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若松勉とは?

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若松 勉
【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
北海道留萌市
【生年月日】
(1947-04-17) 1947年4月17日(71歳)
身長
体重 168 cm
76 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
外野手
【プロ入り】
1970年 ドラフト3位
【初出場】
1971年4月11日
【最終出場】
1989年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴

  • ヤクルトスワローズ (1986 - 1989, 1993 - 2005)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2009年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


若松 勉(わかまつ つとむ、1947年4月17日 - )は、北海道留萌市出身の元プロ野球選手(外野手)・野球指導者・監督野球解説者野球評論家

現役時代はヤクルトアトムズ・スワローズで長きにわたって活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・二軍監督・監督を務めた「ミスタースワローズ」。また、小柄な体格ながら巧みなバッティングを披露し、数々の記録を打ち立てた事から「小さな大打者」の異名を持つ。

年間打率3割12回は川上哲治と並んで歴代3位。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
    • 1.3 引退後
  • 2 人物
    • 2.1 エピソード
    • 2.2 北海道が誇る大スター
  • 3 詳細情報
    • 3.1 年度別打撃成績
    • 3.2 年度別監督成績
    • 3.3 タイトル
    • 3.4 表彰
    • 3.5 記録
    • 3.6 背番号
  • 4 関連情報
    • 4.1 出演番組
    • 4.2 CM出演
    • 4.3 著書
    • 4.4 漫画・アニメ
  • 5 脚注
    • 5.1 注釈
    • 5.2 出典
  • 6 関連項目
  • 7 外部リンク

経歴

プロ入り前

北海高校では2年生から二塁手のレギュラー。チームは1964年夏の甲子園に進出するが、若松は病気欠場を余儀なくされる。しかし翌1965年夏の甲子園には、背番号14ながら三番打者、右翼手として出場。1回戦で佐賀商に敗退するがこの試合で4盗塁を決め、その俊足が注目される。卒業後は電電北海道に進む。北海道拓殖銀行大昭和製紙北海道など強豪が多く、チーム自体は都市対抗に出場できなかったが、補強選手として1967年から4年連続都市対抗に出場。1967年の大会では拓銀に補強され、2回戦で本塁打を放つなど中心打者として活躍し、拓銀の準々決勝進出に貢献した。

公称168cm(自称166cmだった)という小柄な体型で、プロ選手としてやっていく自信がなかったため、本人も周囲もプロ入りには消極的だった。しかし1970年秋に、翌シーズンからヤクルトアトムズを指揮することになった三原脩新監督の婿で、ヘッド兼打撃コーチの中西太が若松の素質に目を付け、プロ入りを勧めた。プロ入りを嫌って家を空けて逃げ回る若松のもとにはスカウトが7度も訪れ、最後には中西もスカウトに同行して、不安視していた父親と夫人を「体が小さくてもやれる」と説得したので、最終的に若松も夫人に「ダメだったら北海道に帰って二人で焼き鳥屋でもやろう」と言ってプロ入りを決意した。

現役時代

1970年のドラフト3位でヤクルトアトムズに入団。背番号は「57」。指名の第一報は電話で球団のスカウトから伝えられたが、その声が所属チームの監督そっくりだったらしく、若松は「監督、何を冗談言ってるのですか」と信じなかったという(本人は社会人入りして5年経過しても声が掛からなかったこともあって、プロ入りはないと決め込んでいた)。若松は北海道から東京に夫人と共に上京することになり、入団発表でも夫人を同伴している。

入団後は、プロ入り前から若松の素質に目をつけていた中西コーチとのマンツーマントレーニングで猛練習を積み重ねた。中西のあまりの熱の入れように、三原がなぜお前はそこまで若松に入れ込むのかと尋ねると、中西は「一生懸命やってるから、最後までついて来て人一倍練習やってるし、教えないわけにはいかない」と答えたという。その猛練習の甲斐あって、1年目の1971年から左翼手のレギュラーに定着。112試合に出場して規定打席未満(305打席)ながら打率.303を記録した(同年のセ・リーグの3割打者は長嶋茂雄のみ)。同年オフに背番号を「1」に変更。

2年目の1972年には打率.329、リーグ2位の20盗塁という成績を残して首位打者を獲得し、リーグを代表する外野手となる。1973年もリーグ2位の打率.313を記録する。1972年と1973年は2年連続でリーグで打率3割以上が2人だけだったが、どちらの年も3割を記録したのは若松のみだった。1974年は全試合出場を果たし、リーグ5位の打率.312で3年連続で3割を残した。

