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読売新聞とは?

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【読売新聞】



【種類】
日刊紙
【サイズ】
ブランケット判

【事業者】
株式会社読売新聞グループ本社
株式会社読売新聞東京本社
株式会社読売新聞大阪本社
株式会社読売新聞西部本社
【本社】
東京都千代田区大手町1丁目7番1号北緯35度41分14秒 東経139度45分51.1秒 / 北緯35.68722度 東経139.764194度 / 35.68722; 139.764194
大阪府大阪市北区野崎町5-9
福岡県福岡市中央区赤坂1-16-5
【代表者】
山口寿一(読売新聞グループ本社社長)
【創刊】
1874年11月2日(東京)
1952年11月25日(大阪)
1964年9月23日(西部)
【言語】
日本語
【価格】
1部
(朝刊)130円
(夕刊)50円
月極
(朝夕刊セット版)4,037円
(統合版)3,093円
【発行数】
(朝刊)約871万部
(夕刊)約255万部
【ウェブサイト】
www.yomiuri.co.jp
読売新聞東京本社(千代田区大手町)
読売新聞旧東京本社(千代田区大手町、現存せず)
2010年10月から2014年1月まで読売新聞東京本社の仮社屋として使用されていた旧日産自動車本社ビル(中央区銀座)
読売新聞中部支社新社屋
読売新聞中部支社(旧中部本社)旧社屋
読売新聞大阪本社
読売新聞西部本社

読売新聞(よみうりしんぶん、新聞の題字および漢字制限前の表記は讀賣新聞英語:Yomiuri Shimbun)は、株式会社読売新聞東京本社、株式会社読売新聞大阪本社および株式会社読売新聞西部本社が発行する世界最多の発行部数を有する新聞である。2016年下半期の販売部数は朝刊が約895万部、夕刊が約270万部で世界最多。

題号は、江戸時代瓦版を読みながら売っていた「読売」に由来する。

目次

  • 1 歴史
  • 2 人事
    • 2.1 主筆
  • 3 組織
    • 3.1 社会部
    • 3.2 医療情報部
  • 4 紙面・論調・歴史
    • 4.1 全国紙への道
    • 4.2 Jリーグのチーム表記問題
  • 5 注目を集めた報道・スクープ
  • 6 疑義が持たれた報道・捏造報道・スキャンダル
  • 7 不祥事
  • 8 マスコットキャラクター
    • 8.1 どれどれ
    • 8.2 だっち君
  • 9 読売新聞とプロ野球
  • 10 キャッチコピー
  • 11 掲載四コマ漫画
    • 11.1 日曜版
  • 12 発行所
    • 12.1 印刷工場
  • 13 各社の担当地域
  • 14 海外取材網
  • 15 版立て
  • 16 朝夕刊の別
  • 17 縮刷版
  • 18 販売店
  • 19 備考
  • 20 出身著名人
  • 21 読売新聞グループの企業・団体
  • 22 海外特約メディア
  • 23 脚注
  • 24 参考文献
  • 25 関連項目
  • 26 外部リンク

