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胡錦涛とは?

(胡錦涛から転送)

任期 2002年11月15日2012年11月15日

任期 2003年3月15日2013年3月14日
副主席 曽慶紅
習近平
首相 温家宝

任期 2004年9月19日2012年11月15日

任期 2005年3月13日2013年3月14日

任期 1998年3月15日2003年3月15日
元首 江沢民(党総書記国家主席)

出生 (1942-12-21) 1942年12月21日(77歳)
中華民国 上海
政党 中国共産党
配偶者 劉永清
【胡錦濤】

【職業:】
政治家
【各種表記】

繁体字: 胡錦濤
簡体字: 胡锦涛
拼音: Hú Jǐntāo
【和名表記:】
こ きんとう
【発音転記:】
フー・チンタオ
ラテン字: Hu Chin-t'ao (ウェード式)
英語名: Hu Jintao

胡 錦濤(こ きんとう、フー・チンタオ、簡体字: 胡锦涛 拼音: Hú Jǐntāo1942年12月21日 - )は、中国の政治家である。江沢民引退後の中国の最高指導者で、第4代中国共産党中央委員会総書記、第5代中国共産党中央軍事委員会主席、第6代国家主席、第3代国家中央軍事委員会主席を務めた。

共産党入党まで

先祖・譜

先祖は安徽省績渓県出身・兵部尚書にまで出世した胡宗憲。胡錦濤の曾祖父で胡氏44代目の胡永源は、16、7歳のころに同郷の商人に連れられて各地を転々とし、江蘇省泰州黄橋にて雑貨店を始める。貯金がたまると、同郷の者たちとの共同出資で、茶葉専門店「裕泰和」を開業する。経営はほとんど友人に任せて自分は奉公先の雑貨店で働き続けた。その後収入が増えると、新しく開いた茶葉専門店「胡永泰」を持つようになった。「裕泰和」は、同郷人が出資金を引き上げたことで胡永源の店となった。胡永源の一人息子で45代目の胡樹銘は、黄橋と季家市にある2軒の店を父から受け継いだ。彼には4人の男児がいたが、長男と三男は早世し、次男の胡炳華が「胡永泰」「裕泰和」の2軒を引き継いだ。4男であり、胡錦濤の祖父でもある胡炳衡は幼少時から読書を好み、科挙の合格を目指すも挫折を繰り返し、志半ばで死去。胡炳衡には2人の息子がおり、次男胡増鈺(1917年生まれ)が、胡錦濤の父親にあたり、のちに「静之」と改名する。

生い立ち

上海(中国共産党の公式発表によれば「安徽省績渓」)に生まれ、江蘇省姜堰市で育つ。曽祖父・胡永源が、商売のため故郷を離れて江蘇省に移り住んだことから、胡錦濤もこの地に移った。父・胡増鈺は泰州姜堰高校を卒業後、上海の小学校で教員として働く。同地で江蘇州東台出身で南通女子師範学校卒業の李文瑞と出会い、1941年に結婚、翌年の12月に胡錦濤が生まれている。胡は長男であり、その下に2人の妹(胡錦蓉胡錦萊)がいる。胡錦蓉は江蘇省姜堰市建設局幹部を経て、現在は大手建設会社正太集団有限公司副董事(副会長)を務め、胡錦萊は泰県にて商業関係の会社に勤めている。

生活苦のため、一家は1948年に上海から泰州に戻る。胡増鈺夫妻は地元の小学校で教員をしながら、茶の販売も続けていた。7歳のときに母が死去したことで、胡は妹2人とともに泰州の祖母のもとに引き取られた。胡は物静かな子供で、よく1人で本を読んでいたという。毛沢東による中華人民共和国の建国後も、父は茶の販売による収入で生活費の不足を補ったが、経営手腕が乏しかったために店員さえも雇えず、家族はあまり裕福ではなかった。胡増鈺の身分は「小営業主」(農民や労働者よりも身分が低いが、地主や資産家のようなブルジョアよりはずっと高かったという)と決められたが、この身分が幸いして息子の胡錦濤は大学への入学および中国共産党への入党を認められた。