1975年はプロ入り後初めて打率3割を逃すが、1976年は張本勲谷沢健一と激しい首位打者争いを繰り広げ、終盤に失速したものの打率はリーグ3位の.344を記録した。しかし若松自身は首位打者を逃した悔しさから練習量をさらに増やしたという。翌1977年より中堅手にコンバートされ、同年に打率.358、20本塁打という自己最高の成績で2度目の首位打者を獲得し、ヤクルトの2位躍進の原動力となる。三振数は503打席に立ってわずか14だった。

1978年には大杉勝男チャーリー・マニエルと共にクリーンナップを組む。開幕時こそ腰痛腱鞘炎に悩まされ、5月初めの時点では打率.228と不振に陥るが、5月6日の大洋戦で3イニング連続本塁打を記録するとそこから復調した。最終的に水谷実雄と首位打者争いを繰り広げてリーグ2位の打率.341を記録するなど活躍し、チームは開幕から129試合連続得点という記録を打ち立てて初優勝。若松は自身初のセ・リーグMVPに選ばれた。日本シリーズでは第5戦に本塁打を放って勝利に貢献し、優秀選手賞を獲得。シリーズ第7戦までもつれた対決はヤクルトが勝利し、チームは初の日本一となった。

1979年にジョン・スコットが入団したため中堅手から再び左翼手に回る。1980年にはリーグ2位の打率.351、1983年もリーグ2位の打率.337を記録。1985年10月9日の対阪神戦で5回表にリチャード・ゲイルから右前安打を放って史上21人目となる通算2000本安打を達成。日本プロ野球名球会会員となる。1986年から打撃コーチ補佐兼任となり(1989年はコーチに昇格)、監督の土橋正幸栗山英樹をスイッチヒッターに転向させるよう進言し、栗山に対して熱心に打撃指導を行った。その甲斐あって栗山はこの年、規定打席未満(258打席)ではあったが打率.301をマークし、右翼手のレギュラーを獲得している。

1987年4月21日の対中日戦で、守備の際にマーク・ブロハードと衝突して負傷する。この怪我の影響で、持病の腰痛が悪化して守備につくことが難しくなったため、監督の関根潤三は若松を代打専門で起用するようになった。この年には代打打率.444(36打数16安打)を記録。以後引退までの3年間、代打の切り札として活躍し、通算代打成績は打率.349(258打数90安打)12本塁打70打点という好成績であった。

1989年限りで現役引退。ヤクルト一筋19年、42歳まで現役を全うした。通算打率.31918は歴代2位(2017年終了時点)であり、日本人選手としては歴代最高記録である(4000打数以上対象、NPBの最高記録はレロン・リーの.320、2017年終了時点)。現役時代に付けていた背番号「1」は、若松の引退後、「永久欠番に」との署名が多く集まり、以降背番号「1」は池山隆寛岩村明憲青木宣親山田哲人といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。若松は球団社長の相馬和夫から監督候補として期待されており、相馬の意向を受けた関根から指導者としてのレクチャーを受けていた。そのためオーナーの松園尚巳による長嶋茂雄監督招聘構想が完全に頓挫した8月頃には、引退と同時に次期監督への就任が濃厚と噂されたが、球団内には「すぐ監督してもうまくいかない」と危ぶむ声もあり、また本人も難色を示したため話は立ち消えとなって、オーナー代行の桑原潤が推す元南海ホークス監督の野村克也が新監督に就任した。

引退後

引退後は1990年から1992年までテレビ朝日文化放送解説者と日刊スポーツ評論家。

1993年一軍打撃コーチとしてヤクルトに復帰し、1995年から1996年まで二軍監督、1997年から1998年まで再び一軍打撃コーチ、1999年から野村の後を受けて監督に就任し2005年まで務めた。

