このキーワード
友達に教える
URLをコピー

西園寺公望とは?

西園寺 公望
さいおんじ きんもち
大勲位菊花章頸飾佩用した西園寺(1928年)

【生年月日】
1849年12月7日
(嘉永2年10月23日)
【出生地】
日本 山城国京都
(現:京都府京都市)
【没年月日】
(1940-11-24) 1940年11月24日(90歳没)
【死没地】
日本 静岡県庵原郡興津町
(現:静岡市清水区)
【出身校】
ソルボンヌ大学
【所属政党】
立憲政友会
【称号】
従一位
大勲位菊花章頸飾
公爵
【親族】
徳大寺公純(父)
徳大寺実則(兄)
末弘威麿(弟)
住友友純(弟)
西園寺師季(養父)
西園寺八郎(養子・養嗣子)
西園寺公一(孫)
西園寺不二男(孫)
西園寺一晃(曾孫)
西園寺彬弘(曾孫)
西園寺公友(曾孫)
西園寺祥子(曾孫)
西園寺裕夫(曾孫)
【サイン】

第14代 内閣総理大臣

【内閣】
第2次西園寺内閣
【在任期間】
1911年8月30日 - 1912年12月21日
【天皇】
明治天皇
大正天皇
第12代 内閣総理大臣

【内閣】
第1次西園寺内閣
【在任期間】
1906年1月7日 - 1908年7月14日
【天皇】
明治天皇
内閣総理大臣臨時兼任

【内閣】
第4次伊藤内閣
【在任期間】
1901年5月10日 - 1901年6月2日
第10代 文部大臣

【内閣】
第3次伊藤内閣
【在任期間】
1898年1月12日 - 1898年4月30日
第6代 外務大臣

【内閣】
第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
【在任期間】
1896年5月30日 - 1896年9月22日
その他の職歴

第7代 文部大臣
(1894年10月3日 - 1896年9月28日)
貴族院議員
(1890年11月29日 - 1940年11月24日)
第2代 新潟府知事
(1868年10月28日 - 1869年2月22日)
1871年1880年、パリ留学時代

西園寺 公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年10月23日(1849年12月7日) - 昭和15年(1940年)11月24日)は、日本公家政治家教育者位階勲等爵位従一位大勲位公爵雅号は陶庵、不読、竹軒。

戊辰戦争において官軍の方面軍総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。

明治36年には(1903年)伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。

その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇昭和天皇輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 幕末
    • 1.3 明治維新後
    • 1.4 フランス留学時代
    • 1.5 留学後の活動
    • 1.6 伊藤博文の腹心
    • 1.7 政友会総裁
    • 1.8 桂園時代と大正政変
    • 1.9 元老の一人
    • 1.10 パリ講和会議
    • 1.11 最後の元老に
    • 1.12 憲政の常道
      • 1.12.1 満州某重大事件
      • 1.12.2 民政党内閣期
    • 1.13 政党内閣の終焉
    • 1.14 揺らぐ権威
    • 1.15 二・二六事件
    • 1.16 元老の退場
  • 2 政治家としての西園寺
    • 2.1 議会主義者
    • 2.2 協調外交
    • 2.3 政治手法
    • 2.4 宮中との関係
  • 3 西園寺と教育
    • 3.1 西園寺の教育思想
    • 3.2 私塾立命館
    • 3.3 京都帝国大学
    • 3.4 明治法律学校
    • 3.5 日本女子大学
  • 4 人物・逸話
  • 5 人物評価
  • 6 年譜
  • 7 栄典
  • 8 家族
    • 8.1 親族
    • 8.2 妾
      • 8.2.1 小林菊子
      • 8.2.2 中西房子
      • 8.2.3 奥村花子
      • 8.2.4 漆葉綾子
    • 8.3 子
      • 8.3.1 新子
      • 8.3.2 園子
      • 8.3.3 元子
      • 8.3.4 八郎
      • 8.3.5 同居人
  • 9 系譜
  • 10 著書
  • 11 脚注
    • 11.1 注釈
    • 11.2 出典
  • 12 参考文献
  • 13 関連項目
  • 14 外部リンク

