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西園寺禧子とは?

【皇后】
元応元年8月7日(1319年9月21日)
(中宮)
【皇太后】
元弘3年7月11日(1333年8月21日)
礼成門院
後京極院


【院号宣下】
正慶元年5月20日(1332年6月13日)
元弘3年10月12日(1333年11月19日)
【】

【誕生】
不明(『太平記』:嘉元2年(1304年))
平安京 一条烏丸東入・西園寺邸?
(現:京都府京都市上京区)
【崩御】
元弘3年10月12日(1333年11月19日)

【諱】
禧子
【幼称】
さいこく
【氏族】
西園寺家(藤原氏)
【父親】
西園寺実兼
【母親】
藤原孝泰女(従二位隆子、藤原孝子)
【配偶者】
後醍醐天皇
【結婚】
正和2年(1313年)
【子女】
女?(夭折?)、懽子内親王(宣政門院)
【身位】
女御中宮 →(女院)→中宮皇太后

西園寺 禧子(さいおんじ きし)は、第96代天皇後醍醐天皇皇后(中宮)、のち皇太后。正式な名乗りは藤原 禧子(ふじわら の きし)。女院号は初め持明院統(後の北朝)より礼成門院(れいせいもんいん)と称されるが、のちにそれは廃され、崩御後同日に建武政権(後の南朝)より後京極院(ごきょうごくいん)の院号を追贈された。皇女に伊勢神宮斎宮光厳上皇妃の懽子内親王(宣政門院)がいる。

確実な生年は不明だが、幼名を「さいこく」と言い、嘉元3年(1305年)ごろには異母姉で亀山院(後醍醐の祖父)の寵姫である昭訓門院瑛子に仕えていたと見られる。正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろに皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)によって密かに連れ出され、翌年正月に情事が露見して既成事実婚で皇太子妃となる。これは基本的に恋愛結婚と見られ、夫婦の熱愛ぶりは様々な資料に現れている。一方、一国の皇太子として、尊治の求婚には政治的理由もあると考えられている。一つ目には代々関東申次(朝廷鎌倉幕府との折衝役)を務める有力公家である西園寺家の高貴な姫君との間に世継ぎをもうけることで、甥の邦良親王の系統に対し、自身の皇統存続を強固にすること。二つ目には、関東申次の権力を通じて、幕府との友好関係強化を図ったことなどが推測されている。しかしこうした理屈を越えて、尊治は心情的にも禧子を溺愛し、しかも年ごとに愛情を深めていった。禧子の側でも温和で誠実な人柄の尊治を恋い慕い、二人は私生活でも円満な夫婦となった。

尊治が後醍醐天皇として即位した翌年の元応元年8月7日(1319年9月21日)に中宮に冊立され、このころ恋歌を得意とする勅撰歌人となる。皇子・皇女に恵まれない夫妻は、嘉暦元年(1326年)ごろからたびたび安産祈祷を行ったが、時には帝である後醍醐自身が禧子のため祈祷を実践することさえあった。元徳2年(1330年)には、後醍醐は腹心の僧の文観房弘真に依頼し、禧子に真言宗最高の神聖な灌頂(授位の儀式)である瑜祇灌頂を自身とお揃いで受けさせた。後醍醐の法服をまとった肖像画『絹本著色後醍醐天皇御像』は、この時の様子を描いたものである。こうして禧子は俗界と聖界の双方において同時に日本の頂点に立ったが、これほどの寵遇と地位を天皇から受けた女性は先例がない。しかし、ついに実子に恵まれず、元弘の乱(1331年 - 1333年)の時に患った病によって、建武の新政開始直後の元弘3年10月12日(1333年11月19日)に崩御した。後醍醐の嘆きは深く、臨済宗高僧の夢窓疎石をしばらく宮中に留めて供養を行わせた。2000年前後から、室町幕府の政策は建武政権の政策を、そして建武政権の政策は鎌倉時代末期の政策を基盤としていることが指摘されており、その時代の後醍醐の治世を中宮として共に歩んだ禧子の歴史的意義は大きい。

