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豊臣秀吉とは?

凡例
豊臣秀吉 / 羽柴秀吉
豊臣秀吉像(狩野光信高台寺蔵)

【時代】
戦国時代(室町時代後期) - 安土桃山時代
【生誕】
天文6年2月6日(1537年3月17日)
【死没】
慶長3年8月18日(1598年9月18日)
【改名】
木下藤吉郎、秀吉、羽柴秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉
【別名】
別名:元吉
渾名:木綿藤吉、豊太閤、猿、禿げ鼠
【神号】
豊国大明神
【戒名】
国泰祐松院殿霊山俊龍大居士
【墓所】
豊国神社(京都市東山区)
不動院(広島市東区)
高野山奥の院(和歌山県高野町)
国泰寺(広島市西区)
【官位】
筑前守従五位下左近衛権少将従四位下参議従三位権大納言正二位内大臣従一位関白太政大臣、贈正一位
【主君】
松下之綱織田信長秀信
【氏族】
木下氏(平姓 or 宇多源氏佐々木流)→ 羽柴氏(平姓 → 藤原姓(猶子)→ 豊臣姓(賜姓))
【父母】
父:木下弥右衛門(竹阿弥、昌吉ほか多数)、木下氏泰、
母:大政所(天瑞院、なか)
継父:竹阿弥、猶父:近衛前久
【兄弟】
日秀(三好吉房室)、秀吉秀長旭姫(佐治日向守室 → 副田吉成室 → 徳川家康室)
【妻】
正室:浅野長勝の養女・高台院
側室:浅井長政の娘・淀殿
【子】
石松丸、一女、鶴松秀頼
養子:秀次秀康秀俊秀勝豪姫菊姫竹林院小姫糸姫
猶子:八条宮智仁親王近衛前子
【特記
事項】
馬印は「金瓢箪」。「一の谷馬蘭兜」は秀吉の代表的兜とされる。

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体: 豐臣秀吉)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名天下人、(初代)武家関白太閤三英傑の一人。

初め木下氏で、後に羽柴氏に改める。皇胤説があり、諸系図に源氏平氏を称したように書かれているが、近衛家猶子となって藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓されて本姓とした。

尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると「中国大返し」によりへと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地刀狩令惣無事令石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるがの征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。

墨俣の一夜城金ヶ崎の退き口高松城の水攻め中国大返し石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 出自
    • 1.2 松下家臣時代
    • 1.3 織田家に仕官
    • 1.4 織田政権下での台頭
    • 1.5 播磨・但馬の攻略 - 中国攻め
    • 1.6 信長の死から清洲会議まで
    • 1.7 柴田勝家との対立
    • 1.8 徳川家康との対立と朝廷への接近
    • 1.9 関白任官と紀伊・四国・越中攻略
    • 1.10 九州平定とバテレン追放令
    • 1.11 朝臣として聚楽第を構える
    • 1.12 小田原征伐から奥羽仕置
    • 1.13 奥羽再仕置
    • 1.14 天下統一
    • 1.15 文禄の役
    • 1.16 秀次切腹事件
    • 1.17 サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑
    • 1.18 慶長の役
    • 1.19 最期
  • 2 年表
  • 3 人物
    • 3.1 出身・家系
      • 3.1.1 皇胤説
      • 3.1.2 近江浅井氏説
      • 3.1.3 宇多源氏 近江佐々木氏説
      • 3.1.4 宇多源氏 佐々木庶流高島氏説
    • 3.2 容姿
    • 3.3 死因
    • 3.4 逸話
    • 3.5 文化・芸事
    • 3.6 本能寺の変の黒幕説
  • 4 政策
    • 4.1 朝臣体制
    • 4.2 国内統治システム
    • 4.3 宗教政策
      • 4.3.1 自身の神格化
    • 4.4 外交政策
    • 4.5 人事政策
  • 5 後世の評価
  • 6 系譜
    • 6.1 略系図
    • 6.2 妻子
    • 6.3 養子
    • 6.4 養女
    • 6.5 猶子
  • 7 家臣
  • 8 史跡等
    • 8.1 墓所・霊廟・神社
    • 8.2 資料館
  • 9 豊臣秀吉を題材とする作品
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 参考文献
    • 11.1 史料
  • 12 関連項目
  • 13 外部リンク

生涯

出自

豊公誕生之地碑(名古屋市中村区、中村公園)

秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。

太閤伝説の基本とされる『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なか(のちの大政所)の子として生まれたとされる。竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としているが、父親はともかく、二位尼君という高い官位に叙任されているところから大政所と呼ばれた人物が母親であろうことは推認できる。通俗説で父とされる木下弥右衛門竹阿弥は、足軽または農民同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。天野信景の『塩尻』では「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。後述するように皇胤説もあるが、一般には下層階級の出身であったと考えられている。

#出身・家系」も参照

生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。誕生日は1月1日幼名は「日吉丸」となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。

広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。しかし、『甫庵太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・おねの母方の姓とする説もある。秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山窩出身説、などがあるが、真相は不明である。

詳細は「木下弥右衛門」および「竹阿弥」を参照

松下家臣時代

はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。

なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国河内国伊勢国内に3,000を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。

織田家に仕官

『稲葉山の月』。月岡芳年による浮世絵連作『月百姿』中の一枚。

天文23年(1554年)頃から織田信長小者として仕える。 清洲城普請奉行台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した。

永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おねと結婚する。おねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、おねは反対を押し切って嫁いだ。結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でおねと婚姻したのではないかとしている。

