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興福寺とは?

 | 画像提供依頼:明治維新前の食堂の実測図の画像提供をお願いします。(2017年11月)
【興福寺】


五重塔と東金堂(共に国宝)
【所在地】
奈良県奈良市登大路町48番地
【位置】
北緯34度40分59.7秒
東経135度49分52.2秒
座標: 北緯34度40分59.7秒 東経135度49分52.2秒
【山号】
無し
【宗派】
法相宗
【寺格】
大本山
【本尊】
釈迦如来
【創建年】
天智天皇8年(669年)
【開基】
藤原不比等
【札所等】
西国三十三所第9番(南円堂)
南都七大寺第2番
西国薬師四十九霊場第4番(東金堂)
神仏霊場巡拝の道第16番
大和北部八十八ヶ所霊場 第62番(菩提院)
【文化財】
五重塔、木造弥勒仏坐像、乾漆八部衆像ほか(国宝)
南円堂、木造薬王菩薩、薬上菩薩立像ほか(重要文化財)
世界遺産
【地図】

法人番号
7150005000123

地理院地図 Googleマップ 興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

目次

  • 1 歴史
    • 1.1 創建
    • 1.2 南都北嶺
    • 1.3 平重衡の兵火による焼失
    • 1.4 廃仏毀釈による破壊
    • 1.5 現在
  • 2 門跡
    • 2.1 一乗院門跡
    • 2.2 大乗院門跡
    • 2.3 両門跡と世俗権力
  • 3 伽藍と文化財
    • 3.1 中金堂
    • 3.2 東金堂
    • 3.3 五重塔
    • 3.4 北円堂
    • 3.5 南円堂
    • 3.6 三重塔
    • 3.7 西金堂跡
    • 3.8 大湯屋
    • 3.9 菩提院大御堂
    • 3.10 本坊
    • 3.11 食堂跡
    • 3.12 国宝館
  • 4 文化財
    • 4.1 国宝
    • 4.2 重要文化財
  • 5 御詠歌
  • 6 札所
  • 7 アクセス
  • 8 近隣施設
  • 9 参考文献
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

歴史

創建

藤原鎌足夫人鏡大王の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現・京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年と言える。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

その後も、天皇皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。

南都北嶺

興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して、事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。

鎌倉室町時代の武士の時代になっても大和武士 と僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は守護守護大名を置くことができなかった。よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。安土桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石とされた。

平重衡の兵火による焼失

興福寺は創建以来、度々火災に見舞われ、その都度再建を繰り返してきた。中でも治承4年(1180年)、治承・寿永の乱(源平合戦)の最中に行われた平重衡南都焼討による被害は甚大で、東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。 この時、焼失直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶らが奔走。朝廷や藤原氏との交渉の結果、平氏政権が朝廷の実権を握っていた時期に一旦収公されて取り上げられていた荘園が実質的に興福寺側へ返却され、朝廷と藤原氏長者、興福寺の3者で費用を分担して、復興事業が実施されることとなった。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

江戸時代享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂南大門などは再建されなかった。

廃仏毀釈による破壊

江戸時代は2万1,000寺領を与えられ保護された。慶応4年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰(神仏習合)が行われていた興福寺は大きな打撃をこうむった。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は還俗し、それぞれ水谷川家、松園家と名乗った(奈良華族)。子院は全て廃止、寺領は1871年(明治4年)の上知令で没収され、僧は春日社の神職となった。境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。一乗院跡は現在の奈良地方裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔三重塔さえ売りに出る始末だった。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手がつき、買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうとしたが、延焼を心配する近隣住民の反対で火を付けるのは取りやめになったという。ただし、五重塔が焼かれなかった理由はそれだけでなく、塔を残しておいた方が観光客の誘致に有利だという意見もあったという。

行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。 しかし、寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、いわゆる「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、この時の名残である。

現在

1998年に世界遺産に登録され、1999年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂と南大門の再建が計画されている。中金堂は2018年10月に落慶法要を迎えた(7日~11日)。