監督就任にあたってはスローガンに「データ+スピード&パワー」を掲げた。これは選手の地力(スピードとパワー)を向上させることで、「ID野球」を主唱した前監督野村時代のようなデータ重視の野球だけではなく、根本からチーム力を底上げしようと図ったものであった。若松は在任中にこの目標を完全に達成することはできなかったが、日本一に加えて球団史上初の4年連続Aクラス入りを果たした。野手の起用においては、生え抜き組・移籍組を問わずベテラン選手を多く起用する傾向があったものの、一方で岩村明憲・青木宣親らのように若松の下で大きく成長した若手選手もおり、新旧交代に著しい支障をきたすことは無かった。投手の起用に関しては率直に自らの本分ではないことを認め、おおむね投手コーチの小谷正勝伊東昭光に一任していた。また、現役引退後は球団広報を務めていた杉村繁の指導者としての資質を買って打撃コーチ補佐に抜擢している(のち打撃コーチに昇格)。

2001年川崎憲次郎がFAで移籍、ジェイソン・ハッカミーが退団、伊藤智仁山部太が故障離脱と先発投手陣に深刻な不安を抱えた状態で開幕を迎え、苦戦が予想された。しかし、ベテラン古田敦也がチームを牽引し、主砲ロベルト・ペタジーニを筆頭とする強力打線が猛威を振るうと、懸念されていた投手陣も、2年目の藤井秀悟が14勝をあげて最多勝を獲得し、テスト入団の入来智前田浩継や8月に加入したケビン・ホッジスらが奮闘して穴を埋め、チーム防御率3.41とリーグトップの数字を残して戦前の不安を払拭し、終盤で巨人を追い抜いてリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは近鉄と対戦し、第1戦の石井一久の好投、古田の攻守にわたる活躍により、4勝1敗で日本一に輝いた。

2004年プロ野球再編問題では、大阪近鉄バファローズオリックス・ブルーウェーブへの吸収合併に反対する選手会の署名活動に参加し、自らも反対の署名をしている。2005年10月14日、本拠地神宮球場でのシーズン最終戦(対横浜)終了を以て、7シーズンにわたる監督生活を終えた。退任記者会見では「1度しか日本一になれず申し訳なかった」と発言した。就任前年に親会社で発生したデリバティブ事件のあおりを受けて球団に投じられる予算が激減し十分な補強を得られない状況下にありながら、チームを立て直して日本一に導き、その後の3年間も連続してAクラスを保ったにもかかわらず、自らの功績を誇示するどころか、かえってこのようなコメントを発するのは異例のことではあったが、実直でチーム一人ひとりへの思いやりが強い若松ならではの一言と評された。

ヤクルト監督時代は7年間でAクラス4回(連続)、優勝・日本一1回という結果を残した。若松はヤクルト球団史上初となる生え抜きの優勝監督であり、現時点ではヤクルトで選手・コーチ・監督の全ての立場でリーグ優勝と日本一を経験した唯一の人物でもある。若松の下でプレーした選手はおおむねその人柄を慕うとともに指導者としての手腕を高く評価しており、古田敦也は「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」と語り、アレックス・ラミレスは特に尊敬する監督として来日時の監督であった若松の名を挙げている。

2006年より、フジテレビジョン(2008年まで)・北海道文化放送ニッポン放送解説者・サンケイスポーツ評論家に就任。2009年1月13日野球殿堂表彰者選考に於いて競技者部門のプレーヤー表彰で選出され、野球殿堂入りを果たした。同年7月12日神宮球場で行なわれたヤクルト対横浜戦は皇太子徳仁親王一家が観戦した台覧試合となり、ヤクルトOBの若松が解説役を務めた。12月3日には若松の野球殿堂入りを祝うパーティーが行われ、加藤良三コミッショナー、王貞治長嶋茂雄、金田正一、中西太、古田敦也、岩村明憲、五十嵐亮太、青木宣親ら約1,100人が出席した。

2011年にはヤクルトの浦添キャンプで臨時打撃コーチを務めた。

人物

 | 
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2012年2月)

エピソード

人柄は温厚で腰が低く、誰に対しても礼儀正しく接するため、年俸交渉でも球団と揉めることがほとんどなかった。球界を代表する打者として毎年好成績を残し、名球会入りするほどの選手であったにも関わらず、現役時代の推定最高年俸は5,200万円(1988年・当時のヤクルト球団の日本人最高年俸)であった。

現役時代の監督でありヤクルトを日本一に導いた広岡達朗を尊敬しており、広岡が球団社長と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一の主力選手といわれる。野村の退任を受けてヤクルトの監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。

