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薔薇戦争とは?

薔薇戦争(ばらせんそう、: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱である。共にプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家ヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争である。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引くテューダー家ヘンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家のエリザベス王女と結婚してテューダー朝を開いた。

概要

1455年5月にヨーク公リチャードヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年テューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家ヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。

ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ(記章)としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる。

百年戦争中に、ランカスター家はプランタジネット朝を倒してランカスター朝を成立させていた。1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したランカスター朝二代のヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。

1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった。イングランドは百年戦争に敗れ、ヘンリー6世は精神錯乱を起こして闘争を収拾できなかった。両派は対立を深め、1455年第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。

勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃率いるランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。1460年ノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴されてヨーク朝が成立した。タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱)

王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。

ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネットの戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世とエドワード王子は殺害され、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱)

1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱)

ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた。

名称とシンボル

ヨーク家の白薔薇
ランカスター家の赤薔薇

薔薇戦争の名称は、2つの王家のヘラルディック・バッジ(記章)であるヨーク家の白薔薇ランカスター家の赤薔薇に由来するものである。もっとも、ランカスター家の赤薔薇の使用は戦争最末期である。この名称は19世紀の小説家ウォルター・スコットの『ガイアスタインのアン』(Anne of Geierstein)以降に広く用いられるようになった。

当時の疑似封建制のもと、この戦争に参加した者たちの多くが、直接仕えるまたは庇護者となっている諸侯のバッジがあしらわれた「お仕着せ」(そろいの制服:livery badge)を着用していた。例えば、ボズワースの戦いではヘンリー・テューダーの軍勢は「赤い竜」の旗の下で戦い、ヨーク軍はリチャード3世のバッジである「白い猪」を用いていた。戦後、ヘンリー7世は赤薔薇と白薔薇を合わせて、ヨーク家とランカスター家の融合の象徴としたテューダー・ローズのバッジを用いた。

ライバル両家の名称は、おのおのヨークランカスターの町に由来するが、両勢力の支持基盤とはほとんど関係がない。ヨーク家はミッドランド(イングランド中部)とウェールズ境界地方(ウェールズ・マーチ)に勢力をはり、家門名のヨークシャーではランカスター家が優勢だった。

背景

百年戦争とランカスター朝の成立

ブレティニー・カレー条約時(1360年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語)
イングランド王領域
ブレティニー・カレー条約によるイングランド獲得地
トロワ条約時(1420年)のイングランドとフランスの領域。(フランス語)

フランス王領域
ブルゴーニュ公領

1330年代のスコットランド政策を巡ってのフランス王フィリップ6世とイングランド王エドワード3世との対立が百年戦争の発端となった。当時のイングランド王は大陸に領地を有するアキテーヌ公を兼ねており、フランス王の封臣としての立場でもあった。フィリップ6世がエドワード3世の封臣礼の不備を理由にアキテーヌ領の没収を宣言すると、エドワード3世はヴァロワ家のフィリップ6世の即位の不法性を申し立て、1340年に自ら「フランス王」を宣言してフィリップ6世と開戦した。エドワード3世と有能な将帥であるエドワード黒太子クレシーの戦い(1346年)とポワティエの戦い(1356年)でフランス軍に大勝して戦局を有利に進めた。1360年のブレティニー・カレー条約で王位請求権放棄の見返りに旧アンジュー王領の回復とカレー、ポンティユー、ギーヌの割譲をフランス王に呑ませることに成功する。だが、その後、国内では反乱が起こり、黒太子が病に倒れたことで戦況も不利になり、カレー、ボルドーを残して征服した領域のほとんどを失ってしまう。

薔薇戦争につながる「大貴族間の抗争」はエドワード3世によって種をまかれた。エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーは13人の子をもうけており、成人した男子は5人である。エドワード3世は彼らをイングランド貴族の女子相続人と娶わせ、クラレンスランカスターヨークそしてグロスターといったイングランド初の公爵家を創設させた。これら公爵家の子孫たちは、最終的には国王位を巡って相争うようになる。