門跡

かつて興福寺には「興福寺両門跡」と呼ばれる2つの子院があった。一乗院と大乗院である。

一乗院門跡

一乗院は、平安時代後期の第6代門主覚信が関白藤原師実の子息だったことをきっかけに、代々、摂家あるいは皇族が門主を務める門跡寺院の一つとなった。その後、五摂家分立以降は近衛家の管領するところとなり、近衛家流(近衛家・鷹司家)の子弟が門主となる例が多かった。ちなみに足利義昭は、もともと近衛稙家猶子として法名「覚慶」を名乗り一乗院の門跡となっていた。兄義輝の殺害にともない還俗し、織田信長の援助を得て室町幕府将軍となったものである。大和の国衆で後に戦国大名化した筒井氏は一乗院の衆徒の筆頭であった。江戸時代に入って、後陽成天皇の皇子尊覚が門主となったのをきっかけに親王が門主を務めるケースも増えた。たとえば、久邇宮朝彦親王は、元は一乗院の門主で、その後に青蓮院へ移されたものである。摂家や親王家と同様に諸大夫以下の専属の家司もおり、摂家・親王家と同格の立場を誇っていた。また奈良だけではなく、京都今出川桂宮邸と御所の間に「里坊」と呼ばれる屋敷を持っていた。

大乗院門跡

大乗院は、これも藤原師実の子息である尋範が門主となったのをきっかけに門跡寺院となった。こちらは九条家の管領に属し、九条流(九条家二条家一条家)の子弟が門主を務めるところであった。戦国時代には、日記『大乗院寺社雑事記』で著名な門主尋尊(一条兼良の子息)が出ている。また、足利義昭が将軍の地位を追われた後と、義昭のひとり息子が出家して法名を義尋と名乗り、大乗院の門主となっている。一乗院が筒井氏を衆徒としたように、大乗院も古市氏を衆徒としている。諸大夫以下の家司や里坊を有し、摂家・親王家と同様の格式を誇ったことは一乗院と同様であるが、親王が門主となった例はない。

両門跡と世俗権力

興福寺の最高職である別当は、一乗院門主と大乗院門主が交互に就任する習わしだった。ただし、平家による南都焼き討ち直後の時期に第44代別当となった信円 に限っては、例外的に一条院門跡と大乗院門跡の双方を、他の幾つかの院家と共に兼帯している。また、両門跡に属する門主以外の者が別当に就任した例もある。

また、興福寺がその権限を行使していた大和国守護職については諸説ある。別当が権限を有していた説、両院の門主が共同で権限を行使していたとする説、門主が別当の時は別当が全権を行使し、それ以外の者が別当の時は別当と両院が共同で権限を行使していたとする説である。江戸時代には世俗的権力を失い、幕府から一定の知行(一乗院が1,492石、大乗院が951石)を与えられた単なる寺院となった。両院とも明治の廃仏毀釈で廃寺となった。

伽藍と文化財

興福寺の仏像」も参照

かつての興福寺には、中金堂(ちゅうこんどう)・東金堂(とうこんどう)・西金堂(さいこんどう)という3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像を安置していた。寺の中心部には、南から北に、南大門中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には、南から、五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には、南から、南円堂(なんえんどう)、西金堂、北円堂(ほくえんどう)が建っていた。このほか、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。これらの堂宇は創建以来、火災に度々見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。

中金堂

再建された中金堂
仮講堂(右)と再建前の中金堂基壇(左)
仮講堂(右)と再建後の中金堂(左)

興福寺中金堂( - ちゅうこんどう)は、藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれている。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、興福寺国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価なマツ材が使用され、瓦も安物が使われ、経年による雨漏りがひどかった。1974年に中金堂裏側の講堂跡に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を、入母屋造から寄棟造にし、向拝を撤去するなどの大改造により外観を変えて移築したもの)が建てられ、本尊の釈迦如来坐像などはそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されている。なお、中金堂解体後の発掘調査も終了し、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が、創建1,300年となる2010年に着工し、2018年10月に落慶した。

2017年、翌年に新・中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を新・中金堂に移した。中金堂内には興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)のほか、以下の仏を安置。

なお、仮金堂は名称を仮講堂に改め、国宝館にあった阿弥陀如来坐像を新たな本尊として安置した。

東金堂

東金堂
東金堂内の諸仏

現存する興福寺東金堂は、 室町時代中期の応永33年(1426年)に再建された。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

興福寺東金堂は、神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建した。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建の室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。堂内には以下の諸仏を安置する。