現役引退を発表した記者会見では終始涙ながらの会見となり、発言内容よりも号泣する若松にその純粋な人柄が強く映し出され、非常に印象深いものとなった。また当時「FNNスーパータイム」の週末版スポーツコーナーを担当していた有賀さつき(当時フジテレビアナウンサー)からインタビューを受けて、既に引退が決まっていたにもかかわらず「来年も頑張ってください」と声を掛けられてしまった。

現役引退後にヤクルトの打撃コーチや二軍監督を務めた頃は、生真面目な性格のためか選手やチームのことを考えすぎてストレスを壊したり、腰痛に悩まされることも多かった。一軍監督時代には、シーズン終盤になってようやく当年初の一軍昇格を果たした選手に対して「遅くなってごめんな」と声を掛けてしまい、一軍チーフコーチの渡辺進から「もっと毅然と接しないと」と窘められたこともあった。また監督時代には自前の戦力が中心ながらその隙間を埋めるような形でトレードを行っていたが、いずれも球団主導で、若松自身は監督退任後に「私は誰も、チームからは出したくなかった」と明らかにしている。

監督としては各部門ごとに責任者を置いて、その場をそれぞれに一任するマネジメントを行っていた。選手の自主性も重んじており、若松がヤクルトの監督であったころはベテラン選手も練習メニューが自由であった。古田敦也はこれについて、プロ野球選手が自分の立場を守るのは自己責任であると考えさせられた、という趣旨のコメントを自著に残している。

純朴ゆえに口下手でもあり、若松と行動を共にすることの多かった現ヤクルト監督の小川淳司によれば、イベント等でのあいさつが終わる度に「今のでよかったか? オレ、変なこと言ってなかったか」と尋ねられていたという 。また、現役時代、1978年にMVPを獲得した際には、「タイトルのない僕でいいのか」と発言している。

若松の口下手で実直な人柄を最も印象づけたのが、2001年10月に監督として初のリーグ優勝を達成した際のインタビューで発した「ファンの皆様、本当にあの〜あの…おめでとうございます」という一言(本当は「ファンの皆様、本当にありがとうございます」と言うつもりだった)であるが、むしろ場内は大爆笑に包まれて和やかなムードになり、同年の流行語大賞の語録賞に選ばれた(2015年のヤクルトのリーグおよびクライマックスシリーズ優勝時、2001年優勝メンバーでもあった監督の真中満はインタビューの際にこの言葉を再度使用した)。さらにシーズン本拠地最終戦でのファンへの挨拶では「一戦、一戦、頑張りますので、オールスターでも、いや、日本シリーズでも皆様のご声援よろしくお願いします」と言ってしまい、またしても会場は大ウケとなった。そして日本シリーズ優勝を達成した際のインタビューでは「本当にファンの皆様、改めまして、日本一、おめでとうございます!!」と堂々とファンに叫んだ(先のリーグ優勝の後に「いや、元々からおめでとうございますって言おうと思ってたんだよ」と語っていたが、今度は緊張せずにしゃべることができたという)。

2001年のリーグ優勝および日本シリーズ優勝の胴上げの際に、石井一久が若松の足を高く持ち上げたため、体重が軽い若松は空中で一回転してしまった。若松は選手時代から腰痛に悩まされていたが、この宙返り以後痛みがひどくなり、監督としての最終試合前に退任セレモニーで選手達による胴上げが企画されているのを知ると、腰痛を理由により固辞する旨を公言していた。しかし、セレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れた。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。

普段から物静かで人前で怒りをあらわにするようなことは滅多になく、判定に不服で抗議に出ようとした際に渡辺進コーチにベルトを引っ張られてベンチに下がることもあったが、唯一2004年6月9日の対横浜戦では7回に横浜・佐伯貴弘の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生唯一の退場処分を受けた。

その一方で、普段の実直で真面目な性格ゆえにあまり目立たないものの冗談好きで茶目っ気のある部分も持ち合わせており、優勝した2001年オフのファン感謝デーではゲストで登場した間寛平のリクエストに応じて、監督としての威厳にこだわらず寛平の持ちギャグである「かい~の」を実演してその場にいた全選手をコケさせ、集まったファンを大爆笑させたこともある。

プロ入り一年目の春季キャンプの時に、キャンプ地の鹿児島県湯之元から実家の北海道留萌市へ毎晩のように公衆電話をかけていたが、遠距離の通話料は高額なうえに、当時の電話機は10円玉しか使用できなかったので、あらかじめ用意しておいた10円玉があっという間になくなってしまった。そこでとある先輩選手が「電話機を横に倒すと10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と冗談を言うと、若松は「先輩、僕は電電公社にいましたがそんな話は聞いたことがありません。何かの間違いじゃないですか」と大真面目に答えたので、これは恐ろしく素直な男が入団してきたと評判になったという。

