能勢電鉄株式会社(のせでんてつ、英: Nose Electric Railway Co., Ltd.)は、兵庫県川西市の川西能勢口駅と、妙見山および日生ニュータウンを始めとするニュータウン群とを結ぶ鉄道会社である。本社は兵庫県川西市平野一丁目35番2号。
社名は会社が能勢妙見山への参拝客輸送を目的として設立されたことに由来する。鉄道路線2路線および鋼索線(ケーブルカー)を運営し、ケーブルカーを含めた総営業キロは15.4 km。阪急電鉄の子会社で、阪急阪神ホールディングスの連結子会社でもある。2000年代前半まで不動産事業を行っていたほか、戦前の一時期には乗合自動車事業も行っていた。
現在の社章は1995年に制定されたもので、デザインは「愛・伸・爽・楽」をモチーフに妙見線、日生線を表し、さらには沿線の人々と沿線地域を表している。
能勢電鉄の直接の前身である能勢電気軌道(能勢電軌)は、能勢妙見の参詣客輸送と、沿線で産出される三白(酒、米、寒天)・三黒(黒牛、栗、炭)などの特産物の輸送を目的として1908年5月に設立され、1910年12月には着工届けを提出した。しかし経営は混迷を窮め、着工と同じ月には発起人の中里喜代吉が詐欺横領事件により検挙される始末だった。建設工事どころか、会社の存続さえ危うくなった能勢電軌を立て直したのは、1912年に専務取締役となった太田雪松だった。太田は負債を整理し、一部着工されて放置されていた敷設工事を一からやり直し、1913年に妙見線の能勢口駅(現・川西能勢口駅)- 一の鳥居駅間の開業にこぎ着けた。しかし、太田による独断専行な経営もまた会社を疲弊させ、電力料金の未払いにより電力会社から送電を止められるという珍事まで発生した。1914年、能勢電軌はついに破産宣告を受け、協諧契約(現在の強制和議に相当)により管財人のもとで運営されることになった。
再起を図る能勢電軌は、能勢口駅 - 池田駅前駅(後の川西国鉄前駅)間の延長などの経営再建策を実行する一方で、吉川(現妙見口駅)までの路線延長に先駆けて一の鳥居 - 吉川間で乗合自動車事業を開始、奈良県にも路線を展開したが、経営不振により3年ほどで同事業から撤退した。このため、吉川までの路線延長は急務となり、会社の増資を図り1923年に一の鳥居駅 - 妙見口駅間を開通させた。また、この過程で阪神急行電鉄(後の京阪神急行電鉄、阪急電鉄)の資本参加を仰ぎ、現在まで続く阪急との関係が成立した。また、直営のバス事業からは撤退したものの、交通網の拡充や競合の回避などを目的として、相次いでバス会社を傘下に収めていった。これらの会社は戦中から戦後にかけ他社に統合され消滅している。
戦前に一定の増加傾向を見せた妙見線の輸送人員は、戦後に入ると再び低迷した。様々な旅客誘致策が考案され、その一環として戦前に妙見鋼索鉄道によって設置された妙見ケーブル(現・妙見の森ケーブル)を自社線として1960年に再開業させるが(ただし上部線は妙見リフト(現・妙見の森リフト)に変更)、増収には結びつかなかった。またこの頃から沿線の宅地開発が進められるようになるが、多田グリーンハイツを開発した西武グループにより能勢電軌の株の買い占めが行われ、これに対抗して当時の京阪神急行電鉄の出資による増資を行った結果、西武グループの買収防止に成功するとともに、名実ともに阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の一員になった。
1964年には、専務取締役となった村上実のもとで土地経営部門が新設され、ときわ台などの住宅地を開発して大きな利益を上げた。路線も沿線人口の増加に対応して改良を進めていき、一連の路線規格の向上により、鉄道線は軌道法から地方鉄道法に適用法規が変更された。これにより1978年には社名を能勢電鉄株式会社に改めた。
1980年代には安定した経営状態を示すが、1990年代以降は川西能勢口駅の連続立体化工事による資本費の増加に加えて、バブル崩壊以後の不況による不動産部門の不振や鉄道部門の乗客数の減少により収支が悪化する。2003年には不動産事業から撤退するとともに、同事業による多額の負債を軽減させるため経営の合理化が行われ、その一環として阪急との運営の一体化が進められた。こうした経営努力により、2012年3月期決算では長年続いていた債務超過状態をようやく脱した。
駅務機器は交通系ICカードに対応している。現状では川西能勢口駅・平野駅・山下駅を除いて無人駅であるため、これらの駅の機器は平野駅と山下駅にある駅務機器遠距離操作センターから制御・管理しているが、これは能勢電鉄が1991年にいち早く導入したシステムである。
運行形態などについては以下の各項目を参照。
※妙見線・日生線を「鉄道線」と総称することもある。また、妙見の森ケーブルを「鋼索線」、妙見の森リフトを「索道線」と称することもある。