永禄7年(1564年)、美濃国斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させた。

秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。このことは、秀吉が信長の有力部将の一人として認められていたことを示している。

永禄9年(1566年)に、墨俣一夜城建設に功績を上げたとされる逸話がある。また、この頃、蜂須賀正勝前野長康らを配下に組み入れている。

永禄10年(1567年)の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長から竹中重治を、牧村利貞丸毛兼利と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。

永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている。同年、信長の上洛に際して明智光秀丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

永禄12年(1569年)5月に毛利元就が九州で大友氏と交戦(多々良浜の戦い)している隙をついて、同年6月に出雲国奪還を目指す尼子氏残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していた山名祐豊がこれを支援した。これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすよう但馬国に出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。この時、此隅山城にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。

元亀元年(1570年)、越前国朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江の浅井長政が裏切り、織田軍を背後から急襲した。浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉は池田勝正や明智光秀と共に殿軍を務め功績をあげた(金ヶ崎の退き口)。

そして姉川の戦いの後には、奪取した横山城の城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した(志賀の陣)。その後も小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。

元亀3年(1572年)8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉)。

織田政権下での台頭

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした。さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、石田三成などを積極的に登用した。天正2年(1574年)、筑前守に任官したと推測されている。

天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍する。天正4年(1576年)、神戸信孝と共に三瀬の変で暗殺された北畠具教の旧臣が篭る霧山城を攻撃して落城させた。

天正5年(1577年)、越後国上杉謙信と対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。その後、勝家らは謙信に敗れている(手取川の戦い)。信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛・明智光秀・丹羽長秀と共に松永久秀討伐に従軍して、功績を挙げた(信貴山城の戦い)。

播磨・但馬の攻略 - 中国攻め

詳細は「中国攻め」を参照

天正5年(1577年)10月23日、信長に毛利輝元毛利氏の勢力下にある中国地方攻略を命ぜられ、秀吉は播磨国に出陣した。播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・赤松氏配下の勢力であった赤松則房別所長治小寺政職らを従える。11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた。

秀吉は更に播磨国から但馬国に攻め入った。岩洲城を攻略し、太田垣輝延の篭もる竹田城を降参させた。以前から交流のあった小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国美作国の大名・宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。この頃、信長の四男である於次丸(羽柴秀勝)を養子に迎えることを許される。

天正8年(1580年)には織田家に反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した(三木合戦)。

同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護山名氏の勢力を従える。最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男の山名氏政は落城前に羽柴家に帰参)が篭もる有子山城を攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。自らは播磨経営に専念するために弟である羽柴秀長を有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。

山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させ出石城とした。

『高松城水攻築堤の図』。月岡芳年による錦絵

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。

同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。このとき、毛利輝元・吉川元春小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。

このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意の兵糧攻めの戦術が遺憾無く発揮されている。

信長の死から清洲会議まで

詳細は「本能寺の変」および「山崎の戦い」を参照

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において、明智光秀の謀反により自害した(本能寺の変)。このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。

6月13日、秀吉は山崎において明智光秀と戦った。この戦いでは、池田恒興や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であった中川清秀高山右近までもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀は落ち武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。

6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。

信長の遺領分割においては、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝丹後国筒井順慶大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の滋賀郡高島郡15万石の加増、池田恒興は摂津国尼崎大坂15万石の加増、堀秀政は近江国佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国(公式には秀吉の養子で信長の四男の羽柴秀勝に与えられた)や山城国河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。

柴田勝家との対立

詳細は「賤ヶ岳の戦い」を参照

秀吉は山崎に宝寺城を築城し、山崎と丹波国で検地を実施し、さらに私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、柴田勝家との対立が激しくなった。天正10年(1582年)10月、勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。10月15日、秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行う。同年10月20日付堀秀政宛の秀吉書状の宛名には、羽柴の名字が使用されており、すでに秀吉による織田家臣の掌握が始まっていることが分かる。10月28日、秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし、信雄を織田家当主として擁立し主従関係を結ぶ。ただし、これは三法師が成人するまでの暫定的なものであった。

12月、越前国の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入り、柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏し、秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃国に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝関城伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷細川忠興山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。

2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江国に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。

4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃国に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

4月24日、勝家は正室お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国能登国越中国も平定し、前田利家には元々の領地である能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、佐々成政には越中国の支配をこれまで通り安堵した。5月2日(異説あり)には、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を差配することになった。

徳川家康との対立と朝廷への接近

詳細は「小牧・長久手の戦い」を参照
『大坂夏の陣図(黒田屏風)』に描かれた大坂城天守閣
豊臣期大阪図屏風に描かれた大阪城と大阪城下。

天正11年(1583年)、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築く。大坂城を訪れた豊後国の大名・大友宗麟は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。

6月には、北条氏と徳川氏との婚姻成立に危機感を抱いた関東の領主たちから書状が送られ、関東の無事を求められる。10月末に、徳川家康に関東の無事が遅れていることについて書状で糺した。

天正12年(1584年)、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時岡田重孝津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友で、天正壬午の乱を経て東国における一大勢力となった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。

これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに去就を注目されていた美濃国の池田恒興(勝入斎)をも、尾張国と三河国を恩賞にして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢国においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。

しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出て、羽黒に布陣していた森長可を破った(羽黒の戦い)。さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。

そのような中、森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である羽柴信吉(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし作戦は失敗し、池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死した(長久手の戦い)。

こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀野井城など、信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略してゆき、危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和し、家康も次男を人質に提出して降伏した。こうして秀吉は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった

この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下

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出典:wikipedia
2018/12/19 20:27

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