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自由民主党_(日本)とは?

日本政党
自由民主党
Liberal Democratic Party

自由民主党本部

総裁
安倍晋三
副総裁
空席
幹事長
二階俊博
参議院議員会長
関口昌一
【成立年月日】
1955年(昭和30年)11月15日
【前身政党】
自由党
日本民主党
【本部所在地】
〒100-8910
東京都千代田区永田町1-11-23
北緯35度40分42.6秒 東経139度44分29.1秒 / 北緯35.678500度 東経139.741417度 / 35.678500; 139.741417
衆議院議席数
283 / 465 (61%)
(2020年6月17日現在)
参議院議席数
112 / 245 (46%)
(2020年6月17日現在)
【都道府県議数】
1,301 / 2,668 (49%)
(2019年12月31日現在)
【市区町村議数】
2,180 / 29,762 (7%)
(2019年12月31日現在)
【党員・党友数】
1,086,298人
(2019年12月31日現在)
【政治的思想・立場】
中道右派 - 右派
保守主義
(国民保守主義)
(社会保守主義)
(自由保守主義)
包括政党
ナショナリズム
憲法改正
小さな政府
経済的自由主義
保守自由主義
反共主義

【機関紙】
自由民主
【政党交付金】
176億0296万8000 円
(2017年11月21日決定)
【公式サイト】
自由民主党
【シンボル】


【公式カラー】
グリーン
ブルー

【国際組織】
国際民主同盟(1983年-1997年)
法人番号
4010005002276
シンボルマーク「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと
党歌「われら」(作詞 岩谷時子、作曲 山本直純)
シリーズからの派生
保守主義


学派
文化保守主義
財政保守主義(英語版)
緑の保守主義
自由保守主義
自由論保守主義(英語版)
国民保守主義
新保守主義
旧保守主義(英語版)
社会保守主義
伝統保守主義(英語版)
保守自由主義

概念
伝統
規範
自然法
家族の価値(英語版)
社会秩序
社会階層
私的所有権

人物
エドマンド・バーク
ジョージ・サヴィル
ジョゼフ・ド・メーストル
ルイ・ボナール
サミュエル・テイラー・コールリッジ
アダム・ミュラー(英語版)
フランソワ・シャトーブリアン
レオポルト・フォン・ランケ
トーマス・カーライル
ニコライ・カラムジン(英語版)
フアン・ドノソ・コルテス
ハイメ・バルメス(英語版)
ベンジャミン・ディズレーリ
イポリット・テーヌ
オレステス・ブラウンソン(英語版)
ルイ・ヴイヨー(英語版)
P・ル・プレー(英語版)
K・レオンチェフ(英語版)
ギュスターヴ・ル・ボン
モーリス・バレス
メネンデス・イ・ペラーヨ(英語版)
ジョージ・サンタヤーナ
オトマール・シュパン(英語版)
ウィンストン・チャーチル
シャルル・モーラス
イヴァン・イリイン(英語版)
オスヴァルト・シュペングラー
アンリ・マシス(仏語版)
カール・シュミット
ラミロ・デ・マエストゥ(英語版)
マイケル・オークショット
アルノルト・ゲーレン
ピーター・ヴィーレック(英語版)
ラッセル・カーク
レオ・シュトラウス
ニコラス・ゴメス・ダビラ(英語版)
クーネルト=レディン(英語版)
ロバート・ニスベット
ロジャー・スクルートン
オラボ・カルヴァーリョ(英語版)

組織
国際民主同盟
国際青年民主主義者同盟(英語版)
アジア太平洋民主同盟
欧州人民党
欧州保守改革党
保守政党

宗教
低教会派(英語版)
キリスト教右派
ユダヤ教右派(英語版)
ヒンドゥー民族主義
イスラム主義
カトリック伝統主義(英語版)
国家神道

国別項目
オーストラリア · イギリス
カナダ · 中国
コロンビア · ドイツ
アメリカ合衆国

関連項目
農地改革論(英語版)
貴族制
資本主義
カルロス主義(英語版)
中道右派
協調組合主義
保守革命
反革命
君主主義(英語版)
新自由主義
新右翼
反動 · 右翼 · 極右 · 反共主義
トーリーイズム
レーガノミックス
サッチャリズム
ティーパーティー運動

