自由民主党総裁(じゆうみんしゅとうそうさい、英:President of the Liberal Democratic Party)は、自由民主党の党首。自由民主党の国会議員および党員・党友などによる自由民主党総裁選挙によって選出される。「総裁」の役職名は、前身の立憲政友会・立憲民政党から引き継いだもの。
自由民主党は、1955年11月の結党以降ほぼ全期間にわたって衆議院で比較第1党を保っているため、歴代の総裁のほとんどが在任中に内閣総理大臣を兼任しており、両者を合わせて総理総裁と呼ばれることもある。マスメディアでの報道においてもほとんどは「首相」の肩書で紹介されており、「総裁」として報道されるのは、党首の資格で出演する国政選挙の関連番組や党首候補者として取り上げられる総裁選関連のニュースなどに限られる。過去に何度か、「総理・総裁分離論」(総裁と総理をそれぞれ別の人物が務める)が案として出たことがあるが、実現した例は一度もない(後述)。
なお、総裁が首相を兼務する場合、党務は幹事長が主に担当する。
総裁は、自由民主党則6条1項が引用する総裁公選規程第1条により「党所属国会議員、党員、自由国民会議会員および国民政治協会会員」による公選が原則だが、党則6条2項により、総裁が任期中に欠けた場合で緊急の事態により正規の総裁選挙が行えない場合には、「党大会に代わる両院議員総会」において、所属する全ての現職国会議員及び都道府県連合の代表者による投票によって新総裁を選出する場合もある。また、党の有識者や幹部等による話し合い調整に基づいて新総裁候補者を1本化し、両院議員総会での承認を受けて新総裁を決定する場合もある。なお、自由民主党総裁に立候補できる者は、総裁公選規程9条により、党所属国会議員に限定される。
総裁任期は党則80条1項により、現在3年である。総裁任期はたびたび変更されている。
また、1974年以降には前任者の途中退任による残任期間を除く任期を連続2期までとする規定が追加され、2017年には3期までと変更された。
【期間】1974年に連続3選を禁止する規定が導入されて以降、規定の上限まで務めて任期満了に伴い退任した総裁の例は、2例ある。
総裁を一旦退任した人物の再任を制限する規定はなく、安倍晋三が唯一の再任例となっている。
党則に規定される権限を示す。
なお、総務会長は総務会の互選で選ばれ、国会対策委員長は総務会の承認を経て幹事長が決定する。党則上は総裁がこれらの人事に関与する規定はない。
総裁以外の自民党国会議員が内閣総理大臣に就任することについて、自民党議員から首相を選出する場合、過去の特殊な例外を除き総裁を首相に選出しているが、権力の分散、責任の分担、党内融和の観点から、しばしば総理と総裁の分離案が浮上している。しかし、過去に何度か分離案が浮上しても調整段階で失敗している。著名な例としては大福戦争時の「大平総理・福田総裁」案があるが、これは大平が「福田総裁代行」とすることを要求し、いずれも成案とならずハプニング解散に至る。鈴木善幸退陣後の党内調整では「中曽根総理・福田総裁」案がまとまりかけたが、これも中曽根と田中角栄の拒否により流れ総裁公選となる。
総裁以外の自民党議員が首相に選出された例は、1957年2月25日の石橋湛山の総裁時代における岸信介の首相選出や、1964年11月9日の池田勇人の総裁時代における佐藤栄作の首相選出がある。また、麻生太郎の総裁時代である2009年9月16日には、首相に選出はされなかったものの両院議員総会長の若林正俊が自民党の首相候補となった。
しかし、これらは総理総裁であった石橋、池田が病気のために首相はおろか自民党総裁など政治家としての公務が難しい状況であったこと、3、4ヶ月前の総裁選で岸、佐藤が現総裁に次ぐ2位であったこと、岸、佐藤両者とも総裁から後継総裁に指名され次期総裁就任が目されていたこと、岸、佐藤両者とも首相就任から1ヶ月して自民党総裁に正式に就任していることから、また麻生の総裁時代に若林が首相候補となったのは、衆議院総選挙大敗によって自民党議員が首相になれないことが確実視されていたこと、衆議院総選挙大敗の責任を取る形で麻生執行部の退任がすでに決定している中で後継総裁はまだ選出されていなかったという事情によるもので、総総分離体制が持続されていた、もしくはそれを視野に入れた選出とはみなされていない。
