議院議員(14期)、内閣総理大臣(第80代)、農林水産大臣(第9代、第12代)、大蔵大臣(第88代)、外務大臣(第121代)、新生党党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。2012年(平成24年)に政界引退し、晩年は民進党長野県連名誉顧問を務めていた。

目次

  • 1 来歴・人物
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 政界入り
    • 1.3 田中派から竹下派へ
    • 1.4 政治改革
    • 1.5 自民党離党、細川連立内閣
    • 1.6 改新騒動
    • 1.7 羽田内閣
    • 1.8 新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ
    • 1.9 政界引退
  • 2 エピソード
  • 3 家族
  • 4 系譜
  • 5 略歴
  • 6 脚注
  • 7 関連項目

来歴・人物

生い立ち

東京府東京市蒲田区(現、東京都大田区蒲田)にて羽田武嗣郎、とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。

1942年(昭和17年)に第二延山小学校に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年(昭和19年)3月に父の郷里である長野県に疎開する。1946年(昭和21年)に、父武嗣郎が公職追放となる。1951年(昭和26年)に、上田第二中学校に入学する。この頃から議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが不合格となり、東京の成城学園高等学校に入学。1954年(昭和29年)に成城大学経済学部に進学する。大学3年生の時に、ハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまったことがある。

1958年(昭和33年)に、成城大学を卒業する。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞社日本経済新聞社などを受験したが失敗。父のコネで、小田急バスの試験を受け入社した。小田急バスでは、吉祥寺営業所を経て観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である野田宇太郎の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や幼稚園の遠足や学校修学旅行、更には皇族の旅行を企画し、時には車掌も務めた。1965年(昭和40年)に綏子夫人と結婚する。羽田は父親の後継者となって政界入りする気持ちはなかったが、1963年(昭和38年)に武嗣郎が脳出血で倒れたため、後援会から政界入りを打診され、1968年(昭和43年)10月に小田急バスを退職する。

政界入り

1969年(昭和44年)12月、第32回衆議院議員総選挙旧長野2区から自民党公認で立候補し、7万3325票を獲得しトップ当選を果たした。自民党の派閥佐藤栄作田中角栄派に所属した。羽田は、郵政政務次官を経て農林政務次官となり、農林族としてそのキャリアを歩むこととなる。衆議院農林水産委員長、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年米価を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内産業としての農業の位置づけや、国際経済における農業貿易問題を思考するもので、加藤紘一などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。1984年(昭和59年)には、自民党を代表し牛肉オレンジをめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌年の1985年(昭和60年)12月に、牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、第2次中曽根再改造内閣農林水産大臣として初入閣する。ちなみにこの時自治大臣として小沢一郎も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきたコメの自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし1986年(昭和61年)の衆参同日選挙後、成立した第3次中曽根内閣で農水相は羽田から安倍派加藤六月に交代し、農協の反対にもあい米価は据え置かれることとなった(農水相在任中、当時農水官僚だった荒井聰に対し、初当選同期で党派・野党を超えて個人的な親交があった横路孝弘道知事時代の北海道庁への出向を命じている)。しかし、農水相を降りた羽田は、翌年の1987年(昭和62年)に、生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという政府・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。

田中派から竹下派へ

羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。1985年(昭和60年)2月、竹下登による田中派の派中派・創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。1987年(昭和62年)11月、中曽根康弘の後継指名を受けた竹下登自民党総裁に就任し、竹下内閣が成立する。1988年(昭和63年)12月27日竹下改造内閣では再び農水大臣に就任する。しかしリクルート事件消費税導入による世論の逆風を受け、竹下内閣は1989年(平成元年)に退陣した。

政治改革

第1次海部内閣が成立すると、羽田は自民党幹事長となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。自民党内に設置された政治改革推進本部の本部長となった伊東正義、本部長代理の後藤田正晴とともに政治改革推進派の中核となる。羽田は、政治と金の問題と、国際政治に日本が対応するために政治改革を必要と考え、選挙制度改革を中心にした政治改革を主張し、金丸から「熱病にうかされている」とまで言われる。また、党内議論の中で後に自民党幹事長となる石破茂などの改革派若手とひざ詰めで議論し、若手の信頼を得た。羽田は小選挙区比例代表並立制の導入を主張するが、加藤紘一山崎拓小泉純一郎(いわゆる「YKK」)らは、竹下派支配に反対し海部内閣倒閣を目論み、選挙制度改革を中心とする政治改革に反対して、1991年(平成3年)9月に政治改革関連法案は廃案となった。政治改革が頓挫する中で若手議員は敗北感を覚えるが、羽田はそんな中にあって若手を叱咤し、政治改革は伏流として残ることになる。