1377年にエドワード3世は死去し、王位はその前年に没したエドワード黒太子の子でわずか9歳のリチャード2世が継承した。エドワード3世の子で初代クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープもまた後を追って死去しており、娘のフィリッパが残され、リチャード2世の王位継承権者(推定相続人)となった。フィリッパは第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーと結婚した。1381年にエドムンドとフィリッパは相次いで死去した。子のないリチャード2世は彼らの息子の第4代マーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名したが、ロジャーは1398年に死去してしまい、第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーが残された。黒太子の系統が断絶した際には長男子相続権法に基づけばライオネル・オブ・アントワープの子孫である第5代マーチ伯が王位を継承するべきであった。だが、実際にはそうはならず、このことが薔薇戦争の決定的な要因となった。

ヘンリー4世
ヘンリー5世

百年戦争に苦戦していたリチャード2世は、ワット・タイラーの乱をはじめとする頻発する民衆反乱に悩まされ、国費の浪費と寵臣政治が議会から批判を受けた。1399年に叔父のランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが死去すると、リチャード2世はジョン・オブ・ゴーントの嫡子ヘンリー・ボリングブルックを領地没収と国外追放に処した。ボリングブルックは帰国し、当初はランカスター公位の回復を主張していた。多くの貴族が彼を支持するようになると、彼はリチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位し、ここにランカスター朝が成立した。若年のエドムンド・モーティマーの王位継承権を支持する貴族はいなかった。しかし即位から数年がたつと、ヘンリー4世はウェールズチェシャーそしてノーサンバーランドでの反乱に直面することになり、これらの反乱は第5代マーチ伯エドムンド・モーティマーの王位継承を大義名分に利用した。これらの反乱は、幾らかの困難を伴いながらも鎮圧された。

1413年、ヘンリー4世が死去するとヘンリー5世が王位を継承した。果断な性格であったヘンリー5世は、国内が安定していたことから中断していた百年戦争を再開すると、1415年自ら兵を率いてフランスへ侵攻し、アジャンクールの戦いにおいてフランス諸侯の連合軍を打ち破った。そして1420年、フランスとトロワ条約を結び、ヘンリー5世の子孫によるフランス王位継承権を認めさせた。

ヘンリー5世の9年間の治世ではサウサンプトンの陰謀事件が起こっており、エドワード3世の第4子エドマンド・オブ・ラングリーの子であるケンブリッジ伯リチャード・オブ・コニスバラがアジャンクールの戦いに先立つ1415年に反逆罪で処刑されている。ケンブリッジ伯の妻で王位継承権を有するアン・モーティマー(ライオネル・オブ・アントワープの曾孫でロジャー・モーティマーの娘)は1411年に死去している。アンの弟の第5代マーチ伯はヘンリー5世に忠実であり、1425年に子を残さずに死去しており、その王位継承権と称号はアンの子孫に相続された。

ケンブリッジ伯とアン・モーティマーの子のリチャードは父が処刑された時には4歳であった。ケンブリッジ伯は私権を剥奪されたが、後にヘンリー4世はアジャンクールの戦いで戦死したケンブリッジ伯の兄のヨーク公エドワードの称号と領地をリチャードに相続させている。ヘンリー5世には3人の弟がおり、彼自身も壮健で結婚もしており、ランカスター家の王位は揺るがぬものと見られていた。

ヘンリー6世の治世

ヘンリー6世。
作者不明、1620年頃。
穏和な性格で信仰心が篤く王者よりも聖人たる人物だったと言われる。治世中に幾度か精神錯乱を起こしており、大貴族たちの権力闘争を招いた。