歴史

讀賣新聞のホーロー看板 縦書き(1字改行、俗にいう右書き)にすると丁度「賣」2つで「言」を両脇から挟む形になる
  • 1874年11月2日 合名会社日就社」から「讀賣新聞」創刊。初代社長は岐阜県出身の子安峻。創刊当時は1日おき発行の隔日刊紙で、漢字によみがなを振った画期的な庶民のための新聞だった。
  • 1875年 日刊紙に移行。
  • 1897年1月1日 尾崎紅葉作の小説金色夜叉』が連載開始。
  • 1904年5月7日〜1905年9月29日 本紙直接購読者を対象に、電報料読者負担で重大事件の速報を電報で伝える「電報通信」サービスを行う。
  • 1906年10月2日 現在のスポーツ面にあたる「運動界」欄を新設。
  • 1914年
    • 『身の上相談』(現在の『人生案内』)連載開始。
    • 4月3日 現在の生活家庭面(くらし面)にあたる「よみうり婦人附録」新設。与謝野晶子が詩や評論を執筆。
    • 8月1日 横浜市に初の地方支局を開設。
  • 1917年12月1日 商号を「日就社」から「讀賣新聞社」に改称。
  • 1924年2月25日 関東大震災後の経営難から、前警視庁警務部長、後の衆議院議員正力松太郎が買収。正力の社長就任で今日に至る読売新聞発展の基礎を築いた。
  • 1925年11月15日 「よみうりラジオ版」新設(テレビラジオ欄=番組表の先駆け)。
  • 1931年
    • 6月1日 社説の掲載を開始。
    • 11月25日 夕刊の発行を開始。
  • 1934年12月26日 大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)創設。部数拡大に大きく貢献する。
  • 1942年8月5日 新聞統制により、報知新聞社を合併。「讀賣報知」に改題。
  • 1945年
  • 1946年
    • 5月1日 題号「讀賣新聞」に復帰。
    • 6月13日 第2次読売争議が発生(10月16日終結)。
    • 7月1日 従来の縦書き楷書体題字に代えて印南渓龍が書いた横書きの隷書体による現行題字の使用を開始。
    • 9月1日 「読売信条」を発表。
  • 1947年12月6日 読者投票による「日本十大ニュース」の募集を開始(海外版は1989年から開始)。
  • 1949年
    • 3月1日 朝刊コラム「編集手帖」スタート(1953年8月から「編集手帳」に改題。「編集手帖」以前のコラムのタイトルは「明窓」であった)。
    • 11月26日夕刊読売」創刊(夕刊が復活、1951年9月に朝夕刊セット制再開により読売本紙に統合)。秋好馨4コマ漫画轟先生』が連載開始
  • 1950年6月1日 読売新聞社が株式会社に改組。
  • 1951年 正力松太郎の公職追放解除。
  • 1952年11月25日 大阪市で「大阪讀賣新聞」創刊、西日本に進出。
  • 1953年8月28日 読売新聞社などの出資による日本初の民間テレビ局・日本テレビ放送網が本放送を開始。
  • 1955年1月1日 正力松太郎の命令により、原発導入を図るため大キャンペーンを展開開始。
  • 1955年4月1日 英字新聞『ザ・デイリー読売』(THE DAILY YOMIURI)創刊。
  • 1959年5月1日 札幌市に北海道支社開設。現地印刷開始。
  • 1961年5月25日 富山県高岡市に北陸支社開設。現地印刷開始。
  • 1962年4月1日 読売日本交響楽団設立。
  • 1964年9月23日 北九州市に「読売新聞西部本社」設立。現地印刷開始。
  • 1966年6月29日 この日から7月2日まで行われたビートルズ日本公演を主催。
  • 1971年10月29日 読売新聞社、本社が中央区銀座から千代田区大手町1丁目7番1号に移転。跡地はプランタン銀座を経てマロニエゲート(銀座2&3)になっている。
  • 1974年
  • 1975年
    • 北東北(青森県岩手県秋田県)向けの新聞印刷工場を青森市に開設(分散印刷工場の第一号)。
    • 3月25日 名古屋市で読売本体との姉妹提携紙として「中部讀賣新聞」創刊。創刊当初の数年間は中部版独自の縦組み題字であったが、その後他の本社と同じ横組みとなる。
  • 1977年 発行部数で朝日新聞を抜き、日本一となる。またソ連(現:ロシア)のプラウダなどを抜いて世界一の発行部数となる。
  • 1978年 ギネスブック(1978年版)に発行部数世界一であると記載される。
  • 1979年 渡邉恒雄(現読売新聞グループ本社会長)が論説委員長に就任。
  • 1980年 空白の一日事件読売ジャイアンツ長嶋茂雄監督解任に対する不買運動に遭う。
  • 1980年 宝塚市学童誘拐事件において、被害者の安全を考慮せずに報道協定を破りフライング報道を行う。兵庫県警記者クラブは3か月間除名する処分に留めた。
  • 1982年4月1日 植田まさし作の4コマ漫画コボちゃん』が連載開始。
  • 1988年6月1日 中部読売新聞社が読売本体と合併し読売新聞中部本社となり、題号から「中部」が外れる。
  • 1989年12月1日 被疑者の呼び捨てをやめ、「容疑者」などの呼称を付ける。