和歌に優れ、歌人としては『続千載和歌集』等4つの勅撰和歌集に計14首、准勅撰和歌集『新葉和歌集』に1首が入集。禧子の美貌を後醍醐はしばしば「月影」(古語で「月の光」の意)に喩えている。夫婦仲の睦まじさは同時代から著名だった。例えば、歴史物語増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」の巻名は、「秋の深山」(西園寺家北山邸、のちの金閣寺)の「秋の宮」(中宮)、つまり禧子を指し、禧子をこぞって褒めそやす永福門院鏱子(禧子の長姉)と後醍醐の和歌から取られている。『増鏡』巻第16「久米のさら山」では、元弘の乱前半戦に敗北し意気消沈する夫に琵琶を届け、夫婦がともに得意とする和歌を贈り合う姿が描かれた。『増鏡』の説話は『続千載和歌集』や『新葉和歌集』からも裏付けられる。『徒然草』では皇后ながら有職故実(古代の朝廷儀礼)を気にかけない自由奔放な性格が記録され、中世の代表的な有職故実学者にして理知的でふさぎ込みがちな性格の夫・後醍醐とは好対照を為している。

なお、軍記物語太平記』(1370年頃完成)では、後醍醐の側室の一人である阿野廉子が傾城の悪女と設定された余波を受け、自身の上臈(高級女官)であった廉子に寵を奪われ、後醍醐から嫌悪された不遇の皇后であるかのように描かれた。夫の後醍醐もまた、禧子の安産祈祷を装って幕府調伏の祈祷を行う冷酷な人物であるとされた。しかし、これらの『太平記』の記述は多くの点で他の資料と矛盾している。特に、安産祈祷が幕府調伏の偽装だったとする『太平記』説は、2000年代初頭まで広く信じられていたが、2010年代後半時点で日本史・仏教学・日本文学の各分野の研究者から相次いで否定されている。

経歴

幼少期

太政大臣西園寺実兼の三女として生まれる(『女院小伝』)。長兄は左大臣西園寺公衡、四兄は今出川家の初代である太政大臣今出川兼季。長姉は伏見天皇の中宮西園寺鏱子(永福門院)、次姉は亀山上皇の妃西園寺瑛子(昭訓門院)。実母は藤原惟孝の子孫の藤原孝泰の娘である従二位隆子(藤原孝子とも書かれる)で、同母兄には前記した今出川兼季の他、天台座主性守と大僧正の道意がいる。

禧子の確実は生年は不明である。軍記物語太平記』(1370年頃完成)は、禧子立后を数え16歳の時とし、ここから逆算すると嘉元2年(1304年)の生まれとなる。しかし、日本史研究者の森茂暁 によれば、『太平記』説を裏付ける史料はないという。次に述べるように、嘉元3年(1305年)時点で「〜子」型の名前が付いていない、つまり裳着(およそ数え12歳)より前と思われるため、逆算して少なくとも永仁3年(1295年)ごろ以降の生まれとも考えられる。

幼名はおそらく「さいこく」であり、嘉元3年(1305年)には姉の昭訓門院(西園寺瑛子)に仕えていたと推測される。その論拠として、嘉元3年(1305年)9月23日亀山院(後醍醐の祖父)の所領に関する遺言として西園寺公衡(禧子の兄)が記録した『亀山院御凶事記』が挙げられる。亀山は寵姫である昭訓門院との間に生まれた恒明親王に多くの領地を引き継がせようとしたが、このとき昭訓門院の妹で女院に仕えていた「さいこく」という女性に「さぬきの国とみたの庄」(讃岐国富田荘、後の香川県さぬき市大川町富田中およびその周辺)ほか2つの荘を、1期分として譲ることが記されている。これは一代限りの領地であり、さいこくの没後は、甥の恒明に渡る約束となっていた。ところが、『竹内文平氏旧蔵文書』所収『昭慶門院領目録案』によれば、翌年の嘉元4年(1306年)6月12日後宇多院(後醍醐の父)は父帝の遺命を履行しなかった。そして、遺領の莫大な荘園郡を亀山皇女で自身の異母妹である昭慶門院(憙子内親王)に譲与したので、富田荘もさいこくから取り上げられてしまったという。