なお、総裁を退くと首相も辞任することと、首相を辞任したら総裁も退くことが慣例化しているため、自民党において総総分離体制が持続されたことはない。
党則上、国会議員の党員全員に総裁の資格はあるが、現実問題として実績がない者が総裁選挙に出馬したところで選出される役職ではなく、田中角栄は総理総裁の条件として、「党三役のうち幹事長を含む二役(つまり、他に総務会長か政調会長のいずれか)、内閣で外務・大蔵・通産のうち二閣僚」(の経験者であること)を挙げていた。それらの要職を歴任しさえすれば必ず総理総裁になれるというわけではないが、総理総裁候補の実力者なら経験しているのは当然と考えていたと思われる。野田聖子も、2009年に自民党が下野した際に総裁選に出ようとして、後見役の古賀誠から同様に「資格は小選挙区出で三役経験者だ」と言われ止められたという(この時は谷垣禎一が候補に名乗りを上げ当選した)。三角大福(三木武夫、田中、大平正芳、福田赳夫)の時代はこの条件を一応充足していた。
しかし、鈴木善幸以降は条件に該当しない総理総裁が多く、田中が挙げた条件全てを満たした自民党の議員は、安倍晋太郎、三塚博、桜内義雄、橋本龍太郎、麻生太郎の5人、条件に該当した状態で総理総裁に就任したのは橋本だけである。麻生については、総理総裁を退任した後に財務大臣に就任したことによって、条件全てを満たした。逆に海部俊樹、小泉純一郎、福田康夫は条件として挙げられた役職を一つも経験しない状態で総理総裁となった。
自民党歴代総裁の在職日数上位5名(池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、小泉純一郎、安倍晋三)の内、田中の条件に該当している者はいない(ただし自民党の前身の自由党時代を含めると池田勇人と佐藤栄作は充足している)。田中はロッキード事件で無罪を勝ち取った後の復帰を念頭に、三角大福世代からの世代交代の動きに釘を刺すことに執心しており、その一環としての条件主張でもあった。田中自身より年上の鈴木善幸(条件ポストの経験は総務会長のみ)や、田中と同年齢の中曽根(外相および蔵相を未経験)については、総裁に擁立する立場に回っている。
条件からは除外されている内閣官房長官は、当時から内閣の要職であったが、田中が田中派内の世代交代を抑えようとする上で念頭にあった竹下登が官房長官経験者であるのに対して、田中自身は未経験であった。2000年以降は、特に副総理扱いの閣僚がなければ、官房長官を内閣総理大臣臨時代理第1位事前指定者とする慣行がある。また、中央省庁再編で新設された、官邸機能の一部も引き受ける巨大省庁の総務省を管轄する総務大臣は、田中時代には存在しなかったポストである。
ちなみに現職の自民党総裁で重複立候補した者は2000年の衆院選の石川2区で圧勝した森だけである(現職の総理大臣が重複立候補した例は森と野田佳彦のみ。森は小選挙区比例代表並立制導入以降、自身が比例候補定年73歳未満だった1996・2000・2003・2005・2009年と5回連続で重複立候補し全て小選挙区勝利している)。小泉の総裁時代に行われた2005年の衆院選では、自民党神奈川県連会長の河野太郎が小泉に比例南関東ブロックと神奈川第11区へ重複立候補することを要請していた。理由は「比例での自民票上積み」とされる。しかし、重複すると、小泉の顔を使った自民党のポスターが同ブロックの神奈川、千葉、山梨3県で貼れなくなるという公職選挙法の問題があったため、重複立候補は取り止めとなった。
自民党本部の8階ホールには、歴代総裁肖像画が展示されている。ただし、1994年6月に自民党執行部が村山を首班指名し、海部がそれに反対する形で自らの首班指名に意欲を示して離党した時には、総裁としての海部の肖像画が外された。その後、2003年11月に海部が自民党に復党した際、海部の肖像画が再び展示されるようになった。
この肖像画は自分で好きな画家を指名することが可能で、1枚数百万円ともいわれる。8階ホールでは26人目まで飾る部分が確保されている(前職の谷垣で24人目)。