1956年、毛沢東によって中国政府は工業と商業の国有化政策を実施し、各地の私営企業主は個人所有の商店を国や集団へ売却させられた。胡増鈺の店は泰州市日用雑貨会社に合併され、月給30元の経理係として雇われた。数年後、毛沢東は知識人や幹部に地方の農村部で肉体労働に就くよう呼びかけた。胡の2人の妹は泰県の農村部に移住し、父・胡増鈺も泰県の農村部にある日用雑貨会社に転勤した。胡増鈺は文化大革命で告発され(同時に身分の低い血統であったこともあり)、熱心に父の評判を明らかにしようとしていた胡に大きな影響を与えた。文化大革命後、父は泰県の農村にて病没した。当時甘粛省で仕事をしていた息子の胡錦濤は、泰県に戻って父の葬儀を執り行った。遺骨は祖父の胡永源と同じく、故郷の龍川に埋葬された。その位牌は、胡氏一族の廟に祀られている。

小学校から高校まで

胡錦濤は、2人の妹とともに泰州市内の西倉通りにある大浦中心小学校に通った。1947年9月にこの小学校に入学する。小学校時代の同級生の回想によると、家柄の良くない胡は政治活動に興味を抱き、読書に没頭していたという。授業態度はまじめで、家での予習復習も怠らなかった。成績は優秀であり、飛び級により、1953年6月に10歳6ヶ月半で小学校を卒業し、中学校は泰州第二中学校に通った。

1956年9月、泰州第一中学校高等部1年4組に入学する。この学校の大学進学率100%は中学部として使われ、高校部は泰州の新市街地に移った。学校の史料館員によれば、「安定書院」跡地に創立されたという。高校での胡は成績優秀であり、体育以外の科目で90点以上を取った。高校3年生のときには級長に選ばれている。また、歌やダンスに秀でていた。当時の胡について、教員は「小柄な彼はスポーツはあまり得意ではなかったが、リーダーシップがあり、文芸が得意で、よくクラブ活動に参加した。文化祭のときにはコーラスの指揮者となり、大活躍した」という。級長に選ばれた3年生のときには、「政治的自覚が強く、クラスメートをよくまとめ、各種の学習および学外活動を自主的におこなった。まじめに学習し、率直な性格のもち主で、責任感が強く、何事も積極的かつ公平に進めるタイプである」と書かれている。一方で、高校時代の同級生によると、当時の胡は内向的で口数が少なく、クラスでは決して目立つ存在ではなかった。小柄なため体育は苦手だったが、卓球だけは得意だった。成績は上位であったが、一番ではなかった。1959年清華大学に入学した際には、教員や同級生からは意外に思われたという。16歳半で同大学水力学部に入学した胡錦濤は、当時ではもっとも若い新入生であった。高校の数学教員・葉鳳梧によると、入学志望校の願書提出の際に、清華大学を希望するならば、日頃の成績と家庭の出身を考えて、人気はあるが審査の厳しい学部よりも志望者の少ない学部を志望したほうが受かる可能性が高い、とアドバイスを与えたという。そこで胡は、清華大学水力学部河川基幹水力発電専攻を志望した。ここの卒業生は、ほとんどが地方(または辺境)のダム(水力発電所)に配属されるため、学生にはあまり人気がなかったという。

清華大学

1959年9月、清華大学水力エンジニアリング学部に入学する。胡錦濤は友人に「本当は政治家ではなくエンジニアになりたかった」と語ったことがあるという。胡が清華大学に入学した頃の中国は大躍進政策による農業政策の失敗と自然災害に起因する飢饉に見舞われており、学生の食事は質素なものであった。主食は小麦粉とトウモロコシの蒸しパン各1個ずつ、野菜炒め、白湯一杯であった。当時の清華大学の食堂には椅子がなく、学生たちは立ち食いしていた。胡のような南方出身の学生たちは、子供の頃から米食で育ったため、小麦粉とトウモロコシには慣れていなかった。彼らにとっては白米が一番の贅沢であった。

