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豊橋市とは?

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2015年1月)
とよはしし
豊橋市

上段:吉田城址
下段:二川宿本陣資料館

 | 
豊橋市旗
1963年7月1日制定 | 豊橋市章
1909年6月6日制定

【国】
日本
【地方】
中部地方東海地方
【都道府県】
愛知県
団体コード
23201-7
法人番号
3000020232017
【面積】
261.86km

【総人口】
373,592[編集]
(推計人口、2018年10月1日)
人口密度
1,427人/km
【隣接自治体】
豊川市新城市田原市
静岡県:浜松市湖西市
【市の木】
くすのき
【市の花】
つつじ
【市の歌】
豊橋市歌、躍進
豊橋音頭、ちぎり音頭
豊橋市役所

【市長】
佐原光一
【所在地】
440-8501
愛知県豊橋市今橋町1番地
北緯34度46分9秒東経137度23分29.5秒座標: 北緯34度46分9秒 東経137度23分29.5秒

【外部リンク】
公式ウェブサイト

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村



ウィキプロジェクト
名鉄電車と豊橋市街地遠景
豊橋市中心部広小路通
豊橋市中心部駅前大通

豊橋市(とよはしし)は、愛知県の南東部にある都市東三河地方の中心都市であり、同地方の人口の約半数を占める。中核市に指定されている。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 市名の由来
  • 2 地理
    • 2.1 山地
    • 2.2 河川
    • 2.3 海岸
    • 2.4 市内の町名
    • 2.5 人口
    • 2.6 隣接している自治体・行政区
  • 3 歴史
    • 3.1 原始時代から弥生時代まで
    • 3.2 奈良時代から鎌倉時代まで
    • 3.3 室町時代から安土桃山時代まで
    • 3.4 江戸時代
    • 3.5 明治から現在まで
    • 3.6 年表(明治維新以後)
  • 4 行政
  • 5 議会
  • 6 国家機関
    • 6.1 厚生労働省
    • 6.2 国土交通省
    • 6.3 財務省
    • 6.4 農林水産省
    • 6.5 防衛省
    • 6.6 法務省
    • 6.7 裁判所
    • 6.8 弁護士会
  • 7 施設
    • 7.1 警察
    • 7.2 消防
    • 7.3 医療
    • 7.4 文化施設
    • 7.5 図書館
    • 7.6 郵便局
    • 7.7 運動施設
  • 8 対外関係
    • 8.1 姉妹都市・提携都市
      • 8.1.1 海外
      • 8.1.2 国内
    • 8.2 在住外国人
  • 9 経済
    • 9.1 第一次産業
    • 9.2 第三次産業
    • 9.3 第二次産業
    • 9.4 港湾施設
    • 9.5 本社を置く企業
  • 10 マスメディア
    • 10.1 中継局
    • 10.2 放送局
    • 10.3 新聞社
  • 11 教育
    • 11.1 大学
    • 11.2 専修学校
    • 11.3 高等学校
    • 11.4 中学校
    • 11.5 小学校
    • 11.6 特別支援学校
    • 11.7 インターナショナルスクール
    • 11.8 学校教育以外の施設
  • 12 交通
    • 12.1 鉄道
      • 12.1.1 鉄道網一覧
    • 12.2 バス
    • 12.3 道路
  • 13 観光
    • 13.1 名所・旧跡
    • 13.2 観光スポット
  • 14 祭事・催事
  • 15 文化・名物
    • 15.1 音楽
    • 15.2 スポーツ
    • 15.3 団体
    • 15.4 名産
    • 15.5 民話
  • 16 出身関連有名人
    • 16.1 武家・大名
    • 16.2 文化・芸術
    • 16.3 芸能・風俗
    • 16.4 アナウンサー
    • 16.5 学術
    • 16.6 政財界・軍事
    • 16.7 スポーツ
  • 17 豊橋市を舞台とした作品
    • 17.1 映画
    • 17.2 ドラマ
    • 17.3 CM
    • 17.4 漫画・アニメ
  • 18 脚注
  • 19 関連項目
  • 20 外部リンク

概要

吉田城吉田大橋(のち豊橋)

中世から江戸時代まで市の中心部は吉田(よしだ)と呼ばれていた。吉田という地名は全国各地にあったため、三州吉田と呼ばれることが多かった。

吉田は豊川朝倉川の合流地点であり、渥美郡宝飯郡、そして八名郡の境目に当たる。江戸時代には 吉田藩城下町吉田宿宿場町豊川水運で栄えた湊町であった。明治2年6月(1869年)の版籍奉還で、吉田から豊橋に改称した。

