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藤川球児とは?

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藤川 球児
阪神タイガース #22

2011年3月9日、阪神甲子園球場

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
高知県高知市
【生年月日】
(1980-07-21) 1980年7月21日(37歳)
身長
体重 185 cm
85 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投左打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1998年 ドラフト1位
【初出場】
NPB / 2000年3月31日
MLB / 2013年4月1日
【年俸】
2億円(2018年)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

【国際大会】

【代表チーム】
日本
五輪
2008年
WBC
2006年2009年
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


【獲得メダル】

日本

ワールド・ベースボール・クラシック

 | 2006 | 野球
 | 2009 | 野球

藤川 球児(ふじかわ きゅうじ、1980年7月21日 - )は、阪神タイガースに所属する高知県高知市出身のプロ野球選手(投手)。右投左打であり選手登録上も同様であるが、相手投手の利き手によっては右打席に入る場合がある。マネジメント会社はエイベックス・マネジメント

実兄の藤川順一は、かつて四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスゼネラルマネージャーを務めていた。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 阪神時代
    • 1.3 カブス時代
    • 1.4 レンジャーズ時代
    • 1.5 独立リーグ・高知時代
    • 1.6 阪神復帰
  • 2 選手としての特徴
  • 3 ストレートに関する調査
    • 3.1 日刊スポーツによる調査
    • 3.2 姫野龍太郎による調査
  • 4 人物
  • 5 スコアボード表示名
  • 6 登場曲
  • 7 詳細情報
    • 7.1 年度別投手成績
    • 7.2 タイトル
    • 7.3 表彰
    • 7.4 記録
    • 7.5 独立リーグでの投手成績
    • 7.6 背番号
    • 7.7 代表歴
  • 8 関連情報
    • 8.1 著書
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献・資料
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

経歴

プロ入り前

父が草野球でノーヒットノーランを達成した翌日に生まれたため、奇縁から球児と名付けられた。少年野球チーム「小高坂ホワイトウルフ」時代に遊撃手から投手にコンバートされた。幼少期はぜんそくを患っているなど決して丈夫な体ではなかった。1993年4月、高知市立城北中学校に入学。同じ体育会系の陸上部に所属していた広末涼子とは同級生。

高知商業高校に進学し、2年生の時に第79回全国高等学校野球選手権大会右翼手兼控え投手として兄の順一との兄弟バッテリーで出場、2回戦で川口知哉を擁する平安高校に敗れたが、豊田大谷高校古木克明と共に2年生では2人だけ高校日本代表に選出された。高校時代は寺本四郎土居龍太郎らと共に高知三羽烏と呼ばれていた。

1998年プロ野球ドラフト会議で阪神から1位指名を受け入団。背番号は30。入団発表の記者会見では、当時の監督の野村克也にビッグマウス気味な話術を褒められた。

阪神時代

1999年は体力強化を中心に過ごし、二軍でも3試合の登板にとどまった。

2000年フレッシュオールスターゲームに選出されてリリーフで登板し、初めて一軍登録もされてプロ初登板を果たしたが、野村監督の期待に応えることはできなかった。同年、高校時代から交際していた女性と結婚して同学年・松坂世代のプロ野球選手で最初の既婚者となった。

監督が星野仙一に代わった2002年から背番号を名前の「きゅうじ」に掛けた92に変更。先発投手として積極的に起用されて12試合に登板し、9月11日の対ヤクルトスワローズ戦で8イニングを1失点に抑えて初勝利を挙げ、フレッシュオールスターゲームのウエスタン・リーグ先発投手も務めたが、同年は前出の1勝のみで先発ローテーションに定着することはできず、2003年までは目立った成績を残せなかった。

2003年のファーム日本選手権ではセーブを記録し胴上げ投手になったが、日本シリーズでは登板機会がなかった。なおこの年に球団から戦力外通告を受ける可能性があった事が、同年オフにコーチから昇格して新監督となった岡田彰布によって明かされている。

2004年5月、肩の故障もあって二軍生活を送っていた頃、当時二軍投手コーチだった山口高志のアドバイスを受けフォームを改造し、高校の先輩でもある一軍投手コーチの中西清起の助言で中継ぎに転向した。このフォーム改造・ポジション転向によってシーズン後半には一軍に定着。31回を投げて35三振を奪った。