同級生の回想によると、胡は歌とダンスが上手で、キャンパスで注目される存在であったという。入学後まもなく文芸宣伝工作団に入り、部隊隊長に選ばれた。

大学在学中、胡は同級生の劉永清と知り合う。理工系の大学である清華大学は女子が少なく、女子学生が少ない水力学部における彼女の存在は、男子学生にとっては憧れの的であった。学生たちの唯一の楽しみとして、週末のダンスパーティーへの参加があり、踊れる者もそうでない者も、土曜日の夜になると学生クラブに集まった。ダンスに秀でていた胡錦濤は常にパーティーの主役であり、女子学生たちからは王子様のように見られていた。胡は女子からの誘いを断らなかったが、視線は目立たないところに静かに座っている劉に注がれていた。いつしか2人は恋人同士となった。学生時代の胡は文学と芸術、とくに映画・芝居・小説を好んだ。彼は図書館から中国やロシアの作家の小説を借りてきて読み耽った。恋人の劉にも小説を勧め、本を貸し借りし、互いに感想を述べあい、小説の話題を仲立ちとしてより親密になっていった。

大学卒業後

清華大学在学中の1964年4月、中国共産党に入党。翌1965年7月に清華大学水力エンジニア学部を卒業後は、同大学の水力エンジニアリング学部政治指導員として大学に残り、仕事をしながら大学院に進学して研究を続ける。学生時代は学問よりも社会活動に力を注いだために、成績は80余人中20位前後であった。水力学部の教員になるためには大学院を出なければならず、卒業生のなかには大学に残って助手になる者はいなかった。日ごろの政治態度と活動を見込まれた胡は政治指導員として大学に残ったのである。

清華大学における政治闘争

1966年4月23日、清華大学に政治部が発足し、胡錦濤ら新任の政治指導員と、各学部の共産党支部書記600名が加わった。この政治部とは、大学内に設置された中国共産党の下部組織であり、思想教育を担当する。同年6月1日、『人民日報』は「いかなる悪人をも打倒せよ」という社説が掲載された。中央人民ラジオ放送局は夜のニュース番組で、北京大学の壁新聞(大学報)と人民日報の「北京大学の壁新聞を歓迎する」という社説を放送し、「北京大学党委員会が北京市党委員会と協力して北京大学の学生運動を抑圧した」と非難した。この翌日、清華大学に「あなたは誰の指揮に従うか」というビラが貼られ、清華大学の学長・蒋南翔の、政治問題を回避し、学術研究を重視する姿勢が非難された。その後もキャンパス内に「大学党委員会は黒幕だ」「大学党委員会と翔学長を守ろう」といった内容のビラが入り乱れ、文化大革命において清華大学党委員会は革命的立場なのか、それとも反革命的路線なのかといった議論が沸き起こった。これは清華大学における文化大革命の始まりであった。共産党員にして政治指導員でもある胡は、大学党委員会と学長を支持する立場に立ち、大学を糾弾する教職員・学生と対立し、「保守派」のレッテルを貼られた。水力学部の学生に対して、大学党委員会は、過去において教育や研究を奨励し、大勢の優秀な卒業生を世に送り、国家建設に多大な貢献を果たし、共産党中央の方針を忠実に遂行してきたという説得を試みた。6月5日、北京市党委員会の新メンバーが送り込んだ人物が、清華大学党委員会の責任者に対して「今から清華大学の全ての行政権は工作組の指導下に置かれることを通知する。明日、工作組みのメンバーが到着次第、大学党委員会の機能を停止する」と宣告する。6月13日、前項大会が召集され、蒋南翔は解職処分となり、大学党委員会の権限は工作組に委譲されることが正式に発表された。工作組の清華大学への進駐後、かつての党委員会のメンバーと政治指導員は批判にさらされ、政治指導員と教職員を初めとする共産党員の多くが吊るし上げの対象となり、公衆の面前で引き回された。工作組は文化大革命の指導グループとともに、硬軟両様の手段を用いて各学部の党書記と政治指導員を逐一調査にかけて自己批判させた。胡も批判の対象にされることは免れなかったが、学生や教職員との関係が日ごろから良好であったために引き回しの対象にはならずに済んだ。この政治闘争以後、胡錦濤は自らを深く包み、いかなる政治活動にも関わらない、政治的無関心派となった。政治指導員としての仕事も研究もできなくなった胡錦濤は、大学のキャンパス中に貼られたビラを読んで歩いて対立派の論争を聞いて回る以外にやるべきことがなくなった。