プロ入り時、所属していた日本電信電話公社・北海道野球部の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された [2]。現在、この応援歌は専用応援歌の無い左打者用の汎用テーマ「でんでんマーチ」として使用されている。若松の個人応援歌(ペレス・プラード「闘牛士のマンボ」。2011年までの青木宣親専用のチャンステーマとして使用)とは別物である。

1980年代前半、ヤクルト本社の「ヤクルト野菜ジュース」のコマーシャルモデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と緑黄色野菜を絡ませて「グリーンヒット」)他、ストライカー(スポーツドリンク。現在は終売)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。

荒井幸雄真中満のような、身長170cm前後の体つきが小さい野手がヤクルトに入団すると「若松2世」と呼ばれる。荒井と真中は共に若松の指導を受け、主力選手としてリーグ優勝・日本一に貢献している。

団塊の世代にあたる。1978年日本一当時のスワローズの主力選手では安田猛松岡弘大矢明彦昭和22年度生まれの同級生。中でも大矢は親友で現役当時から公私共に親しい関係である。

北海道が誇る大スター

1978年に留萌市民栄誉賞、1981年に道民栄誉賞を受賞するなど、北海道での若松の人気は非常に高い。

2004年まで年に一回札幌ドーム(開場以前は札幌市円山球場)で開催されていたヤクルト主催試合は、道内での若松人気に加えて、当時は佐藤真一五十嵐亮太米野智人など北海道に縁のある選手が多数在籍していたこともあり、巨人戦や阪神戦に次いで多くの観客で埋まっていた(日本ハムの札幌移転とセ・パ交流戦開始に伴い打ち切り)。

また日本ハムの札幌移転決定を受けて道民に初代監督としてふさわしい人物をアンケートしたところ、当時まだヤクルト監督だった若松が、日本ハムの次期監督就任が決まっていたトレイ・ヒルマンを差し置いて、最も多くの支持を集めたこともあった。

2005年5月28日には円山球場開場70年を記念して行われた日本ハムvsヤクルト戦の始球式で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S

