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蒋介石とは?


任期 1948年5月20日1975年4月5日
副総統 李宗仁陳誠嚴家淦

任期 1943年8月1日1948年5月20日

任期 1928年10月10日1931年12月15日

任期 1932年3月6日1946年5月31日

任期 1938年4月1日1975年4月5日

出生 1887年10月31日
(光緒十三年9月15日)
浙江省寧波府奉化県
死去 (1975-04-05) 1975年4月5日(87歳没)
中華民国台北市士林官邸
政党 中国国民党
配偶者 毛福梅 1901年-1921年
姚冶誠(妾) 1911年-1921年
陳潔如 1921年-1927年
宋美齢 1927年-1975年
署名
【蒋介石】

【プロフィール】

【出生:】
1887年10月31日
【死去:】
1975年4月5日
【出身地:】
浙江省寧波府奉化県
【職業:】
政治家
【各種表記】

繁体字: 蔣介石
簡体字: 蒋介石
拼音: Jiǎng Jièshí
【和名表記:】
しょう かいせき
【発音転記:】
チャン チェーシー
蒋中正
繁体字
蔣中正
簡体字
蒋中正
【発音記号】

標準中国語

漢語拼音
Jiǎng Zhōngzhèng
ウェード式
Chiang Chung-cheng
注音符号
ㄐㄧㄤˇ ㄓㄨㄥㄓㄥˋ
粤語

イェール粤拼
Jéung Jūngjing
粤拼
Zoeng Zung Zing
閩南語

閩南語白話字 ChiúⁿTiong-chèng

【蒋介石】

繁体字
蔣介石
簡体字
蒋介石
【発音記号】

標準中国語

漢語拼音
Jiǎng Jièshí
ウェード式
Chiang Chieh-shih
注音符号
ㄐㄧㄤˇㄐㄧㄝˋㄕˊ
粤語

イェール粤拼
Jéung Gaaisek
粤拼
Zoeng Gaai Sek
閩南語

閩南語白話字 Chiúⁿ Kài-se̍k

蒋 介石(しょう かいせき、繁体字:蔣介石1887年10月31日 - 1975年4月5日)は、中華民国政治家軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統中国国民党永久総裁。国民革命軍中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。名は中正で、介石浙江省寧波府奉化県出身。日本・中国本土では蔣介石の呼び名で知られているが、台湾では蔣中正(チャン・チョンヂェン、蔣中正)の名称が一般的。英語ではChiang Kai-shek(チアン・カイシェック)と呼ばれる。

孫文後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。1928年から1931年と、1943年から1975年に死去するまで国家元首の地位にあった。しかし、国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。

目次

  • 1 年譜
  • 2 生涯
    • 2.1 革命運動との出会いと軍人への道
    • 2.2 辛亥革命
    • 2.3 第二革命の失敗と日本への亡命
    • 2.4 帰国と陳其美の死
    • 2.5 雌伏のとき
    • 2.6 孫文と共に
    • 2.7 ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任
    • 2.8 権力の掌握
    • 2.9 北伐敢行、中国統一
      • 2.9.1 北伐の開始
      • 2.9.2 左派との対決
      • 2.9.3 北伐の完遂
    • 2.10 日中戦争
    • 2.11 第二次世界大戦
    • 2.12 国共内戦と二・二八事件
    • 2.13 台湾へ
    • 2.14 国連「追放」
    • 2.15 死去
  • 3 蒋介石の歴史的評価
    • 3.1 中華民国
    • 3.2 日本
    • 3.3 中華人民共和国
  • 4 人物
    • 4.1 蒋介石と個人崇拝
  • 5 栄典
  • 6 蒋介石にちなんだ事物
    • 6.1 台湾
    • 6.2 日本国内
    • 6.3 フィリピン
  • 7 著作邦訳
  • 8 家系図
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連文献
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

