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落合博満とは?

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落合 博満
中日監督時代(2007年)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)
【生年月日】
(1953-12-09) 1953年12月9日(66歳)
【身長
体重】
178 cm
82 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
一塁手二塁手三塁手
【プロ入り】
1978年 ドラフト3位
【初出場】
1979年5月29日
【最終出場】
1998年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴

  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2011)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2011年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・監督野球解説者

選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ(巨人)・日本ハムファイターズの計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつ日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した。また20世紀最後・昭和最後の三冠王達成者でもある。

2004年から2011年まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成している。

2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。

経歴

プロ入り前

7人兄弟の末っ子として生まれる。長嶋茂雄に憧れて野球を始めた。若美町の後輩(1学年下)には船木千代美がいる(後にTDKの監督として都市対抗野球で東北勢の初の優勝を果たす)。

1969年秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学。体罰をよしとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択したが、予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、耐えかねて野球部を退部。野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かったが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩の川邉忠義とはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。

1972年東洋大学に進学。しかし、ここでも先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつけるなどといった体育会系の慣習に納得出来ず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退し帰郷した。その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志したが、これも挫折した。

1974年、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって、東京芝浦電気府中工場臨時工として入社した。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加入し、在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。1976年には一塁手、4番として東芝府中を創部23年目で初の都市対抗出場に導く。1回戦ではデュプロを降し初勝利を挙げ、2回戦では日本通運から補強された村上之宏が先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した。翌年以降も、都市対抗に日本通運・電電東京の補強選手として3年連続出場し、1978年には、木田勇森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出された。この頃の落合は、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をするという生活を送っていた。

1977年、24歳の時に阪神タイガースからドラフト会議で指名する意向を伝えられたことがあったが(スカウトは田丸仁)、同年は指名されなかった。翌1978年のプロドラフト会議でロッテに3位指名されて入団した。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた)。なお、巨人は落合を2位で指名する予定であったが、江川事件により同会議に参加しなかったため、この指名は実現しなかった。

現役時代

ロッテ時代

1979年、プロ入り当時の監督・山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。チームメイトのベテラン捕手土肥健二の、手首を使ってボールをはじき返す「神主打法」のフォームを真似し、我流のフォーム改造を狙った。土肥や得津高宏などの先輩選手を参考に、自身のバッティングを作り上げていった。

1980年、5試合連続本塁打イースタン・リーグ記録を作って前期終盤には一軍昇格し、後期は井上洋一に代わり二塁手の定位置を得て54試合に先発出場した。シーズン終盤には三塁手に回り、同年は15本塁打を放つ。近鉄バファローズとのプレーオフにも出場した。

1981年は、開幕から先発として起用され、6月末には4番に起用された。オールスターゲームに初出場し、シーズンでも初めて規定打席に到達し、打率.326で首位打者のタイトルを獲得した。有藤通世レオン・リーレロン・リーらとクリーンナップを形成し、日本ハムとのプレーオフでは第4戦で本塁打を放った。

1982年、28歳で三冠王を獲得したが、これは史上最年少記録となった。シーズンオフには年俸5,400万円+タイトル料600万円で契約更改した。

1983年は打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得したが、球団初の最下位に終わった。

1985年、打率.367、本塁打52、打点146の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率記録、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は日本記録となる得点圏打率.492(122打数60安打16本塁打98打点)を記録した。また、シーズン52本塁打は、2020年現在で日本出身で日本国籍の選手における最多記録である。

1986年、シーズン中盤までブーマー・ウェルズ秋山幸二らとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を達成した(打率.360、本塁打50、打点116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。10月8日の西武戦で小林晋三塁塁審の胸を2、3回突き自身初の退場処分となった。

シーズン終了後、理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した。落合の著書によると「稲尾の後任である有藤道世が、監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」としたと記している。

牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂の4選手との交換トレードで、中日に移籍し、日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった。

中日時代

1987年は、篠塚利夫正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、首位と2厘差のリーグ3位の打率.331を記録した。

1988年は、32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。6月1日から8月2日までは3番で、4番はゲーリー・レーシッチだった。西武との日本シリーズでは1勝4敗と、シリーズ制覇はならなかった。

1989年は打率.321、本塁打40、116打点の成績を残して打点王を獲得したが、両リーグ打点王は史上初だった。セシル・フィルダーラリー・パリッシュらと本塁打王争いとなったが、2本差でパリッシュに奪われた。8月12日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回1死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から、逆転サヨナラ3ラン本塁打を放っている。シーズン終了後、契約更改後の記者会見で「165(いちろくご)」と、年俸1億6,500万円で更改したことを公言している。