1989年半ば、国会改革委員長に就任していた羽田は訪米した際、C-SPANを知ることになる。これは、議会のやり取り、ニュースキャスターの討論会など、政治を専門に24時間放送する衛星放送の番組である。ありのままの国会を国民に見せることで、国民の関心が高まり、国会運営の活性化になると考えた羽田は、こうした仕組みの日本への導入を訴えた。

自民党離党、細川連立内閣

1991年(平成3年)11月に成立した宮澤内閣大蔵大臣に就任し、入閣。1992年(平成4年)、金丸の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である小渕恵三の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から中立の立場を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わしめる。羽田は、小沢、当選同期の奥田敬和渡部恒三らとともに改革フォーラム21(羽田派)を結成し、代表に就任。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗印に集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、1993年(平成5年)4月に病気辞任した渡辺美智雄の後任として、外相就任を宮澤に打診された。これは羽田を閣内に封じ込めるために後藤田正晴副総理が考えた天元の一石であった。しかし、羽田は野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。同年6月、宮澤首相が政治改革関連法案の成立を断念したため、羽田派は野党から提出された内閣不信任決議案に賛成した。羽田は6月23日、自民党を小沢一郎らとともに集団離党。新生党を結成し、党首に就任した。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。これに先立つ、6月24日に既に、新生党、社会党公明党民社党社会民主連合の5党首が非自民・非共産連立政権を目指すことに合意し、羽田は連立政権の首班候補として最有力視されていたが、日本新党代表の細川護煕を連立政権首班とすることに合意する。羽田は細川内閣に、副総理外務大臣として入閣した。

改新騒動

細川政権は政治改革、コメの部分的自由化を実現し、新生党は連立与党の中核としてこれを支えたが、細川首相は金銭スキャンダルなどを理由に1994年(平成6年)4月8日の電撃的に辞意を表明。後継首相について小沢は、自民党の渡辺美智雄に「渡辺さんの派閥(渡辺派)から多数の同調者を引き連れて合流すれば首相に擁立する」と持ちかけ、渡辺も一時は離党を表明するが同調者が少数にとどまり撤回。結局、連立与党は後継首相に羽田を推すことで合意し、4月25日国会で羽田が首相に指名された。ところがその直後、連立与党のうち新生党、日本新党、民社党などが衆議院で統一会派「改新」を結成すると発表。改新は総勢130議席で、与党第1党であった社会党の74議席を大きく上回るもので、社会党の連立与党内での地位低下を図った動きであった。首相指名後の統一会派発表という事態に社会党の委員長村山富市は猛反発し、与党党首会談を途中退席、連立離脱からの離脱を発表し、村山は「何の相談もなく連立の枠組みを大きく変えたことに、数で政治をろう断する意志がありありだ。連立政権の性格からして許されない」と激しく批判、袂を分ちあった。羽田は懸命に社会党の連立復帰を試みたが功を奏せず、4月28日羽田内閣は少数与党内閣として発足した。元来、小沢は羽田が細川の後継首相となることには、平成6年度予算成立後の政局を見据え反対ないし消極的であり、渡辺美智雄との提携を企図していたこともあって、羽田と小沢の関係にひびが入り始める。ただ小沢が、細川の後継首相に羽田を擁立するのを躊躇したのは、乱世ゆえに「平時の羽田」のキャリアが傷つくのを避けるためだったという見方もある。

羽田内閣

内閣総理大臣に就任した頃の肖像写真
詳細は「羽田内閣」を参照

羽田は「改革と協調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を挙げた。同内閣は新生党から8人、公明党から6人が入閣し一・一ライン(小沢、公明党の市川雄一)主導内閣と言われた。

細川内閣でのコメ市場の部分開放、政治改革関連法そして国民福祉税構想、内閣改造と続いた中で改新騒ぎがおこり、社会党はもはや行動できないと判断し、さきがけも同一行動を取り、一・一ライン、細川内閣から続いた武村・村山とのぶつかりでもあった。

永野茂門法相が「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言すると直後に更迭した。在任中に公共料金値上げの年内凍結や、首相官邸直通のFAX設置などを打ち出していった。1994年(平成6年)5月12日衆議院本会議での「1969年の日米首脳間で交わされた有事における沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという密約の真相」に関する村山富市の質問や同年5月16日の参議院本会議で「沖縄への核再持ち込み密約について調査すべき」とする市川正一の質問に対し、首相として沖縄核再持ち込み密約を否定し、調査の必要は無いと答弁をした。