年譜

生涯

革命運動との出会いと軍人への道

1887年10月31日清国浙江省奉化県渓口鎮にて生まれる。父は塩や酒を扱う商人の蒋肇聡、母は王采玉。母親が教育熱心であったことから、蔣介石は6歳から私塾や家庭教師に習い、中国の古典を学んでいった。実家は裕福であったが、父は蔣が9歳のときに亡くなり、以後は母の手によって育てられた。当時の中国の封建的な社会において、母子家庭の暮らしは厳しいものであった。10歳から16歳にかけて生地にあった毛鳳美の塾で学び、1902年には毛鳳美の娘の毛福梅と結婚。1904年からは浙江省に設けられた新制の教育機関である鳳麓学堂で英語や数学を学び、その後寧波の箭金学堂で西洋法律を学んだ。

1905年の暮れには生家に戻り、1906年4月に日本へ渡る。この渡日の目的は東京振武学校で学ぶことであったが、保定陸軍速成学堂の関係者しか振武学校の入学を許可されていなかったので、目的を果たすことはできなかった。しかし蔣介石はこの渡日で、孫文率いる中国同盟会の一員で、孫文が進める武力革命運動の実践活動の中心であった陳其美と出会い、交友を深めた。中正紀念堂(蒋介石記念館)による「蒋公大事年表」はこの渡日を「公(蒋介石)参加革命運動之始」としている。また、日本のノンフィクション作家である保阪正康は、陳其美との交友が後に蔣介石が武力革命の実践者となることに大きな影響を与えたとする。

同年冬に帰国し、改めて保定軍官学校に入学して軍事教育を受ける。そして翌1907年7月、再び日本へ渡り、東京振武学校に第11期生62名の一人として留学した。彼らは2年間の教育課程を修めた後、日本の陸軍士官学校には入学せず日本陸軍に隊附士官候補生として勤務する事となり、1910年12月5日より新潟県高田市(現在の上越市)の第13師団の歩兵、騎兵、砲兵各連隊に配属され実習を受けた。蒋介石が配属されたのは野砲兵第19連隊(長:飛松寛吾大佐)で、小隊長は小山田三郎大尉であった。このときに経験した日本軍の兵営生活について蒋介石は、中国にあっても軍事教育の根幹にならなければならないと後に述懐した。

1910年には蒋介石の人生に大きな影響を与えた二つの出来事があった。一つは3月に長男の蒋経国が誕生したことである。そしてもう一つは孫文との出会いである。6月、アメリカに渡っていた孫文は日本に移り、東京に入った。清国政府の要求で日本政府は孫文を2週間の猶予を与えて国外処分としたが、このとき蒋介石は東京に赴き、陳其美の門弟の立場で孫文との対面を果たしている。この対面で蒋介石は、自分も中国同盟会の一員で、革命には軍事面で貢献したいと孫文に表明したという。この対面当時での孫文の蒋介石に対する印象は、「まちがいなく革命の実行者にはなるだろう」というもので、「革命の指導者」としての資質があるなどとは考えていなかった。

辛亥革命

1911年夏、長期休暇を取ると上海に帰国して陳其美と秘密裏に情報交換や計画の企画立案を行う。10月頭に帰隊するが、それから間もない10月10日、辛亥革命が勃発する。陳其美より帰国要請を受けた蒋介石は張群、陳星枢とともに師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申し出るが叶わず、飛松連隊長に48時間の休暇を申し出ると、そのまま上海航路の日華連絡船長崎丸で帰国して革命に参加する。10月30日上海に着いた蒋は、その後陳其美と行動を共にする。陳は蒋に信頼を寄せており、杭州方面の杭州に駐在する新軍第二十一鎮第八十一標・第八十二標の蹶起支援のため急遽漁民など義勇兵120名からなる決死隊に任じた。蒋介石は杭州制圧のために軍勢を率いて向かったが、これが初陣ということで死を覚悟し、このとき実家の母、妻、そして長男に宛てて遺書を書き残している。11月3日から攻略戦を開始し、第三営とともに撫台衙門を包囲、巡撫増韞を捕虜とした。翌日午後には杭州を陥落せしめ、浙江省の独立を宣言した。周承菼は立憲派であった咨議局議長の湯寿潜を都督に選出したが、蒋は王金発とともにこれに反対意見を表明。同じく蜂起に成功し上海都督に就任した陳其美は、革命勢力の内紛を抑えるため蒋を上海に引き戻し、滬軍第一師副師長兼第一団団長の役割を与えた。のち第一団は滬軍第二師(長:黄郛)第五団へと改編される。蒋は陳、黄郛の厚い信頼を得て、二人と義兄弟の契りを結ぶに至った。