2005年、背番号を22へ変更。この時「佐々木さん、高津さんと同じ背番号で光栄です」と語っている。JFKの一角としてセットアッパーを務め、6月14日から7月20日にかけてプロ野球記録となる17試合連続ホールドを記録し、6月には月間MVPを受賞。オールスターゲームのファン投票では中継ぎ投手部門1位で初出場を果たした。チームがリーグ優勝を決めた9月29日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦では、当時のシーズン最多登板記録を更新する79試合目の登板をし、最終的に登板数は80試合を記録。また、同年53ホールドポイントで初タイトルとなる最優秀中継ぎ投手を獲得した。4月21日の対巨人戦7回裏二死満塁清原和博に対してフルカウントからフォークボール三振に打ち取ったが、試合後には清原から「フルカウント二死満塁の場面でフォークを投げるような逃げ腰のピッチングをするような臆病な投手には男性器がついていない」という趣旨の罵倒を受けた。しかし、藤川は「あの一件のおかげで、僕はストレートにこだわるようになった。自分を常に磨かないといけないと思うようになった」とこれに発奮し、6月25日に再び清原と対戦した際、今度はストレートで三振を奪った。これに清原は「完敗。僕が20年間見てきた中で、最高のストレートです」と藤川を絶賛した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは第3戦で登板し、橋本将にタイムリー二塁打にされ降板し、チームは敗れた。翌日の第4戦も敗れ、4連敗でシリーズを終えた。

2006年WBCでの藤川

2006年WBC日本代表に選ばれた。背番号は、同じ「22」を着ける球界の先輩里崎智也に配慮して24を選んだ。対アメリカ戦ではアレックス・ロドリゲスのバットを直球で折った。シーズンに入ると前年同様に中継ぎでスタートしたが、6月に抑え久保田智之が怪我で離脱したことに伴い、抑えに定着。7月4日の対横浜ベイスターズ戦で35試合連続無失点となり、豊田清が持っていた日本記録を更新。7月11日には小山正明が持つ47イニング連続無失点の球団記録を更新したが、翌7月12日の対広島東洋カープ戦で失点し、連続無失点試合数は38, 連続イニング無失点記録は47回2/3で途切れた。7月21日のオールスターゲーム第1戦では登板前に「野球漫画のような世界を創りたい」と話し、先頭打者のアレックス・カブレラへの投球前に、全球ストレートを予告し、一回もバットに当てさせず空振り三振に取り、続く小笠原道大に対しても全て直球を投じて空振り三振に打ち取った。7月23日の第2戦では、同年からオリックス・バファローズに移籍した清原と再び対決。全て直球で空振り三振に取り、清原は「参った、火の玉や」とコメントした。なお同年は中日ドラゴンズと優勝を争う状況だった阪神だが、7月30日の対ヤクルト戦で藤川に初めて延長3イニングを投じさせるほど決定打を欠いて引き分ける戦いぶりに象徴される様に、オールスター終了後の7月下旬以降なかなか勝てず、堅実に勝ち星を積み重ねる中日に8月下旬には9ゲーム差まで差を広げられた。そんな中、首の寝違えで8月12日より登録抹消されていた藤川は8月27日の対巨人戦で8回から復帰後初登板して勝利投手となりお立ち台に立つと、マスメディアからの批判やファンの野次に対して「選手も必死でやっているということを分かって下さい」と涙を流しながらコメントした。結局チームは優勝を逃したが、藤川自身は2年連続の最優秀中継ぎ投手を獲得した。

2007年は開幕から抑えとして安定した投球を見せた。7月20日のオールスター第1戦ではセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場し、「僕の変化球なんか誰も見たくないでしょ?」と全て直球勝負で2三振を奪い、試合を締めた。9月7日の対巨人戦ではリリーフ投手として史上初の3年連続100奪三振を達成。シーズン終盤にはセ・リーグ記録となる10試合連続登板をして2勝7セーブ、防御率1.80で、チームは10連勝した。10月3日のチーム最終戦で日本タイ記録(前々年の岩瀬仁紀と並ぶ、右投手としては新記録)となる46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得。オフには球団にポスティングシステムの行使を申請し、「自分の気持ちにウソをついたまま来年プレーするのがイヤだった」としてメジャーリーグ (MLB) 挑戦を希望していることを表明したが、ポスティング行使は球団に拒否された。