政治ポータル

自由民主党(じゆうみんしゅとう(: Liberal Democratic Party略称: LDP)は、日本の政党1955年に結党された自由主義を堅持する保守政党である。

略称は「自民党」、「自民」。1字表記の際は、「」と表記される。2020年現在、公明党連立政権を組んで政権与党を担っている。

保守合同による誕生以来、日本社会党と約40年に及ぶ保革対立の政治構造である55年体制を形成した。細川内閣が成立するまで政権与党の座にあり続け、世界的にも稀に長い一党優位政党制の中心にあったが、政治腐敗を招いて1993年の総選挙で過半数割れとなり下野する。戦後、長く日本の政治を支配してきた政党で、結党以来政権を失ったのは、1993年-1994年の非自民・非共産連立政権および2009年-2012年の民主党政権の期間である。

概説

1955年(昭和30年)に自由党日本民主党の保守合同により結成された保守政党。立憲政友会立憲民政党を遠い起源とし、翼賛体制の中核を担った会派である翼賛議員同盟翼賛政治会大日本政治会(以上3会派は日本進歩党の前身)および翼賛体制に批判的な会派である同交会(日本自由党の前身)、護国同志会(日本協同党の前身)、日本自由党日本進歩党日本協同党の流れを汲む。

党の運営は永らく執行部の権力が弱く、ベテラン政治家が「派閥」を形成してその派閥間での駆け引きで政治が行われることが常態化していた。これは一つの選挙区に複数候補を立てる必要のある中選挙区制が採用されていたことによるものである。同じ選挙区の同僚議員は、同じ政党でありながら当選を競い合うライバルだった。立候補者は党本部の応援を独占することができず、選挙区で個人の後援会を組織したり、さらには大物政治家の派閥に加わり、平時はその政局の駒となるのと引き換えに選挙においては派閥の援助を受けた。互いに有権者の歓心を買うため、金権政治の温床ともなった。

自民党は保守政党ながら、55年体制の時代は欧米における保守政権より経済統制の強い社会民主主義に近い位置にあった。野党第一党だった日本社会党が分裂、衰退の一途をたどる中、護送船団方式、農業への補助金交付、地方における公共事業などの強力な政府介入による格差平準化でみられた自民党の「裁量的政策」や「リスクの社会化」政策に対し「戦後の自民党体制は成功した社会主義であった」との皮肉もある。

党章は陰十四菊の中央に「自民」のモノグラム。広報宣伝用として「明るい太陽のもとで、自由にのびのびと暮らす人びと」と名づけたシンボルマークを用いている。また、かつては緑色の象をシンボルマークにしていたこともある。

自民党は多数の政治家を輩出している。90年代以降の政界再編で非自民勢力の大物政治家であっても、元をたどれば自民党出身者が多い。内閣総理大臣では細川護熙羽田孜鳩山由紀夫などが該当する。その他にも小沢一郎亀井静香岡田克也などがいる。

党名

党名は1955年(昭和30年)11月、党結成に際して作られた「新党結成準備会」の「党名委員会」によって広く党内外から公募された。全国から 2,191通もの応募があり、多かった案から順に「日本保守党」が546通、「民主自由党」と「保守党」が同数で187通、「日本国民党」が159通であった。最多となった「日本保守党」については「これでは選挙に不利だ」などの意見が出て採用されず、党内で話し合われた結果、自由民主主義を最も端的に象徴する「自由民主党」が党名となった。

菅直人・鳩山由紀夫が結党した旧民主党や小沢一郎の作った自由党が登場した後は、略称の「自民党」または「自民」を使う頻度が増えていくようになった。機関紙もそれまでの『自由新報』から『自由民主』に改題した。

野党となった2009年(平成21年)9月、党の政権構想会議で「自由民主党」に「世論の拒否反応がある」との理由で党名変更論が出た。「和魂党」「自由新党」などの新党名が提案されたが、批判が相次いだため改名はされなかった。