1422年8月31日にヘンリー5世が急死し、即位した一人息子ヘンリー6世はわずか生後9ヶ月だった。その2ヵ月後にフランス王シャルル6世も死去しており、トロワ条約に従えばフランス王位はヘンリー6世のものとなるが、王太子シャルル(シャルル7世)を擁するアルマニャック派はこれを容認しなかった。

ヘンリー6世にはベッドフォード公ジョングロスター公ハンフリーの2人の叔父がおり、年長のベッドフォード公が護国卿(摂政)となり、ベッドフォード公がイングランド不在時はグロスター公がその役割を果たすことになった。だが、グロスター公とランカスター家傍系のウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールとが反目するようになった。

1429年、ジャンヌ・ダルクの活躍によってアルマニャック派がオルレアンを解放し、シャルル7世はランスでフランス国王の戴冠式を挙行した。イングランド側もパリを一時的に確保して1431年にヘンリー6世のフランス国王戴冠式を挙行するが、1435年のアラスの和約で同盟者であったブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)がシャルル7世と講和し、イングランドにとって情勢は不利になった。

ベッドフォード公が1435年に死去すると、ヘンリー6世は権力争いが絶えない評議員や顧問官に囲まれることとなった。グロスター公は護国卿の地位を求め、この目的を遂げるべく意図的に庶民の人気を得ようと画策したが、枢機卿ヘンリー・ボーフォートやサフォーク伯の抵抗を受けた。

ヘンリー6世とマーガレット・オブ・アンジューとの婚儀。
Martial d'Auvergne画、15世紀。

サフォーク伯はフランス国王との和平政策を推進し、シャルル7世の王妃マリーの姪にあたるアンジュー公ルネの公女マルグリット(マーガレット)とヘンリー6世との結婚を取り決めた。1445年に結婚式が執り行われたが、この和平にはメーヌの割譲が含まれており、イングランド国内では大変に不評だった。1447年、サフォーク侯は和平に反対するグロスター公ハンフリーを反逆罪で逮捕し、その5日後にグロスター公はベリー・セント・エドマンズの牢獄で死去した。

グロスター公を死に追いやったことで逆にサフォーク公の立場が悪くなり、今度はフランスとの和議を破棄して攻撃を行うが、失敗してフランスの領土のほとんどを喪失してしまう。1450年にサフォーク公は失脚し、国外追放の途上で殺害された。

代わってサマセット公エドムンド・ボーフォートが和平派の中心人物となった。一方、1446年まで「フランスおよびノルマンディーの総督」職に就いていたヨーク公リチャード(グロスター公の死により第一王位継承権者となった)が主戦派の中心となり、宮廷とりわけサマセット公を対仏戦において資金と兵士の供給を滞らせたと激しく非難した。

1450年、ケントにおいて民衆暴動が発生した(ジャック・ケイドの反乱)。ヨーク公の従弟を自称するケイドに率いられた一揆軍は政治的要求を掲げてロンドンに向かい、政府軍と衝突するがこれを打ち負かしてロンドンの一部を占拠し、ケント州長官と廷臣1名を殺害した。政府が赦免状を出したことによって暴徒は四散したが、ケイドを含む幾人かが処刑された。

1452年、アイルランド総督に左遷されていたヨーク公リチャードがイングランドに帰還し、サマセット公の排除と政府の改革を求めてロンドンへと進軍した。この時点では彼の大胆な行動に与する貴族は僅かであり、ブラックヒースでヘンリー6世と会見するが欺かれて拘禁された。彼は1452年から1453年にかけて投獄されるが、恩赦により釈放されている。

国王ヘンリー6世の御前で言い争うサマセット公とヨーク公。
A Chronicle of England,1864年

宮廷での不協和音は国内全土にも反映されるようになり、貴族たちは私闘を繰り広げ、国王の権威や宮廷法に対する不服従を示すようになった。北東部でのパーシー家とネヴィル家の争いはこの時代の典型的な私闘で、他の貴族たちも制約を受けることなくこれを行った。多くの場合は、それらは古くからの貴族とヘンリー4世以降に台頭するようになった新興貴族間で戦われた。古くからノーサンバーランド伯の地位を有するパーシー家とこれに比べると成り上がりのネヴィル家との争いはこのパターンであり、これ以外ではコーンウォールデヴォンで行われたコートネイ家とボンヴィル家の私闘がある。