その後、清華大学の学生による工作組への非難、毛沢東の圧力による工作組の大学からの引き上げと清華大学付属中学の紅衛兵を支持する書簡により、大学で暴力的な出来事が発生する。1968年4月、北京紅衛兵主要指導者の1人が、反対派弾圧のために清華大学にて100日間にわたる武力闘争を引き起こし、学生と労働者部隊との間で戦争さながらの激しい戦いを展開して多数の死傷者を出した。同年7月25日、毛沢東は紅衛兵主要指導者5人を出頭させ、労働者たちの背後の「黒い手」が自分であることを明かし、清華大学の学内の秩序はようやく回復された。

テクノクラート

甘粛省におけるダム建設

胡錦濤の恋人である劉永清は、甘粛省にある八盤峡ダム水力発電所への配属が決まった。清華大学の卒業生は、配属決定後はただちに配属先に就くわけではなく、北京近郊の農村部へ行き、農村社会主義教育運動という約1年間の再教育プログラムに参加しなければならない。政治指導員の胡も、低学年の学生を連れて北京近郊の村へ行き、農作業を体験した。1966年4月3日、再教育プログラムを終えた彼らは、一旦大学に戻って一週間の総括を行ってからそれぞれの配属先の会社に赴いた。劉永清は、水利部直属の甘粛省第4ダム建設局813支局に配属され、八盤峡ダム水力発電所の建設現場で仕事を始めた。1968年12月、胡は水利部に配属され、さらに甘粛省にある水利部直属の第4ダム建設局への転出が決まる。胡は省都蘭州に赴き、蘭州から100kmほど離れた劉家峡ダム工事支局土木建築の一般の作業技師として働くことになる。1969年から1974年にかけて、水利部第4工事局でもエンジニアとして働いた。

1970年1月、胡は813支局長の秘書に抜擢され、仕事場も技術課から支局党委員会の事務室に移る。これは技術の仕事から政治工作担当の専門職に転身してテクノクラートになることであり、政界進出への第一歩を踏み出す形となる。政治工作担当の専門職への転身は、政治上の信頼を得たことを意味し、胡は自らの出自の問題から開放された。同年2月、上司に結婚申込書を提出し、劉永清と結婚、夫婦となる。八盤峡ダム発電所は国の重点事業の1つとして投資も多かったため、ほかの国営企業よりも職員宿舎が多く、胡錦濤夫婦は結婚からまもなく宿舎を貰うことができた。1971年に長男の胡海峰(清華同方威視技術股份有限公司社長)、1972年に長女の胡海清(新浪CEO夫人)を儲けている。

813支局長の秘書となってからの胡は、局長以下、重役の各種挨拶文の原稿作りのほかに、支局のさまざまな年度報告書の起草作業に勤しんだ。これらの仕事は、毛沢東語録、『人民日報』の社説、政府公表の報告書から文言を適当に切り取れば簡単にできるもので、それがこの当時流行した創作法であった。

1971年、813支局共産党委員会副書記に抜擢された胡は、専任で党務に当たる。第4建設局は水力部所属の企業体で、その下部企業体の813支局のトップは課長クラスに当たり、胡錦濤の肩書は副課長であった。清華大学での政治闘争を経験した胡錦濤は党務の仕事を用心深く務めていた。

甘粛省建設委員会への異動

1974年9月15日新華社通信が「黄河流域の青銅峡ダム発電所工事がほぼ完成した」というニュースを配信した。813支局が進めていた八盤峡ダム発電所の工事も終盤に入り、翌年には竣工すると見られていた。このころの胡錦濤は、上司たちとの人間関係も会社での評判も良好であり、このままでいけば将来の昇進が期待されていた。しかし、813支局は水力発電所所属の土木工事会社であり、各地に転勤して工事を行う必要があるため、自分の家庭生活に大きな影響を与えることになることを胡錦濤は悩んでいた。813支局は、甘粛省政府土木管理部門の建設委員会の官僚の接待に当たることがあったが、そのうち、胡錦濤は建設委員会副主任の張延青と親しくなる。ある日、胡錦濤に付き添われてダム工事を視察した張延青は、胡錦濤と昼食を取っている最中に、ダム工事が終了した後の胡錦濤の予定を聞いた。未定であることを答えると、張延青は胡錦濤に対して「建設委員会に来て自分の秘書になる気はないか」と打診した。この申し出に胡錦濤は大いに喜び、その場で即答した。人事の手続きが難しいのではないかと心配する胡錦濤に対して、張延青は、手続きのことは自分に任せるよう答えた。その後八盤峡ダムの工事現場に、人事異動の辞令が届き、胡錦濤の甘粛省建設委員会への転勤が正式に決定する。こうして、胡錦濤は甘粛省建設委員会に異動し、張延青の委員会主任室専属秘書として働くことになる。この転勤が、胡錦濤の人生で最も重要な転換点と見られている。