11月22日から南京攻略戦が開始された。陳其美が陣頭指揮を執ったが、蒋介石は上海防衛を任されたため、攻略戦には参加していない。この頃の蒋介石は陳其美の護衛役を自負しており、陳の政敵である陶成章を暗殺するなどしている。

1912年1月1日、南京において中華民国の建国が宣言され、孫文が臨時大総統の地位に就いた。2月12日には宣統帝が退位し、清朝が崩壊した。同時に、孫文は臨時大総統の地位を北洋軍閥袁世凱に譲るなど、政局は大きく転換した。この時期の蒋介石は目立った行動を取っていないが、同年3月から第5団の職を張群に任せると12月まで日本に赴き、東京の代々木山谷で発行所「軍声社」を設置、中国同盟会の会員や在日華僑向けの軍事雑誌「軍声」を発行した。また、蒋介石自らも記事を寄稿しているが、その中で「軍政統一問題」を取り上げていた。蒋介石は、軍事と政治を統一するにはそれにふさわしい指導者が必要で、その指導者を持つことができるか否かが各民族に課せられた課題である、と説いていたのである。

第二革命の失敗と日本への亡命

中華民国初の国会選挙を控えた1912年8月25日、孫文率いる中国同盟会を中心に各政治結社が合流して国民党が結成された。翌年3月、国民党は国会選挙に圧勝したが、独裁を志向する大総統・袁世凱は、3月20日、孫文に代わって国民党の実権を握り、議院内閣制を志向していた宋教仁を暗殺した。宋の暗殺により国民党での実権を掌握した孫文は、独裁を強める袁世凱に対抗して武装蜂起を試み、「第二革命」を起こした。中華民国の閣僚の地位にあった陳其美も上海に戻った。このとき蒋介石はすでに日本から帰国し奉化県渓口鎮に戻っていたが、5月には上海に赴き、陳其美の下で国民党員となっていた。「第二革命」が勃発すると、陳は上海に在って討袁軍総司令と称し、蒋介石率いる第五団に命じて蜂起を企てたが、上海市内は政府軍に押さえられており、蒋が説得に当たったものの、第五団の大勢が政府軍についてしまったため、蜂起は失敗した。陳は地下に潜伏したが、蒋介石は日本に亡命した。そして、7月に勃発した「第二革命」自体も8月には失敗に終わり、孫文も日本へ亡命した。

孫文は日本を革命の根拠地とし、革命達成のための教育機関を設置した。このうち、日本人の退役将校の支援を受けた軍事専門家の養成機関「浩然廬」の教官に蒋介石が選ばれた。しかし、1913年12月1日に開校した浩然廬であったが、翌年6月、爆弾製造の授業中に爆破事故を起こしたために、日本の官憲によって解散処分となってしまった。

1914年7月8日、孫文は議会政党であった国民党を解体し、東京において中華革命党を結成、その総理(党首)に就任した。この党は議会制を否定する「革命党」であるとともに、孫文に絶対的忠誠を尽くす集団としての性格を帯びていた。蒋介石の師である陳其美は党総務部長となって党の全ての実務を取り仕切り、孫文の右腕と目されるようになった。そして蒋は陳とともに入党して孫文に絶対の忠誠を誓った。まもなく、蒋介石は孫文に命じられて満州に向かい、現地の革命派軍人と交渉し、反袁世凱闘争と南方への軍事的進出を企てたが、これは情勢が許さず、不調に終わった。7月28日第一次世界大戦が起きると、蒋介石は中国から孫文に書簡を送り、大戦によって日本が東アジアで台頭し、それが結局袁世凱政権打倒につながるとの考えを示した。そして、大戦によって東三省のロシア軍がヨーロッパ戦線に出動することを見越して、東三省での革命工作に乗り出そうとしたがこれも不調に終わり、結局日本へ戻った。9月からは、孫文の命を受けて革命党員に対する宣伝活動に携わるようになった。孫文は革命党員を中国に送り出し革命工作に従事させていたが、蒋介石は彼らに具体的な指令を発する職務を担ったのである。