1990年シーズンは、前年に引き続きパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。5月8日阪神戦では、王貞治の1,270試合を超える、1,257試合目の史上最速で通算350本塁打に達すると、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団したため、結果的に落合が追い抜いて34本塁打・102打点で本塁打王と打点王を獲得した。両リーグ本塁打王は史上初だった。また、最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。この年のオールスターゲーム第2戦(平和台球場)では、鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていた近鉄の野茂英雄が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。

1991年2月、契約更改で合意せず、落合は日本人選手として初めて年俸調停を申請した。落合希望額は3億円→2億8,000万円、球団提示額2億2,000万円だったが、調停の結果、3月8日に2億2,000万円で合意した。同年シーズンは前半戦に肉離れを起こし、打撃三部門のトップに立った時点で1ヶ月程戦線を離脱した。打率.340、本塁打37、打点91で本塁打王を獲得したが、打率は古田敦也に3毛差(古田.3398、落合.3395)、打点は広沢克己に8打点差で及ばず、それぞれリーグ2位だった。古田のいるヤクルトとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を作った。オフに年俸3億円で契約更改した。

1992年、プロ野球選手会を脱退。22本塁打71打点の成績で、1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり、自身2度目の最下位に終わった。

1993年5月7日の横浜戦で、史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント(FA)制度を行使してFA宣言し、巨人に移籍した。

巨人時代

落合が在籍した1994年 - 1996年の3年間、長嶋茂雄率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に、4番として貢献した。

1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、10.8決戦今中慎二から先制ホームランを放って優勝に貢献した。しかし、同試合3回裏守備中に左内転筋を傷め、日本シリーズでは第3試合に指名打者として出場したのみである。1994年が現役時代での唯一の日本一となった。

1995年のシーズンは首位打者争いを繰り広げ、最終的にシーズン打率.311(リーグ4位)を残し、17本塁打、65打点を記録した。同年4月に通算2,000安打を達成したが、名球会入りを辞退している。41歳4か月での通算2000安打達成は、新井宏昌の40歳2か月を抜き、当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で記録して更新している)。

1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1,500打点を達成。8月31日の中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱し、以降の試合は棒に振ったが、オリックスとの日本シリーズでは復帰し、第1戦で3安打を放ち気を吐いた。シーズンでは打率.301、21本塁打、86打点の成績を残したが、巨人史上で、43歳になるシーズンで4番を務めた野手は落合以降出ておらず、現在も球団最年長記録である。打撃成績においても、43歳での打率3割達成、OPS9割越えも史上最年長記録であるほか、42歳での打率3割達成も歴代で落合のみである。

同年オフ、清原和博が自身と同じ一塁手として巨人に入団したことから、球団に自由契約を申し出た。退団会見は落合と信子夫人のほか、渡辺恒雄オーナー、長嶋茂雄監督同席のもとで行われる、退団選手の会見としては異例なものであり、落合は「(子供の頃からファンで敬愛する)長嶋監督が、(自分か清原かどちらを起用するか)悩む姿を見たくなかった」とコメントしている。

日本ハム時代

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出典検索: "落合博満"ニュース 書籍 スカラー CiNii J-STAGE NDL dlib.jp ジャパンサーチ TWL
(2018年1月)

1996年オフ、巨人と同じく東京に本拠地を置いていたヤクルトと日本ハム(当時は巨人と同じ東京ドームを使用していた)から獲得オファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍した。落合はロッテ時代から一貫して背番号6をつけてきたが、日本ハムの背番号6はチーム生え抜きの主力選手だった田中幸雄がつけていたため、空き番だった3を選択した。

1997年、5月17日時点で打率.339まで上昇する活躍を見せるも、6月に入ってからは年齢的な衰えと疲労が重なり、8月22日のオリックス21回戦の1回の裏に大島公一の打球を捕った際に左手を負傷し、左第四指末関節骨を脱臼した。二軍落ちはしなかったものの、この試合以降の先発出場は8試合だけで、打率は.260台まで降下。大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1,000安打を達成し、9月14日の近鉄戦では小池秀郎のノーヒットノーランを阻止する左翼線への二塁打を放つなどの活躍も見せたが、打率.262、本塁打3、打点43で終わった。過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は2019年シーズン終了時点でも日本プロ野球史上最年長記録である。オールスターゲームにも出場したが、落合にとって現役最後のオールスターゲームとなった。