生涯

生い立ち

1849年12月7日(嘉永2年10月23日)、清華家の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として、山城国京都(現在の京都府京都市)にて誕生した。幼名は美丸(よしまる、美麿とも)。2歳の時に、同族で清華家の西園寺師季の養子となった。その年の7月に師季が死亡したため、西園寺家家督を相続した。このため実質的には実父の公純の強い影響下で成長することとなった。公純は保守的ながらも頑固な性格で、国木田独歩はその頑固さが公望にも受け継がれたと評している。孝明天皇が設置した学習院で学び、11歳の時からは御所に出仕し、祐宮(後の明治天皇)の近習となった。また近習の同僚であった岩倉具視ともこの時期に親しくなっている。

西園寺は学問を伊藤猶斎秋田秋雪に学ぶ一方で、京都第一の剣客とうたわれた戸田栄之進とその甥伏見集二から剣術を学ぶなどしている。また福沢諭吉の『西洋事情』を読むなどして世界の情勢にも関心を持つようになった。

幕末

西園寺は若年でもあり、岩倉や三条実美のような幕末における倒幕活動に強く参画していなかった。鳥羽・伏見の戦いの際、私戦として納めようという意見に対して猛反発し、岩倉に「小僧能く見た」と絶賛された。慶応3年12月9日(1868年)、おそらく岩倉の推挙によって、三職の1つ、参与の一人となった。

以後の戊辰戦争では山陰道鎮撫総督、東山道第二軍総督、北陸道鎮撫総督、会津征討越後口大参謀として各地を転戦する。会津戦争では自ら鉄砲を撃ち、銃弾の飛び交う最前線にいたという。

明治維新後

明治元年10月28日(1868年)、新潟府知事に就任した。西園寺は軍人を志し、フランス留学を望んでいた為この職は不本意であった。翌明治2年、東京に戻った西園寺は木戸孝允らのすすめで開成学校に入り、フランス語の勉強を始めた。また大村益次郎の薦めで法制についても勉強するようになった。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」(『金毘羅利生記』の主人公・田宮坊太郎に由来)と名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。

9月には許可無く京都に戻り、一週間の謹慎処分を受けた。この時に家塾として『立命館』を創始している。翌明治3年1月末、政府の許可を得て長崎に向かった。また、公卿の中で初めて散髪・洋装で宮中に参内し、大原重徳ら未だ多く残る攘夷派公卿の怒りを買ったエピソードも自著(『陶庵随筆』)で披瀝している。やがて大村益次郎の推薦によって明治3年12月(1871年)、官費でフランスに留学のために出国した。フランス行きの船内では、地球が球体であることを得心したり、白人少年に別れのキスを求められて戸惑うといったエピソードがあったことが本人の手紙にしたためられている。経由地であったアメリカではユリシーズ・グラント大統領と面会している。翌明治4年2月(1871年)にパリに到着した。

フランス留学時代

当時のフランスは、普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊のまっただ中であり、西園寺の到着後間もない3月18日には革命政府パリ・コミューンが成立していた。西園寺はコミューンに対して「賊」「恥知らずの人々が愚民を煽動した」と極めて否定的であった。フランス政府によるその鎮圧を、「愉快」と評している。西園寺は以後10年近くにわたってフランスやヨーロッパの知識や思想、文化を吸収していった。ソルボンヌ大学で政治学者のエミール・アコラスなどに学び、同大学初の日本人学士となっている。同時に駐フランス日本公使館の嘱託としての地位も持っていた。一方で随分と遊蕩もし、フランス人女性にもたいそう人気であったと伝えられる。

西園寺は公費留学生として年1400ドルの支給を受けていたが、これは一般の公費留学生より400ドル多かった。西園寺は400ドルを返納し、また国が公費留学生を減らす方針を決めると、公費援助を辞退して私費留学生となった。しかし留学費は西園寺家や徳大寺家にとっても大きな負担であり、1878年よりは明治天皇のお手元金から2年間、毎年300ポンドが支給されている。また、金銭が尽きると二束三文のナマクラを正宗と偽って売りつけていた(いわゆる「西園寺正宗」)。またジュディット・ゴーチエの依頼で、和歌のフランス語への翻訳にも協力しており、1885年に発刊された『蜻蛉集』には西園寺による下訳も収録されている。またゴーチエの『微笑を売る女』という芸者を主題とした戯曲は西園寺に捧げられたものである。