1971 | ヤクルト | 112 | 305 | 274 | 40 | 83 | 18 | 1 | 3 | 112 | 15 | 6 | 8 | 8 | 1 | 15 | 0 | 7 | 28 | 1 | .303 | .354 | .409 | .762
1972 | 115 | 408 | 365 | 54 | 120 | 17 | 4 | 14 | 187 | 49 | 20 | 6 | 11 | 1 | 25 | 1 | 6 | 32 | 4 | .329 | .380 | .512 | .893
1973 | 128 | 486 | 438 | 59 | 137 | 29 | 2 | 17 | 221 | 60 | 12 | 8 | 10 | 1 | 32 | 8 | 5 | 43 | 4 | .313 | .366 | .505 | .870
1974 | 130 | 500 | 477 | 80 | 149 | 30 | 4 | 20 | 247 | 74 | 18 | 9 | 0 | 4 | 45 | 9 | 4 | 31 | 8 | .312 | .374 | .518 | .891
1975 | 123 | 500 | 453 | 55 | 132 | 16 | 3 | 8 | 178 | 48 | 6 | 4 | 4 | 2 | 37 | 4 | 4 | 30 | 12 | .291 | .349 | .393 | .742
1976 | 127 | 542 | 485 | 80 | 167 | 20 | 4 | 17 | 246 | 70 | 9 | 5 | 3 | 6 | 43 | 5 | 5 | 25 | 7 | .344 | .399 | .507 | .906
1977 | 122 | 503 | 441 | 95 | 158 | 30 | 5 | 20 | 258 | 70 | 13 | 4 | 4 | 5 | 46 | 3 | 7 | 14 | 9 | .358 | .423 | .585 | 1.008
1978 | 120 | 530 | 460 | 100 | 157 | 30 | 5 | 17 | 248 | 71 | 12 | 7 | 5 | 7 | 49 | 4 | 8 | 24 | 3 | .341 | .408 | .539 | .948
1979 | 120 | 492 | 438 | 81 | 134 | 30 | 1 | 17 | 217 | 65 | 8 | 4 | 2 | 2 | 45 | 7 | 5 | 38 | 6 | .306 | .376 | .495 | .871
1980 | 116 | 474 | 427 | 62 | 150 | 36 | 1 | 15 | 233 | 63 | 16 | 5 | 0 | 1 | 45 | 17 | 1 | 31 | 5 | .351 | .414 | .546 | .959
1981 | 95 | 358 | 323 | 49 | 94 | 12 | 2 | 13 | 149 | 37 | 5 | 3 | 4 | 3 | 24 | 4 | 4 | 24 | 11 | .291 | .345 | .461 | .806
1982 | 112 | 428 | 390 | 50 | 121 | 12 | 2 | 11 | 170 | 38 | 6 | 6 | 4 | 6 | 25 | 4 | 3 | 27 | 0 | .310 | .351 | .436 | .787
1983 | 112 | 451 | 413 | 61 | 139 | 21 | 1 | 15 | 207 | 60 | 11 | 1 | 9 | 1 | 27 | 2 | 1 | 21 | 11 | .337 | .378 | .501 | .879
1984 | 114 | 449 | 397 | 49 | 129 | 22 | 2 | 9 | 182 | 50 | 6 | 1 | 8 | 4 | 38 | 4 | 2 | 26 | 6 | .325 | .383 | .458 | .842
1985 | 114 | 485 | 443 | 52 | 133 | 13 | 1 | 12 | 184 | 34 | 2 | 1 | 8 | 3 | 31 | 1 | 0 | 30 | 14 | .300 | .344 | .415 | .759
1986 | 119 | 439 | 400 | 38 | 110 | 14 | 2 | 6 | 146 | 39 | 1 | 3 | 6 | 6 | 26 | 3 | 1 | 29 | 7 | .275 | .316 | .365 | .681
1987 | 55 | 81 | 69 | 6 | 26 | 2 | 2 | 3 | 41 | 16 | 0 | 0 | 1 | 1 | 10 | 2 | 0 | 7 | 2 | .377 | .450 | .594 | 1.044
1988 | 73 | 75 | 66 | 1 | 23 | 2 | 1 | 1 | 30 | 18 | 0 | 0 | 0 | 2 | 7 | 3 | 0 | 1 | 2 | .348 | .400 | .455 | .855
1989 | 55 | 54 | 49 | 3 | 11 | 1 | 0 | 2 | 18 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 1 | 2 | 0 | .224 | .296 | .367 | .664
【通算:19年】
2062 | 7590 | 6808 | 1015 | 2173 | 355 | 43 | 220 | 3274 | 884 | 151 | 75 | 87 | 56 | 574 | 83 | 64 | 463 | 112 | .319 | .375 | .481 | .856
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

【年度】
【チーム】
【順位】
【試合】
【勝利】
【敗戦】
引分
【勝率】
ゲーム差
チーム
本塁打 チーム
打率 チーム
防御率 【年齢

1999年 | 平成11年 | ヤクルト | 4位 | 135 | 66 | 69 | 0 | .489 | 15 | 141 | .264 | 4.23 | 52歳
2000年 | 平成12年 | 4位 | 136 | 66 | 69 | 1 | .489 | 12 | 137 | .264 | 3.62 | 53歳
2001年 | 平成13年 | 1位 | 140 | 76 | 58 | 6 | .567 | ― | 148 | .274 | 3.41 | 54歳
2002年 | 平成14年 | 2位 | 140 | 74 | 62 | 4 | .544 | 11 | 142 | .263 | 3.69 | 55歳
2003年 | 平成15年 | 3位 | 140 | 71 | 66 | 3 | .518 | 15.5 | 159 | .283 | 4.12 | 56歳
2004年 | 平成16年 | 2位 | 138 | 72 | 64 | 2 | .529 | 7.5 | 181 | .275 | 4.70 | 57歳
2005年 | 平成17年 | 4位 | 146 | 71 | 73 | 2 | .493 | 17.5 | 128 | .276 | 4.00 | 58歳
【通算:7年】
975 | 496 | 461 | 18 | .509 | Aクラス4回、Bクラス3回
  • ※1 太字は日本一
  • ※2 1999年から2000年までは135試合制
  • ※3 2001年から2004年までは140試合制
  • ※4 2005年からは146試合制

タイトル

表彰

記録

初記録
出典:wikipedia
2018/05/24 14:43

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