同じく尊治親王(のちの後醍醐天皇)もまたこのころ、母の五辻忠子(談天門院)が亀山院の庇護を受けていた関係で、同母姉の奨子内親王(達智門院)と共に、亀山院の周辺で祖父から目を掛けられて育てられていた。

皇太子と密かに

花園院宸記』正和3年(1314年)1月20日条によれば、正和2年(1313年)秋(7月 - 9月)ごろ、禧子は皇太子尊治親王(たかはるしんのう、のちの後醍醐天皇)によって、西園寺家から密かに連れ出された(「東宮、密かに盗み取る所なり」)。この事実は翌3年(1314年)1月初頭に発覚したが、既に禧子は妊娠5か月であったので、妃が後宮に入る参入の儀式を飛ばして、一飛びに着帯祝い(妊娠5か月時に安産祈願として腹帯を巻く儀式)をすることになった。この事件は、歴史物語の17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」にも言及されており、時期は書かれていないが、「忍び盗み給ひて」と表現されている。前節で述べたように、このとき禧子が史実として何歳だったのか、確実には不明である。ただ、尊治は同時代を代表する『源氏物語』愛好家・研究者だった。

かつて2000年ごろまでは後醍醐天皇は独裁的専制君主という人物像が主流であり、その世代の日本史分野における研究者の書籍では、この人物像に引きずられて「盗み取る」を「略奪」と表現するものがある(森茂暁の著書など)。しかし、古語における「盗む」には、「こっそりと〜する」「密かに〜する」という意味もある。したがって、同意を得ない唐突で略奪的な誘拐婚だったのか、あるいは秋より前からもともと禧子と忍んで関係があって同意を得た密かな駆け落ちだったのかは、「ぬすむ」という語からだけでは判別がつかない。日本文学分野の研究者の井上宗雄による『増鏡』の現代語訳では、「こっそりと連れ出されて」と中立的な表現に訳されている。また、この時代の皇族による「ぬすみ」婚については前例があり、後醍醐が唯一の人物という訳ではなかった。例えば、後醍醐の父である後宇多院もまた、後深草天皇皇女の姈子内親王(遊義門院)を「ぬすみ奉らせ給ひて」妃としている(『増鏡』巻第11「さしぐし」)。

足利尊氏の執奏による『新千載和歌集』には、二人が某年4月1日に忍び音と初音について詠んだという和歌が入集している。

四月一日、郭公の鳴けるをよませ給ふける
忍び音も けふよりとこそ 待べきに 思ひもあへぬ 郭公かな(大意:ホトトギスは四月のある日から鳴き始めると言う。その風情のある忍び音(四月のホトトギスの鳴き声)を聞こうとして、「きっと今日からだ」と、本当は何日も待ちぼうけになるべきはずだったのが、思いがけず四月初日の今日に聞くことが出来て、幸運なことだ。それは幸先良いとも言えるのだが、あなたに忍び通うのは、「今日よりも他の日だ」と、本当は堂々と付き合えるようになるまでもっと待つべきはずだったのに、思いあまって今日あなたのところへ来てしまった。迷惑だったろうか?)
後醍醐院御製、『新千載和歌集』「夏歌」194
おなじくよませ給ふける
なきぬなり 卯月のけふの 時鳥 これやまことの 初音なるらむ(大意:ええ、不運にも、鳴いてしまいました。四月の今日の 時鳥(ときのとり)(ホトトギス)ですから、ただの初音(個人が初めて聞くホトトギスの鳴き声)ではなく、これこそ本当の初音(季節で初めてのホトトギスの鳴き声)なんでしょうね。それにしても、四月の今日この時、これが本当に初めての逢瀬でしたのに、もうホトトギスが鳴き始める早朝が来るなんて、夏の夜というのは、なんて短いのでしょうか。これから夜はもっと短くなってしまいますから、今日で良かったですよ)
後京極院、『新千載和歌集』「夏歌」195

