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落合博満とは?

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落合 博満
中日監督時代(2007年)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)
【生年月日】
(1953-12-09) 1953年12月9日(64歳)
【身長
体重】
178 cm
82 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
一塁手三塁手二塁手
【プロ入り】
1978年 ドラフト3位
【初出場】
1979年5月29日
【最終出場】
1998年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴

  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2011)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2011年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督野球解説者タレント

選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ日本ハムファイターズに在籍し、日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成。2004年から2011年まで中日の監督として指揮を執り、すべての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 現役時代
      • 1.2.1 ロッテ時代
      • 1.2.2 中日時代
      • 1.2.3 巨人時代
      • 1.2.4 日本ハム時代
    • 1.3 引退後
    • 1.4 中日監督時代
    • 1.5 中日監督退任後
    • 1.6 中日GM
  • 2 プレースタイル
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備
  • 3 逸話
    • 3.1 家族
    • 3.2 人物
    • 3.3 稲尾和久との関係
    • 3.4 野球
    • 3.5 発言
    • 3.6 オマール・リナレスとの友情
    • 3.7 背番号へのこだわり
    • 3.8 ガンダムファン
    • 3.9 ミラクルジャイアンツ童夢くん
  • 4 監督として
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 年度別監督成績
    • 5.3 タイトル
    • 5.4 表彰
    • 5.5 記録
    • 5.6 背番号
  • 6 関連情報
    • 6.1 著書
    • 6.2 関連書籍
    • 6.3 出演番組
    • 6.4 出演CM
    • 6.5 ディスコグラフィー
    • 6.6 登場作品
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考資料
  • 9 関連項目
    • 9.1 関連人物
  • 10 外部リンク

経歴

プロ入り前

1953年、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)にて7人兄弟の末っ子として生まれる。長嶋茂雄に憧れて野球を始め、小学生の頃は雑誌などに載っている長嶋のバッティングフォームをよく真似していた。中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞する映画少年で、特に『マイ・フェア・レディ』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。若美町の後輩(1学年下)には船木千代美がいる(後にTDKの監督として都市対抗野球で東北勢の初の優勝を果たす)。

1969年秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学。体罰をもよしとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。ところが予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、それに耐えかねて野球部を退部。野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。しかし、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩の川邉忠義とはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。

1972年東洋大学に進学。しかし、ここでも先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退。秋田に帰った。その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになるが、これも挫折した。

1974年、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって東京芝浦電気府中工場臨時工として入社。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。1976年には中心打者として、東芝府中を創部23年目で初の都市対抗出場に導く。1回戦でデュプロを降し初勝利をあげるが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退。翌年以降も、都市対抗に日本通運電電東京の補強選手として3年連続出場。1978年には、木田勇森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出された。この頃の落合は、日中トランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた。

1978年のドラフト会議パシフィック・リーグのロッテに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった(通算2000本安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた)。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、江川事件によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった。

現役時代

ロッテ時代

1979年、プロ入り当時の監督・山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。そのため、ベテラン捕手土肥健二の非常に柔らかいリスト(手首)を使ってボールをはじき返すフォームに注目し、それを真似し、我流のフォーム改造を狙った。土肥のほか、得津高宏の左バッター特有のうまいボールの捕らえ方も参考にした。

1980年、5試合連続本塁打イースタン・リーグ記録を作って後期に一軍に戻ると、57試合で15本塁打を放った。西武ライオンズ球場でのジュニアオールスターゲームにもオールイースタン選抜で出場し、オールウエスタンの高卒新人バッテリー牛島和彦香川伸行からタイムリー記録。同年の近鉄バファローズとのパシフィック・リーグプレーオフに出場し、自身初のポストシーズンを体験した。

1981年にはオールスターゲームに初出場を果たし、監督の西本幸雄スタメンの4番打者で起用される。同年に初めて規定打席に到達すると、首位打者のタイトルを獲得。有藤通世レオン・リーレロン・リーらとクリーンナップを形成し、日本ハムとのパシフィック・リーグプレーオフでは第4戦に本塁打を放った。

1982年、史上最年少(28歳で開幕を迎えたシーズン)で三冠王に輝く。

1983年は打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得した。

1985年、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率記録、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は日本記録となる得点圏打率.492を記録した。

1986年、シーズン中盤までブーマー・ウェルズ秋山幸二らとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を獲得(打率:.360、本塁打:50本、打点:116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。 また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。同年シーズン終了後、自身の理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した。落合の著書によると「(稲尾の後監督になった有藤道世が)監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。その後、牛島・上川誠二平沼定晴桑田茂の4選手との1対4の交換トレードセントラル・リーグの中日に移籍。日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。

中日時代

1987年篠塚利夫正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、首位と2厘差のリーグ3位の打率.331を記録する。

1988年は32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。日本シリーズでは打点0でチームは西武に1勝4敗で敗れた。

