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西南戦争とは?

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  • 出典は脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2014年2月)
西南戦争

鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年
戦争:士族反乱
年月日:1877年(明治10年)
場所:熊本県宮崎県大分県鹿児島県
結果: 明治政府の勝利
交戦勢力
明治政府  | 薩摩藩士族
指導者・指揮官
有栖川宮熾仁親王  |  西郷隆盛
戦力
約70,000 | 約30,000
損害
6,400 戦死 | 6,800 戦死
士族反乱


西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役(せいなんのえき)は、1877年(明治10年)に現在の熊本県宮崎県大分県鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後内戦である。鹿児島では丁丑戦として語られている。

目次

  • 1 背景
    • 1.1 近因(私学校と士族反乱)
    • 1.2 赤龍丸と弾薬掠奪事件
    • 1.3 西郷暗殺計画
    • 1.4 西郷軍の結成と出発
    • 1.5 征討軍派遣
  • 2 経過
    • 2.1 熊本城強襲と植木・木葉の戦い
      • 2.1.1 熊本城攻撃
      • 2.1.2 植木の遭遇戦
      • 2.1.3 長囲戦への転換・木葉の戦い
    • 2.2 薩軍主力北部進出と高瀬の戦い
      • 2.2.1 高瀬の戦い
    • 2.3 田原坂・吉次峠の激闘
      • 2.3.1 田原坂の戦い
      • 2.3.2 横平山の奪取と抜刀隊の投入
      • 2.3.3 田原坂突破す
      • 2.3.4 植木・木留の戦い
      • 2.3.5 鳥巣方面
    • 2.4 衝背軍の日奈久上陸と熊本城開放
      • 2.4.1 衝背軍上陸
      • 2.4.2 小川の戦い
      • 2.4.3 松橋の戦い
      • 2.4.4 鎮台兵の出撃
      • 2.4.5 薩軍の八代急襲
      • 2.4.6 御船の戦い
      • 2.4.7 衝背軍の熊本入城
    • 2.5 城東会戦
    • 2.6 薩軍の三州盤踞策と人吉攻防戦
      • 2.6.1 神瀬方面
      • 2.6.2 万江方面
      • 2.6.3 大野方面
      • 2.6.4 人吉攻防戦
    • 2.7 大口方面の戦い
    • 2.8 鹿児島方面の戦い
      • 2.8.1 城山・重富・紫原の戦い
      • 2.8.2 征討軍主力の鹿児島連絡
    • 2.9 都城方面の戦い
      • 2.9.1 小林・高原方面
      • 2.9.2 踊・大窪・財部方面
      • 2.9.3 敷根・福山・岩川方面
      • 2.9.4 恒吉・百引・大崎方面
      • 2.9.5 官軍の都城進撃
      • 2.9.6 都城方面
    • 2.10 豊後・美々津・延岡方面の戦い
      • 2.10.1 三田井・豊後・日向方面
      • 2.10.2 豊後方面
      • 2.10.3 野尻方面
      • 2.10.4 宮崎方面
      • 2.10.5 米良方面
      • 2.10.6 美々津方面
      • 2.10.7 延岡方面
    • 2.11 可愛岳突囲
    • 2.12 山岳部踏破と帰薩
    • 2.13 城山籠城戦
    • 2.14 戦後処理
  • 3 編成
    • 3.1 薩摩軍
    • 3.2 党薩諸隊
    • 3.3 征討軍
      • 3.3.1 鎮台
      • 3.3.2 近衛兵・教導団・屯田兵
      • 3.3.3 警視隊・その他
      • 3.3.4 征討軍編成
      • 3.3.5 海軍
  • 4 西南戦争の意義
    • 4.1 経済的意義
    • 4.2 政治的意義
      • 4.2.1 官僚制の確立
    • 4.3 軍事的意義
  • 5 西南戦争を題材とした作品
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考文献
  • 8 雑誌
  • 9 文献目録
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

背景

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  • 信頼性について検証が求められています。確認のための情報源が必要です。(2018年1月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2018年1月)

近因(私学校と士族反乱)

明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島縣令大山綱良の協力の元で県政の大部分を握る大勢力へと成長していった。

