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藤村富美男とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
広島県呉市
【生年月日】
(1916-08-14) 1916年8月14日
【没年月日】
(1992-05-28) 1992年5月28日(75歳没)
【身長
体重】
173 cm
79 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
三塁手一塁手二塁手外野手投手
【プロ入り】
1936年
【初出場】
1936年4月29日
【最終出場】
1958年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1974年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


藤村のスイング(1948年頃)

藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県呉市山手町出身のプロ野球選手監督解説者

日本プロ野球を代表する伝説的な強打者であり、大阪タイガース(現:阪神タイガース)の黎明期を支え、戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手。初代「ミスタータイガース」。チームメイトからの愛称は「フジさん」。

藤村隆男は実弟で、大阪タイガースでは共にプレーした。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 ミスタータイガース
    • 1.3 選手兼任監督
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 プレースタイル
    • 2.2 記録面での話題
    • 2.3 試合でのトラブル
    • 2.4 「物干し竿」
    • 2.5 「別格のミスター・タイガース」
  • 3 人物
    • 3.1 兵役からプロ野球再開まで
    • 3.2 現役引退後
    • 3.3 プライベート・家族
    • 3.4 影響
  • 4 詳細情報
    • 4.1 年度別打撃成績
    • 4.2 年度別投手成績
    • 4.3 年度別監督成績
    • 4.4 タイトル
    • 4.5 表彰
    • 4.6 記録
    • 4.7 背番号
  • 5 脚注
  • 6 参考文献
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

プロ入り前

四男四女の8人兄弟の7番目(三男)として生まれる。父親は呉海軍工廠で工員を務め、兄も同工廠野球チームの花形選手だった。鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学し、野球を始める。また、南海ホークスのエースだった柚木進は家が近所で、進の兄・柚木俊治1934年夏の甲子園で主将として藤村と共に優勝メンバーとなっている>。藤村は尋常小学校卒業後、高等小学校で2年学び、1931年に大正中学校(5年制)に入学した。

1932年、2年生(16歳)で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業濃人渉門前眞佐人白石勝巳らのいた広陵中学を退け、春夏の甲子園に6度出場。明石中学楠本保京都商業沢村栄治中京商業吉田正男県立岐阜商業加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、甲子園の申し子と呼ばれた。藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。

中学3年、1933年春の甲子園では、沢村栄治をエースに擁する京都商に敗退。次回に雪辱を期すが、3度目の甲子園出場だった1933年夏の甲子園では、対戦する前に京都商が敗退。準々決勝で3連覇を狙う中京商業と対戦し、完封負けを喫した(中京商業は続く準決勝で中京商対明石中延長25回を勝ち抜き、3連覇を達成)。

藤村のワンマンチームと思われがちな大正中学だが、呉港中学に校名変更した翌1934年夏の甲子園では、田川豊塚本博睦橋本正吾保手浜明原一朗らを揃え、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封、川上哲治も3連続三振に捻った。夏の甲子園決勝での14奪三振は最多記録。川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐する。藤村は、「川上がいたなんて、さっぱり覚えがない」と言っている。以後、川上とは「終生のライバル」となる。深紅の大優勝旗を手に凱旋した呉港中ナインを歓迎する呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。藤村が駅で優勝旗を掲げようとした瞬間、旗の柄が折れてしまったという逸話も残る。

1935年の夏の甲子園では、対飯田商業戦で、1試合19奪三振を記録。この記録は、1925年の夏の甲子園東山中森田勇が対北海中戦で達成した記録に並ぶものであり、2012年の夏の甲子園で、神奈川・桐光学園松井裕樹が対今治西戦で1試合22奪三振で記録を更新するまで、実に77年間もの間、夏の甲子園の1試合最多奪三振記録であった。

藤村が2年生の16歳から5年生の19歳まで、4年間一人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個である。藤村が呉港中学を卒業した1936年は、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年11月11日に契約を結んで投手として入団させた。背番号10