市徽章は、江戸時代末、吉田城に8代君臨した長沢・松平大河内(ながさわ・まつだいら・おおこうち)家が用いていた馬印を横から見た形の千切(ちぎり)である。

市民は、「豊橋」を「とはし」と発音することが多い。またしばしば音が落ちて、「とあし」と発音されることもある。

東三河の人口の過半数を占める中核市であり、国勢調査推計人口は2013年9月1日時点で愛知県第4位。2013年(平成25年)9月1日に発表された外国人登録人口は1万4108人。昼夜間人口比率は99.6%である。

三河港と豊川用水を擁し、貿易港と農業を主軸とする。16世紀の今橋城(のち吉田城と改称)建築以来、東三河の中心に台頭し、江戸時代は特に、三州吉田藩の城下町、東海道五十三次吉田宿二川宿があった。幕末の石高は7万石であり、岡崎藩西尾藩を上回って三河国内では最大だった。

市名の由来

吉田と今橋

伊勢神宮の神領の一覧表である神鳳鈔に、吉田御園と記載があり、神宮雑書にも、建久3神領注文、外宮領、承平年間宣下、長寛1免租。神宮雑書・建久3神領注文 = 吉田御園、外 = 給主故少納言重綱(藤原ヵ)所由 = 件御園、雑(新ヵ)神戸内往古神領也、承平以後官符宣旨重畳之上、長寛元年重被下奉免宣旨也 = 供祭物、上分米3石、雑用料17石、件上分米近年不究済之・神鳳鈔 = 吉田御園 = 外宮上分3石菓子、雑用20石・諸国御厨御園帳 = 吉田御園 = 3石、菓子、栗6篭。このことから、平安時代には、吉田の地名が確認できる。

今橋の初見は、応永5年11月21日の足利義満御判御教書の今橋御厨である。

貞応3(1224)年ごろ豊川は飽海川と呼ばれており、そこに架けられた橋の名前が今橋とされた。その後、大永2(1522)年ごろ今橋から吉田と改名された。

牧野氏による吉田城築城のくだり(牛窪記)や、天文年中の牧野氏・今川氏の書状に見え、今橋跡職、名字之知にて御座候間、という今川氏への訴状。藩翰譜の牧野氏の項目に、今橋城が吉田城と改名されたという解説。天文年中の今川氏の書状で三州吉田という用語が見え、今橋が使用されなくなっている事実などから、牧野氏が治めていた時代には今橋が使用されていたが、今川氏が直轄支配の時代になると、吉田がもっぱら使われ、今橋は使用されなくなる。

徳川家の史料である三河物語家忠日記では一貫して吉田となっており、伊勢神宮の史料でも吉田御園であり、今川氏による三河国領土化・吉田城の取得以後、一貫して吉田と呼称され、今橋が廃号となっていることなどからも、今橋が吉田に改称されたとは言い切れないだろう。

遊囊賸記には、今橋ハ渡津ノ今道ヘカケタル故ノ名ナルベシ、という記述があり、東関紀行の文中にある、渡津の今道、という文言に今橋は由来するという。

明治維新により豊橋と改名

前述の通り明治新政府は当時の三河国吉田藩の藩名が伊予国吉田藩(宇和島藩の支藩)(旧愛媛県北宇和郡吉田町、現愛媛県宇和島市)に似て紛らわしいとのことで藩名変更の命を下した。その命を受け藩主は「豊橋、関屋、今橋」の3つの名を選んだ。新政府はその一番目の「豊橋」を採用して、正式に「豊橋藩」という藩名とすることを命じた。その後廃藩置県の後も豊橋の名が使われる。

豊橋(とよはし:吉田大橋)

『三州吉田記』の記述にあるように、酒井忠次の吉田川(豊川)への架橋以前に、橋は存在しておらず、鎌倉時代の史書(『東関紀行』・『海道記』・阿仏尼の『うたたねの記』および『十六夜日記』)にも、川の浅瀬を渡っていることが記述されている。 徳川氏の武将の酒井忠次が、1570年(元亀元年)、関屋口から下地にかけて吉田川(豊川)に吉田大橋(土橋)を架ける土木工事を実施した。その後、池田輝政が、船町を整備し前城主・酒井忠次が吉田川に架けた土橋の吉田大橋を木橋に架け替え、その位置も整備した下流の船町に移動させた。『三州吉田記』に「元亀元年、関屋之渡口始メテ土橋ヲ架ス」とあり、1591年(天正19年)にこの土橋を船町へ移すと記す。江戸時代には、江戸幕府が整備、管理する長さ120間の大橋であった。