  • 1994年
    • 5月 日本ABC協会の報告により、発行部数が1千万部を達成。
    • 11月3日 当時の社長である渡邉恒雄の下で、主要なマスコミで初めて「憲法改正試案」を発表して、日本国憲法の改憲を主張。憲法について再考する一つのきっかけになった。
  • 1995年6月16日 YOMIURI ONLINEを開設。
  • 1999年2月1日 経営難の中央公論社を買収し、中央公論新社を設立。
  • 2000年
    • 1月1日 「読売信条」を改定。
    • 1月26日 全国の販売店の呼称を「読売センター」(略称: YC)に統一。これまでは東京と西部が「YSC」、大阪が「読売IC」の呼称だった。
    • 12月1日 紙面の文字拡大。「第二次文字拡大ブーム」に火を付ける。
  • 2002年
    • 1月1日 読売新聞の題字下に記載されていた、「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が廃止。
    • 7月1日 グループ再編。株式会社読売新聞社を株式会社読売新聞グループ本社(グループ持株会社)と株式会社読売新聞東京本社に、株式会社よみうりを株式会社読売新聞西部本社と株式会社読売巨人軍に会社分割。中部本社はよみうりから読売新聞東京本社に分割承継(中部支社に格下げ)。大阪本社(株式会社読売新聞大阪本社)も株式交換により読売新聞グループ本社の完全子会社に移行。
    • 10月17日 新聞社で唯一、日本オリンピック委員会のオフィシャルパートナーになる。
  • 2004年
    • 1月1日 読売新聞西部本社が北九州市小倉北区明和町から福岡市中央区赤坂1丁目16番5号(読売新福岡ビル)に移転。
    • 12月1日 朝刊連載の4コマ漫画『コボちゃん』が、日本の全国紙の4コマ漫画では初めてカラー化。
  • 2007年10月1日 読売新聞グループ本社・日本経済新聞社朝日新聞社の3社がインターネット分野による共同事業及び販売事業における業務提携、システム障害と災害時における新聞発行の相互援助協定を締結することを発表。
  • 2008年
    • 3月31日 紙面を大幅刷新。紙面の文字を拡大、14段組みから12段組みの「メガ文字」になる。1面下段のコラム「編集手帳」が横1列から縦2段に再編され、題字上に「THE YOMIURI SHIMBUN」のローマ字が復活する。夕刊題字のスクリーントーンが廃止。
    • 8月31日 大阪本社の「泉」のコーナーが終了。新コーナーへ引き継ぐ。
  • 2009年
    • 1月10日 創刊135周年記念企画として連日6回に渡り300の候補地を掲載し、4月中旬に「平成百景」を定めた。
    • 2月10日 1874年の創刊から現在に至るまでの紙面記事がインターネットで検索できる、日本初のオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」のサービスが開始。
    • 2月27日 ウォールストリート・ジャーナルと編集、印刷、販売に関して提携することが発表され、2009年3月2日からアジア版の主な記事の見出しが日本語で夕刊2面に掲載され始めた。
    • 3月16日 創刊135周年記念企画としてコラムポケモンといっしょにおぼえよう! ことわざ大百科」を設け、子供の頃から新聞に慣れ親しむことわざ解説の連載開始。その後「熟語大辞典」、「慣用句全集」、「わかる故事成語」と逐次シリーズ化され、この日以降一面には、「探せ!ポケモン どこかのページにことわざ大百科」のタイトルと共に、ピカチュウのイラストが掲載されている。
    • 6月1日 島根県石見地方の発行が西部本社から大阪本社に変更し、島根県内では全県で大阪本社版の発売とした。
  • 2010年
    • 3月31日 東京本社(大手町1-7)社屋建て替えを発表。地上30階・地下3階・延べ床面積約7万9800平米・高さ180mの計画で、2014年まで工事が行われた。当時の大手町社屋は2010年中に解体され、その間の仮社屋は東京都中央区銀座6丁目の日産自動車旧本社ビルを使用することとなった。
    • 10月1日 東京本社が千代田区大手町から中央区銀座の日産自動車旧本社ビルへの仮移転が完了。3年強の暫定期間だが、39年ぶりに銀座の本社が復活した。
  • 2011年
  • 2012年
  • 2013年
  • 2014年
    • 1月6日 東京本社(大手町)新社屋(読売新聞ビル)が完成し、中央区銀座の仮社屋(日産自動車旧本社ビル)から移転。
    • 4月30日 西部本社がこの日をもって大分県に於いての夕刊の発行を休止。朝夕刊セット地域から統合版地域に格下げとなるのは同県が全国初。
    • 11月7日 中学生高校生を対象としたタブロイド判の週刊新聞『読売中高生新聞』創刊。
    • 12月1日 「適正報道委員会」を新設。今後は記事の「訂正」や「おわび」はすべて社会面に集約して掲載し、訂正などの有無をわかりやすくする。誤った理由も簡潔に説明する。地域版の「訂正」などは地域版に掲載する。
  • 2015年
  • 2017年