禧子と尊治の結婚理由として、比較的確実な資料が存在するのは、恋愛結婚であったということである。『増鏡』「秋のみ山」は、尊治の「わくかたなき御思ひ、年にそへてやんごとなうおはしつれば」云々と述べており、心情的に尊治は禧子に対し純粋に強い愛情を持っており、しかもそれは時を経るごとに深まっていったという。『増鏡』では全体として、夫婦仲は良好であったと描写されている。『太平記』研究者の兵藤裕己は、後に中宮となった禧子へ盛大な安産祈祷が実際に行われたことを示す鎌倉幕府の重鎮金沢貞顕の書状や、『太平記』のうち足利政権による政治的改変が入っていないと思われる箇所(巻第4等)に照らし合わせ、『増鏡』の二人の心情描写は事実であったろうとしている。

忍恋をよませ給ふける
かよふべき 道さへ絶て 夏草の しげき人めを なげく比哉(大意:夏草が生い茂って、あの人のところに通う道が途絶えたところに、繁って煩わしい人目のせいで、あの人のところに通う方法までもが絶えてしまった。嘆くばかりのこのごろだ)
今上御製、『続千載和歌集』「恋歌一」1078
だいしらず
たのめつゝ 待夜むなしき うたゝねを しらでや鳥の 驚すらむ(大意:通ってきてくれると頼りにさせておきながら、来てくれないあの人を、ただ待つ夜はとてもむなしい。うたた寝をしていても、それを知らないのでしょうか、鶏の鳴き声ではっと目が覚めてしまいました。せっかく、小野小町になった気分で、恋しいあの人に夢で逢うことだけを頼みにしていたのに…)
中宮、『続千載和歌集』「恋歌三」1324

無論、一国の皇太子である以上、尊治(後醍醐)が禧子を皇太子妃に選んだ理由には、政治的理由もあると推測されている。第一の理由は、皇統継承権の強化である。俗に鎌倉時代は武士の時代と言われているが、これは誇張表現であり、実際には鎌倉幕府は朝廷と日本を二分する国のうちの一つの「封建国家」(佐藤進一説)、あるいは複数存在した強大な権門(特権組織)のうちの「軍事を司る権門」(黒田俊雄説)に過ぎず、朝廷もまだ強い実力と高度な法体系を確保していた。とりわけ後醍醐の父の後宇多天皇は「末代の英主」と称えられる賢帝だった。当時、天皇家は後宇多・後醍醐らの大覚寺統と、それに対立する持明院統という二つの皇統に分裂しており、幕府が仲裁者となっていた(両統迭立(りょうとうてつりつ))。ところが、後醍醐が尊治親王として皇太子だった当時、大覚寺統の中でさらに、父の後宇多の意向によって、正嫡である邦良親王(尊治の甥)と、それに次ぐ尊治の系統に別れており、尊治が将来天皇位を退位した後は、基本的に邦良の系統に皇位を譲らなければならなかった。

かつては、後醍醐の立場を一代限りの中継ぎとする説があった。これに対し、河内祥輔は、一代限りの中継ぎというのは敵対皇統である持明院統からの中傷表現であり、実際には大覚寺統の「准直系」程度の格式を父の後宇多上皇から許されており、条件付きで後醍醐の子も天皇位に就く可能性を認められていたのではないか、という説を唱えている。また、父の後宇多と敵対したとする古説とは違い、後醍醐が自身の系統強化を図ったのは、私利私欲からではなく、「末代の英主」である後宇多を尊敬する気持ちから、自分こそが父帝の後継者であると証明し、父の政策を引き継いで遂行したいという想いからだったという。このような、後醍醐から後宇多への敬意は多大であり、後宇多もまた後醍醐に相当な信任を与えていたという説は、中井裕子も追加の資料を用いて補強している。