張延青は山西省の出身で、共産党の古参幹部である。胡錦濤にとっては官途における最初の恩人であり、彼の口添えがなければ転勤はなかっただろうと見られている。それゆえ、胡錦濤は張延青に絶えず恩義を感じており、毎年正月になれば張延青に電話をかけて新年の挨拶を述べ、甘粛省に出張する者があれば栄養剤や健康食品などの土産を託して届けさせている。

1974年8月、胡錦濤は八盤峡ダム発電所から甘粛省建設委員会に移り、張延青の秘書として働く。仕事場から30メートルほどのところにある職員用宿舎を借り、家族4人で2DKのアパートで暮らし始める。職場では、上司に言われた仕事を黙々とこなした。報告書や挨拶文などの原稿づくりが、胡錦濤の主な仕事であった。

1975年、同委員会副主任に昇進する。ちょうどその頃、失脚から返り咲いた鄧小平によって「より革命的で、より若く、より知識があり、より専門的な」次世代の指導者を育成することを目指すプログラムが実行され、それによって多くの有能な若手党員が見出された。同年、張延青は胡錦濤を半年間観察したのち、勤務態度がまじめで、上司に忠実で、同僚の評判もよい胡錦濤を、主任の単国棟に推薦し、幹部会議の討論を経て、設計管理字部長に任命した。このときの胡錦濤は33歳で、建設委員会ではもっとも若い次長となった。なお、後に中国の最高権力者の地位に就いた胡によって国務院総理に指名されることになる温家宝は、この当時、甘粛省地質局地質調査測量隊・思想政治課副主任を務めていた。当時の同僚によれば、胡錦濤は次長に昇進したのちも以前と変わらず仕事に精を出し、勤務時間を守り、同僚に愛想がよく、さわやかではきはきとした仕事ぶりで、中間管理職となったことを鼻にかけるような態度は少しも見せなかったという。次長に昇進した胡は、幹部チームを率いて蘭州市永登県六福郷へ赴き、農民たちに社会主義教育の宣伝活動を行った。胡錦濤らは政治思想教育のための資料を数多く用意してきたが、農民たちの関心事は、詩歌の朗読や理論よりも、少しでも多く食料を作り、腹いっぱい食べることであった。そのことを知った胡は、机上の空論の宣伝よりも、もっぱら生産力回復を第一義とする鄧小平の実務路線に従った。1975年5月29日、鄧小平は毛沢東の3項目、「ソ連反対主義への修正」、「安定団結」、「経済発展」の3つを各分野の指針とする指示を出し、経済発展を軌道に乗せようとする。胡錦濤は六福郷の社会主義教育プログラムの責任者として、ソビエト連邦の侵入に備えることの重要性を説いて政治理論書の学習を指示し、一方で幹部チームを率いて農作業・かんがい用水路の整備に力を入れて農民たちを食糧不足から脱却させようとした。この教育プログラムは半年にわたって行われ、リーダーを務めた胡は政治活動の経験を積む形となった。プログラム終了後、胡は設計管理部の指導管理に加わり始めた。

その後中国の各分野における経済活動が活発化したことで、甘粛省建設委員会も蘭州市のインフラ整備に力を入れ始める。甘粛省建設委員会は胡錦濤に対して蘭州市養鶏場、乳製品製造工場、青少年文化センターの建設工事の計画審査と基礎工事の現場総監督を任せた。胡錦濤は3つのプロジェクトの企画審査と建設用地の選定会議を開き、設計から建設用地の選定、基礎工事、建設施工の管理、完成後の検査までのすべての段階における責任者を定めて責任の所在を明確にした。各段階において工事のできばえに対する請負制を実施し、品質管理を厳格にし、建築物に欠陥を残さない措置を取った。3つの建設プロジェクトは順調に進行し、2年足らずで完成にこぎ着け、各施設とも使用開始が可能となった。1980年、胡錦濤は建設委員会次長から副主任に栄転し、副局長クラスの幹部となる。清華大学時代から胡錦濤の上司であり、胡耀邦のかつての部下であり、甘粛省党委員会副書記の劉冰という人物と胡は親密な間柄となった。胡錦濤は暇さえあれば劉冰を訪ね、仕事についての指示を仰いだ。