帰国と陳其美の死

孫文率いる中華革命党は、秘密裏に中国国内で軍事組織を編成していった。革命軍は4つの軍で編成され、陳其美が東南軍司令官に、居正が東北軍司令官に、胡漢民が西南軍司令官に、于右任が西北軍司令官にそれぞれ任命された。孫文は1914年10月、東京で袁世凱政府打倒の宣言を発した。これに呼応した陳其美は同月、上海での軍事活動に率先して役割を果たすように蒋介石へ連絡してきた。蒋は直ちに上海へ赴き、陳とともに反袁活動に従事した。11月10日には「第二革命」のときに反政府活動を弾圧した上海鎮守使の鄭汝成の暗殺に成功。しかし、翌年12月の挙兵には失敗して、フランス租界での潜伏を余儀なくされた。

蒋介石は上海で知り合った二番目の夫人である姚治誠とフランス租界で潜伏生活を送った。蒋は酒もタバコも嗜まないストイックな人物とされるが、この時期の蒋は地下活動にも似た厳しさから酒色に溺れることもあったという。母の王采玉、妻の毛福梅、長男の蒋経国は渓口鎮の実家におり、蒋経国は1916年に地元の武嶺学校に進学していたが、毛福梅は仏門に興味を持つようになっていった。また、この時期に蒋介石は、自身と行動をともにしていた軍人の戴季陶と日本人女性との間に生まれた男子を引き取り、蒋緯国と名づけ、姚治誠のもとで養育している。

1916年5月18日、陳其美はフランス租界の山田純三郎邸において、北洋軍閥の張宗昌が放った刺客によって暗殺された。蒋介石はすぐに山田邸に駆けつけ、遺体をなでながら、体を震わせて泣いた。そして、山田邸に掲げられていた陳其美の筆による「丈夫不怕死 怕在事不成(丈夫は死をおそれず、事の成らざるをおそる)」の言葉を何度も口ずさんだという。葬儀では、陳其美の遺志を継ぐという趣旨の追悼文を読み上げた。陳は生前、孫文に対して「蒋介石こそが自分の後継者である」と書簡を送っていた。保阪正康は陳の死によって孫文の蒋介石に対する見方が変わっていったとする。

陳其美が暗殺された1916年から、孫文に呼び出される1918年までの蒋介石の動向は、公式記録上では詳細ではない。しかし、この頃は上海にいて、陳其美が残したルートから青幇と交流を持ち、また証券取引所に出入りするなど、革命資金の調達に奔走していたとされる。

雌伏のとき

陳其美の死後まもない1916年6月6日、袁世凱が病没。北京政府では北洋軍閥内部の対立が発生し、各地で軍閥が割拠した。北京政府の実権を掌握したのは安徽派軍閥で国務総理(首相)に就任した段祺瑞であったが、段は中華民国臨時約法を破棄し、旧国会の回復に反対した。孫文は雲南広西軍閥と提携し、段に反対する旧国会議員とともに広州に入り、1917年9月、広東軍政府を樹立して大元帥に就任した。かくして北京政府と広東軍政府の南北対立、いわゆる護法戦争が始まった。しかし、孫文は独自の軍事的基盤が脆弱で、広東軍政府は雲南・広西軍閥の唐継堯陸栄廷らによって左右された。ことに軍政府の軍事総代表となった陸栄廷は地盤の広西に孫文の影響力が拡大するのを恐れ、孫文の追放を図るようになった。孫文は彼ら軍閥への対抗手段として、蒋介石を自分の膝下に招いたのである。