2008年オールスターゲーム前までに30セーブを挙げ、オールスター直後の北京オリンピック野球日本代表に選ばれ、星野仙一監督の構想した7・8・9回を担当する「トリプル抑え」の一角として指名された。五輪では準決勝の対韓国戦で2対1とリードした7回から登板したが同点打を浴びた。帰国後は同点時や大差のリード時などのセーブのつかない場面や、2イニングのロングリリーフなど、起用法は過酷になったが終始安定した投球で応え、9月25日の対横浜戦で通算100セーブを達成。しかし、中日とのクライマックスシリーズファーストステージでは、1勝1敗で迎えた3試合目で9回にタイロン・ウッズに決勝打を浴びてチームは敗退。オフには年俸4億円で契約更改し「メジャー挑戦の思いは持ち続けるが、阪神に入って10年。酸いも甘いも知った。来年はもう1回、阪神で巨人を倒したいという気持ちが強い」と語った。

2009年は2大会連続で第2回WBC日本代表に選ばれた。背番号22をつけ、1次予選・2次予選の4試合に登板して防御率0.00と結果を残した。しかし、直球が走らずにたびたび走者を出すなど内容が不安定だったことから、準決勝と決勝ではダルビッシュ有が抑えを務め、自身は登板なしに終わった。この際、抑えの経験がないダルビッシュに求められ気構えや調整方法などについて助言した。大会終了後、この起用法に不満があるとして日本代表を引退するかのような報道が多数されたが、後日自身の公式サイト内のブログで「悔いが残るとか、準決勝・決勝と連投して胴上げ投手になりたいという発言は一切していない」「代表を引退するとも言っていない」と報道を完全否定した。レギュラーシーズンでは、5月途中の時点で早くも3敗を喫するなど不調にあえぎ、前年までと比較して登板数が大きく減少したが、6月以降は負けなしの5勝3敗25セーブでシーズンを終え、3年連続20セーブを達成した。この年のオフも「あえてしゃべらなくても、やることは同じ。どんな状況でも全力で前を向いてトライしていかないといけない。ポスティングは交渉の中で伝えていこうと思う。球団の了承がない限りメジャーに行けない」として2011年以降のメジャー挑戦のためポスティングシステムの行使を球団に申請したが、「やすやすとは出したくない。ビジネス以前の問題」として拒否された。

2010年は開幕から16試合連続無失点を記録し、例年以上の好調ぶりを見せた。この年は他の中継ぎ投手の不調でセットアッパーが固定できず、交流戦と夏場を中心に、本来の抑え投手の役目に加えてセットアッパーのポジションも兼任することとなった。結果として例年よりイニングをまたぐ登板が増え、1イニング以上の登板した試合はシーズン全体で12試合に及んだ。4月13日東京ドームでの対巨人戦で、通算セーブ数で山本和行の130セーブを抜き、歴代単独14位と球団記録を達成した。ファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で6年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦の9回に登板し、里崎智也・片岡易之中島裕之を迎えて投じた16球全て直球で、三者連続三振に仕留めた。9月5日の対広島戦で通算150セーブを達成。9月に入ると久保田の復調でイニングまたぎ登板は減ったが、制球が定まらず9月だけで2本の逆転被本塁打を打たれたり、それ以外でもピンチを招く場面がたびたびあった。この年の被本塁打はプロ入り後ワーストの7本を数え、防御率・WHIPはそれぞれ2.01と1.08で、いずれも中継ぎに定着した2005年以降では最低の数字であった。