有能な若手党員の一人として、胡は甘粛省党委第一書記である宋平の推薦により、1980年中国共産主義青年団の甘粛省委員会書記に就任した。かつてインフラ整備の建設工事を宋平が視察した際にその案内役を務めたのが胡錦濤であり、宋平は胡錦濤に対して好印象を抱いたという。

胡耀邦との出会い

1981年9月、甘粛省党委員会は、胡錦濤を、鄧小平の娘(鄧楠)と胡耀邦の息子・胡徳平とともに、中国共産党中央党校にて共産党の高級幹部となるための訓練を受けさせることを決定した。これは、地方の甘粛省から中央に異動していた宋平の推薦によるものであった。鄧楠は胡錦濤に良い印象を持ち、そのことを父・鄧小平に報告している。また、胡耀邦の息子も胡錦濤を自宅に招待し、胡耀邦に初めて対面させている。胡耀邦は共産主義青年団出身の後輩である胡に親しみを込めて握手をしたことで、それまでの緊張がいっぺんに解けた。その日、彼ら2人は膝をまじえて天文地理、歴史文学、政治情勢、国際問題、現在の仕事に至るまで語り合った。その後も胡錦濤は胡耀邦をしばしば訪問し、2人の親交はますます深まった。

中央委員候補

1981年7月2日、鄧小平は省級党委員会書記の全体会議を召集し、若手幹部の起用が共産党政権の命運にかかわる重要な問題であることを述べ、4、5年後には政権の危機を招くであろうという警告を発し、問題の解決として古参幹部から率先してポストを若手に譲ることを要求した。その際、鄧小平は、

  1. 年齢は45歳以下。
  2. 共産主義青年団での仕事の経験がある。
  3. 高学歴で末端組織での職歴がある。
  4. 政治思想面に問題がない。

という4つの基準を示した。胡錦濤は当時39歳で、甘粛省最年少の局長幹部であり、中央党校在学中であり、第12回総会甘粛省代表に選出されていた。さらに、中央党校で研修を受けていたことで胡耀邦の近くにいたこと、清華大学の学長でもあった蒋南翔が、ここの常務副学長に任命されており、自身のかつての教え子である胡を強く推した。1982年9月1日から9月11日にかけて北京で開催された第12回総会において、共青団中央書記処第一書記の王兆国が中央委員に、胡は中央委員候補に選出された。また、胡耀邦が党総書記に、鄧小平は党中央軍事委員会主席にそれぞれ就任した。9月13日の夜、新任の中央委員と委員候補39名が胡耀邦の案内を受けて人民大会堂新疆ホールに入り、鄧小平ら長老と対面した。胡錦濤はその場で中央委員候補として紹介された。

第12回総会終了後、胡は蘭州に戻り、青年団書記兼甘粛省建設委員会副主任を務めていた。その3ヵ月後、人事異動の辞令が来た。胡はその3ヶ月間、建設委員会の仕事で忙しく、青年団の業務にはほとんど関わらなかった。その頃、胡錦濤は友人を蘭州に集め、自身の経験から建設委員会の良さを挙げて友人らに転勤を勧めた。友人らの多くはいずれも南方出身者で、いずれ故郷に戻りたいと考えていたため、胡の誘いには興味を示さなかったという。