その間、後にフランスの首相となる8歳年上で急進党の政治家クレマンソーレオン・ガンベタ、留学生仲間の中江兆民松田正久岸本辰雄光妙寺三郎らと親交を結び、こうした人脈は帰国後も続いた。西園寺の交友関係から、彼が急進共和派に近い思想を持つようになったと評する事が一般的であるが、その頃の書簡で急進派を肯定的に評したものは全くない。西園寺とパリ留学時代を同じ下宿で過ごした親友クレマンソーとの友情は、パリ講和会議での日本の立場を保持するのに大いに役立ったと伝えられる。クレマンソーはこの頃の西園寺を「過激な、愛すべき公子」であったと回想している。

明治13年10月21日(1880年)には留学を終え、10年ぶりに帰国した。

留学後の活動

パリ留学後、西園寺は特に職に就くこともなく、「ぶらぶら遊んでいると」、留学生仲間だった松田正久が、新聞を出すから社長になってくれと誘ってきた。この新聞は自由党結党に向けて準備され、明治14年(1881年)3月18日に創刊された『東洋自由新聞』であった。西園寺が社長、松田が幹事、中江兆民が主筆、光妙寺三郎が編集委員を務めた。西園寺は後に「ほんの遊戯気分だった」「新聞は中江や松田が相談して始めたと世間では話されているがそうではなく、中江は自分が引きずり込んだ」と回想している。新聞の論調はフランスの共和政治よりイギリス流の立憲君主制が優れていると説くなど比較的穏健なものであったが、政府や宮中で物議を醸し、右大臣の岩倉具視や三条実美、兄の徳大寺実則らは社長を辞めるよう強要した。3月中には社長を辞任するよう求める明治天皇の「内諭」まで出されているが、新聞紙上で天皇に拝謁して事情を説明すると反発している。しかし4月8日に宮内省に呼び出され、宮内卿である兄実則の手によって、社長を辞任するようにという明治天皇の「内勅」が下されたため、西園寺は社長辞任を余儀なくされた。東洋自由新聞も発行部数が減少していったため、4月30日発行の第34号にて廃刊に追い込まれた。

伊藤博文の腹心

明治14年11月24日、西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った。参事院は伊藤博文が国会開設の準備のために設置した機関であった。翌明治15年(1882年)に伊藤が憲法調査のためにヨーロッパを歴訪することになった際には、その随員に選ばれた。ヨーロッパでフランスの法制を調べるなかで、伊藤の知遇を得た 。またウィーン大学ではローレンツ・フォン・シュタインに伊藤とともに憲法思想を学んでいる。明治16年(1883年)8月4日に帰国し、参事院議官に任じられた。明治18年(1885年)には駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使となり、再びシュタインに学ぶことになった。またウィーン滞在中であった陸奥宗光と親しくなり、彼とともに伊藤の腹心としての地位を固めていくことになる。翌明治19年(1886年)6月には帰国し、8月には法律取調委員に任命された。明治21年(1888年)6月には駐ベルリン・ドイツ帝国公使兼ベルギー公使となり、9月20日にはローマ教皇庁派遣の特命全権公使を命じられ、日本を離れた。ローマを経て12月10日にベルリンに到着したが、その4日後には最初の子である新子が生まれている。ドイツでは条約改正交渉などの任に当たったが、半年ほどで中断となり、極めて暇になった。公使時代の西園寺は1年の3分の1はパリで過ごしていたという。明治22年(1889年)にはリウマチを発病し、これは生涯の持病となった。この外国駐在期間の間、伊藤とは絶えず連絡を取り、政策に関する意見を述べている。