この船町の吉田大橋(吉田橋)は、明治時代に架け替えた時、とよはしと名称を変更した。さらに、昭和に入ってから国道1号を整備した際、その上流(関屋口から下地)に新たに掛けられた橋を、以前の船町で呼称していた吉田大橋(よしだおおはし)と、再び名付けた。この国道整備により、かつての東海道は愛知県道496号白鳥豊橋線として県道になり、正式にはもともと架かっていた県道の大橋(西側の橋)の名を豊橋(とよはし)とするようになった。ただ、市名と橋名を区別するため、橋名を(とよばし)と呼ぶようになった。国土交通省は、豊橋(橋)の名前を(とよはし)として、登録している。

豊川(とよかわ)・豊川(とよがわ)の違い

豊川(とよわ)というのは、古代律令制の三河国宝飯郡豊川郷に由来する。平城宮出土木簡に「参河国寶飯郡豊川郷」。長岡京出土木簡に、「延暦10年豊川里」。鎌倉時代になって鎌倉街道が整備されると「豊川宿」として機能した。鎌倉時代の史書では『海道記』に「豊河の宿」とある。『東関紀行』に「豊川といふ宿」と記載される。そして、現在の愛知県豊川市に至る。

豊川(とよわ)は、古代律令制では飽海川(あくみがわ)と呼ばれた。飽海(あくみ)とは渥美郡のことであり、7世紀までは、飽海(あくみ)と書かれたことが835年(承和5年)の木簡(太政官符)で確認されている。その後、室町時代から江戸時代までは吉田川と呼ばれた。 ことが『三河国聞書』から確認できる。1622年(元和8年)成立の『三河物語』においても、吉田河と記載されている。1849年(嘉永2年)の『徳川実紀』においても、吉田川と記載されている。愛知県図書館所蔵の江戸後期の三河国図においても、吉田川と記載されている。

中世から江戸時代まで、豊橋は吉田(三州吉田)と呼ばれていた。明治2年6月の版籍奉還で、吉田を豊橋と改めた。明治2年9月に成立した伊那県足助庁作成の三河国全図に、豊川(とよがわ)と記載されている。

地理

豊橋市中心部周辺の空中写真。市街地の北部を豊川が曲流する。1988年撮影の37枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

愛知県の南東部に位置している。渥美半島の付け根部分であり、豊橋平野の上に市域が広がっており、高い山はほとんどない(主な山は北東部の石巻山(358メートル)など)。南部は高師原天伯原と呼ばれる台地となっている。市内を、豊川梅田川などが流れ、北東部は低い山々(弓張山地)が存在し、静岡県との境界を形成している。市西部の豊川、梅田川河口は三河湾と、市南部沿岸は太平洋と接している。

太平洋岸は片浜十三里(表浜海岸)と呼ばれ、ウミガメの産卵で知られる。三河湾と接する地域は大規模な埋め立て地があり、工業地の他、神野新田など穀倉地帯となっている

中心部を東海道が横断し、吉田宿二川宿など古くから城下町、宿場町として栄えた。現代でも東海道沿いに中心部を国道1号JR東海東海道新幹線東海道本線名古屋鉄道名古屋本線が通っている。三河湾岸の三河港は、自動車や貨物などの輸出入の重要拠点となっている。

気候は年間を通じて比較的温暖であり冬季の降雪、積雪はほとんどない。

山地

主な山

河川

主な川

海岸

市内の町名

豊橋市の地名」を参照

人口


豊橋市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 豊橋市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 豊橋市
緑色 ― 日本全国
 | 
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

豊橋市(に相当する地域)の人口の推移
1970年 | 258,547人 | 

1975年 | 284,585人 | 

1980年 | 304,273人 | 

1985年 | 322,142人 | 

1990年 | 337,982人 | 

1995年 | 352,982人 | 

2000年 | 364,856人 | 

2005年 | 372,479人 | 

2010年 | 376,665人 | 

2015年 | 374,765人 | 


総務省統計局 国勢調査より

隣接している自治体・行政区

愛知県
静岡県

歴史

原始時代から弥生時代まで

瓜郷遺跡

縄文時代の遺跡として嵩山(すせ)の蛇穴遺跡など数件が、弥生時代の遺跡として瓜郷遺跡がある。市域に流れる川の流域には4世紀から7世紀頃の古墳(円墳、前方後円墳)も多く発見されている。なお、豊橋市牛川町で1957年と1959年に約十万年前のものとされる人骨が発見され、牛川原人(牛川人)として紹介されていたが、2001年にお茶の水女子大学の教授である松浦秀治がその骨をフッ素年代測定法で調査したところ、ナウマンゾウのすねの骨という結果が出た。そのため人骨である可能性は低いとされる。