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五重塔、昼景
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五重塔、夜景

北円堂
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無著
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世親

五重塔

現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い。

北円堂

現存する興福寺北円堂は、鎌倉時代前期・承元4年(1210年)の再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

興福寺北円堂(国宝)は、養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇元正天皇の両女帝長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)頃の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。現在、回廊の復元計画中。

南円堂

南円堂

現存する興福寺南円堂は、江戸時代中期。年代:寛保元年(1741年)の再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。1986年(昭和61年)12月20日文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている。

興福寺南円堂は、藤原北家藤原冬嗣が、父・内麻呂追善のため、弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。現在の建物は寛政元年(1789年)の再建。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。堂は西国三十三所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年秋、2008年秋、2013年春に特別開扉が行われた)。堂内には本尊である不空羂索観音坐像のほか、四天王立像と法相六祖像を安置していたが、法相六祖像は国宝館に移されている。堂の前に生える「南円堂」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。

三重塔、秋景

三重塔

現存する興福寺三重塔は、鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。本瓦葺の三間三重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日文化財保護法に基づく国宝に指定されている。

興福寺三重塔は、康治2年(1143年)、崇徳天皇中宮皇嘉門院によって創建された。治承4年(1180年)の大火による焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。

西金堂跡

興福寺西金堂は、光明皇后が、母・橘三千代一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として天平6年(734年)に創建した。平安時代に2回、鎌倉時代に1回、被災したが、その都度に再建されてきた。その後、江戸時代の享保2年1月4日(グレゴリオ暦 1717年2月14日)に講堂からの出火によって中金堂や南金堂と共に焼失した。この時は資金難のために再建は叶わず、基壇を残すのみという状態になってしまった。そうして今は西金堂跡として往時を偲ぶばかりとなっている。 ただ、堂内に納められていた寺宝には焼失を免れて今日まで伝えられているものが少なくない。釈迦如来像(伝運慶作。体部は焼失し、今は頭部のみが国宝館に安置されている)、両脇侍像(薬王菩薩像と薬上菩薩像。今は中金堂に両脇侍像として安置)、梵天帝釈天像(奈良時代の作。明治時代に国外へ流出し、今は米国サンフランシスコアジア美術館が所蔵)、十大弟子像(奈良時代の作。今は10躯中の6躯を国宝館などに安置)、八部衆像(奈良時代の作。今は国宝館に安置)、金剛力士像(伝定慶作。今は国宝館に安置)、四天王像(所在不明)、華原磐(「かげんけい」と読む銅製楽器で、奈良時代の作。今は国宝館に安置)などがそれである。

大湯屋

現存する興福寺大湯屋は、室町時代中期・応永年間(1394-1427年)頃の再建。平面は桁行四間、梁間四間。屋根は一重、本瓦葺で、西面を入母屋造、東面を切妻造とする。1953年(昭和28年)3月31日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている。

興福寺大湯屋は、五重塔の東方に建つ。五重塔と同じ、応永年間(1394-1427年間)の頃に再建された。

菩提院大御堂

詳細は「菩提院大御堂」を参照

五重塔の南、三条通りを渡ったところに建つ、興福寺の子院である。現在の堂は天正8年(1580年)の再建で、本尊阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。

本坊

興福寺本坊( - ほんぼう)は、境内東方に位置する。一般には公開されていない。

食堂跡

興福寺食堂(じきどう)は、奈良時代に創建され、焼失と再建を繰り返したが、1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊された。跡地には、1959年(昭和34年)になって寺宝を納める耐火式宝物庫「国宝館」が建設された。旧食堂の遺構は国宝館の地下にそのままの形で保存されている。

国宝館

詳細は「興福寺の仏像」を参照

国宝館(こくほうかん)は、文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、1959年(昭和34年)、食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート構造であるが、外観は、創建時の食堂、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。2010年3月にリニューアルオープンし、従前に比べ展示点数が増えた。文化財に与える悪影響が少ないLED照明が採用されたことにより、多くの仏像がガラスケースなしで見られるようになった。現館長は金子啓明。なお、国宝館は耐震改修工事のため、2017年1月から12月までの1年間休館し、2018年1月に再開した。。

阿修羅像/八部衆像の1躯。
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出典:wikipedia
2018/11/21 10:51

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