人事

主筆

  • 高田早苗(半峰)(1887年8月1日 - 1891年12月31日)
  • 市島謙吉(春城)(1892年1月1日 - 1894年5月31日)
  • 中井喜太郎(錦城)(1894年6月1日 - 1901年10月22日)
  • 松平康國(1901年10月23日 - 1902年2月28日)
  • 石井勇(白露)(1902年3月1日 - 12月)
  • 足立荒人(北鴎)(1903年1月1日 - 1906年11月20日)
  • 竹越與三郎(三叉)(1906年11月20日 - 1907年6月27日)
  • 足立荒人(1907年6月27日 - 1910年3月20日)
  • 笹川潔(東花)(1910年3月20日 - 1913年12月28日)
  • 五来欣造(素川)(1914年2月10日 - 1915年8月)
  • 金崎賢(1915年8月 - 1918年3月30日)
  • 伊達源一郎(1918年5月1日 - 1919年9月1日)
  • 松山忠二郎(1919年9月1日 - 1921年)
  • 大庭景秋(柯公)(1921年)
  • 山崎光二郎(1930年3月 - 1933年1月15日)
  • 高橋雄豺(1933年11月10日 - 1945年10月24日)
  • 小林光政(1935年10月24日 - 1946年2月)
  • 岩淵辰雄(1946年6月14日 - 10月19日)
  • 馬場恒吾(1946年10月19日 - 1948年9月14日)
  • 安田庄司(1948年9月14日 - 1949年5月20日)
  • 小林與三次(1965年8月1日 - 1970年5月30日)
  • 渡邉恒雄(1985年6月26日 - )

組織

社会部

1953年には「読売新聞社会部」が第1回菊池寛賞を受賞(原四郎を中心とする同社会部の暗黒面摘発活動)、1955年には社会部記者の安部光恭が第3回菊池寛賞を受賞している。

また、読売新聞は、かつて立松和博本田靖春(東京本社)、黒田清大谷昭宏(大阪本社)といった辣腕記者を社会部に擁し「社会面に強い」と言われた。

競馬の予想記事や漫画欄を作ったりして、庶民向きの読みやすい紙面作りを進めたが、その推進役は編集局長になった柴田勝衛である。…この柴田が正力社長の下で起死回生を狙ったのが、日本各地に縄張りを持って君臨していた、素性の知れたヤクザの親分衆36人を選んだ企画であり、『人物の森』風の人物評伝に仕立てて連載すると、それが評判になり売上げを大いに伸ばした。

連載が終わった年の正月のことである。紋付きハカマに正装した36人の親分衆が市電を止めて数寄屋橋の大通りに並び、読売新聞社の正面玄関に向かい土下座して一斉に頭を下げると、「柴田編集長にご挨拶したいので、読んで頂きたい」と申し入れた。…柴田は悠然と正面玄関に現れたのであり、その前にひれ伏した親分衆の代表が、「われわれのような日陰者を、こんな晴れがましい紙面で世間様に紹介くださり、光栄の至りに思う次第であります。このご恩は孫子末代まで忘れることはせず、…、われらの血筋が続く限り読売新聞の進展に死力を尽くすことを、ここで一同で誓約いたします」と言って、粛然と引き上げていったそうである。