予算案は成立したが、少数与党状態の解消を狙って行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の中選挙区制による総選挙実施を招くということで、結局6月25日内閣総辞職を選択し、羽田内閣の在任期間はわずか64日だった。前日6月24日の夜に羽田と小沢が官邸の首相執務室に10時間こもり、官房副長官石原信雄は「羽田さんは解散する気持ちだったと思います。私ども事務方としては、国会解散あるべしという前提で準備していたんです。しかし、小沢さんが来て、羽田さんとずいぶん長い間話をされて帰った後、総辞職することになったんです。」と回顧している。

この頃、通産官僚齋藤健媒酌人を務めた。また当時新生党の新人代議士で、新生党から民主党まで行動を共にした上田清司埼玉県知事就任後、斎藤を埼玉県副知事に起用した。

新進党、太陽党、民政党を経て、民主党へ

6月30日自社さ連立政権村山内閣が発足し、野党に転落した。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に新進党が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、小沢らの打診で副党首となった。

1995年(平成7年)12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突した。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていった。1996年(平成8年)の、第41回衆議院議員総選挙で自身は新設の長野3区で小選挙区一本で出馬し重複立候補している新党さきがけ党首で社民党・自民党推薦する井出正一に圧勝も新進党自体が敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し太陽党を結成、党首となった。

1997年(平成9年)12月に新進党が分党すると、1998年(平成10年)1月8日 に、 民主党新党友愛太陽党国民の声フロム・ファイブ民主改革連合院内会派民主友愛太陽国民連合」(民友連)結成。同年1月28日、太陽党、国民の声、フロムファイブが統合して民政党を結成し、代表となった。さらに4月27日には民主党、民政党、新党友愛、民改連が統合し、新・民主党が結成され、初代幹事長に就任。首相経験者の政党幹事長就任は前例がなく「羽田は首相再登板の目を覗っている」との見方もあったが、その後は事実上の名誉職である特別代表、最高顧問を歴任した。

2004年(平成16年)5月、国民年金への加入が義務付けられた1986年(昭和61年)4月から首相在任期間を含む1995年(平成7年)7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任した。

2009年(平成21年)8月、脳梗塞後遺症等の体調不安が囁かれる中、8月30日に行われる衆院選への立候補を最後に政界を引退する考えを表明した。衆院選について、「大きく考えれば、最後の選挙になるだろうというのが常識的なところだ」「後継者は党や後援会と相談して決めたい」と述べ、また長男の羽田雄一郎について周辺に「世襲は認めない」と伝え、後継として擁立しない考えを示した。

2009年(平成21年)9月16日に、民主党政権が発足し長年の宿願であった政権交代が実現された。この日国会で行われた首班指名投票では体調不良により投票箱のある演壇に自力で上り下りすることができなかったため、小沢一郎に片腕を支えられながら投票を行った(以降も投票の際、他の民主党衆議院議員が介添えをしながら行なっていた)。かつて政権交代を目指して自民党を離党した時の盟友同士でありながらその後の政局の流れで訣別した羽田と小沢のツーショットが計らずも政権交代当日に再現された。民主党代表選挙でも投票の際、登壇するのに介添えを必要としていた。

小沢との関係はかなり回復し、陸山会の土地取引に絡む政治資金規正法違反事件の渦中になる小沢に対し「俺とお前は一心同体だ、羽田グループとして全面的に支える」と明言した。また2010年9月民主党代表選挙でも小沢を支持していた。

政界引退

2010年(平成22年)9月28日時事通信社の取材において、政界引退を表明した。

2012年(平成24年)11月16日衆議院解散で政界引退。「自民党の政治に終止符を打ったのは、今でも歴史の必然、私に課せられた天命だった」とした上で、2009年の政権交代は「私なりに満足のいく、改革の成果」であるとした。今後の活動については、「多難な時期を迎えた我が国の再生にわずかなりともご奉公できる道を探し続ける」とコメント。長年の盟友である小沢は「議会制民主主義を確立させるべく、長年共に歩んだ同志。勇退は誠に残念だ。政治の第一線を退かれても、引き続きこの国の将来のため、親しく指導していただきたい」と述べた。

後継には息子の雄一郎に参議院から鞍替えさせようという意向もあったが、時の首相・野田佳彦が「反世襲」の方針からこれを認めなかった。

2013年(平成25年)4月29日、桐花大綬章を受章。

2017年(平成29年)8月28日・午前7時6分、老衰のため死去した。満82歳没。9月5日、従二位追叙が日本政府により決定された。

エピソード

家族

2010Happy Mail