現役最終年となった1998年は、前年の屈辱を晴らすべく、それまで素手で握っていたバットを、バッティンググローブ着用に変えたり、デーゲームの多いパ・リーグに対応するためにサングラスを着用するといった改善を行い、オープン戦では、若手のホープとして期待されていた西浦克拓と4番争いとなった。落合が開幕4番を勝ち取り、開幕から安打を記録4月下旬頃までは打率.300をキープしていたが、打率が.300を切った時点で、監督の上田利治は落合の打順を下位に降格させ、西浦が4番に就いた。

同年の日本ハムは開幕から勝ち続け「ビッグバン打線」が爆発し首位を走ったが、落合の出場機会も減少し、後半戦ベンチを温める機会が多くなっていた。9月以降のチームは急失速し、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武が優勝を決めた。

シーズン最終戦となった10月7日のロッテ戦(ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は黒木知宏。結果は一塁ゴロ)。落合は当日、上田監督から先発出場を打診されたが断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選び、現役を引退した。

引退後

引退後は野球解説者として活動し、1999年から2001年まではテレビ朝日野球解説者を務めた(キャッチコピーオレ流解説)。

テレビ朝日との専属解消後はフリーとして 、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送(KBC)の中継に度々出演していた。また、1999年から2003年の間、日刊スポーツ野球評論家としても活動した。

2001年2月、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。

中日監督時代

2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)。就任早々、16人の選手の背番号を変更し、ユニフォームのデザインを中日伝統のロサンゼルス・ドジャース型のデザインから変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。

「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」と、トレードなどの補強を凍結することを公言し、引退試合後巨人内部でのゴタゴタに巻き込まれ現役続行を決意した川相昌弘、横浜を解雇されたドミンゴ・グスマン広島を戦力外となっていた筒井正也しか獲得しなかった。また、キャンプ初日に紅白戦を実施する、異例の采配スタートとなった。

2004年、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用し、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で「全選手横一線」と選手に刺激を与えること、FAで中日に加入しながら一度も登板していない川崎に最後のチャンスを与えること、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的だったと、退任後語っている(「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」としている)。また、投手起用については投手コーチの森繁和がリリーフを含めて全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた。落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。また、守備面においてはアライバコンビを使い続け、落合もこのコンビを重宝していた。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ、日本一にはとどかなかった。

2005年、主砲のタイロン・ウッズ藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し、2位に終わる。

2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合が、巨人との優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと泣きながら抱きついて出迎え、試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。日本ハムとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場した。日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取したが、中日球団として53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。

アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)

2008年は3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストだった。主力の不振や衰え、福留孝介メジャー移籍や、北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは、巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。

2009年は2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも、巨人に1勝したのみに終わり敗退した。川上憲伸、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。

2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮し、9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ、日本一はならなかった。なお、中日球団で7年連続で指揮した監督となったが、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り、球団歴代1位となった。

2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲーム差をつけられたが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めた。

シーズン中の9月22日、球団から同年シーズン限りでの監督退任が発表されるが、10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。

監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージを4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた。日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された。

11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れた試合終了を以って、監督退任となった。

中日監督退任後

2012年、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった(メ〜テレ制作)。

同年8月、顔面麻痺を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。

2013年10月9日、中日球団に新設されたゼネラルマネージャーへの就任が発表された。当初は顧問役を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8,000万円で契約している。

選手との契約更改にGMとして同席し、退団し巨人に入団した井端弘和と、FA宣言してソフトバンクに移籍した中田賢一を除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。巨人からFAで小笠原道大を、ロッテから戦力外となっていた工藤隆人を補強した。

2016年は19年ぶりの最下位に低迷し、12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで退任すると発表した。2018年からは、フリーの野球解説者として活動を再開している。

プレースタイル

打撃

落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底した内角攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。また、江夏豊から「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことから、狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという。

通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打で、初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打だった。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという。

リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している。

落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)をおって三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと。

守備

一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である。

逸話

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家族

20代で1度離婚後、9歳年上の信子と再婚した。信子は後にタレント活動をするようになった傍ら、内助の功で博満は前向きではなかったFA権の行使や監督就任などを決断させたことでも知られる。

長男は声優落合福嗣。また、元プロレスラージャイアント落合は甥にあたる(姉の子)。

人物

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出典:wikipedia
2020/12/03 14:04

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