藤村自身及び学校側は当初、法政大学進学の意向を固めており、阪神に先立ち勧誘に動いた名古屋金鯱軍は藤村の父と兄に固辞されていた。その後訪れた大阪タイガース支配人の中川政人が藤村の父親と兄を口説いて了解を取り付けた上で、何も知らぬ藤村を呼んで判子を渡し、契約書に押させて契約を成立させた。藤村の反対にあって契約が不成立となるのを恐れた藤村の父兄と中川の判断でこのような手段を取ったが、藤村は法政大に進学できないのを残念がったという(なお、その後藤村の長男・哲也と次男・雅美が法政大に入り、雅美は主将を務めチーム初の4連覇に貢献した)。父と兄がプロ入り賛成に傾いた要因は、当時職についていなかった藤村の次兄をマネージャーに迎えるという条件を出したことであった。学校側と藤村家の関係は険悪となり、藤村は野球部の出入りを禁じられた。六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかった職業野球はヤクザ稼業とみられていて、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである。1936年2月、タイガース入団のため、次兄と一緒に呉駅を出発する藤村を見送ったのは家族とわずかな友人だけ。全国優勝の後の駅前の賑やかな出迎え風景は嘘のようだった。初めての甲子園練習の際に集まったのは投手7人、捕手3人、内野手3人の計13人。このうち左利きの松木謙治郎は一塁しか守れないとあって森茂雄監督は投手から内野候補を探そうと、藤村、景浦將御園生崇男を指名してノックをしたが、御園生は打球を怖がり即座の失格。藤村と景浦が投手と兼用することになり、藤村が二塁、景浦が三塁を守ることになった。

ミスタータイガース

藤村富美男(1947年から1951年の間)

1936年、プロ野球リーグ(日本職業野球連盟)が開幕。タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦完封勝利の第1号である)を挙げる。また、7月15日に山本球場で行われたタイガースにとって初の東京巨人軍との試合では若林忠志のリリーフという形で勝利投手となり、大阪タイガースにとって対巨人戦初の勝利投手となった。好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には、投手ということもあって規定打席に不足ながら本塁打王創設後では日本記録となる2本塁打で初代本塁打王に輝いた。

1937年からは本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの2連覇に貢献。しかし当時のタイガースは景浦將山口政信松木謙治郎藤井勇などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。

1939年から1942年までは兵役のため南方戦線に出向いていたため、出場できなかった。1943年に除隊し夏のシーズンから復帰。その年は4年半に及ぶ長い軍隊生活で思うように体が動かず、34試合で2割2分、本塁打0とプロ入り以来最悪の成績に終わる。しかし翌1944年は戦力の落ちた阪神で主軸となり、4番打者に定着して打点王を獲得、優勝に貢献した。この年夏のシーズンから若林忠志監督の指示で本格的に三塁手へコンバートされた。

戦後は復員後早々の1945年11月23日に行われた戦後初のプロ野球公式戦、明治神宮野球場の東西対抗戦に西軍3番で先発出場。5回表に東軍の白木義一郎から放ったセンターオーバーのランニングホームランは、戦後のプロ野球初本塁打といわれている。リーグ戦が再開した1946年には監督を兼任。これは高卒選手として初のプロ野球監督就任。クリーンナップ(5番)に座り、打率.323を記録する傍ら、戦後の投手不足のため投手としても登板した。試合の後半、投手が四球を連発したりすると、じっとして守れなくなり、負け試合でもサードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板した。この年、13勝2敗、リリーフだけなら8勝0敗の成績を残している。シーズン終了後、監督は若林に交代した。

1947年以降は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続で同賞を受賞している。1948年からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人曰く笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37〜38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と共に本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、藤村のトレードマークになると共に3年連続打点王の原動力となった。同年10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクル安打を記録、更にこの年日本プロ野球初の年間100打点も記録した。

1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残す。しかも、自身の本塁打記録が本塁打王創設後で日本記録になるのは2度目である。惜しくも首位打者小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかったが、藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い。チームが6位だったにもかかわらず、MVPを獲得。この年の藤村の大活躍は多くの大阪の人の心をつかんだ。タイガースに対する大阪人の特別な愛情はこの時生まれた。この頃から人々は藤村を「ミスタータイガース」と呼ぶようになり、ファンから絶大な支持を得ている。人気球団巨人に、阪神というライバルがいたからこそプロ野球という船は波に乗った。藤村のように人生を野球に賭けた男がいたから航路に光が射したのである。