共産主義青年団

1982年10月、胡錦濤は甘粛省共青団書記に就任し、そのわずか2ヵ月後の12月31日、共青団第11期1中総会で中央書記処書記に昇進した。共青団第一書記・王兆国の助手として、胡錦濤は共青団の仕事を補佐した。王兆国は、鄧小平からの信頼を得ていた。胡が王兆国と一緒に仕事した期間は1年半であった。2人とも1982年12月末に書記となったが、王兆国は1984年5月に中央弁公庁(官房庁)主任に任命された。当時の2人について、「王兆国は生まれながらのナンバー1、胡錦濤は生まれながらのナンバー2」とささやかれたという。胡は、自分の地位について不満を漏らすことはなく、黙々と、慎重に、仕事をこなしていた。王兆国は、共産主義青年団中央書記処第一書記になる前は、工場の中間管理職(副部長)であり、その頃の胡錦濤は建設委員会副主任(副局長)であったため、2階級上の立場にあった。鄧小平からの推薦を受けた王兆国は、一般の管理職から中央省庁入りという転身を果たしたことで有頂天になっていた。王兆国との関係において、胡は、①重要な政策決定は王兆国に任せ、自分は決定事項の遂行に従事する ②はなやかな表舞台は王兆国に任せ、自分は裏方に徹する ③王兆国を青年団の顔として立て、自分はあくまでも補助役としての立場を逸脱しない という3つの原則を守った。青年団の幹部によると、王兆国は部下にいつも高圧的な態度で接し、ミスを犯した者には烈火のごとく怒りちらし、青年団中央の職員で彼にしかられたことがない者はほとんどいなかったという。いっぽう、胡錦濤は物腰が低く、丁寧で、部下や同僚たちの評判がすこぶる良かったという。

1984年には共青団中央書記処第一書記に昇進し、共青団の事実上のリーダーとなる。共青団中央書記時代の胡は、党総書記である胡耀邦の地方訪問をエスコートしている。

貴州省党委員会書記

1985年7月、胡錦濤は、胡耀邦によって貴州省党委書記に抜擢された。さらに9月には党中央委員に昇進した。上海幇の構成員とは対照的に、胡錦濤はそのキャリアの多くを中国の裕福な沿岸地域でなく貧しい内陸地域で積んだ。そのため部分的には、彼は上海幇と比較して西洋的な考えになじみがないと言えよう。1980年代に北京では民主化を求める抗議活動が起こり、その結果胡耀邦が失脚したが、同じように起こった地方の学生の民主化を求める抗議活動に対して胡錦濤は慎重に対処した。

チベットでの活動

1988年6月、チベット自治区党委書記伍精華が重病のため辞職した。趙紫陽総書記は、2つの貧しい貧困地域(甘粛省・貴州省)で働いていたことを理由に、胡錦濤をチベット自治区党委書記に指名した。同年12月に書記に就任したが、チベット自治区の区都ラサではデモ活動が起こっていた。1989年1月19日、ラサにて公開裁判をおこない、前年3月に起きた抗議運動に加わって逮捕された僧侶に死刑判決を含む重罪判決を言い渡した。その際、僧侶の頭を押さえるなどチベット民衆に対する見せしめとなった。その直後の1月28日パンチェン・ラマ10世が急死したが、多くのチベット人は孟宏偉らとともに胡がそれにかかわったと信じている。同年3月には抗議運動が大規模なデモ行進にまで発展したため、胡はラサ全市に3月8日午前零時から戒厳令を布告した。戒厳令布告は天安門事件に先立ち中華人民共和国史上初めてのことであった。1989年6月に天安門事件が勃発した際も真っ先に支持した地方政府指導者の一人であり、党中央から注目された。UPI通信社のマーティン・シーフはロシアウラジミール・プーチンと比較して「どちらも異論を抑えつける経験の豊富さでトップにのし上がった有能でタフな権威主義者」と評した。

しかしこの頃、胡本人は自身の将来に対し悲観的であることを友人に話している。キャリアに行き詰まり、今の地位である地方の党書記以上に出世することはないだろうと胡は思っていた。彼は、チベット自治区で貴州省の時と同じように実績を残すことができず、党の高級幹部になることは難しいと考えていたため、チベットでなく北京で過ごすことが多かった。しかし、胡はチベット自治区党委書記在任中も宋平と連絡を取り続けており、このことが将来に大きく影響を及ぼす。

ポスト江沢民

1992年の第14回党大会が行われる前に、鄧小平や陳雲など党長老たちは、鄧小平を中心とする「第二世代」から江沢民を中心とする「第三世代」へスムーズに権力の移譲を行うために、後継者を選出した。さらに鄧小平は「第四世代」を代表する50歳以下の人物を将来の指導者として選出することを提案した。この時、宋平が将来の指導者として胡錦濤を推薦した。結果として、胡は党中央政治局常務委員に選出された。これは中華人民共和国建国史上2番目の若さだった。同時に党中央書記処書記にも選出された。