奈良時代から鎌倉時代まで

律令制(国郡制)の下で、三河国渥美郡宝飯郡八名郡に属したとされる。律令制の下で班田制が敷かれていたとされる遺跡が、嵩山や賀茂などで見つかっている。また、初期の東海道が設置され、飽海川(あくみがわ、現在の豊川)河口には渡し場が置かれた。これは飽海川の渡しと呼ばれ、後に志香須賀(しかすが)の渡しとして『枕草子』の「渡は」の段などでも言及されており、よく知られている。飽海川はその後、吉田川に改称され、明治以降に豊川に改称された。「豊川」とは、現在の豊川市にあった古代集落・宝飯郡豊川郷を指す。

室町時代から安土桃山時代まで

復元された吉田城の鉄櫓

交通の要衝のこの地に目を付けた戸田全久(宗光)が二連木城(豊橋市仁連木町)を築城(1493年)、その後、西方の至近距離に、牛窪城(豊川市牛久保町)の牧野古白(成時)が今橋城(豊橋市今橋町)を築城した(1505年)。

また、この当時、東三河に今川氏の影響力が及んでおり、北条早雲を総大将とする今川氏親軍が三河国に侵攻し、今橋合戦で今橋城の牧野古石を討つなどしたが、松平長親との井田野合戦(岡崎市井田町)で敗北している。

その後、三河牧野氏と、二連木城等を有する戸田氏の間で抗争が起きたが、やがて、西三河をまとめた岡崎城松平清康が東三河に侵攻、吉田城に篭る牧野信成、宇利城に篭る熊谷氏が防戦したが、戸田氏他の東三河の勢力も清康に降参し、ここに初めて、松平家による三河国統一が実現される。

しかしながら、森山崩れによって松平清康が横死したため、三河国は大混乱に陥り、東から今川義元、西から織田信秀が侵攻し、三河国は彼らの属領争奪の場と化す。領国の蚕食を受けた松平氏は衰退し、今川氏の傘下となる。松平氏が撤退した後の吉田城は、城番の牧野成敏が城主となったが、その後これを略取した戸田宣成が、牧野氏の要請を受けた今川氏により討たれ、今川氏の直接支配となった。

1560年(永禄3年)桶狭間の戦い今川義元織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に入城し、今川氏真を見限って独立を宣言。1565年(永禄8年)3月に吉田城が開城し、所属の今川軍と主将小原鎮実は遠江国に撤退した。家康は、重臣の酒井忠次を吉田城に入城させ、東三河の旗頭となした。そして、翌1566年(永禄9年)5月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて、三河国は家康によりほぼ再統一された。

安土桃山時代1590年(天正18年)に、関東移封で徳川家康が駿府から江戸に遷ると、池田輝政が東三河4郡を統べる吉田城主(15万2千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。

江戸時代

関ヶ原の戦いの後、江戸時代に入ると、吉田藩が設置され、3万石から8万石程度の譜代大名が治めた。吉田は城下町、湊町(吉田湊)、宿場町(吉田宿)として栄え、二川(豊橋市二川町、大岩町)も二川宿として栄えた。海道の脇街道として姫街道八名郡嵩山(すせ)に嵩山宿が置かれた。吉田大橋(豊橋)は東海道におけるその重要性から、江戸幕府直轄の橋として管理された。 1752年には、藩主松平信復により吉田城内に藩校時習館が置かれた。

幕末慶応3年7月27日(1867年8月)、牟呂村(現豊橋市牟呂町)で伊勢神宮のお札が降ったといわれる。江戸時代、最後の藩主は、大河内長沢松平家大河内信古である。そのため、今の市役所の徽章が大河内長沢松平家の徽章になっている。