フランスではシャルル7世がイングランド軍を追い詰め、1453年10月19日、イングランド軍最後の拠点であったボルドーを攻め落した。その後イングランド勢力による反撃が試みられたが、小競り合い程度であることから、これをもって百年戦争は終結したと見做されている。

1453年8月にヘンリー6世は最初の発作に見舞われて精神錯乱に陥り、王子(エドワード・オブ・ウェストミンスター)の誕生さえ認識できない有様となった。マーガレット王妃は自らを摂政にするよう要求したが容れられず、貴族院の指名によりヨーク公が護国卿に任命された。彼はすぐにこの権力を大胆に行使し、サマセット公を投獄するとともにパーシー家のノーサンバーランド伯(ヘンリー6世の支持者)と私闘を行っていた彼の同盟者ネヴィル家(義理の兄弟のソールズベリー伯、その息子のウォリック伯)を支援した。

1455年にヘンリー6世が回復すると、ヨーク公の政策は覆され、サマセット公が復帰した。マーガレット王妃はヨーク公に対抗する党派を構築して、彼の影響力を奪う陰謀を画策した。次第に追い詰められていったヨーク公とその一党は、身を守るために武力をもって対抗することを決意する。

大貴族と軍隊

【】
主な地域と都市
 | 
ロンドン
ヨーク
サウザンプトン
シュルーズベリー
ブリストル
ノーサンバランド
ヨークシャー
ランカシャー
ノーフォーク
ミッドランド
エセックス
ケント
サマセット
コーンウォール
ウェールズ
スコットランド王国
太文字 –地域
–都市

15世紀のイングランドは神授権を主張し、民衆からは神に指示され導かれる「聖別された君侯」と信じられていた国王に統治されていた。王権の主なる機能は敵から民衆を守ること、公正に統治すること、そして法を維持執行することであった。このような社会での主権者の性格は自らの安全確保と臣下の安寧に依拠するがために肝要であった。統治と君臨によって国王は強大な権力を振るうが、300万人の国民を擁する政府の複雑性は政府機関の数が増すとともに臣下への権限の委任の増加を導いた。

王位継承法は明確なものではなかったが、一般的には年長の子とその相続人に継承させる長男子相続権の規則が適用されていた。12世紀の女君主マティルダの短い治世から、1399年のリチャード2世の廃位までの時期はプランタジネット朝には多数の男系継承者が存在していたためにこの長男子相続権でも問題が生じなかった。しかし、1399年から15世紀の末には、法学者ジョン・フォーテスキューの1460年代の著作が言うところの、「強大化しすぎた臣下」の台頭により、王位は抗争の的となった。この時代は王位請求者、もしくはその黒幕とならんとの野心を持つ、強大な大貴族があまりにも多くいた。この結果、新たなそして不穏な要素が王位継承の決定に加わることになり、権力に対する恣意の横行となった。

国土の防衛はとりわけ重要であり、イングランド国民の多くが軍事的成功に重きを置いていた。それ故に国王は有能な戦士と見なされねばならなかった。薔薇戦争の名で知られる一連の内戦の決定的な要因は、国王自身は常備軍を有していなかったことである。国王は必要な際に自らを守る兵の動員を貴族たちに依存しており、そのため、もしも刺激させればその兵力を国王に向けかねない、貴族やジェントリ(郷紳)との関係を良好に保つことが不可欠であった。このことは国王が、大貴族間の権力闘争(とりわけ、王国の安定を脅かしかねないもの)を抑止する責務にもつながっている。