1918年3月2日、孫文からの電報を受け取った蒋介石は広東へと向かった。孫文は蒋を広東軍総参謀部作戦科主任に任命した。蒋は広東軍第一軍総司令の陳炯明と行動を共にし、孫文の軍事力を支えることとなった。その後、広東軍の一部部隊を率いて出陣し、北京政府軍と交戦した。5月、孫文は唐継堯や陸栄廷との対立に敗れ、上海に引退することになったが、上海への途上で孫文は蒋と面会した。このとき蒋は交戦中であったが、蒋が部下と共に前線で戦い、率先して野砲を撃ち、照準を合わせたところへ的確に命中させていくのを見て、孫文は蒋介石の軍事的才能を評価した。蒋介石は孫文が失脚したことを受けて7月に一度職を辞したが、陳炯明の度重なる招請によって、9月には復職した。参謀部勤務は1919年7月まで続いた。この間1918年9月から11月までは前線で北京政府軍との戦いを直接指揮したが、蒋介石の指揮や統率は広東軍にも北京政府軍にも注目された。ただし、「有能な参謀。作戦立案に優れ、兵を率いて先頭で戦う軍人」としての評価を得たものの、それほど全国に名を知られたわけでなかった。なお、1919年10月10日に中華革命党は中国国民党に改組しており、蒋介石もその党員になっている。

蒋介石は陳炯明の下で働き、将兵への教育を施した。しかし、孫文の思想を兵に語ろうとする蒋とそれを許さない陳との間で齟齬が生まれ、蒋は陳に不信感を抱くようになった。結局、蒋は陳の下を去り、上海に戻った。そして同じく上海にいた孫文の下に出入りをする一方、証券取引所で資金の調達に勤しむ生活へと戻ったのである。

1920年、上海に在った孫文は陳炯明に命じて権力奪還を図った。9月、陳炯明率いる広東軍は広州へ進攻した。しかし、雲南派、広西派の軍隊に苦戦し、予定よりも広州制圧が遅れてしまった。そこで蒋介石が陳炯明の下に派遣された。蒋介石はすぐさま作戦を練り上げ、自ら陣頭指揮に当たった。10月26日、広東軍は広州を制圧。孫文は11月に広州へ帰還し、第二次広東軍政府を樹立して再び大元帥に就任した。蒋介石はしばらく陳炯明の下にいたが、陳が軍事戦略を独断で決めるようになり、さらには広東軍政府の他の部隊を軍事的に牽制するようになると、陳への不信感が増大し、ついには上海に去って孫文に陳に対する不信感を訴えると共に、実家の奉化県渓口鎮に戻ってしまった。この時期、胡漢民に書き送った手紙には、広東軍政府の政争に嫌気が差し、人類社会のためという大きな目標に向かって進みたいとの焦りが綴られている。

再び広東軍政府大元帥の地位に就いた孫文は北伐を目指すようになった。孫文は蒋介石に広東に来るように要請したが、蒋介石は断った。1921年1月、陳炯明は、孫文の意向に従い、全国統一を目指して進出していくので蒋介石に中央軍の司令官になってもらいたいという趣旨の手紙を蒋に送った。これを受け取った蒋は広東に赴き、孫文と面会して全国統一の方針を確認した。そして陳炯明らと作戦計画を討議したが、結局、陳には自己の基盤を固める意思しかないこと、他の幕僚が陳への対抗意識しかもっていないことがわかると、蒋介石は失望して再び渓口鎮に戻った。また、蒋介石の理解者である胡漢民も広東を去った。蒋介石は革命への情熱が先行するあまり、陳炯明を信頼するなど現実に対して正確な理解を持たない孫文に対して不満を持つようになった。3月には対日外交に頼る孫文の政策を批判し、国内の団結を勧める手紙を送ったが、孫文は蒋介石の諫言を受け入れなかった。