もっとも、「准直系」説を採るにしても、正嫡である甥の邦良に対し、後醍醐が相対的に不安定な地位にあり、子に確実に皇位を継がせるには、高貴な血統の正室を必要としたことに変わりはない。そこへ、禧子の西園寺家は代々、朝廷鎌倉幕府の交渉役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を世襲する家系であり、当主はしばしば太政大臣にまで登るなど、鎌倉時代には強い権勢を持つ公家だった。このような西園寺家との縁戚関係は、安定しない立場への強化となるのである。

第二の政治的理由として、関東申次である西園寺家を通じ、鎌倉幕府との友好関係を強化しようとしたことが挙げられる。軍記物語太平記』では尊治(後醍醐)は当初から倒幕を考えていたと物語られているが、2007年、河内はこれは歴史的事実ではないという新説を唱え、元弘の乱(1331年 - 1333年)の前年までは融和路線を堅持していたと主張した。亀田俊和も河内説に同意し、西園寺家を介して幕府との友好関係を模索する姿からは、現実的な政治家としての姿勢がうかがえると、後醍醐の婚姻政策を高く評価している。呉座勇一もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られたイメージであり、実際は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている。なお、室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏は、『後醍醐院百ヶ日御願文』で、後醍醐の人柄を「温柔之叡旨猶留耳底」、つまり「優しく穏やかな言葉が耳の奥底にまで響いて今でも残っている」と評している。

いずれにせよ、後述するように、夫婦の間に強固な愛情があったことを物語る逸話は数多く、根底に強い恋愛感情があったのは確かである。

顕恋をよませ給ふける
いつの間に 乱るゝ色の 見えつらん しのぶもぢずり ころもへずして(大意:いつの間にバレてしまったのだろうか?「しのぶもじずり」の衣の乱れ模様の色のように、私の忍び恋の乱れた色恋は。あれからまだそんなに頃も(時間も)経っていないはずなのだが…)
御製、『続後拾遺和歌集』「恋歌一」672
顕恋を
忍べばと 思ひなすにも なぐさみき いかにせよとて もれしうき名ぞ(大意:そう、忍んでいるから大丈夫だろう、と初めは思い込んでいたのだが、心の中でにやけていたのを周りに隠すことはできなかった。一体私にどうせよ、と自問自答したら余計焦ってしまって、例の騒動だ)
今上御製、『続千載和歌集』「恋歌一」1139

恋の歌人

その後、正和4年10月16日(1315年11月13日)には、皇女の懽子内親王(かんしないしんのう)が生まれた。

文保2年2月26日(1318年3月29日)、皇太子尊治親王が践祚し、後醍醐天皇となる。天皇の正室となった禧子は、同年4月20日従三位を叙され、7月28日女御宣下(『女院小伝』)。次いで翌元応元年8月7日(1319年9月21日)には中宮に冊立される(『女院小伝』)。

『増鏡』「秋のみ山」によれば、禧子の父の西園寺実兼は、老後に娘が中宮となったのでとても喜んだという。森の推測によれば、娘が連れ出された当初は面食らったであろう実兼も、娘が手厚く扱われているのを見て気持ちがほぐれていき、やがて後醍醐に目をかけるようになったのではないかという。西園寺家琵琶の帝師を家業の一つとしたので、後醍醐は禧子の父の実兼や同母兄の今出川兼季から琵琶を習った(『花園天皇宸記』元亨2年(1322年)9月10日条等)。

また、このころ後宇多上皇(後醍醐父)の命で編纂された『続千載和歌集』(1318年 - 1320年)に禧子の和歌が入集し、勅撰歌人となった。日本の歴史上、禧子の和歌は14首が勅撰集に入集したが(准勅撰を加えれば15首)、存命中に後宇多・後醍醐のもと編まれた2つの勅撰和歌集(『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』)にある8首のうち、75パーセントに当たる6首が「恋歌」の部に収録され、後醍醐との恋愛を詠んでいる。