2011年も抑えとして活躍し、前半戦は26試合に登板して防御率0.76(自責点2)で昨年に続いてファン投票(セ・リーグ抑え部門1位)で7年連続のオールスターゲームに選出され、第1戦では2007年同様にセ・リーグから登板した9人の投手のうち最後に登場して試合を締めた。8月25日の対巨人戦で同点の場面で登板し3者連続三振で1回を抑え、この登板で通算100ホールドを記録し、史上初の通算100ホールド・100セーブの2つを達成した投手となった。10月21日の対横浜戦でセーブを挙げ4年ぶりの40セーブに達し、最終的に41セーブを挙げて二度目の最多セーブ投手を獲得した。オフにはこの年取得した国内FA権を行使せず残留。契約更改の交渉でも球団から2,000万アップの年俸4億2千万円を提示されたが、優勝を逃したことを理由に固辞し、翌年の海外FA権取得を見据えての単年契約の4億+出来高払いで更改した。

2012年は、この年からチームがキャプテン制度を定めたのに伴い、野手キャプテンの鳥谷敬と並んで投手キャプテンに選ばれた。この年も抑えとして活躍し、4月11日の対広島戦で通算200セーブを達成した。オフには海外FA権を行使し、「2007年のオフに初めてお話しさせていただいた、メジャーリーグへの思いはずっと抱き続けておりました。今年に入ってからはすべての可能性を考え、熟慮した末、やはり、長年の目標に挑戦したい気持ちは強く、考えが変わることはありませんでした」として、アーン・テレム団野村を代理人としてMLB挑戦を表明した。

カブス時代

2012年12月2日にシカゴ・カブスと2年総額年俸950万ドル+出来高(3年目は年俸550万ドルの球団オプション。交代完了が一定数以上の場合は年俸600万ドルで自動更新)で契約合意し、12月7日に契約。背番号は11となった。入団会見では「すべてが挑戦。しっかりと結果を出すために努力を重ねたい」と語った。

2013年、渡米前に羽田空港で「向こうで(現役の)最後までやるつもりでやってくる」と語った。開幕戦となった4月1日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦の9回二死の場面でメジャー初登板し、2球でメジャー初セーブを挙げた。4月7日には不振のカルロス・マーモルに代わりクローザーとして起用されることが発表された。4月12日の対サンフランシスコ・ジャイアンツ戦では2点リードの場面で登板し、3安打1死球1暴投の3失点で逆転を許したものの、その裏に味方が逆転したためメジャー初勝利を挙げた。しかし、13日に右前腕部の張りで故障者リスト入り。5月10日の対ワシントン・ナショナルズ戦で復帰し、復帰後は7試合の登板で防御率1.17・WHIP 0.55と好投を続けていたが、5月26日の対シンシナティ・レッズ戦で右前腕部の張りを再発させ降板した。トミー・ジョン手術を受けることが5月29日に球団から発表され、6月11日に手術を受けてシーズンを終えた。

2014年3月30日に前年の手術の影響で、15日間の故障者リスト入りし、5月3日に60日間の故障者リストへ異動した。7月16日にリハビリのためA級ケーンカウンティ・クーガーズに異動。8月6日に故障者リストから復帰した。オフにFAとなった。

レンジャーズ時代

2014年12月16日に年俸100万ドル+出来高の1年契約(翌年の契約は年俸200万ドル+出来高の球団オプション)でテキサス・レンジャーズと契約。背番号は21

2015年、右脚付け根の張りで故障者リスト入りして開幕を迎えた。5月14日に復帰し移籍後初登板。しかし2試合の登板で3失点を喫したのち17日にDFAとなって40人枠から外れ、22日に自由契約となった。

独立リーグ・高知時代

レンジャーズを自由契約となったあと、古巣・阪神が先発投手として獲得を調査していることが報じられ、2015年6月1日付の『スポーツ報知』では「阪神復帰が決定的」とも報じられた。しかし、「地元の子どもたちに夢を与えたい」との思いから出身地である高知で野球人生を再スタートすることにし、阪神からのオファーを拒否して四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスに入団を決めた。これには、かつての藤川のチームメイトであり、当時阪神球団の駐米スカウトを務めていたジェフ・ウィリアムスおよびアンディ・シーツ両名のシビアな報告に球団側が及び腰になっていたことが背景にあった、と報じるメディアもあった。