選手兼任監督

1949年末から1950年始にかけて、球界は2リーグ分立し、主力選手の引き抜きに揺れた。タイガースも若林忠志、別当薫土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、「わしゃタイガースの藤村じゃ」の言葉とともに、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。1950年、セントラルリーグ初年度の公式戦ポスターは藤村の顔が描かれている。この前年に藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村はセ・リーグ最初の首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年に記録した年間191安打は1994年イチローに破られるまで44年間日本プロ野球記録であり、2010年マット・マートンに破られるまで60年間阪神の球団記録であった。また、この年は前年の142打点を上回る自身最高となる146打点を記録したが、既述の通り小鶴がそれを上回る日本記録となる161打点を記録したため、打点王を逃した。146打点は打点王を逃した記録としては、2017年現在に至るまで最多記録である。

1953年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955年まで一線でプレーした。1951年までは投手としても登板し、通算76試合で34勝11敗、防御率2.34の記録を残している。与儀眞助が加入した1953年からは一塁手がメインとなる。一塁への転向を知ったライバルの川上哲治は、アメリカで購入したファーストミットを藤村に贈ったという。この間、1950年からは打撃コーチ兼任となり、1954年からは助監督を兼務した。

1955年

しかし、1955年に監督就任した岸一郎は世代交代を目指して、藤村等ベテラン選手より若手選手優先の起用を行った。そのため主力選手の反発を招き、岸がシーズン中に更迭されると藤村が代理監督に就任、翌年からは正式な兼任監督となった。1956年には監督としての仕事を優先してレギュラーを譲ると、日本球界2人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打の快挙を達成した。この本塁打が藤村の現役最後の本塁打であった。

兼任監督時代は打てる投手の時に出場し、逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり、それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手もいて、打撃練習もファンを意識してわざと遅れてやる、一人長々やるなどの蓄積がナイン全体の反感を買った。また、人の好い藤村は球団の提示する低い年俸を受け入れ、球団はこれを尺度に他の選手の査定をおこなったため、待遇に対する不満が選手の間に生じていた。こうした状況を背景に「藤村排斥事件」と呼ばれる騒動がマスコミを巻き込む形で起きる(詳細は同項目を参照)。2リーグ分裂以降の阪神は、内紛騒動があまり表に出なかったが、この事件以降、阪神が一種のスキャンダル・メーカーになっていく。スポーツ新聞もこれを助長し、裏話を求める読者へ、スキャンダル報道で答えようとした。藤村排斥事件の報道は、その先駆例だった。スポーツ新聞が急成長するきっかけをつかんだのもこの内紛劇からとされる。

この事件の影響で1956年限りで現役を引退し、1957年から監督に専任することとなった。上記の排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率.583という成績を残している。特に1957年は首位巨人と1.0ゲーム差、流感による主力選手の離脱がなければ優勝できたともいわれた。1956年の代理監督就任直後には20試合で15勝5敗という成績を収めており、『阪神タイガース 昭和のあゆみ』はこれに関して「勝負カンという点では人一倍すぐれたものを持っていた」と記している(同書P243)。

1957年11月、優勝争いをした後にもかかわらず、球団代表の戸沢一隆から「田中義雄への監督交代と、代打要員としての現役選手への復帰」を告げられる。まだ契約期間中だったため、藤村は契約満了の11月末までは発表を控えることと、現役復帰はキャンプで体調を見てから決めたいという要望を出したが、戸沢がそれを突っぱねて「(代打要員で)世間体が悪ければ肩書きを付けよう」と発言した。これについて藤村は「頭に来た」とのちに述べている。結局、藤村の意向は無視される形で発表された。この不可解ともいえる監督交代について、南萬満は「前年の排斥事件のペナルティではないか」という見解を示している。