又いつと しらぬもかなし 今はとて おき別つる 名残のみかは(大意:あなたとの次の逢瀬がいつになるのか、わからないのが本当に切ないです。またねと言って、起きて離れ離れになった後の寂しさの名残は、沖へ潮が引いた後に残るなごり(水たまり)のよう。これで最後なのでしょうか。いいえ、いつか潮がまた満ちるように、あなたならきっとまた私の心を満たしてくれるはず)
中宮、『続後拾遺和歌集』「恋歌三」844

秋のみ山

中宮となった元応元年(1319年)の8月13日、禧子と後醍醐天皇は、西園寺家が領有する広大な邸宅である北山邸(後の京都市北区金閣寺)に行幸した。

歴史物語の17巻本『増鏡』(14世紀半ば)の巻第13「秋のみ山」によれば、翌々日の15日夜には、中秋の名月を賞する盛大な宴が催された。このとき、長姉の永福門院(西園寺鏱子)は妹の禧子が中宮に冊立されたことを喜び、禧子に宛てて、和歌を贈呈したという。

こよひしも 雲井の月も 光そふ 秋のみ山を 思ひこそやれ(大意:中秋の名月である今宵は、雲井(雲のたなびく大空)にある満月も、雲井(宮中、ここでは天皇・皇后の行幸)の満月のように晴れ晴れしい中宮陛下も、いっそう光輝いていらっしゃいます。秋の深山(北山邸)にいらっしゃる秋の宮(中宮陛下)のことを、とてもめでたいと思いやっております)
永福門院、『増鏡』「秋のみ山」

すると、夫の後醍醐は「まろ聞えん」(「わたくしが(代わりに)申し上げましょう」)と言って、禧子の代わりに返歌を詠んだ。

昔見し 秋のみ山の 月影を 思ひいでてや 思ひやるらん(大意:永福門院様もまたその昔、(伏見天皇の)秋の宮(中宮)でいらっしゃいましたね。中宮時代に秋の深山(北山邸)から御覧になった美しい月の光と、月の光のように美しい禧子のまだ幼い頃を思い出して、そのように思いやっておいでになるのでしょう)
後醍醐天皇、『増鏡』「秋のみ山」

このように、義姉への返答をしつつ、その中身は禧子の月影(月の光)のような美しさを称える歌で、機会さえあれば妻の自慢をするという後醍醐ののろけ話だった。この話は『増鏡』のハイライトの一つであり、「秋のみ山」という巻名自体が、上記の永福門院と後醍醐の和歌に登場する禧子を指す語から取られている。

これらの和歌と経緯は、勅撰和歌集である『続千載和歌集』の巻4「秋下」にも、第458歌と第459歌として見えている。

達智門院との親交

禧子は後醍醐天皇の同母姉の達智門院(奨子内親王、元・伊勢神宮斎宮)とも親交があった。禧子の父の西園寺実兼元亨元年(1321年)9月10日に薨去し、家宝であるの一つを達智門院に遺していた。薨去後のいつか確実な時期は不明だが、そのときの禧子と達智門院の贈答の和歌が『新千載和歌集』に入集している。

後西園寺入道前太政大臣申しおきて侍りける琴を、宣政門院いまだ一品の宮と申しける比たてまつらせ給ふべきよし達智門院へ申させ給ふとて
代々をへて すみにし山の 松の風 千とせの声や ゆづりおきけむ(大意:何代も住んできた山の松の風、その松風のような響きの箏の千年の音を、父はあなたへ譲りおいていたということです)
後京極院、『新千載和歌集』巻20「慶賀」
御返し
行く末を ゆづりおきける 松の風 つたへむ千世の こゑぞしらるる(大意:行く末を譲りおいていたという、松風の箏を受け継ぎましょう。かの名高い千世の音が聞こえてきます)
達智門院、『新千載和歌集』巻20「慶賀」