6月8日に高知市内で開かれた入団記者会見では、登板する試合ごとに高知と契約を結ぶ形となり、藤川自身は無報酬であること、また登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設に寄付することを発表する一方、オファーがあればNPBに復帰する可能性については否定しなかった。高知と藤川との間に契約文書はなく、試合外での行動については球団ではなく藤川の所属するエイベックス・スポーツが管理する異例の形であった。背番号は11

6月20日に高知市野球場で行われた香川オリーブガイナーズ徳島インディゴソックス連合チームとのオープン戦に先発し、4回を1失点という内容であった。2015年シーズンのNPB復帰期限だった7月31日までにオープン戦3試合に登板したが、NPB球団との契約には至らなかった。これに伴い、高知球団は8月4日に藤川と、リーグの基準に従った形で後期シーズン(ポストシーズンを含む最終戦まで)の契約を締結した。ただし、引き続き報酬は受け取らない条件で、以前同様常時チームには帯同しないと報じられている。8月6日の対徳島戦に先発し、リーグ公式戦に初登板したが、先頭打者への5球目の投球が頭部に接触したため「危険球」として退場処分になった。翌8月7日の対愛媛戦で、チームが6-2とリードした5回から登板し、5イニングを無失点・12奪三振の内容で、アイランドリーグ公式戦で初勝利をあげた。地元の高知で開かれた9月7日の対香川戦では、先発投手として登板すると、被安打3の完封で2勝目を記録。公式戦での完封勝利は、阪神の投手としてウエスタン・リーグ公式戦で2完封勝利を挙げた2000年以来15年振りであった。

球団では9月10日に、藤川との契約を2015年シーズン限りで終了することを発表。当初は、最終登板として、同月16日の対徳島戦での先発を予定していた。しかし、発表直後に左足首を痛めたため先発を回避。同カードおよび、チームのシーズン最終戦(同月17日の対香川戦)ではベンチに入ったものの、登板機会のないままシーズンを終えた。

在籍中には、古巣の阪神を含めて、複数のNPB球団関係者が藤川の投球を視察。契約期間の満了直後には、中日やヤクルトが、藤川の獲得を視野に調査を進めていることが報じられた。

阪神復帰

阪神では、渡米前のチームメイトだった金本知憲が、2015年10月17日に一軍監督へ就任。金本は監督就任の直後に藤川へ接触するとともに、球団として復帰を受け入れる姿勢を改めて示した。ヤクルトも水面下での交渉で藤川サイドに2年契約を提示していたが、条件面などで折り合いが付かなかったことから、藤川は阪神への復帰を決断。11月14日には、阪神との入団契約で合意に達したことが球団から発表された。契約期間は2年で、期間中の年俸総額は推定4億円。同月24日には、球団と正式に契約を結んだ後に、入団記者会見で背番号18の付いたユニフォーム姿を披露した。

首脳陣は藤川の復帰が決まった時点で、2014年から藤川の渡米前の背番号(22)を着用していたクローザー・呉昇桓の残留を前提に、藤川へ先発陣の一角を担わせることを構想。一軍投手コーチの香田勲男も、藤川に対して先発向けの調整を求めた。ちなみに金本は、藤川の役割について、「先発の準備をしておけば途中から中継ぎにいける(転向できる)。中継ぎの準備しかしていなかったら、先発(への転向)はしんどい」と説明している。

もっとも、阪神球団では、2015年12月で呉との残留交渉が決裂(詳しい経緯は呉昇桓を参照)。藤川自身は、この時点で、先発以外の役割も担う姿勢を示していた。球団では後に、マルコス・マテオや、カブス時代のチームメイトであったラファエル・ドリスを呉の後任クローザー候補として獲得している。