党史

結党と55年体制成立

1955年の自由党と日本民主党の保守合同による自由民主党結成大会。

1950年代当時、日本の政党は保守・革新両勢力ともに分立状態にあった。戦後の保守政党は戦前の立憲政友会や立憲民政党の系譜を汲む複数の政党として再生されており、大同団結が何度か模索されながらも実現に至らなかった。1955年(昭和30年)10月13日の社会党統一大会において、4年間左派右派に分裂していた日本社会党が再統一したことから、再統一に危機感を覚えた財界の圧力もあって吉田茂鳩山一郎の抗争は終焉し保守合同が実現した。両党の公認だけで当時の定数(467)を上回る534人が立候補していた。

吉田派・反吉田派、党人派官僚派、戦前派・戦後派など複雑な派閥対立要素が絡んでいたため、三木武吉は「10年も一党体制を維持できればマシな方だろう」という程度の認識だった。

結党から最初の総選挙となった1958年(昭和33年)の第28回総選挙で、自民党は追加公認を併せ298議席を獲得(定数467)。社会党は同じく167議席で、両党で議席の99%以上を占めた。こうして自民優位の二大政党制である、55年体制が成立した。

なお、結成直前の1954年(昭和29年)から1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった。CIAは、日本に社会党政権が誕生するのを防ぐことを目的に自民党と民社党に金を渡し、さらに選挙活動に向けたアドバイスを行っていた。現在米国政府はこの事実を認めているが、他方で自民党はこれを否定している。

高度経済成長と党安定期

1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)に渡って岸内閣のもとで繰り広げられた安保闘争によって政治運動が盛り上がり、与党への同情から安保闘争から間もない1960年の第29回総選挙では、社会党と民社党の分裂の間隙を縫って議席を増やした。そして、「所得倍増計画」が策定されて日本は高度経済成長を遂げ、政治運動は影を潜めるようになった。また、池田内閣は国会運営面で「話し合いの政治」の方針を掲げて野党との融和を図り、政局が安定していくようになった。

1963年(昭和38年)10月に党組織調査会会長であった三木武夫が党近代化に関する答申(いわゆる三木答申)を取りまとめた。派閥の弊害について述べており、派閥の解消や政治資金を党に集中化させる答申であったが、総裁の池田は「三木答申なんぞはクソくらえだ。あんなもの何の意味もない」とオフレコで述べるなど各派閥にとって受け入れがたい内容であった。ただ、派閥は形だけではあるが一旦すべて解散した。

1964年(昭和39年)、池田は病気に伴い総理総裁の辞任を表明し、後継に佐藤栄作を指名した。同年には大野伴睦が死去しており、翌1965年(昭和40年)7月には河野一郎が死去、病気療養していた池田も同年8月に死去、と相次いで佐藤のライバルであった党内実力者が減ることとなった。1966年(昭和41年)には黒い霧事件と呼ばれる不祥事が続出して、自民党は批判にさらされ、1967年(昭和42年)の第31回総選挙では不利が予想されたが、新左翼への反発から安定多数を確保した。佐藤内閣は「人事の佐藤」と呼ばれた佐藤が自民党内を巧みに掌握し、総裁四選を果たす中で、日韓基本条約の成立、公害対策の実施、沖縄返還などの政策を実現して、1972年(昭和47年)7月まで7年8か月の長期政権を維持することとなった。

結党から1960年代の終わりまでの時期は、自民党は毎回候補者を減らし、得票率も少しずつ減少させる守りの選挙だったが、全体として安定期だった。一方、新住民層が多い大都市やそのベッドタウンでは比較的弱く、社会党や共産党と票の奪い合いが続いていた。しかし、社会党は離党者による民社党の結成や公明党・共産党の台頭で都市部の地盤を失い、それに比べると自民党は比較的地盤を守った。