イングランド騎士の甲冑。写真は16世紀・テューダー朝時代のもの。

薔薇戦争は主に大土地所有の大貴族の間で行われた。彼らは王族たる公爵、比較的少数の侯爵や伯爵、多数の男爵と騎士、そして土着のジェントリたちであった。彼らは広大な私有地を持つ一方で、投資や貿易によって財産を増やし、政略結婚によって政治的影響力を拡大していた。彼らは封建的な扈従(こじゅう)(retainerまたはtenants)からなる武力によって支えられており、しばしば外国人傭兵も抱えていた。雇用された多数の兵士を統制する行為は「幇助」(maintenance)として知られる。このような私兵の規模のほかに、貴族の威信は「扈従団」(affinity:アフィニティ)によっても計られた。扈従団の一員となった扈従はその貴族の「お仕着せ」(livery:そろいの制服と記章)を着用し、戦役に従軍する。その見返りとして、貴族は年金の支払いや法的な保護そして土地や官職といった報酬を与えた。この非公式な「お仕着せと幇助」(livery and maintenance)の制度は百年戦争に続く封建制度の衰退を通じて現れたもので、封建制度本来の土地の授受を媒介とした封臣として貴族に仕えるあり方ではなく、「仕着せされた扈従」(liveried retainer)として貴族と請負契約を結ぶ、歴史家の言うところの、「疑似封建制」(bastard feudalism)の一環であった。薔薇戦争の時期には、フランスでの戦いに敗れイングランド軍から除隊させられた多数の兵士たちの存在があった。貴族たちは彼らを雇用して襲撃、または従臣とともに法廷に引き連れて行き、原告や傍聴人そして判事に対する威嚇に用いた(訴訟不法幇助)。

前世紀の戦争の経験から、弓兵に対する騎兵突撃が極めて危険なことが分かり、騎兵(装甲兵)たちはほとんどの場合、徒歩で戦った。しかしこれはしばしば言われるが、貴族の方が兵士よりも危険が大きかった。ブルゴーニュ人の観察者フィリップ・ド・コミュンヌは、エドワード4世が戦場で勝利を決した際に「兵士は逃がしてやれ、だが貴族は容赦するな」と命じていたと伝えている。

第一次内乱

第一次セント・オールバーンズの戦いと愛の日

【】
第一次内乱初期(1455年)
 | 
ロンドン
レスター
コヴェントリー
カレー
第一次セント・オールバンズ

 | 

ヨーク派

ランカスター派


–戦死または処刑。


詳細は「セント・オールバンズの戦い (1455年)」を参照
シェイクスピア作『ヘンリー六世 第1部』の一場面。ヨーク公リチャード(左)と同志が白いバラを選び、サマセット公エドムンド(右)は赤いバラを選んでいる。
Henry Payne画。1908年頃。

1455年5月、大評議会開催のためにレスターに向かっていたヘンリー6世、マーガレット王妃そしてサマセット公エドムンドの宮廷一行は、公正な審理を求めるべくロンドンに向けて南下していたヨーク公リチャードの軍勢と対峙することになった。5月22日、ロンドン北方のセント・オールバンズで両軍は衝突する。比較的小規模なこの第一次セント・オールバンズの戦いはこの内戦における最初の会戦となった。戦いはランカスター派の敗北に終わり、サマセット公は戦死し、ノーサンバランド伯をはじめとするランカスター派の主だった指導者たちは処刑された。会戦の後、ヨーク派は評議員や従者たちに見捨てられて陣幕で一人たたずんでいたヘンリー6世を見つけ、国王は明らかに精神異常に陥った状態だった(国王は首に軽い矢傷を負ってもいた)。

この勝利により、ヨーク公と彼の同盟者たちは再び影響力を取り戻した。10月、国王が執務不能なためにヨーク公が再び護国卿に任命され、議会は彼が国王に武器を向けたことについて不問に付した。ヘンリー6世が回復す

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出典:wikipedia
2020/07/07 20:59

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