1989年は打率.321・40本塁打・116打点の成績を残して打点王を獲得。両リーグ打点王は史上初だった。同年の本塁打王争いは阪神に同年限り在籍していたセシル・フィルダーや、ヤクルトに在籍していたラリー・パリッシュらと繰り広げたが、2本差の42本でパリッシュに奪われる結果となった。8月12日の対巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回1死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から逆転サヨナラ3ラン本塁打を放った。

1990年シーズンは、前年に引き続き阪神に移籍したパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。5月8日対阪神戦では、王貞治の1270試合を超える1257試合目の史上最速で350号本塁打に達すると、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団。結果的に落合が追い抜いて34本塁打・102打点で本塁打王と打点王を獲得。両リーグ本塁打王は史上初だった。また、最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。この年、オールスター第2戦で鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていた近鉄バファローズ野茂英雄が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。

1991年2月、年俸を不服として日本人選手として初めて調停を申請。同年シーズンは前半戦に肉離れを起こし、大事を取り打撃三部門のトップに立った時点で1ヵ月程戦線離脱をした。結果、打率.340・37本塁打・91打点で本塁打王を獲得。打率は古田敦也に3毛差(古田.3398、落合.3395)、打点は広沢克己に8打点差で及ばず、それぞれリーグ2位だった。打率に関しては、最終戦で6打数5安打を記録し一度は首位打者の古田を逆転したものの、最後は古田が最終戦で1打数1安打を放ったことで、タイトル争いに敗れた。この過程で古田のいるヤクルトスワローズとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を作った。

1992年、プロ野球選手会を脱退。1984年以来の獲得タイトルなしに終わった。

1993年、史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント(FA)制度を行使してFAを宣言し、巨人に移籍した。

巨人時代

落合が在籍した1994年 - 1996年の3年間、長嶋茂雄が率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献した。1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、10.8決戦今中慎二から先制ホームランを放って優勝に貢献した。1995年のシーズンは首位打者争いを繰り広げ8月31日時点では打率.332、最終的にシーズン打率.311(リーグ4位)を残し、17本塁打、65打点をマークした。同年4月に2000本安打も達成したが、名球会入りを辞退している。41歳4か月での2000本安打達成は自身がロッテ時代その打撃技術に一目置いていた新井宏昌の40歳2か月を抜き、当時の日本プロ野球史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で記録して更新)。

1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。8月31日の対中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱。以降の試合は棒に振ったが、日本シリーズには間に合い、第1戦から出場している。シーズンでは打率.301、21本塁打、86打点の成績を収める。また巨人史上でも、43歳になるシーズンで4番打者を務めた選手は落合以降は現時点では出てきておらず、現在も球団最年長記録である。

同年オフに清原和博が自身と同じ一塁手として巨人に入団してきたため、球団に自由契約を申し出る。退団会見は監督の長嶋が同席のもとで行われた。

日本ハム時代

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1996年オフ、同じ在京球団であるヤクルトスワローズと日本ハムファイターズ(当時は東京を拠点としていた)から獲得のオファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍。日本ハム移籍を決断した理由は、両球団にそれぞれ交渉の場を持ったが、その場で金額提示が日本ハムからはあったものの、ヤクルトからは全くなかったためである。プロである以上金額で評価されるものという持論の落合にとって当然の決断であった。背番号は「3」。キャンプでは若手の生え抜きの上田佳範を指導し、上田は打率三割を規定打席に到達して記録した。打撃コーチを差し置いて選手の立場で指導したため、チームメイトだった金石昭人は批判的意見を述べている。自身は大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000本安打を達成し、打率.262、本塁打3、打点43という成績を残した。

いずれも規定打席に到達したシーズンの中では過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は現在でも日本プロ野球史上最年長記録である。同年のオールスターゲームにも出場したが、結果的に落合にとって現役最後のオールスターゲーム出場となった。

現役最終年となった1998年、前年の屈辱を晴らすべく、バットを握る力を強めるためのバッティンググローブや、サングラス着用といった改良も実践。春季キャンプからオープン戦にかけて、ホープとして打撃力を買われていた西浦克拓との熾烈な4番争いを繰り広げた。落合が開幕4番を勝ち取り、開幕から安打を記録4月下旬頃までは打率.300をキープしていた。しかし、一度打率が.300を切った時点で、監督の上田利治は落合の打順を下位に降格させ西浦が4番を張る結果となった。同年の日本ハムは開幕から勝ち続け「ビッグバン打線」が爆発した。首位を走る中で、落合は下位打線はおろか出場機会も減少していった。これにより、前年からの指揮官との価値観の相違や采配への疑問が露呈して、落合自身の戦意が失われたと自らの著書『野球人』でも綴られている。後半戦はほとんど代打での出場や、ベンチを温める機会が多くなっていた。不本意なことに、9月以降のチームは勝ちが伸び悩み歴史的な急失速をしてしまう。チーム全体が険悪になり、ミーティングで落合とコーチが怒鳴り合いになることもあった。その結果、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武が優勝を決めた。