1958年に現役復帰したが、先発は1試合のみ、7番・ファーストで途中交代。結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため11月末に引退を表明し、ついにタイガースから完全に離れた。1950年の毎日への主力選手移籍の折に「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」と語り、日本シリーズに出場することが悲願であったが、その夢は果たされることなくユニホームを脱いだ。日本シリーズに出られなかったことは後年まで悔いとして残り、1984年のインタビューではリーグ分裂の際に毎日に行った仲間がその年の日本シリーズに出たことをうらやむ気持ちが強かった、長い野球生活でこれだけ経験できなかったことが情けなかったと述べている。

引退の記者会見は甲子園球場の食堂で行われ、かつてのスター選手としては寂しい舞台であった。しかし翌1959年3月2日、甲子園球場で『藤村富美男引退試合』(オープン戦、対巨人)が開催された。これは日本球界で初の『引退試合』だった。大阪タイガース結成時から藤村がつけ続けた背番号「10」は、球団初の永久欠番となっている。

現役引退後、1963年国鉄スワローズの打撃コーチ、1964年から1965年東映フライヤーズの打撃コーチを務め、1967年から1968年にも東映の打撃コーチを務めた。また、読売テレビ大阪スポーツ野球解説者(野球評論家)として活躍。俳優としても、「必殺シリーズ」に出演した。

1974年野球殿堂入り。1988年以降は病院や介護施設で闘病生活を送った。1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で死去した。死去時、甲子園球場には半旗が掲げられてミスタータイガースを追悼した。

選手としての特徴

プレースタイル

闘志をむき出しにするタイプで、「阿修羅の藤村」とも表現され、赤鬼のような顔で審判の判定にも文句をつけた。1948年10月3日の対巨人戦で逆転サヨナラのランナーとして本塁に突入し、捕手武宮敏明に体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。

一方、見かけによらず器用な選手であった。大井廣介は著書『タイガース史』(ベースボール・マガジン社、1958年)の中で「藤村を大成させたのは、試合度胸や負けじ魂にその器用さである」と記し、松木謙治郎も指導したり接した選手の中で「勝負強さと器用さにかけては、この藤村が第一人者だと思う」と記している。

打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。藤村はメジャーリーグの三塁守備によく見られる、三塁線の打球の素手取りを、スタンドまで掴む音が聞こえるような猛ゴロであっても平然とやってのけ、「猛人藤村」ともいわれた。その器用さと強肩で守備位置が深く、守備範囲が広かった。三塁手以外のポジションを守っても平均以上の守備をみせ、捕手以外の全ポジションを経験した。特に、投手、二塁手、右翼手、三塁手、一塁手では、1シーズン以上にわたりレギュラーを務めた。

投手の時には股の間から二塁走者を伺う珍無類な牽制で笑わせたり、実際に股の間から一塁へ牽制球を投げた。こうした魅せる野球、ショーマンシップに目覚めたのは『東京ブギウギ』の笠置シヅ子のレヴューを見てからともいうが、お客さんを喜ばそうと、試合前の練習から曲芸のような捕球や打ち方をやって見せた。試合が公式戦でも紅白戦のようなオープン戦であろうとも手を抜くことはなく、土井垣らと内野のボール廻しを途中からボールを使わず、いかにも続けているかのように見せるシャドープレイで観客を沸かせたり、本塁打を打って両手を振ってダイヤモンド一周をしたり、砂煙を上げる猛烈スライディングをわざとしたり、内角の厳しいところを突かれると大仰にひっくり返ったりした。娯楽に飢えていたファンは藤村のこうしたプレーを堪能した。左足のケガのため代打出場となった試合で本塁打を放ったときには、片足(いわゆるケンケン)でダイヤモンドを1周した。こうした藤村のプレースタイルは、よくいえばショーマンシップ、一歩誤ればスタンドプレー、と今でいえば"大論争"が巻き起こった。