明治から現在まで

広小路通

版籍奉還直後の明治2年6月(1869年)、吉田は豊橋と改名された。明治4年7月(1871年)、廃藩置県により豊橋県となり、11月には額田県、明治5年(1872年)に愛知県に統合された。大区小区制が施行され、豊橋は第十五大区として管理され、愛知県の豊橋支庁が置かれた。1878年(明治11年)制定の郡区町村編制法により町村が置かれ渥美郡豊橋町となり、1889年(明治22年)に郡制及び町村制を施行し、1906年(明治39年)には豊岡村花田村を合併し市制を施行した。1932年(昭和7年)に、下地町、高師村、牟呂吉田村、下川村、石巻村多米を編入した。

1888年(明治21年)に東海道線が開通し豊橋駅が開業した。渥美線は1924年(大正13年)に高師 - 豊島間が開業した後、1925年(大正14年)までに三河田原まで開業した。路面電車(豊橋鉄道東田本線)は1925年に開業した。1931年(昭和6年)、豊橋初の百貨店として豊橋丸物(広小路通。1950年(昭和25年)に駅前大通に移転、1973年(昭和48年)に西武との提携で豊橋西武となる)、豊橋市公会堂(八町通)が竣工した。

明治4年8月(1871年)に吉田城趾に名古屋鎮台が置かれた後、1885年(明治18年)には陸軍歩兵第18連隊が置かれたほか、1908年(明治41年)から1925年(大正14年)までは高師原に陸軍第15師団が置かれるなど、豊橋は軍都として繁栄した。また明治から昭和の初めまでは養蚕業、製糸業が非常に盛んであった。太平洋戦争の最中には、1944年(昭和19年)12月7日の東南海地震と、1945年(昭和20年)6月20日のB29、136機による空襲(豊橋空襲)によって、市街地の7割が焼失した。

終戦後には将来の発展を見越して市街地の大規模な土地区画整理戦災復興都市計画が実施されている。また、食料対策として高師原、天伯原の開墾と神野新田等の自作農化が行われた。一方で、日本紡績(現・ユニチカ)を始めとした工場誘致活動を積極的に行い、郊外に工場が建てられていった。農工業の発展で新たな水源が求められていた中、1968年(昭和43年)には豊川用水が完成し農業・工業の発展に寄与した。

1970年代から30年間にもわたって、全国の都市の中で農業粗生産額第1位を続けた。1959年(昭和34年)に完成した豊橋港(現在は三河港の一角)は、三河港の中心として発展した。1980年代以降、市街地の郊外化が進んだ。1999年(平成11年)には中核市に指定された。

年表(明治維新以後)

市域における自治体の変遷
郡 明治22年以前 明治22年10月1日 明治22年 - 明治45年 大正1年 - 大正15年 昭和1年 - 昭和64年 平成1年 - 現在 現在


 | 吉田城 | 豊橋船町 | 豊橋町 | 明治28年1月25日
合併 豊橋町 | 明治39年7月15日
合併 豊橋町 | 明治39年8月1日
市制 豊橋市 | 豊橋市 | 豊橋市 | 豊橋市 | 豊橋市
豊橋湊町
豊橋上伝馬町
豊橋八町
豊橋関屋町
豊橋本町
豊橋札木町
豊橋呉服町
豊橋曲尺手町
豊橋下モ町
豊橋鍛冶町
豊橋松葉町
豊橋萱町
豊橋花園町
豊橋三浦町
豊橋指笠町
豊橋新銭町
豊橋魚町
豊橋紺屋町
豊橋神明町
豊橋清水町
豊橋手間町
豊橋吉屋町
飽海村 | 
豊橋村
 | 豊橋村

仁連木

東田村 | 東田村 | 豊岡村 | 豊岡村
瓦町村 | 瓦町村
下岩崎村 | 岩田村 | 岩田村
田尻村
平川新田
上岩崎村 | 岩崎村
手洗村
飯村
三ノ輪村
花ケ崎村 | 花田村 | 花田村 | 花田村
羽田村
高足村 | 高師村 | 高師村 | 高師村 | 明治39年8月31日
合併 高師村 | 高師村 | 昭和7年9月1日
豊橋市に編入
高足新々田
高足原尾先新田
藤並新田
森田新田
芦原新田
橋良村 | 福岡村 | 福岡村 | 福岡村
小浜村
小池村
佐藤村
山田村
小松新田
大崎村 | 大崎村 | 大崎村
東植田村 | 植田村 | 植野村 | 明治24年11月10日
分立 植田村
西植田村
津田新田
野依村 | 野依村 | 明治24年11月10日
分立 野依村
仏餉村
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/11/17 12:24

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