明治24年(1891年)8月にようやく帰国し、9月には賞勲局総裁に任じられた。閑職であり、不満もあったが、井上馨が知り合いの財界人に勲章を授けるよう圧力をかけてきたときにははっきりと拒絶し、「わからぬ奴」と不興を買っている。1892年10月からは賞勲局総裁と兼任で民法商法施行取調委員長、翌年には貴族院副議長、法典調査会副総裁となっている。以降、西園寺は公務でやむを得ない場合以外は調査会の会合に必ず出席し、あまり出席しなかった総裁の伊藤に代わり、実質的な総裁として民法や商法の審査に当たった。西園寺はこの中で戸主制度や隠居制度は封建時代の余習だとして廃止を提案している。

明治27年(1894年)には病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣として、第2次伊藤内閣に初入閣を果たした。西園寺はいきすぎた日本中心主義を否定し、女子教育発展をもとめるなど、日本を西洋諸国のように開明進歩させる教育を唱えた。また翌明治28年(1895年)には親友の陸奥宗光外相が病気のため、外務大臣臨時代理をつとめ、乙未事変などの朝鮮半島問題への対応に当たった。明治29年(1896年)5月に陸奥が外相を辞任すると、西園寺は正式な外相となり、文部大臣と兼任したが、8月に伊藤内閣が倒れ、第2次松方内閣で数日間大臣を務めた後、両大臣を辞任した。11月には 法典調査会副総裁も辞任し、フランスへと旅立った。西園寺はフランスで教育制度や軍の内閣による統制などを研究するつもりであった。しかし、翌明治30年(1897年)に虫垂炎にかかって瀕死の状態となり、「自殺する権利すらある」と主張して皆が止める中日本に帰国した。

病がようやく癒え、明治31年(1898年)1月に第3次伊藤内閣が成立すると、ふたたび文部大臣となった。文相時代には第二次教育勅語の作成にあたったが、実現しないまま虫垂炎の後遺症を発病し、4月30日に辞任した。

政友会総裁

明治33年(1900年)には伊藤による立憲政友会旗揚げに創立委員として参画し、最高幹部である総務委員の一人となった。10月19日には第4次伊藤内閣が発足したが、伊藤は当時病中であり、10月27日に西園寺が班列(後の無任所大臣)として入閣、12月12日まで内閣総理大臣臨時代理として伊藤の代役を務めている。また臨時代理就任と同日に枢密院議長にも就任している。

明治36年(1903年)、伊藤が山県有朋らの策謀で政友会総裁を辞任せざるを得なくなり、西園寺は伊藤の指名によって即日政友会総裁となり、枢密院議長を辞任した。伊藤の辞任で政友会は動揺し、33%の代議士が離党するほどであったが、なんとか第一党の地位を保持することはできた。ただし党務の実権は、幹部である原敬らによって握られていた。日露戦争時には野党であったため特筆する活動はなく、明治37年(1904年)9月には上海など中国への旅行を行っている。戦争の勝利が見えてきた12月になると、桂太郎首相は政友会の協力を得るため、戦後の政権受け渡しの密約(情意投合)を結んだ。

桂園時代と大正政変

1906年内閣総理大臣在任時
桂園時代」および「大正政変」も参照

明治39年(1906年)1月7日、桂内閣から禅譲される形で第1次西園寺内閣が成立した。内閣には政友会出身者が原(内務大臣)と松田正久(法務大臣)の2名しかおらず、桂の協力もうけ、各藩閥などにも配慮した構成であった。内閣は日露戦争後の南満州からの撤兵問題、カリフォルニアの排日運動への対処、日露協約の締結などに取り組んだ。また首相時代には高名な文士たちを招いた「雨声会」という会を主宰し、1914年までに7回開催されている。明治40年(1907年)頃から西園寺の健康状態は悪化し、しばしば弱音を漏らすようになった。明治41年(1908年)1月には、山縣伊三郎逓信大臣阪谷芳郎大蔵大臣を更迭するよう元老からの圧力が強まり、西園寺は両名とともに辞表を提出したが、西園寺のもののみ却下されている。組閣を目指す桂の動きが活発になり、伊藤の支援も十分に受けられない西園寺は健康上の問題もあって、明治41年6月に辞職の意志を固め、7月4日に総辞職した。