御産祈祷

その後、『続群書類従』所収「御産御祈目録」によれば、嘉暦元年(1326年)6月から、禧子への安産祈祷が行われた。

増鏡』「むら時雨」によれば、当時、後醍醐天皇は禧子との間に懽子内親王しか子がいないのに満足していなかったが、ついに懐妊の兆しが見えたので、盛大な安産祈祷を始めたという。禧子は出産のため甥である恒明親王の邸宅である常盤井殿に移った。出産予定日が近づくと公卿殿上人や、大臣で禧子の同母兄の今出川兼季らがひっきりなしに押しかけた。後醍醐側近の聖尋や、禧子の同母兄の道意を初め、多くの高僧も修法を行った。世間は祝賀の雰囲気で一杯になった、という。

日本文学研究者の兵藤裕己は、夫婦の仲睦まじさは『増鏡』「秋のみ山」や『太平記』4巻など様々な書で讃えられており、盛大な祈祷も納得がゆくという。 一方、このタイミングで行われたことについては、日本史研究者の河内祥輔によれば、政治的意図なのではないかという。この3か月前の正中3年(1326年)3月、後醍醐にとって最大の政敵の一人ともいえる、大覚寺統正嫡で後醍醐の甥である皇太子邦良親王が薨去していた。これによって邦良派は大きな打撃を受けたため、ここで禧子から高貴な生母を持つ皇子が誕生すれば、後醍醐派が後継者争いで勝利する可能性が高くなるのである。いずれにせよ、前節(達智門院との親交)で述べたように、禧子にはもともと後醍醐派とは親交があって西園寺家の遺産によって後醍醐派の強化を図るなど、禧子個人でも能動的に動いており、政治目的であるとしても夫婦の共同作業だった。

ところが、引き続き『増鏡』「むら時雨」によれば、いつまで経っても禧子には子が生まれず、30か月以上経ってしまったので、常盤井殿から宮中へと帰った。産屋や新生児の乳母・侍女なども選定済みだったのに、全て意味がなくなったので、世間はがっくりときたという。祈祷の修法も大幅に削減された。同書「久米のさら山」によれば、このとき世間の人々から心ない笑いを浴びせかけられて、禧子は大きな精神的打撃を受けたという。後醍醐もまたそのことで心苦しくなったという。なお、河内は、後醍醐が本来意図してたのは「安産祈祷」ではなく「懐妊祈祷」だったのが、周囲に誤解されてしまったのではないか、という推測をしている。

多くの僧が去っていった後でも、後醍醐天皇ただ一人は禧子のために帝自ら修法を続けていた。鎌倉幕府の元・執権金沢貞顕が、おそらく元徳元年(1329年)10月中旬ごろに、息子の金沢貞将(六波羅南探題)に宛てて書いた書状には、以下のようにある。

一 中宮の御懐妊の事、実ならざる間、御り祈等止められ候へども、禁裏一所御坐の由、その聞こえ候ふ。実事に候ふか。承り存すべく候ふなり。
一 禁裏、聖天供とて□□御祈り候ふの由承り候ふ、不審に候ふそう。

第1項は、「中宮懐妊が事実ではなかったので、祈祷は取りやめになったが、禁裏一所(天皇陛下お一人)がまだ祈祷をしている」という噂が鎌倉に届いており、これは本当なのか教えて欲しい、と依頼している。第2項は、聖天供という修法を帝自ら行っているらしいが、これは不審である、と述べている。

仏教美術研究者の内田啓一の指摘を発展させた兵藤の説明では以下のようになる。後醍醐父の後宇多天皇は密教の修法を極めており、後醍醐も父に倣って深く通じていたため、一人で修法を行うことができるだけの力量はあったし、それはまた誰もが知る周知の事実であった。また、「聖天供」というのは、除災や招福、富貴や子宝(夫婦和合)を祈願して、当時の貴族社会で広く行われた普通の祈祷である。したがって、ここに現れているのは、妻を心配に想って父祖伝来の手法で無事を願う、一人の夫として自然な光景である。貞顕が不審とするのは、懐妊が事実でないならば、なぜ後醍醐一人が残っているのかという素朴な疑問であって、特に幕府調伏の祈祷などを疑っていた訳ではないと考えられる。