当初は2番を打つなど、打撃面では脇役だった藤村がホームランバッターになった理由は、戦中・戦後に地方遠征などで試合前に余興で行われたホームラン競争がきっかけと当時の複数の選手が指摘している。戦力の落ちたチームで4番を打っていた藤村は、別当薫のあと声がかかりホームラン競争をやっているうちにコツを覚えたという。石本秀一や松木謙治郎、金田正泰は、当時の藤村について「チャンスで打席に回ると、並みの選手は委縮するなか、藤村は嬉しそうに打席に入る」と述べている。

杉下茂は「藤村は内角低めのシュートが弱点で、そこに投げておけば大丈夫だった」と証言している。ただ、藤村はそうした投球が来るとしばしば、いかにもねらい球を見逃したかのように悔しがるジェスチャーを見せ、外角球に的を絞っていると見せかけ、もう一球内角に投げると、待ってましたとばかり、左翼へひっぱりレフトスタンドに持っていく。「相手をまどわすような言動をとる」という意味でも使われることわざ「三味線を弾く」をプロ野球で使われるようになったのは藤村が最初といわれる。杉下は、そうした駆け引きにも藤村は長けていたと述べている。

1948年、鳴り物入りで入団してきた慶應義塾大学出身の別当に競争心を燃やしたとよくいわれる。藤村が新聞記者の質問を無愛想に応答する傍で、別当は英語交じりで丁寧にインタビューに応じ、監督の若林と肩をならべて、ことさら大リーグの戦術について議論を戦わせたりした。藤村は根が陽気で大まかなため、別当が自分とは水と油の人間であると意識した。別当は新人ながら公式戦でも打ちまくり、6月まで打撃三部門で全球団のトップに立ち、別当時代きたる、と新聞にもてはやされたが、6月下旬に盗塁で二塁に滑り込み骨折。ネクストバッターズサークルでそれを見ていた藤村は、別当のスパイクが嫌な角度で横向いた瞬間、「やった!」と嬉しそうに叫んだ。藤村が「物干し竿」を使うようになった理由は、長打力を持つ別当への対抗心からだという説も存在する。別当との関係について、阪神の球団史『阪神タイガース 昭和のあゆみ』(1991年)には

「 | 「別当を連れてよく遊びに行ったよ」(藤村富美男)「野球以外の生活でも藤村さんは、ぼくにとって素晴らしい先輩でした」(別当薫)--両者の話には巷間語り伝えられる葛藤は、微塵も感じられない。 | 」

と証言入りで紹介されている(同書P150)。南萬満は『真虎伝』の中で、藤村がともに酒を飲まない別当をよく一緒に食事に誘っていたという奥井成一の証言や、別当が打てばイライラして打ち損じたといったことはなかったという土井垣武の証言を紹介している。ただ、1949年のシーズンに別当と本塁打王を争ったことについて藤村は、「同じチームとしてライバルとしてタイトルを争うのはあんまりよくない。別当は先に打つのではっきりとした競争意識というものがあった」と後年語っている。

記録面での話題

タイガースの公式戦第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平桝敏男の失策によりサヨナラ負け。タイガースの勝利・敗戦とも第1号となった。

1948年に日本で最初のサイクル安打を記録。この時は内野安打と通常の単打を含む5安打の猛打であった。1950年に2回目を記録、これは2リーグ制でも第1号であったが、1991年に松永浩美が記録するまでは唯一の「一人で二度」の記録の持ち主でもあった。ただ、当時はサイクル安打という概念が日本には紹介されておらず、藤村はまったく意識せずに記録を樹立した。このため、1965年にこれを記録した阪急ダリル・スペンサーが話題にして初めて過去の記録が見直され、藤村が日本で最初に記録していたことが判明するまでは「隠れた記録」であった。