保革伯仲と党内抗争

佐藤長期政権後に行われた1972年自由民主党総裁選挙では党の実力者で、いわゆる三角大福と呼ばれた三木武夫、田中角栄大平正芳福田赳夫の四人が立候補し、日本列島改造論日中国交正常化を掲げた田中が総理総裁に就任した。田中内閣は成立早々の1972年(昭和47年)9月には日中共同声明を発表した。この動きに対して、1973年(昭和48年)7月には派閥横断でタカ派の政策集団である青嵐会が結成され、青嵐会は日中国交正常化反対の立場を取って活動した。

田中内閣は日本列島改造論を基礎とした、高速道路建設や新幹線整備など公共事業費を増額した1973年度予算を編成した。しかし、同年10月にはオイルショック(第一次石油危機)が起こり、のちに狂乱物価と呼ばれたインフレーションが発生して日本経済は混乱状態に陥った。田中は同年11月にはライバルで均衡財政志向であった福田を蔵相に任命して対応に当たらせた。福田は予算の圧縮、金融引締めなどを本格的に行うようになり、田中内閣は需要喚起政策から需要抑制策政策へと政策転換をしていくようになった。1974年(昭和49年)には、日本は戦後初めて経済成長率がマイナスとなった。1975年(昭和50年)には経済成長率はプラスとなったものの、この頃を境に、日本は高度経済成長時代から安定成長時代に移行していくようになった。

1974年7月の第10回参院選では過半数の議席を維持したものの、与野党の議席数の差がわずかとなり、「保革伯仲」(伯仲国会)と呼ばれる時代となった。同年12月には田中金脈問題で田中は総理総裁を辞任した。田中の後継総裁選挙は行われず、自由民主党副総裁の椎名悦三郎による指名(いわゆる椎名裁定)と両院議員総会の承認により三木武夫が総理総裁に就任した。三木は党の近代化や政治浄化、不況の克服を掲げた。

1976年(昭和51年)2月にはロッキード事件が発覚した。同年6月には党所属の河野洋平山口敏夫ら6人の国会議員が離党し、「腐敗との決別」をキャッチフレーズとした新自由クラブを結成した。同年7月には東京地検特捜部が田中角栄を逮捕し、田中は自民党を離党した。総理大臣経験者の逮捕は党内外に衝撃を与えた。同年8月には田中は受託収賄罪外為法違反容疑で起訴された。三木や法務大臣の稲葉修はロッキード事件解明に積極的な立場を取ったが党内は反発し、三木おろしの動きが強まった。党内の動きに対して三木は対抗し、反発する閣僚を罷免して衆議院を解散する構えを見せたが結局、任期満了まで解散しなかった。同年12月に行われた第34回総選挙で自民党は結党以来初めて過半数割れとなった。三木は選挙の責任を取り総理総裁を辞任した。以降国会は与野党伯仲の不安定状態が続いた。さらに田中は離党しながらも党内外から一本釣りをする最大派閥のオーナーとしてふるまい続け、のちの政治改革運動と自民党の下野につながってゆく。

1976年12月に福田赳夫が執行部による推挙と両院議員総会の承認により総理総裁に就任した。この際には福田が先に総理総裁を一期だけ務めた後、大平に交代することを示唆した大福密約があったとされる。福田内閣は当初、内閣支持率は低かった が、景気回復や外交で成果を上げていくようになった。また、伯仲国会という状況下ではあったが執行部が野党の一部に対して部分連合を呼びかけるなど協調的でもあり、それほど問題とならなかった。なお、自民党は1977年(昭和52年)に党員、党友参加による総裁選の導入を決めた。また、党友組織の自由国民会議も結成した。さらに派閥解消が唱えられ、各派閥は形だけではあるが解散した。1978年(昭和53年)の自民党総裁予備選挙に福田は大福密約を無視して立候補するも、田中派の支持に支えられた大平が勝利し、福田は本選進出を辞退し、大平が総理総裁に就任した。

大平は1979年(昭和54年)10月の第35回総選挙一般消費税の導入を公約として掲げたが、自民党は前回の衆議院議員総選挙に続いて過半数割れとなった。党内で大平の責任が追及されたが、大平は辞任要求には応じず、選挙後の首班の座を巡って事実上の党内分裂状況に陥った。特別国会での首班指名選挙の投票の結果は僅差であったが大平が勝利した。同年11月の第2次大平内閣の発足で一旦、抗争は収まったがこの抗争は後に四十日抗争と呼ばれた。