一方、近代化を進める中央政府1876年(明治9年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例発布した。この2つは帯刀俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。これが契機となり、同年10月24日に熊本県で「神風連の乱」、10月27日に福岡県で「秋月の乱」、10月28日に山口県で「萩の乱」が起こった。日当山温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出した。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」との意も書かれていた。ただ、書簡中では若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かないとも記しているので、この「立つと決する」は内乱よりは当時西郷が最も心配していた対ロシアのための防御・外征を意味していた可能性が高い。その一方で1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、上京当初抱いていた士族を中心とする「強兵」重視路線が、四民平等廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられたことに対する不満や反発が西郷の心中に全く無かったとも考えられない。とはいえ、西郷の真意は今以て憶測の域内にある。

他方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。そしてついに、1876年(明治9年)内務卿大久保利通は、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾した。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされていた。この改革案は鹿児島県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。しかし、実際に実行された対鹿児島策もあった。その一つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視川路利良中原尚雄以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことである。私学校徒達はこれを不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。

赤龍丸と弾薬掠奪事件

1月29日、政府は鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬を大阪へ移すために、秘密裏に赤龍丸を鹿児島へ派遣して搬出を行った。この搬出は当時の陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山縣有朋大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われたことが記録されている。

陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。

後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、オランダ商社を通じて、イギリス製のパトロン(薬莢)製造機械を輸入し、1872年(明治5年)の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。

現存するボクサーパトロン10発入りパッケージ(左)と同弾薬の断面

火薬弾丸雷管さえあれば使用できる前装式銃と異なり、後装式のスナイドル銃の弾薬(実包)は真鍮を主材料として水圧プレスで成型される基部を持った薬莢が不可欠で、これが無ければ銃として機能しない。

薬莢基部は単純な構造であるため、個人レベルの量であれば家内生産で製造できなくもないが、小規模とはいえ軍が戦闘で使用する量を確保するには専用の大量生産設備が不可欠であり、同様の設備は当時の日本国内には存在していなかった。こうした工業基盤の有無も、一地方に過ぎない鹿児島と中央政府の力関係を均衡させていた主要因の一つだった。

また、旧薩摩藩士の心情として、鹿児島属廠の火薬・弾丸・武器・製造機械類は藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えられていたこともあり、私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出したことに怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。

スナイドル弾薬の製造設備を失ったことは、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、すでに旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなったことを意味しており、後装式と前装式の連射速度の違いがもたらす決定的な戦力差を戊辰戦争に従軍した西郷はじめ多くの薩摩士族達は、実体験を通じて良く理解していた。

2月2日、政府側は赤龍丸に弾薬400箱を積んで鹿児島から撤退させたが、私学校側の弾薬接収にはほぼ無抵抗であり、この際に私学校青年により約84000発の弾薬と多数の小銃が接収された。また私学校側ではこれ以外にも弾薬の備蓄を行っており、西南戦争を通じて薩摩軍が使用できた弾薬は約300万発ともいわれる。後述の柳原前光が勅使として鹿児島入りした際、鹿児島でスナイドル銃の弾薬約30万発や、弾薬の原料が多く残っているのを発見し、「薩摩側は1年は戦える備えがあった」と述べている。

西郷暗殺計画

1月30日、私学校幹部の篠原国幹河野主一郎高城七之丞ら七名は会合し、谷口登太に中原ら警視庁帰藩組の内偵を依頼し、同日暮、谷口報告により中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としていることを聞いた。

篠原・淵辺群平池上四郎・河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、小根占で狩猟をしていた西郷隆盛の元に彼の四弟の西郷小兵衛を派遣した。また、弾薬掠奪事件を聞き、吉田村から鹿児島へ帰ってきた桐野利秋は篠原国幹らと談合し、2月2日に辺見十郎太ら3名を小根占へ派遣した。

西郷小兵衛と辺見から弾薬掠奪事件の顛末を聞いた西郷は「ちょしもたー」(しまった)との言葉を発し、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰った。帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数に上っていた。

2月3日、私学校党は中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問が行われた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられ、多くの私学校徒は激昂して暴発状態となった。

西郷軍の結成と出発

挿絵「西郷隆盛とその将兵たち、西南戦争にて」
フランス新聞雑誌ル・モンド・イリュストレ』1877年刊行号に掲載された速報記事の挿絵。
フランスの挿絵画家の手になるもので、西洋式の軍服を纏って椅子に腰掛ける中央の人物が、伝え聞きに基いて描かれたのであろう西郷隆盛。取り巻きがことごとく古風な重装備の武者姿なのは、フランス人の想像である。

2月4日夜、小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。翌5日、私学校幹部および分校長ら200余名が集合して大評議が行われ、今後の方針が話し合われた。