首相辞任後、西園寺は病を理由に政友会総裁の活動も積極的に行わないようになり、原が事実上最高実力者となった。原は「西園寺のあまりに冷淡なると、松田の余りに狡猾なる」ことを批判し、西園寺が桂と会って話し合ったことを詰問して陳謝させることもあった。政治上は対立していたが、西園寺は桂に「君と僕とにて国家を背負ふて立とうではないか」と言うほど2人の関係は良好であった。また、愛妾を同伴して酒を酌み交わす会をたびたび開き、養子の八郎が桂の秘書官となるなどの交流もあった。明治44年(1911年)8月、桂と原の交渉の結果、桂内閣が辞職し、後継首相に西園寺が就任することになった。

8月30日に成立した第2次西園寺内閣は、内閣の構成をほとんど政友会が決めるなど、独自性が強いものになったが、それは西園寺よりも原の影響が大きいものであった。この内閣では明治天皇の崩御と大正天皇践祚辛亥革命後の中国への対応に当たった。大正天皇の践祚に当たっては8月13日に補国の任に当たっているために、天皇を助けるよう勅語を受けている。西園寺と原は鉄道予算を巡って対立し、一時は原が辞表を西園寺に提出し、西園寺はそれを天皇に奏上する直前までに至った。

大正元年(1912年)12月、上原勇作陸軍大臣二個師団増設を要求して入れられずに辞職した。この動きには首相の地位をねらった桂の策動があり、後継陸相を得られないことで内閣は存続不可能となり、12月5日に総辞職した。これは陸軍とその背後にある長州閥の動きが原因であるという国民からの大反発を受け、第一次憲政擁護運動が始まるきっかけとなった。首相辞任後、西園寺は前官の礼遇を受け、「将来匡輔ニ須ツモノ多シ宜シク朕カ意ヲ体シテ克ク其力ヲ致シ賛襄スル所アルヘシ」という勅語を受けた。この勅語は後に山縣によって、元老となる根拠とされている。

桂は思惑通りに12月21日に首相に就任したが、国民及び議会の反発は強烈なものであった。翌大正2年(1912年)2月には政友会から内閣不信任案が提出され、桂は大正天皇に要請して、西園寺に対して不信任案を撤回するようにという勅語を出させた。西園寺は一応政友会議員への説得を行ったが、議員たちはひるまず、不信任案は議会を通過した。西園寺は違勅を理由に総裁を辞任する意向を漏らしたが、原に止められ、辞任は行わなかった。桂が2月11日に辞職すると、大正天皇は後継首相を決める元老の協議に、西園寺も加わるよう要請した。山県は西園寺に組閣を求めたが健康上の理由で拒否し、西園寺が推薦した山本権兵衛海軍大将が後継首相となった。また西園寺はこの席で、将来は衆議院における多数党の党首が首相となる、イギリス方式を導入してはどうかと提案しているが、元老の賛意は得られなかった。

山本内閣成立後、政友会幹部たちは集団指導体制に移行する方針を決めていたが、西園寺の留任を求める声が高まったため、曖昧な状態にしておくことが選択された。西園寺は京都の別荘清風荘にひきこもり、事実上政治活動の一線から退いた。原と松田は西園寺が一旦総裁に復帰し、後継総裁に譲るという形式を考えたが、西園寺は健康上の理由を原因に総裁復帰を認めなかった。同年に松田が病死し、原が後継となることは誰の目にも明らかとなった。大正4年(1914年)3月、山本内閣がシーメンス事件で総辞職し、後継首相を決める元老会議に西園寺も呼ばれたが、先年の違勅問題を理由に上京しなかった。政友会は再び野党となり、体勢を立て直す必要に迫られた。西園寺の総裁復帰を求める声も高まったため、西園寺は5月に総裁を原に譲ることを明言し、6月18日の総会で、原が正式な政友会総裁に就任した。総裁を退き、宮中や元老に近い西園寺の立場は、原にとっても得難い存在であり、かつて確執のあった原との関係も修復されていた。政友会が第二党に転落した際に原は、西園寺に組閣を働きかけているが拒否されている。大正5年(1916年)、西園寺は清風荘から静岡県興津の旅館、水口屋の勝間別荘に移り、主な拠点とし始めた。