田辺則雄発行名儀人(昭和27年頃)の話によると、読売新聞の社会部は大躍進を遂げ、親分衆の協力による物凄い特ダネ続きとなり、下町衆の支持を受け売り上げを伸ばした。…社会部長の田辺則雄も、読売の名物男で、戸籍にバツ印(×)が11も付いており、幾ら日本の新聞界に人材がキラ星でも、前科11犯はそうザラにある話ではない。…親分衆から一目を置かれる存在だったという。こんな伝統があることが大きく影響して、朝日を始め他社は暗黒街の取材が仲々出来ないのに、読売の社会部だけはスクープを記録し続け、新聞界では未だに一頭突出するのだそうだ

— 藤原肇『朝日と読売の火ダルマ時代』国際評論社、1997年

読売新聞大阪社会部はコラム「窓」、長期連載「戦争」を拠点に、社会的弱者の視点に立つ特集記事を数多く発し、黒田が社会部長になってのち社会部は“黒田軍団”という異名で呼ばれた。しかし1980年代に社内で渡邉恒雄らによる保守的思潮が主流になると圧力が高まり、1987年に黒田は退社に追い込まれた。渡邉に放逐された記者は数多いが、渡邉が直接手を下すことはなかった。渡邉の意を体した周囲が該当する記者を左遷したり、仕事を取り上げたりして、退社に追い込むのが常であったと言われている。

この行動は読売新聞の論説体系の統一の観点からはやむを得ないものではあるが、一方で従来の「保守的なリベラル」というバランスに立脚した論説体系を捨てたともされる

医療情報部

読売新聞は、他の全国紙にはない医療専門の取材機関「医療情報部」を持つ。同部長である前野一雄は、自身が脳動脈瘤、次いで甲状腺がんを患った経験を生かして「脳動脈瘤がある人の不安と選択」(ISBN 4-88320-246-1)、「甲状腺がんなんて怖くない」(ISBN 4-385-36190-8)を著している(後者は杉谷巌との共著)。また、「『健康常識』ウソ・ホント55」(ISBN 4-06-257370-9)で世間に伝わる「健康常識」に疑問を呈している。

紙面・論調・歴史

現在の論調は、概ね中道右派親米保守である。大衆主義とも評される。

2009年(平成21年)の新聞通信調査会の調査では、「最も保守的=10点、最も革新的=0点」という分布の中で、読売新聞は5.6点となって産経新聞の5.3点を上回り、全国紙の中で最も保守的であるとされた。日本経済新聞は5.2点、毎日新聞は5.0点、最も革新的な朝日新聞は4.4点である。

大垣藩士・子安峻佐賀藩士・本野盛亨柴田昌吉らの創業した読売新聞は、「文学新聞」として知られた。分かりやすい新聞、だれでも読める新聞を目指しただけでなく、西郷隆盛戦死の号外を自決した当日に出すなど早くから電信の導入をおこない、1877年 (明治10)、発行部数は2万5千部を突破して、早くも日本最大の発行部数を誇った。1887年 (明治20)には、立憲改進党早稲田大学創設に携わった高田早苗が初代主筆となり、国会や憲法についての解説を記事にしたが、明治中期以降、部数が衰えた読売新聞は、1919年 (大正8)、白虹事件によって東京朝日を退社した松山忠二郎たちをむかえ、「大正デモクラシー梁山泊」として、プロレタリア文学などの発表の場となるとともに、政治・経済の硬派記事を加え、部数も3万部から13万部に急伸させた。1923年 (大正12)、関東大震災の襲来にともない経営不振に陥った読売新聞は、1924年 (大正13)2月26日、警視庁刑事課長・警務部長を歴任し、虎の門事件で退官していた、まだ38歳の正力松太郎の手に委ねられる。

正力は、品川主計、小林吉政などの警察官僚を積極的に経営・販売に迎え入れ、「警察新聞」化をすすめる一方、アメリカのハースト系新聞社のイエロージャーナリズムにならい、警察ネタとセンセーショナルな記事を結合させる独自の紙面作りを推し進めた。とくに、暗黒街の取材に関しては他紙の追随を許さず、戦後は、原四郎社会部長の下、読売「社会部王国」を築き、「読売の在野精神」とよばれ、「庶民感覚」に根ざしたリベラルな論調を展開した。これは、絶対的な権力をもつ社長・社主の正力松太郎自身、自民党の政治家でありながら、社論に容喙することが少なく、また「販売の鬼」「販売の神様」と呼ばれた後任社長務臺光雄も、新聞の心臓部である編集に口を差し挟まなかったことが大きい。