1921年5月、広東軍政府は改組されて「中華民国政府」と称し、孫文は中華民国非常大総統に就任した。このとき孫文は非常国会で北伐案が認められたことに興奮し、これを電報で上海にいた胡漢民や蒋介石に伝えた。胡漢民は上海から広東に向かったが、蒋介石は動かなかった。

6月14日、敬愛する母・王采玉が病没。苦労して自分を育ててくれた母に報いるために、蒋介石は渓口鎮での葬儀を盛大に行い、母を記念して生地に武嶺小学校を建設した。蒋介石は母を追悼する一文を遺しており、それには「哀れは母を喪うよりも哀れなるはない」とある。孫文からは王采玉を弔うとともに、すぐに広東に戻ってきてほしいとの書簡が送られてきた。また、胡漢民や汪兆銘など孫文閥の広東政府の要人からも手紙や電報で催促された。仕方なく蒋介石は広東に出向いてみたものの、広東政府内部の対立や陸軍部長兼内務部長に就任していた陳炯明の態度に怒りを覚え、ごく短期間で上海や渓口鎮に戻り、母の供養と称してそこから動くことは少なくなっていった。11月23日には母の本葬が執り行われ、その墓碑銘には孫文が揮毫し、胡漢民や汪兆銘も碑文を記した。

母の本葬から間もなく蒋介石は三番目の夫人を迎える。上海の実業家の娘、陳潔如である。上海で蒋介石と暮らしていた姚治誠とは慰謝料を払って離縁となった。12月5日に結婚式を挙げた蒋介石は、その後は孫文に忠実に従い、その北伐計画に積極的に携わるようになる。

孫文と共に

1922年に入ると孫文はますます北伐断行に逸るようになった。前年11月には桂林に大本営が設置されており、蒋介石も大本営に入るように要請を受けていた。1月18日、蒋介石は結婚まもない陳潔如を連れ、孫文と共に桂林に入った。すぐさま大本営で作戦会議が開かれ、蒋は湖北攻撃を主張した。これに対して胡漢民や許崇智李烈鈞などは江西を攻めるように主張し、論戦となった。蒋は強引に自説を押し通そうとした。結果、まず湖北を攻め、次に江西に進撃する妥協策が成立した。しかし、孫文が2月3日に出した北伐軍動員令では、李烈鈞が江西を、許崇智が湖南を攻めることになった。

だが、この北伐は実施されることなく終わった。陸軍部長の陳炯明が兵站や補給を妨害したためである。陳炯明は聯省自治主義者であった。すなわち陳は孫文と異なり、省自治を前提とした、各省の横の連合による地域統合型の国家建設を目指していたのである。陳は武力統一を目指す孫文と激しく対立した。

蒋介石は改めて大本営で開かれた作戦会議で、北伐軍を広東に戻し、体勢を立て直してから江西に攻め入るべきだと主張した。この提案は受け入れられ、さらに蒋介石は北伐軍と陳炯明が衝突しないように調整に当たることとなった。4月12日に蒋介石が軍を率いて広東に入ると、陳炯明は孫文に辞表を提出し、配下の部隊を率いて逃亡してしまった。孫文は陳炯明を軍職からは解任したものの内務部長の職には留めた。この措置に反発した蒋介石は、またしても孫文に辞表を出し、そして陳炯明に「孫文の意向に従い、北伐軍を指揮せよ」との警告を発して上海へ戻ってしまった。

孫文はその後も北伐を準備したが、それに反対する陳炯明との対立も先鋭化していった。そこで孫文は、上海にいた蒋介石に来援を求める電報を送っている。しかし北伐軍が広東を出発すると、陳炯明は6月16日にクーデターを起こし、広州の総統府を砲撃した。孫文は側近たちと共に軍艦「楚豫」に逃亡、60数日にわたって陸上の陳炯明軍と交戦した。蒋介石は6月29日、孫文救援のために楚豫へ駆けつけ、48日間共に戦った。ここで蒋は孫文の厚い信頼を得ることに成功した。だが戦況は不利で、蒋介石は孫文に香港への逃亡を進言、孫文と蒋はイギリスの軍艦に移って香港に向かい、そこから上海へ移った。