元老の一人

1919年、パリ講和会議時の西園寺

第2次大隈内閣の後半になると、首相大隈重信は後継に加藤高明をつけようと模索していた。西園寺は大正5年(1916年)3月に大正天皇に拝謁し、加藤はまだ適当ではなく、原か寺内正毅が適当であると奏上している。8月には山県の邸宅で後継首相について元老たちと協議している。10月の大隈内閣総辞職後、山県は西園寺も元老会議に加えるよう奏上し、大正天皇の裁可を得た。これにより西園寺は正式に元老の一人となった。この会議は寺内正毅を首相に奏薦した。

大正7年(1918年)、寺内内閣が行き詰まりを見せると、後継首相には第一党である政友会総裁の原が有力となった。政党嫌いの山県は原を避けるために松方と協議して、9月20日に西園寺に首相就任を勧めている。翌9月21日に大正天皇に拝謁すると、組閣の大命が下った。西園寺は一両日の猶予を願った後に辞退し、後継首相に原を奏薦した。こうして原内閣が成立すると、西園寺は原の後見人的存在となった。

パリ講和会議

パリ講和会議」も参照
牧野伸顕と西園寺。1919年、パリ。

その頃第一次世界大戦が終結し、講和会議が開かれることとなった。大国の首脳が集まるこの会議に、日本としてもそれなりの代表を送る必要があった。原首相と内田康哉外相が協議し、首席全権として西園寺を派遣する方針を決めた。西園寺は健康上の不安から辞退しようとしたが、12月18日に応諾した。この際、「無謀」であるが、老体を犠牲にするという覚悟を原に示している。しかし決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があったため、西園寺が出国したのは牧野伸顕珍田捨巳といった他の全権が出発してから1ヶ月後の大正8年(1919年)1月14日のことであった。西園寺と同行したのは妾の奥村花子、娘の新子と八郎の夫妻、そして近衛文麿公爵らであった。また名門料亭なだ万の主人楠本萬助が板前二人を連れて乗船しており、船倉には日本食が5トンも積み込まれていた。これは現地で日本食パーティーを開くためのものであった。

西園寺の一行は3月2日にパリに到着したが、フランス側からの出迎えはなかった。すでに日本にとって重要な検討課題の討議は行われており、すでに牧野や珍田が交渉の主役となっていた。さらに20年ぶりの訪仏であったこともあり、旧友クレマンソーの語るフランス語を聞くことはできても、話すことはできなくなっていた。また病気がちであったために精力的な活動もできず、会議には参加していたが、発言は一度も行っていない。このため外務省がまとめたパリ講和会議の概要文書で、西園寺が登場するのは4月27日のクレマンソーとの会談のみであった。吉野作造は「何を言ってよいか分からなかったためだ」と批判している。ただ、佐分利貞男は、山東問題が紛糾した際に、日本代表団の中から帰国しようという声が上がった際、西園寺が「国際連盟問題は山東問題よりも重要であるとし、自分一人でもパリに留まる」と発言したことを回想し、日本代表団内部に影響を与えたことを示唆している。

講和会議が一段落した後の7月10日にはイギリス国王ジョージ5世に拝謁している。8月24日に東京に帰還し、洋行中に建造されていた駿河台の新邸に入った。また9月には興津に住友家の資金で建設された別荘、「坐漁荘」が竣工した。これ以降西園寺は1年の4分の3を興津で暮らし、駿河台の本邸に入るのは政治的な用事があるときのみであった。1年後の大正9年(1920年)9月7日には講和会議の功績で公爵に陞爵した。

最後の元老に

大正10年(1921年)から昭和初期まで西園寺の私設秘書を務めた松本剛吉

大正9年(1920年)10月に問題化した、皇太子裕仁親王(昭和天皇)妃候補であった、久邇宮良子女王(香淳皇后)をめぐる問題(宮中某重大事件)で、西園寺は当初良子女王の皇太子妃辞退に持ち込もうとする山県に同調していたが、事態が不利になると問題から距離を取った。問題の終結後、山県と松方も辞表を提出することになり、宮中問題における二元老の発言力は低下した。このため原首相と西園寺の宮中に対する影響力が増加することになった。