消化試合という寂しいシーズン最終戦となった10月7日の対ロッテ戦(ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は黒木知宏。結果は一ゴロ)。落合は当日、上田監督からの先発出場の打診を断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選んだという。そのシーズン終了後、現役を引退した(任意引退ではなく自由契約での引退)。

引退後

引退後は野球解説者として活動。1999年から2001年まではテレビ朝日で専属解説者を務める(キャッチコピーオレ流解説)。その後はフリーとなっていた が、東海ラジオまたはテレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送(KBC)の番組に度々出演していた。また、1999年から2003年の間、日刊スポーツ野球評論家としても活動した。

その間の2001年2月、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。

中日監督時代

2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)。就任早々、16人の選手の背番号ユニフォームのデザインを変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。トレードの凍結を宣言し、外部からの補強は川相昌弘ドミンゴ・グスマン筒井正也のみにとどめた。キャンプ初日に紅白戦を実施。

2004年、シーズン前に「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」という公約を掲げ、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一ならず。リーグ開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で補強なしの全選手横一線のチームに刺激を与えることと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的と後に語っている(退任後に「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」と語っている)。また、投手起用については投手コーチの森繁和(投手チーフコーチ、一軍バッテリーチーフコーチ、一軍ヘッドコーチを経て後の中日ドラゴンズ監督)がリリーフを含めて全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた。落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。また、守備面においてはアライバコンビを使い続け、落合もこのコンビを重宝していた。

2005年タイロン・ウッズ藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止と交流戦における負け越しにより失速。2位に終わる。

2006年、恐竜打線と呼ばれる強力な打線を形成し、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合だが、優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、その時点から号泣しているシーンが見られた。試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。ファンに日本一を約束したものの北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場し、前年に続き日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取。53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞。

アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)

2008年、3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストとなり、監督として最悪のシーズンとなった。ただし、本拠地・ナゴヤドームへの観客動員数は自身が監督を務めた8年間で最高であった。主力の不振や衰え、福留孝介メジャー移籍や北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。

2009年、2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも巨人に1勝したのみに終わり敗退。川上憲伸、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、4月は負け越して開幕ダッシュに失敗。しかし、その後は巻き返し、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。

2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮し、9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきた千葉ロッテマリーンズに2勝4敗1分で敗れ日本一はならなかった。なお、2010年シーズン終了時点で7年連続で指揮した監督となり、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り球団歴代1位となった。

2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲームの差がつくが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めていく。その中、9月22日に球団から同年シーズン限りでの監督退任を発表されるが、その悪影響を感じさせず10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、統一球の影響もあり歴史的な貧打であったシーズンだったが、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。

監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージも4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。なお、同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。2007年からセ・リーグにもクライマックスシリーズが導入されたものの消極的意見を持ち「完全制覇(リーグ優勝と日本一)」を目標に掲げていたが、達成されることなくユニフォームを脱ぐこととなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された。

11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れたその日をもって、監督退任となった。

中日監督退任後

2012年、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった(メ〜テレ制作)。

同年8月、顔面麻痺を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。

中日GM

2013年10月9日、中日のGMの就任が発表された。自らGM職を志願したことによる就任となった。当初は顧問役を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8000万円で就任。ドラフトを含む編成全般、球団運営のほとんどを取り仕切ることになった。

選手との契約更改にGMとして同席し、退団し巨人に入団した井端弘和と、FA宣言してソフトバンクに移籍した中田賢一を除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。補強面では巨人からFAで小笠原道大を、ロッテから戦力外となっていた工藤隆人を補強したが、Bクラスが続き、2016年には19年ぶりの最下位と不振に終わった。

2016年12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで退任すると発表した。2018年からは中日OBとして中部日本放送(CBCテレビCBCラジオ)のゲスト解説者としての活動も再開する傍ら、ベースボールタレントとして活動も再開する。

プレースタイル

打撃

落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底したインハイ(内角高め)攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。これには一軍に定着した頃に江夏豊から「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことが関係しており、以降は狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという。

通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である(初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打であった。)。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという。

リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している。

落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)をおって三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと。

守備

一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である。

逸話

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この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2013年5月)

家族

20代で1度離婚後、ホステスをしていた9歳年上の信子と再婚した。信子は後にタレント活動をするようになった傍ら、内助の功で落合のFA権の行使や監督就任などを決断させたことでも知られる。2人の間には、1987年8月20日に誕生した長男で2015年に声優となった福嗣がいる。また、元プロレスラージャイアント落合は甥にあたる(姉の子)。

人物

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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年3月)

愛甲猛は自伝で、入団してしばらく投手として伸び悩んでいた愛甲に打者転向をすすめ、コーチングしてくれたのは、現役時代の落合だったと語っている。その指導は厳しいもので、あまりの厳しさに「俺はこれでも甲子園のヒーローなんです」と泣き言を言うと「じゃあ甲子園にさっさと帰れ!」と怒鳴られたこともあるという。しかし落合の指導は適切かつ緻密、また愛甲の打撃力が向上したと判断すると首脳陣に「タケシ(愛甲)のバッティングがか

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出典:wikipedia
2018/09/22 07:06

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