蒋介石は再び上海で無為の生活を送ることになった。ここでの生活では陳炯明の裏切りを非難する手紙を孫文の側近に送るか、証券取引所に出入りして投機に熱中するかであった。こういった生活は1923年3月まで続いた。

広東政府を乗っ取った陳炯明は、北伐軍を率いていた許崇智など孫文傘下の軍に追い詰められていった。孫文は蒋介石を東路討賊軍参謀長に任命し、福建に派遣して軍を監理させようとした。しかし蒋は福建の司令部で許崇智と衝突してしまい、またもや上海へ帰ってしまった。このとき孫文は蒋介石の必ず他人と衝突する性格を案じる手紙を送り、蒋介石に役割を果たすように説いた。そこで蒋は再び福建に戻った。しかし、すでに雲南・広西の討賊軍が陳炯明を追い詰めいており、蒋が大きな役割を果たすことは少なかった。結局、陳炯明は敗れて恵州に退き、12月15日に討賊軍が広州に入城。1923年3月、孫文が陸海軍大元帥に就任して第三次広東軍政府が成立した。新政府において、蒋介石は大元帥府大本営参謀長に任命された。

参謀長に就任した蒋介石は、陳炯明の残党や直隷派呉佩孚との戦いを指揮した。これらの戦いは、広東政府の財政難によって軍備の拡充が進んでいないこともあり、苦しいものであった。しかし蒋の軍事的能力は、孫文だけでなく後に蒋と対立することになる汪兆銘や胡漢民らにも高く評価された。

ソ連訪問と黄埔軍官学校校長就任

陳炯明によって政権を追われていた孫文は、1923年1月、ソビエト連邦の代表として中国を訪問していたアドリフ・ヨッフェと上海で会談し、「孫文=ヨッフェ宣言」を発表した。これは、中国における共産主義の可能性を排除しながらもソ連と提携し、連ソ・容共に基づく中国国民党と中国共産党の「合作」(国共合作)を正式に宣言するものであった。その後、第三次広東軍政府を組織した孫文は、ソ連とのさらなる連携を求めて同年8月、ソ連に「孫逸仙博士代表団」を送った。中国に社会主義的思潮が勃興した1919年以降、ロシア語を学び、『共産党宣言』や『マルクス学説概要』などを読んでいた蒋介石は孫文の連ソ方針に賛同しており、「赤い将軍」「中国のトロツキー」とまで呼ばれており、この代表団の一員としてソ連に渡ってソ連赤軍の軍制を視察することになった。

モスクワではレフ・トロツキーから赤軍の組織原理を学び、ソ連の軍隊における軍事と思想教育の分離に関心を持ったという。このソ連訪問は蒋介石にとって軍事面や政党の組織作りといった面では大いに参考となるものであったが、一方ではソ連への不信感を抱かせるものであった。11月25日のコミンテルンの席上、蒋が国民党を代表して行った演説に対して公然と批判された。この演説で蒋は孫文の三民主義を語り中国革命の意義を説いたのだが、ソ連では孫文と三民主義に対する評価は決して高いものではなかったのである。これに衝撃を受けた蒋はソ連への不信と共産党に対する警戒感を強くして中国に帰国していった。蒋が帰国したとき、国民党の改組が進んでおり、中国共産党員が国民党の中央執行委員に加わっていたり、コミンテルンの代表であるミハイル・ボロディンが国民党の最高顧問となっていたりしていた。これに怒った蒋はまたもや渓口鎮に引きこもってしまった。汪兆銘や廖仲愷、そして孫文からは広東に戻って視察報告をせよと何度も督促されたが、蒋は結局1923年の年末から翌年の正月にかけて故郷で過ごした。

1924年1月、広州において中国国民党第1回全国代表大会(党大会)が開催された。この党大会では国民政府の樹立が目標とされるとともに、その手段として「連ソ・容共・扶助工農」が改めて打ち出され、 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2019/09/11 23:37

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