2016年には、先発投手としての調整を春季キャンプ以降も継続。オープン戦では、3月6日の対巨人戦(甲子園)でNPB復帰後初登板を果たすと、先発でチーム最多の2勝を挙げた。公式戦では、中日との開幕カード第3戦(3月27日・京セラドーム大阪)で、先発投手としてNPB復帰後初の公式戦登板。4月3日の対DeNA戦(横浜)にも先発すると、6回を2被安打無失点という好投で、NPB復帰後初勝利を挙げた。また、NPBでは2003年9月19日の対巨人戦(東京ドーム)以来、自身4580日振りの先発勝利であった。しかし、14年振りの甲子園での先発登板となった4月10日の対広島戦で、自己ワーストの7失点と復帰後初黒星を記録。結局、5試合の先発登板で1勝2敗、防御率6.12と振るわなかったため、5月中旬から再び救援投手に転向。同月18日の対中日戦(甲子園)では、本来のクローザーであるマテオやセットアッパーのドリスが体調不良でベンチ登録を外れたことから、1点リードの9回表に復帰後初めてクローザーとして登板。NPBでは2012年9月15日の対巨人戦(東京ドーム)以来のセーブを挙げた。さらに、ドリスが登録を抹消された4月19日の対中日戦(甲子園)でも、同点で迎えた9回表に登板。復帰後初の連投であったが、チームが9回裏にサヨナラ勝ちを収めたことによって、復帰後初の救援勝利を記録した。7月26日の対ヤクルト戦(甲子園)では、8回表に登板すると、大引啓次からの三振によってNPB/MLB通算1000奪三振を達成した。なお、救援投手としては38試合に登板。チーム事情に応じてセットアッパーやクローザーを担いながら、甲子園で16登板試合連続無失点を記録したほか、4救援勝利(4敗)、3セーブ、10ホールド、救援防御率3.58という成績でシーズンを終えた。

2017年には、背番号を復帰前の22へ戻すとともに、セットアッパーとしてレギュラーシーズンをスタート。4月6日の対ヤクルト戦(京セラドーム大阪)では、延長10回表からの救援登板で2イニングを無失点に抑えると、原口文仁のサヨナラ本塁打によってシーズン初勝利を挙げた。また、この救援勝利によってNPB公式戦での通算ホールドポイントが155に達したため、自身や久保田と共に「JFK」の一角を担っていたジェフ・ウィリアムスの球団記録(154ホールドポイント)を更新した。同月中旬以降は桑原謙太朗がセットアッパーに定着したことなどから、点差の開いた展開やビハインドの局面での登板機会が増加。この年のセ・パ交流戦最初の試合であった5月30日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では、8点リードの9回裏に登板すると、先頭打者・角中勝也の見逃し三振によってNPB史上146人目のNPB一軍公式戦通算1000奪三振を達成。所要イニングは771回2/3で野茂英雄の871回を大きく下回り最短記録を更新した。レギュラーシーズンでは、一軍公式戦52試合の登板で、3勝無敗、6ホールドをマーク。前述した起用法の影響で2004年以来13年振りにセーブを記録できなかったものの、防御率は2.22で、WHIPも前年から大幅に向上した。

選手としての特徴

投球する藤川
(2011年10月9日、横浜スタジアム)

オーバースローから投じる「火の玉ストレート」と呼ばれる全盛期には平均球速約149 km/h、最速156 km/hを記録していたストレートを最大の武器とし、さらにフォークカーブも混ぜる。

手元で浮き上がるように伸びるストレートが特徴で、NPBにおける一軍に定着した2005年から2012年までの期間は、通算奪三振率が12.81という高い値を示していた。

阪神復帰後の2016年には通算投球回数767回1/3でNPB/MLB通算1000奪三振、2017年には通算投球回数771回2/3でNPB通算1000奪三振を、NPB在籍期間での1000奪三振達成者における野茂英雄の最速記録(871投球回)を大幅に上回るペースで達成した。

もっとも、先発投手としては、阪神への入団当初から「中盤以降に球威や制球力が大幅に落ちる」という傾向が見受けられる。2004年に一軍監督へ就任した岡田は、この傾向を踏まえて、先発で伸び悩んでいた藤川を救援要員へ転向させることを決断。当時の二軍投手コーチ・山口高志は、藤川に対して「上から投げ下ろすようにボールを叩き付ける感覚で投げろ」というアドバイスを送った。これを機に、下半身を使って、しなりを残しながらも右ひざをあまり折らずにタメを作って投げ下ろすフォームに改造。軸足をうまく使う方法を身に付けたことで、球速が急激に増加した。ちなみに、NPBの一軍公式戦のみで1000奪三振を達成した投手としては、2017年5月の達成時点でただ1人完投を経験していない。