1979年渡邉恒雄の論説委員長就任以降、紙面の編集方針や論調は右派保守主義となった。現在は基本的に自民党支持、改憲支持、日本経団連支持、新自由主義経済改革支持である。その一方、「大連立構想」以降の社説等で見られるように民主党やその支持母体である労働組合への論調は厳しいものが多いが、民主党「も」政権に参加する「大連立」には積極的であるという側面もある。そのためか、民主党については、方向が違うために批判する場合だけでなく、税制改革のように基本的な方向は現在の民主党主流派と一緒だが程度の違いがあるための批判という場合もある。その他に、主筆・渡邉恒雄が戦争経験者であるため、特に靖国神社(特に遊就館)における歴史認識には批判的で、小泉純一郎靖国参拝には反対した。

政府の政策に関し、政策分野によっては(憲法改正問題、防衛政策など)、社の見解(社論)を明確に打ち出すのが特徴である(「本社、憲法改正試案を発表」、1994年11月3日)。他方、不得意な政策分野については、基本的に官庁発表をベースに報道を行い、官庁発表に顕れていない問題意識を独自に掘り起こすような記事に紙面を割かないのも特徴である。また、個々の記者の見解が前面に出るような記事が少なく、社論に沿った記事がほとんどであることも特徴である。

5大全国紙中で唯一の人生相談コーナー「人生案内」を紙面に持っている。また教育面は早稲田大学と提携。また2008年に読売ウイークリーを販売不振で休刊させて以降、週刊誌を発行していない唯一の全国紙となった。

読売新聞の読者層について、木村雅文大阪商業大学JGSS(Japanese General Social Surveys、日本版総合的社会調査)研究センターの調査をもとに、「日経や朝日と比べて高卒(新制)の割合、ブルーカラーの割合、非正社員の割合が多い」としている。これら学歴、職業を反映して読者世帯の平均年収は、毎日と並んで、日経、朝日、産経に次ぐとしている(いずれも木村、2004[2])。

全国紙への道

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この節の加筆が望まれています。

読売新聞社は、戦前に「九州日報」など日本各地の地方紙を買収して経営に参画し、全国進出を計画したが、第二次世界大戦に伴う新聞統制により、その計画は頓挫した。

1952年(昭和27年)11月25日、大阪府大阪市北区野崎町に於いて「大阪讀賣新聞」の第一号を発刊した。東京の讀賣新聞社(現・読売新聞東京本社)とは別会社・別法人による「株式会社大阪讀賣新聞社」によって「讀賣新聞」が関西に進出し、全国紙としての体制を整えた。1953年4月1日付から、題字から「大阪」を外し、東京と同じ「讀賣新聞」の題号で発行。1971年から「読売新聞大阪本社」の呼称を使用。
1964年(昭和39年)9月23日、福岡県北九州市小倉北区砂津中津口(現・明和町1-11)に於いて「読売新聞」の西部版第一号を発刊。当時の読売新聞西部本社は、読売巨人軍の運営会社、読売興業株式会社(後に『株式会社よみうり』に商号変更)の一事業として発足した。
1975年3月25日に、読売新聞の東海3県に於いての発行としての形で、愛知県岐阜県三重県を対象地域とする『中部読売新聞』(題号:中部讀賣新聞、読み:ちゅうぶよみうりしんぶん)が創刊された。紙面は、東京で製作された紙面を一部共用し、読売本社と中部読売は編集・工務・販売・広告などの部門で互いに協力し合った。創刊号は、一般的な読売新聞の横並びの題字ではなく、中部読売独自による縦並びの題字が使われた。

毎週日曜には週刊二部紙として日曜版「よみほっと」が一緒に封入されている。以前は「日曜版」→「y&y」という題名だった。また「y&y」の時代は「y&y日曜版」とは別に、週間のテレビ番組表「y&yテレビ」が木曜に連載されていたが、2008年10月の号から日曜版と一緒に封入されるようになった。

Jリーグのチーム表記問題

東京ヴェルディ1969#歴史」も参照
2010Happy Mail