同じ1948年12月2日中日球場杮落としとして開催された「東西対抗戦」で、レフトスタンド上段に中日球場第1号本塁打を放つ。

1949年、当時のプロ野球新記録となる46本塁打を放ったが、それまでの記録は1948年青田昇川上哲治の25本であり、一気に21本更新したことになる。

俗に「当て馬」と呼ばれる先発メンバーの偵察要員を初めて使ったのは阪神で、プロ野球初の偵察作戦を考案したのは藤村である。現在公式戦に於いては予告先発制度が導入されていることから偵察メンバーが用いられることはなくなったが、相手チームの先発投手が左腕か右腕か判らない時などに、スターティングオーダーの一つの守備位置にその試合で起用する予定のない自軍の投手(基本は先発投手を用いる)をダミーとして起用し、相手投手が判った際に別の野手と交代させる作戦がそれまではあった。1950年4月22日熊本水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦では、中日の先発が左腕の清水秀雄か、右腕の服部受弘か迷ったため、助監督兼内野手だった藤村が「それじゃ、トップに千場を入れておきましょう」と松木謙治郎監督に助言し、これを受け松木がメンバー表の1番に「左翼手干場一夫」と書いて提出した。

1951年には珍記録を残している。この年10月7日の大洋戦で初めて「四番・投手藤村富美男」が実現し甲子園のファンはどよめいた。チーム順位が確定していたことからできたファンサービスで、松木監督の粋な采配であったが、藤村は先発して4回までしか投げていないのに勝利投手になった。公式記録員は名記録員といわれた広瀬謙三で、なぜルール上は?のつく勝利をつけてしまったのか、これは広瀬が「投手で四番」の藤村に敬意を払ってあえて勝利投手としたといわれている。のちにこの記録を整理した山内以九士が「原書通りの勝ち投手とする」という但し書きを付けた。

1953年には4月28日と29日に2試合連続して満塁本塁打を記録した。2010年現在、プロ野球では藤村を含めて6人が記録しているが、藤村はその第1号である(スポーツに関する日本一の一覧#野球を参照)。また、藤村の満塁本塁打は通算7本であるが、そのうちの1/3をこの2日で放ったことになる。

1956年6月24日の対広島カープ戦で、カープのエース・長谷川良平に0-1で迎え込まれた9回裏二死満塁から三塁ベースコーチに立っていた選手兼任監督・藤村は「ワシが代打や」と球審に告げて打席に入ると、左翼に豪快な代打逆転サヨナラ満塁本塁打を叩き込み試合を決めた。この逸話は「代打ワシ」として有名である。これが藤村生涯最後のホームランであった。

大阪タイガース創設と同時に入団したため阪神の背番号10は藤村しか着用したことがない。「1選手しかつけなかった背番号」は、全永久欠番のなかでも唯一の事例となっている。

試合でのトラブル

上記のように闘志を露にする性格のため、審判などとのトラブルがしばしばあったが、その中で球界や球団まで巻き込む騒動となった以下の事件がある。

「物干し竿」

赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して長尺バットの「物干し竿」を使ったが、藤村曰く「色を塗るだけなら誰でもできる、自分は他人の真似のできないバットを使おうと考えた」という。ゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせた。このバットを振り切るため、バーベル代わりに漬物石を持ち上げて腕力を鍛え、夫人の鏡台をストライクゾーンに見立ててバットを振った。藤村は「これならボール球もホームランに出来るわい」とほくそ笑んだという。

バットはアンモニアで乾燥させるといいというので、いつも自宅の便所に10本近くぶら下げていた。また、藤村自身の後年の証言では、先の方に穴を開けてやや軽くなるようにしたという。プロ野球史上初めて、本塁打40本超えを果たした1949年には「ボールが止まって見えたとか、縫い目が見えたとか言われるが、あのときは、そういうものじゃなかった。レフトスタンドがすぐそこに見えた」と語った。

「別格のミスター・タイガース」

「ミスタータイガース」としては、他に村山実田淵幸一掛布雅之がそう呼ばれている。しかし、藤村を別格と見て、ミスタータイガースに初代も2代目も3代目も存在しない、藤村富美男だけがミスタータイガースとするファンもいる。野球関係の書物に同時期活躍した小山正明吉田義男奥井成一ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる。青田は「ミスタータイガースはあのオッサンしかおらへん。あの2リーグ分裂で、オッサンまで阪神を出て行ったら、今の阪神はないし、いまのプロ野球もないぞ。プロ野球がここまでのび

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出典:wikipedia
2018/11/13 12:29

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