別府晋介と辺見は問罪の師を起こす(武装蜂起)べしと主張したが、永山弥一郎は西郷・桐野・篠原の三将が上京して政府を詰問すべしと主張した。この永山策には山野田一輔・河野主一郎が同調した。しかし、池上は暗殺を企む政府が上京途中に危難を加える虞れがあると主張して反対した。そこで村田三介は三将に寡兵が随従する策を、野村忍介は野村自身が寡兵を率いて海路で小浜に出て、そこから陸路で京都に行き、行幸で京都にいる天皇に直接上奏する策を主張した。

こうして諸策百出して紛糾したが、座長格(西郷を除く)の篠原が「議を言うな」と一同を黙らせ、最後に桐野が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前豊後を経て四国・大阪に出てそこから東上、一は熊本佐賀福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、池上の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された。

2月8日に部隊の編成が開始された。2月9日、西郷の縁戚川村純義海軍中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが、会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。このときに大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。一方、鹿児島では2月9日に鹿児島県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画には大久保利通も関与していたと考えられるに至った。

西郷軍では篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、12日頃に一応の準備が整えられた。募兵、新兵教練を終えた薩軍では2月13日、大隊編成がなされた(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長と呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊長が務めた)。

いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2,000名からなっていたが、加治木外4郷から募兵し、後に六番・七番大隊と呼ばれた連合大隊は2大隊合計約1,600名で、他の大隊に比べ人員も少なく装備も劣っていた。この外、本営附護衛隊長には淵辺がなり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。

2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による一番〜五番大隊の閲兵式が行われた。別府晋介が率いる連合大隊はこれに参加せず、先鋒として加治木より熊本へ向けて進発している。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍は鹿児島から熊本方面へ進発した(西南の役開始)。17日には西郷も桐野と共に発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な輜重への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。一方、鹿児島から帰京した川村中将から西郷軍の問罪出兵の報を得た政府は2月19日、鹿児島県逆徒征討の詔を発し、正式に西郷軍への出兵を決定した。

征討軍派遣

西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)

薩軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことが分かる。

熊本鎮台でも西郷たちが鹿児島を発した2月14日の夜、指揮官たちを招集しての作戦会議が行われ、全軍による熊本城籠城が決定される。会議に参加した小倉の歩兵第14連隊長(心得)乃木希典少佐にも部隊を率いて熊本城に入城する様指示が出され、乃木は17日夜に小倉に帰還、準備を開始している

明治政府は有栖川宮熾仁親王鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。

また、薩摩・長州の均衡をとって西郷の縁戚である川村を加えて薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。山縣有朋もかつて西郷の元で御親兵・陸軍省創設のために働いており、鹿児島私学校徒を激昂させた鹿児島スナイドル弾薬製造設備の搬出では薩摩閥の大山巌に協力するなど、薩摩閥内部の西郷vs大久保の争いに長州閥が便乗する構図となっていた。

当初、第1旅団(野津鎮雄少将)・第2旅団(三好重臣少将)・別働第1旅団(高島鞆之助大佐)・別働第2旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼大警視が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと誤認されたりした(実際に元新撰組隊士も所属していた)。

台湾出兵時に西郷従道が装備したガトリング砲も九州へ送られるなど、徴兵で構成された政府軍は精強な薩摩士族相手に戦うために、相当な意気込みを見せたが、一番肝心な歩兵銃の弾薬調達でトラブルが発生していた。

開戦原因の一つとなった鹿児島属廠のスナイドル弾薬製造設備は、2月13日に大阪砲兵工廠に設置されたが、鹿児島から搬出した際に部品の不備や破損が生じていたため、稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。また各鎮台から九州への本格的な動員が開始されると膨大な量の弾薬が必要となり、6,000発/日程度の生産数では焼け石に水の効果しかないことが明らかだったため、更なる増産が図られて弾丸用の鉛溶解炉や雷管製造所を併設した新工場が建設された。

スナイドル銃が陸海軍に制式採用されてから以降、その弾薬供給が鹿児島属廠に独占されていたため、重要拠点である東京・大阪の鎮台兵には、後装式ながら紙製薬莢を使うツンナール銃(ドライゼ銃)を装備した兵が多かったが、ツンナール銃とスナイドル銃は全く違う弾薬を使用していた。