1980年(昭和55年)5月16日、社会党が衆議院に大平内閣不信任決議案を提出した。自民党内で反主流派となっていた三木派福田派などの議員69人は本会議を欠席して不信任決議案は可決され、史上初の衆参同日選挙となった。なお、この解散劇は予測に反したハプニング的な解散であることからハプニング解散と呼ばれた。総選挙が公示された5月30日に大平は心筋梗塞の発作を起こして入院し、選挙期間中の6月12日に急死した。6月22日に行われた衆参同日選挙の結果は大平が死去したものの自民党の勝利となり、衆参ともに過半数の議席を確保し安定多数を得た。大平の後継の総理総裁には大平派鈴木善幸が就任し「和の政治」を掲げて党内融和と国内融和に尽力した。

二重権力構造と保守回帰

1980年代に入ると、革新自治体も減少し、都市部を中心に自民党への回帰現象が起こった。

1982年(昭和57年)11月の党総裁選挙に鈴木善幸は立候補せず、中曽根康弘河本敏夫安倍晋太郎中川一郎の4人が立候補した。党員党友参加による予備選挙で中曽根康弘が半数を超える票を獲得したため、2位以下の候補は本選挙を辞退し、中曽根が総理総裁に就任した。中曽根派は小派閥であり、党内基盤が弱く、党総裁選挙では党内最大派閥である田中派の力を借りる形になった結果、田中派の議員は党と内閣人事で主要ポストを占めて優遇されたため、第1次中曽根内閣は田中角栄の影響力の強さをマスコミや野党から指摘され、「田中曽根内閣」や「直角内閣」などと呼ばれた。

中曽根はスローガンとして「戦後政治の総決算」を掲げた。具体的には行政改革公社民営化規制緩和、民間活力の活用などの新保守主義的な政策を打ち出した。また、教育改革国防の見直し、靖国神社公式参拝問題などの点で保守的な言動を行った。外交面では1983年(昭和58年)1月の訪米の際でのロナルド・レーガン大統領との会談で「日米両国は太平洋を挟む運命共同体」と発言するなど日米関係強化に努め、冷戦下での西側諸国の一員としての立場を明確に表明した。

1983年(昭和58年)10月12日、東京地裁はロッキード事件に関して田中角栄に有罪判決を下した。野党は田中に対して議員辞職を求めたが田中は議員辞職を拒否し、国会は紛糾した。野党は国民の審判を求めて衆議院解散を要求した。田中も有罪判決後早期の選挙による決着を図った。結局、衆参両院議長のあっせんもあり、中曽根は衆議院を解散した(田中判決解散)。同年の第37回総選挙で公認候補の当選者数が衆議院での過半数を割る(これまで同様、保守系無所属議員の追加公認で過半数を確保)と、中曽根は「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する。政治倫理を高揚し、党体質の抜本的刷新に取り組み、清潔な党風を確立する」との総裁声明を発表した。12月27日、自民党は新自由クラブと連立政権(第2次中曽根内閣)を組んで安定多数を確保した。

1984年(昭和59年)に鈴木善幸や福田赳夫らが田中派大番頭の二階堂進を総裁に推す二階堂擁立構想が同じ田中派の金丸信によって潰されると、やがて田中派は分裂の兆しを見せ始める。ついに1985年(昭和60年)2月に田中派内で竹下を支持する勢力が田中に反旗を翻す形で派中派である創政会(のちの経世会)を結成した。田中は木曜クラブを離脱した竹下に対して「同心円でいこう」と融和的発言を行ったが、同月、脳梗塞で入院した。田中は障害が残って政治活動は出来なくなり、かつての政治力を失った。代わって、田中派を離脱した竹下が金丸信の後ろ盾により台頭するようになる。

中曽根主導の下、1986年(昭和61年)6月に国会は解散(死んだふり解散)され、7月の衆参同日選挙(第38回総選挙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2020/08/07 04:17

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