以下は能勢電の関連会社が取得した免許線
2016年現在在籍する全車両が阪急電鉄から譲渡された車両である。(能勢電気軌道→)能勢電鉄は1953年・1954年に登場した車体更新車である50形・60形を最後に自社で車両を製造しておらず、完全な新製車となれば1926年に製造された31形まで遡らなければならない。1995年の昇圧に際しては、60形以来の自社発注車となる阪急直通対応の新型車両を計画していたが、これも中止している。
高架化前の川西能勢口駅には出発してすぐに時速15キロ制限の急カーブ(半径47m)があったため、阪急からの移籍車両のほとんどに連結器などの改造が施されており、連結器間の距離が長い車両はその名残となっている。ただし曲線が半径100mに緩和され、ワンマン運転対応に改造された車両は連結器の位置を阪急時代に戻した車両もある。
1997年11月17日から特急「日生エクスプレス」として阪急の車両が日生中央まで乗り入れている。6000系を除き、能勢電鉄の車両は通常阪急線内には乗り入れないが、全般検査・重要部検査は阪急の正雀工場で行われるため、その際には阪急京都線の正雀駅まで回送される。
列車には阪急と同様に携帯電話電源OFF車両が設定されている(4両編成の場合川西能勢口側の1両、2両編成には設定なし)。また、同じく「全席優先座席」を実施し、特定の優先座席を設けていなかったが、阪急での変更に合わせて2007年10月29日に「全席優先座席」を廃止し「優先座席」を設定している。なお、2014年7月15日に携帯電話電源OFF車両は廃止され、「優先座席付近では混雑時は電源OFF」となった。
また、阪急6000系のうち6002Fが能勢電鉄に移籍し2014年8月から特急「日生エクスプレス」で運行されている ほか、阪急5100系5136Fを購入した上でグループの阪神車両メンテナンス(阪神電気鉄道尼崎工場内)にて2014年7月より能勢電鉄転用に向けた改造が行われ、2015年3月16日より能勢電鉄妙見線・日生線にて運用が開始されている。2018年3月19日には能勢電鉄保有車両で初のVVVF制御車両となる7200系も営業運転を開始した。
能勢電鉄の車両は阪急線に準じてマルーンで塗られているが、以前は独自の塗装が施されていたことがある。開業時の1形は青色で塗られており、2013年には3100系に施されたリバイバル塗装よって再現されている。戦後の1953年に登場した50形・60形はブルーとクリーム色の出で立ちで登場し(下の画像1参照)、鋼体化改造された31形もこれに倣ったが、それ以外の車両に波及することはなく、その後しばらくは阪急からの譲渡された車両もマルーンのまま使用された。1983年に入線した1500系は、窓周りがクリーム色で塗られて登場し(下の画像2参照)、その後に導入された1000系もこれを踏襲したが、1990年に投入された1700系はオレンジにグリーンの帯を巻いた姿となり、その後すべての車両がこの塗装(下の画像3参照)に統一された。1993年には社員から新塗装を募集し、クリーム色を基調にした様々な塗装が試行されたが、それらのいずれにも統一されることはなく、最終的には宝塚造形芸術大学(現在の宝塚大学)の逆井宏教授によるデザイン(通称「フルーツ牛乳」、下の画像4参照)に統一されることになった。その後、2003年に合理化により車体の塗装を阪急正雀工場で行うことになったため、能勢電のオリジナルカラーは姿を消した。
7200系 能勢電鉄の自車初のVVVF制御車両である。(2018年3月23日 妙見口駅)
すべて開業時に新造した。ケーブルカーについては、1990年代初頭に現在の色に塗り替えた後、1号車については「ほほえみ」、2号車については「ときめき」と愛称が付けられた。
大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2014年4月1日改定。
乗車カードとして、スルッとKANSAI対応の「パストラルカード」を各駅券売機で販売していたが、2017年3月31日で発売を終了し、2017年4月1日より阪急・阪神・能勢電鉄・北大阪急行電鉄専用の「阪急 阪神 能勢 北急レールウェイカード」を発売している。そのレールウェイカードも2019年2月28日をもって発売を終了し、同年9月30日で利用を終了する予定である。なお、発行元は阪急電鉄である。
ICカードは、全駅にてPiTaPaや西日本旅客鉄道(JR西日本)のICOCAなどの交通系ICカード全国相互利用対応カード(前記のほか、Kitaca・Suica・PASMO・manaca・TOICA・nimoca・はやかけん・SUGOCA)が利用できる。さらに2019年3月1日より能勢電鉄においてもプリペイド式IC乗車カードの「ICOCA」、および「ICOCA定期券」の発売を開始する予定である。