しかし大正10年(1921年)11月4日に原首相が東京駅で暗殺された(原敬暗殺事件)。京都の清風荘でその報を受け取った西園寺は上京した。推薦のために召された山県と大隈は病気のために拝謁を行わず、西園寺は小田原で静養している山県の元を訪れて協議した。この時山県は西園寺の首相就任を進めたが、西園寺は「私はあなたより年が若い。あなたは私より先に死せられるると思ふ。其の時はあなたに代わり宮中の事をお世話申す。それ故請けられぬ。」と拒絶した。西園寺はその後平田東助を推薦しようとしたが断られ、平田の提案もあって後継首相として政友会の高橋是清蔵相を推薦した。結果として政党内閣が存続することになったが、西園寺は当時「政友会の内閣と云ふも、政友会内閣に非ず、陛下の内閣と思ふ。」と考えており、政党内閣が絶対に必要と考えていたわけではなかった。

大正11年(1922年)2月、山県が病死した。山県は死の直前に自分の私設秘書であった松本剛吉に、西園寺の元に仕えるよう命じた。これは山県が西園寺を後継者と認識していたためであり、以降松本は西園寺の元に政治情報を伝える役割を担うことになった。西園寺自身も「山公薨去後は松方侯は老齢でもあり(中略) 自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く考なり」と、山県の後継者であることを意識していた。以降興津の坐漁荘には、政官界の大物が「興津詣」を行うようになった。この年に御殿場の別荘が完成し、7月下旬から9月中旬までの間避暑に訪れるようになった。しかし同年6月、高橋内閣が政友会の内紛で倒れたときには、宮内大臣牧野伸顕が松方と連携し、加藤友三郎を後継首相に選定した。この動きを西園寺は把握しておらず、牧野を薩摩派として警戒するようになった。大正12年(1923年)8月、加藤首相の病状が悪化し、松方も体調が悪化していたため「万事を西公(西園寺)に一任する」こととなった。西園寺は牧野と協議し、今後は元老以外の者と相談せずに摂政(裕仁親王)に後継首相候補を伝えること、摂政からのご下問に答える方式についての確認を行った。8月24日、加藤首相が病死すると、西園寺は「切腹する覚悟」までして、山本権兵衛元首相を首相に推薦した。

12月29日、虎ノ門事件の責任を取って第2次山本内閣が総辞職すると、西園寺が主導権を握って清浦奎吾を後継首相に推薦した。政党に基盤を持たない清浦の推薦は立憲政治を期待する人々からの非難を受け、「元老の名誉は地の底に落ちた」「(西園寺は)天下の怨府」となったと評された。しかし西園寺は次の選挙(第15回衆議院議員総選挙)のために中立的な内閣が必要であると考えており、貴族院を主体とした清浦内閣に一種の選挙管理内閣としての存在をもとめたためであった。しかし清浦内閣は超然主義的な政治運営を行ったため、各政党が反清浦で団結する第二次護憲運動を呼び込むこととなった。このため選挙での清浦派の敗北はあきらかであり、投票前日の1924年(大正13年)5月9日に清浦首相は辞意を伝えていた。

西園寺はこの選挙結果に「何処の国でも政府を握れば選挙干渉位

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2019/10/19 10:00

HAPPY Wikipedia

あなたの考える「西園寺公望」の意味を投稿しよう
「西園寺公望」のコンテンツはまだ投稿されていません。
全部読む・投稿 

西園寺公望スレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「西園寺公望」のスレッドを作成する
西園寺公望の」
友達を探す
掲示板を探す
このページ
友達に教える
URLをコピー

注目のキーワード

錦織圭/北島康介/2014_FIFAワールドカップ・アジア予選/サッカー日本女子代表/消費税/東京スカイツリー/ダルビッシュ有/イチロー/香川真司/野田内閣/復興庁/石川遼/HKT48/AKB48/ワールド・ベースボール・クラシック日本代表/黒田博樹/尖閣諸島/バレンタインデー/ONE_PIECE

キーワードで探す

 
友達を探す
掲示板を探す
ハッピーWiki
ハッピーメール
ハッピーランド
HAPPY NEWS
2010Happy Mail