ストレートを投げる時のボールの握りは人差し指と中指の間を完全にくっつけて握る。リリース時にはボールを潰すような感覚で投げ、「ピンポン玉のように浮き上がれ」と意識するという。また、できるだけ前でボールをリリースするために7足の広いストライドを作っている。さらにタイミングをズラすために、打者の振り出してくるタイミングとキャッチャーミットにボールが届くまでの時間を体で感じながら、体の開きや腕の振り、リリースポイントを微妙に変えているという。

2011年は平均球速が約147 km/hに落ち、それまでリーグ平均約8パーセントに対し30パーセント近い数字を記録していたストレートでの空振り率も20パーセント弱に落ちた。しかし、フォークでの空振りが増え、奪三振率は12.59と高い数字を保った。トミー・ジョン手術から復帰した2014年からは平均球速90.6 mph(約145 km/h)とさらに微減した。

トミー・ジョン手術後に高知へ入団してから阪神への復帰直後までは、右肘への負担を軽減させるなどの目的で先発に再転向。前述したストレートの球速低下を補うべく、スライダーやカーブなどの変化球を多用していた。

ストレートに関する調査

日刊スポーツによる調査

日刊スポーツ』大阪版が独自にスピードガンで計測した2006年のオールスター第2戦でのマーク・クルーンと藤川のストレートを比較では、初速と終速の差はクルーンがおおむね10 km/h前後で藤川はおおむね13 km/h前後だった。藤川とクルーンのリリースポイントを調べると藤川の方が10 cm前だった。藤川は身長184 cmでクルーンは188 cmと大きな差はないが、ABCラジオでのアナウンサーの取材によると、平均的投手は踏み出す足をプレートから6足半の場所に置くが、藤川は7足目であった。

姫野龍太郎による調査

報道ステーション』では、ボールに回転を過剰にかけることによりマグヌス効果を発生させ、進行方向に対して垂直上向きの揚力を発生させることにより一般の選手よりもボールの落下を減らし、打者にボールの下を空振りさせているのではないかという仮説が提唱された。数値流体力学者の姫野龍太郎による調査の結果、あるプロ野球選手15人のストレートの回転数の平均値が1秒間に37回転(2220rpm)であるのに対し、藤川のストレートは1秒間に45回転(2700rpm)していることが判明。また、一般的な投手が投げるボールの回転軸の傾きは水平軸に対して約30度であるのに対し、藤川の場合その傾きが約5度と極端に少ないことから、より効率的にボールに揚力が発生していると考察された。

人物

読売ジャイアンツ投手・斎藤雅樹の大ファン。「野球を始めたきっかけの人。あの人がいなかったら野球をやっていなかった」と語り、グラブとマジックを持ってサインをもらいにいったことがある。

広末涼子とは中学時代の同級生。阪神入団時には「自分のことのようにうれしく思っています」とコメントされ、激励の手紙も受け取っている。

中学時代には鏡川に転落した男性の救助活動をしたことで、仲間3人とともに感謝状を受けている。

スコアボード表示名

阪神時代には、2010年に同姓の藤川俊介が入団した。本来なら区別のためスコアボードなどの表記が「藤川球」となるところであったが、本人の希望を理由に、表記は「藤川」のままにすることが2010年1月22日の契約合意時に決定された。そのため、2010年シーズンは藤川球児が「藤川」、藤川俊介が「藤川俊」として区別されていたが、報道では「藤川球」または「球児」と表記されることが多かった。なお、藤川俊介が登録名を「俊介」に変更した2011年からは、登録名・報道での表記とも「藤川」に統一された。

兄・順一と同時に出場した高知商業高校時代の1997年夏の甲子園大会では、甲子園球場のスコアボードで「藤川球」(兄は「藤川順」)という表記を使用していた。

登場曲

「every little thing every precious thing」

阪神主催試合での登場テーマ曲は、夫人と結婚

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出典:wikipedia
2018/05/24 07:34

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