補給の混乱を防ぐために、陸軍省は九州へ派遣される兵の装備をいったんスナイドル銃に統一させてから送り出していたが、動員規模が拡がるにつれて早くも3月にはスナイドル弾薬500万発の備蓄を使い果たして弾薬が欠乏した。この時期、九州では依然として激戦が続いており、更に1,800万発の調達が必要と見積もられていたこともあって、大量の弾薬在庫が残されていたツンナール銃を九州に送る案が検討され、実際に和歌山(旧紀州藩)の臨時召集部隊は藩兵時代から使い慣れたツンナール銃装備のまま九州へ派遣されたほか、大阪鎮台の医歩兵など後方部隊もツンナール銃を装備して派遣されていた。

この他にも、後に村田銃の開発で有名になった村田経芳が、旧幕府から引き継がれたシャスポー銃を、スナイドル銃とは別の金属薬莢を用いる弾薬用に改造しようと計画するなど、さらに補給を混乱させかねない事態が進行していた。

スナイドル弾薬の調達を担当した陸軍省の西郷従道と原田一道は、大量の弾薬を調達すべく、海軍省から弾薬製造設備を借り受けたり、外国商人から空薬莢500万個の購入を計画したり、あるいは清国から弾薬を借り受けたりと、前線で戦う兵士達の火力を支える弾薬調達に東奔西走した。

薩軍に投降を促す官軍のビラ「官軍に降参する者はころさず(殺さず)」

経過

熊本城強襲と植木・木葉の戦い

2月19日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こり、烈風の中櫓に延焼し、天守までも焼失した。この火災の原因は今もって不明である。天守閣には籠城1か月分に相当する兵糧や薪炭が備蓄されていたが、何とか運び出せた弾薬以外は悉く灰になってしまった。更に火は城下にも飛び火し城の東側、東南側の城下町を焼き尽くした。またこの日小川にまで到達していた先鋒の連合大隊に熊本士族で学校党首領の池辺吉十郎が訪れ別府と面会し協力を申し出るが、熊本城攻略の方策を尋ねた際の別府の「鎮台兵がもしわが行路を遮ぎろうとしたら一蹴するのみ。別に方略などない」という発言を聞き、薩摩人の剽悍にのみ恃む気風を危惧していた自身の予想が当り内心失望を覚えている。

2月20日、先鋒の連合大隊は川尻に到着。同日深更、鎮台参謀長の樺山資紀中佐の発案で派遣された偵察隊が連合大隊に発砲し、西南戦争の実戦が始まった。この際捕虜とした伍長の証言で熊本鎮台側が籠城の構えである事を知った薩軍は、川尻に到着した幹部が集まり21日夜軍議を開いた。

軍議では池上が主張する当初の「熊本に抑えを置き、主力東上」策と篠原らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立したが、強襲策が採用された。2月21日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し熊本城を包囲した。桐野の第四大隊・池上の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、および永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当、また薩軍に同調して合流した熊本士族で学校党首領の池辺吉十郎率いる熊本隊の隊士が薩軍各隊の教導役として参加している。

一方、鎮台側は熊本城を中心に守備兵を配置した。この時の鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。この時の戦力比は薩軍約14,000人に対して、鎮台軍約4,000人であった。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷が川尻から代継宮に到着した。

熊本城攻撃

22日夜明け前、薩軍の熊本城攻撃は池上隊への鎮台側の砲撃から始まった。池上隊2000名は千葉城の堡塁や京町口の埋門を攻撃したが鎮台側の激しい砲撃で堡塁の一塁も抜けず、県庁付近に肉薄した桐野隊800名も撃退されてしまう。城の西端藤崎台の西の段山は城内へ突入する際の有力な橋頭保となりえた為、薩軍は篠原、村田、別府の各隊計3000名が殺到したが、鎮台側も精鋭の歩兵第13連隊第三大隊(大隊長:小川又次大尉)など強固な防御態勢を敷いて応戦。この日最大の激戦となった段山の戦いは10時ごろに薩軍が多大な犠牲を出しながら占領に成功する。薩軍は段山の山頂から猛射を浴びせ鎮台側に多くの損害がでてしまい、11時頃には同地で指揮をしていた歩兵第13連隊長の与倉知実中佐が狙撃され、翌23日に死亡している。それでも鎮台側は薩軍の猛攻に耐え、こうして熊本城攻撃の初日は薩軍は鎮台側の予想外の奮闘で城郭の一角にも取り付くことが出来ないまま攻撃を終えた。

植木の遭遇戦

14日の会議で熊本籠城が決まり、これに合流することを命じられた乃木希典少佐は17日に帰着後、先発して2個中隊(第一大隊の第三第四中隊)を熊本に先行させる。中隊は19日には熊本城に到着し籠城戦に参加することになる。乃木は準備のできた第三大隊を率いて19日に2方向から南進を開始し、22日に高瀬に到着した。そこで熊本の方向に遠く白煙があがるのが見た乃木は60名ほどの兵を率いて先行し植木に向かった。