胡は、党総書記兼国家主席として最高権力者の地位にあった江沢民の後継者と見做されていたが、胡は自身でなく江沢民が注目されるように注意を払っていた。2000年に江沢民が提唱した3つの代表理論に対し、自らを毛沢東や鄧小平に並べるための売名行為との批判が出たが、胡はこの理論を宣伝した。そのため、彼は穏やかで礼儀正く、協力関係を築くのに熟練しているというイメージを持たれた。1998年には国家副主席に就任して訪日の際は天皇との会見などをこなすも、江は胡が対外関係でより積極的な役割を担うことを期待した。1999年コソボ紛争におけるNATO軍の空爆で中国大使館が誤爆された際には、中国政府を代表してテレビ演説を行った。胡錦濤はこの演説で「アメリカをはじめとするNATO軍は我々の大使館を攻撃し、人命を奪い建物を破壊した」「アメリカの爆撃は中国の主権侵害であり、『犯罪行為』で『野蛮な行動』だ」「市民と学生のデモは人民の怒りのあらわれだ」と述べた。そのうえで、「中国政府が全ての合法的なデモを支持していることを表明し、国民には、国家の根本的利益を考えて過度な反応は控えるよう呼びかけた。

2002年の第16回党大会で権力の移譲が行われ、江が権力の中心から退いた。しかし江は自身の派閥である上海幇から呉邦国賈慶林曽慶紅黄菊李長春を中央政治局常務委員に配置し、また自身も党中央軍事委員会主席のポストを手放さず、院政を敷くものだと思われていた。

胡錦濤は、常に自分を隠し通してきており、「これといって目立つ特徴がないのが胡錦濤の最大の特徴」とされた。副主席として訪米した際は胡錦濤の名前を捩ってその控え目で寡黙かつミステリアスな雰囲気を"Who's Hu?"とアメリカのメディアは揶揄した。2002年4月25日の午後、マレーシアを訪問中の胡錦濤に対して香港の記者がインタビューを行い、その中で「海外のメディアは、あなたを『謎に包まれた人物だ』といっていますが、ご自身ではいかが思われますか」と尋ねた。これに対して胡錦濤は「その評価はあまり適切ではありませんね」と返答した。

党総書記・最高指導者

2002年11月15日党総書記に選出された胡錦濤は、翌2003年3月15日、第10期全国人民代表大会第1回会議において国家主席に就任した。

内政

胡温体制

詳細は「胡温体制」を参照
温家宝

胡錦濤は、国務院総理(首相)に指名した温家宝とともに科学的発展観に基づき、1990年代以降に中国社会で問題化した改革開放政策での高度経済成長に起因する格差の拡大や環境汚染による公害などに取り組み、「和諧社会」「小康社会」というスローガンを掲げて所得格差の是正と安定成長に努めた。胡錦濤が最高権力者になってからも、オリンピックとしても国際博覧会としても史上最大規模だった北京五輪上海万博に代表されるように経済開発の重視は変わらなかったものの、輸出主導の大量生産社会から内需主導の大量消費社会に転換することを目指した。また、胡錦濤体制では国有企業民営化の動きが停滞し、国家資本主義を支える国有・公有経済の管理と堅持が強調され、1990年代の「国退民進」と対照的な「国進民退」とも呼ばれた。

胡温体制で中国のGDP(国内総生産)は世界2位となり、2008年世界金融危機の際は当時の王岐山国務院副総理の主導で金融緩和とともに中国の高速鉄道網の建設など4兆元の大規模な財政出動(内需拡大十項措置)を断行して世界最速のV字回復で金融危機を脱出させ、中国は当時の世界のGDP増加の過半数に関連したことからリーマンショック後の世界経済を救済したと評されるも、この投資主導の政策は人民元改革とともにバブル経済を加速させてバラマキ財政箱物行政のような無駄な公共投資地方融資平台による不良債権などの課題も残したと批判する見方もある。ただし、農村部住民の足かせとなっていた農村戸籍の廃止に地域限定で乗り出し、「新型農村合作医療制度」と「都市部住民基本医療保険」の導入で保険制度のなかった農村部と都市部を統合して2020年までの国民皆保険(全民医療保障)を目指した点は評価されている。

上海幇との主導権争い

院政を敷いたかに見えた江沢民だったが、2004年に党中央軍

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出典:wikipedia
2020/02/26 19:38

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