実際、同年12月の中旬もしくは下旬に書かれたと推測される書状では、貞顕の疑念は氷解しており、禧子と後醍醐を祝っている。

一 中宮又御懐妊候ふとて、十一月二十六日、京極殿へ行啓の由承り候ひ了んぬ。比興申すばかりも無き事に候ふか。御祈りの事、言語道断に候ふか。
一 禁裏御自ら護摩を御勤むるの由承り候ひ了んぬ。

貞顕は、禧子が今度こそ懐妊し、11月26日に京極殿(土御門殿)に移ったと聞いて、「比興申すばかりも無き」つまり「興あることこの上ない」と祝意を示し、祈祷は「言語道断」つまり古語で「言い尽くせないほど立派なものである」のだろうかと、素直に後醍醐・禧子夫妻の幸せを喜んでいる。

新拾遺和歌集』には、これより数か月遡る嘉暦4年(1329年)某日(嘉暦4年は改元で8月29日までしかないのでそれ以前)、着帯の儀(妊娠5か月目に行う朝廷儀式)の翌日、朝餉の間(あさがれいのま、天皇が略式の食事を取る部屋)の几帳(薄絹を下げた間仕切り)に、葵が掛かっていたのを見て禧子が詠んだ歌が入集している。

嘉暦四年、御着帯の後祭の日、あさがれゐの御き帳に葵のかゝりたりけるを御覧じてよませ給ける
わが袖に 神はゆるさぬ あふひ草 心のほかに かけて見る哉(大意:私の袖にあふひ草(葵草)をなんとなく掛けて見て思うのは――そう、『源氏物語』で、あふひ草を詠んだ和歌に、神にも許されない不義の罪を犯して子ができたことを、悔やむ一首がありましたね。私の場合は逆に、私に何か罪があって、それで、あの人との次の子にあふひ(会う日)を、神様がお許しにならないのだとばかり思っていました。でも、思いもよらず、今度こそ心にかけてあの人との次の子を育てられるのですね)
後京極院、『新拾遺和歌集』「夏歌」203

だが、この年も禧子のお産はうまくいかなかった。新たな皇子・皇女が生まれたという記録は、ない。

なお、2000年代初頭までは、軍記物語太平記』の物語に基づき、御産祈祷は幕府調伏の儀式の偽装であり、「聖天供」はいかがわしい呪術でそれを行った後醍醐は異形の天皇である、といった言説が行われることが主流だった。しかしその後2000年代から2010年代にかけて行われた議論により、こうした見方は2010年代後半時点でほぼ否定されている。詳細は#『太平記』を参照。

瑜祇灌頂

文観房弘真開眼絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財清浄光寺蔵)。俗世の帝王の身のままにして真言宗の最高儀式「瑜祇灌頂」を受けた図。後醍醐は正妃の禧子にもお揃いで同じ儀式を受けさせた。

御産祈祷がうまくいかなかった後も、後醍醐から禧子への愛情は不動だった。

後醍醐天皇護持僧である文観房弘真の高弟の宝蓮が著した『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、元徳2年(1330年)11月23日後醍醐天皇は霊夢のお告げがあったとして、文観に命じ、禧子に灌頂(かんじょう)と瑜祇灌頂(ゆぎかんじょう)という儀式を受けさせている。

厳密には、原文では禧子ではなく「皇太后」と書かれており、禧子が皇太后となるのはこれより後の元弘3年(1333年)のことなので時期が合わないが、仏教美術研究者の内田啓一は、著者は過去遡及的に禧子を皇太后と書いたのであろうと推測している。霊夢を見たのが後醍醐なのか禧子なのかは、原文からは判別が付かない。

この瑜祇灌頂というのは、真言密教における究極最秘の神聖な儀式とされており、これを通過することは

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出典:wikipedia
2020/05/26 21:53

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