午後になって歩兵第14連隊の進出を聞いた薩軍は、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊を植木に派遣した。午後6時ごろ、山鹿方面から来た第四中隊と合流した乃木は植木の西南に進出して薩軍を待ち構えた。午後7時、先行してきた村田隊が乃木率いる200名と交戦し撃退される。しかし後続の伊東隊が加わると薩軍の兵力は乃木らの倍近くとなり形勢が逆転。更に一部が乃木らの後方に回り込もうとしたことで退路が断たれる恐れが出たので、乃木は後方の千本桜まで後退する事を決断する。しかし夜間の撤退戦は混乱を生み、この間伊東隊の岩切正九郎が歩兵第14連隊の軍旗を分捕る事態が起こっている。

こうして勝利を収めた薩軍だが、村田隊・伊東隊双方とも疲弊しており、乃木らを追撃することなく引き上げてしまう。

長囲戦への転換・木葉の戦い

22日夜半、本荘に移された本営で作戦会議が開かれた。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍助が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する。

23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は2手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。

植木、木葉で立て続けに勝利した薩軍では一気に第14連隊を追撃して進出すべきとの意見も出たが結局は植木まで兵を引いてしまう。更に熊本城強行策を捨てきれない篠原や別府らの隊は、23日も引き続き熊本城攻撃を続行。砲隊も加わり翌24日も攻撃を続行するが戦果ははかばかしくなく、結局包囲を池上隊3000名で実施しつつ、桐野隊が山鹿方面、篠原隊が田原方面、村田隊別府隊が木留方面に進出し、南下してくる政府軍主力を待ち構える事となり、小倉への電撃作戦は失敗した

薩軍主力北部進出と高瀬の戦い

熊本城攻撃が始まった2月22日、神戸を発した第1旅団、第2旅団合わせて5600名は博多に上陸し、順次南下を開始する。24日、久留米で木葉の敗戦報告を聞いた野津鎮雄三好重臣両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。歩兵第14連隊は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。

一方の薩軍は24日より増援部隊が次々と熊本より進発し、3方向から北上をしていた。

25日未明、歩兵第14連隊は高瀬進出を企図して山鹿街道へ1個中隊を派遣し、本隊の3個中隊は高瀬道を進撃した。払暁には高瀬に無事に入った第14連隊はそのまま菊池川の堤防沿いに部隊を展開させ薩軍を待ち構えた。

第1第2旅団は25日には南関に入って本営を設けた。第1旅団の野津少将はただちに貴下の歩兵第1連隊長谷川好道中佐指揮の4個中隊を高瀬へ増援に送る。その頃、征討軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊も長谷川隊などの増援を得た第14連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。

高瀬の戦い

2月26日、越山の3個小隊は征討軍の高瀬進出に対し、山部田と城の下の間に邀線を敷き、佐々らの熊本隊3個小隊および岩切・児玉らの3個小隊は寺田と立山の間に邀線を敷いて高瀬前進を阻止しようとした。池辺の熊本隊主力は佐々らの部隊が苦戦中という誤報を得て寺田に進んだ。山鹿の野村の部隊は進撃を準備していた。これに対し征討軍は、薩軍主力の北進を知らず、前面の薩軍が未だ優勢でないとの判断に基づき、三好少将指揮の第2旅団を基幹に次のように部署を定めた。

26日午前5時、前衛の乃木隊は石貫を発ち、菊池川を渡河して薩軍右翼の越山隊を強襲する。これに後衛の知識大尉指揮の1個中隊も加わった事で正午には越山隊は植木方面に敗走する。乃木の第14連隊はこれを猛追し木葉を経て田原坂上まで進出、乃木は第2旅団長の三好に田原坂の確保を具申するが、三好はこれを認めず後退を指示。この判断が、後々征討軍に苦戦を強いることになる。

この頃、桐野・篠原・村田・別府らが率いる薩軍主力は大窪(熊本市北)に集結中だった。薩軍主力は大窪で左・中・右3翼に分かれ、次の方向から高瀬および高瀬に進撃しつつある征討軍を挟撃する計画でいた。

薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。中央隊は田原坂を越え、木葉で征討軍捜索隊と遭遇戦になり、左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉大浜を経て岩崎原に進出した。第2旅団は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて薩軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅

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出典:wikipedia
2019/07/23 06:03

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