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財津一郎とは?

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ざいつ いちろう
財津 一郎
【本名】
財津 永栄(ざいつ ながひで)
【別名義】
財津 肇メ
【生年月日】
(1934-02-22) 1934年2月22日(86歳)
【出生地】
日本熊本県熊本市
【身長】
176 cm
【血液型】
O型
【ジャンル】
俳優コメディアン歌手
【活動期間】
1955年 - 2011年
【配偶者】
あり
【著名な家族】
財津功(息子)
【事務所】
志母澤事務所
【主な作品】


受賞
日本アカデミー賞

優秀助演男優賞
お葬式』(1984年)
【その他の賞】

ゴールデン・アロー賞
演劇賞(1974年)

財津 一郎(ざいつ いちろう、1934年2月22日 - )は、日本俳優コメディアン歌手。本名:財津 永栄(ざいつ ながひで)、旧芸名:財津 肇メ。熊本県熊本市出身。熊本県立済々黌高等学校卒業。

現在は自身や家族の体調不良を理由に新規の仕事を断っており、かつて撮影したCMが放送されている以外は実質的な引退状態である。

略歴

財津家は神武天皇の時代から続く名家。父親は農林省(現:農林水産省)の役人で、3人兄弟の末っ子として東京に住んでいたが、父が中国へ出征したため、1944年に一家は故郷の熊本へ疎開1947年に、阿蘇にある財津家の土地を守るために阿蘇郡黒川村(現・阿蘇市)へ移住、学校もそれまで通っていた済々黌中学から阿蘇農業高等学校(現・熊本県立阿蘇中央高等学校)へ転校。1949年に再び熊本市へ戻って済々黌高校に復学。高校生時代は水球部で活動。終戦後も高校を卒業するまでを熊本で過ごした。

1953年、上京後に早大文学部演劇学科受験に失敗。早大近くの印刷店などでアルバイト生活をしつつ、当時東京都大田区にあった榎本健一映画演劇研究所(いわゆるエノケン学校)で演技を勉強する。同時に帝劇ミュージカルの研究生になる。

エノケン学校卒業後は「もっと東京で修業を積みたい」として撮影所入りなどはせずに過ごしていたが、偶然ある野球場で憧れの仲代達矢に会ったことがきっかけで発奮し、1955年、帝劇ミュージカル解散の後、財津肇メ(ざいつ はじめ)の芸名で石井均一座に入門(この時、楽屋の化粧室前でばったり会ったのが伊東四朗。今の妻ともこの一座で出会っている)。また新宿の劇団「ムーラン」の舞台に立った。その「ムーラン」も数年後解散の憂き目に遭い、一時は大阪からやり直しと宝塚新芸座からOSミュージックホールと歩いた。1962年吉本興業に入り、1964年吉本新喜劇に参加、芸名を現在の財津一郎に改める。この芸名の名付け親は当時の吉本興業社長の林弘高で、「吉本では大衆的な名前でいかなあかん。本名は堅苦しい。一郎と言えば河野一郎有島一郎。みんな大物や」という名付け理由だったという。

1965年に吉本新喜劇座長に就任。新喜劇では初期はサラリーマン役が多かったが、その後「老け役」が多くなっていった。

藤田まこと主演の『てなもんや三度笠』に浪人・蛇口一角(へびぐち いっかく)役で出演し、手を頭の後ろから回して反対側の耳をつかんで甲高い声で叫ぶ「非っ常にキビシ〜ッ!」「〜してチョウダィ!」のギャグや抜いた刀の刃を蛇のようになめまわす、といった奇怪な動きが評判となり、一世を風靡(ふうび)した(当初はギャグで言った台詞ではなかったそうで、演技中に突発的に奇声を発すると予想外にウケたことが由来)。なお、途中からは写真師・桜富士夫(さくら ふじお)役に変更になったが、レギュラー陣の一角を担った(当初はレギュラー出演の予定ではなかったが、奇人変人ぶりがあまりにも好評だったため、レギュラー化して最終回まで出演した)。ちなみに役名の蛇口一角は忠臣蔵清水一角(しみず いっかく)のもじり、桜富士夫はフィルムのブランドのさくらカラー(現:コニカミノルタ)とフジカラーからとられたもの。最初は台本にあった自分の役名の蛇口をそのまま「じゃぐち」と読んで「アホ」と言われたこともあった。

1969年に吉本興業を退社して東京に活動拠点を移し、志母澤事務所に移籍。

1981年、『連合艦隊』では、中井貴一扮する神風特別攻撃隊に志願した青年の父親でもある海軍兵曹長役を演じた。

3年B組金八先生』での英語の教科担任・左右田先生役では自身の持ち味が生かされたボケ役だった。

1995年、61歳の時に脳内出血を発症してしまい、開頭手術後は左半身に軽い麻痺が残ったが、リハビリに励んだ結果、3ヶ月後にテレビドラマの仕事に復帰した。

1996年の『秀吉』では豊臣秀吉の義父といわれる竹阿弥役を演じた。

2004年、『天花』では主人公・佐藤天花の成長を見守る祖父役で出演。

2010年11月13日公開の映画『ふたたび swing me again』に主演。体力的な不安があったというが、監督の塩屋俊が何度も説得したことから出演を承諾し、撮影期間中は役を演じることのみに集中して、最後までやり遂げた。第23回東京国際映画祭の舞台挨拶に登壇した際、「この映画の出演は(俳優生活の)最後のごほうびだと思って演じました」と語っていた。

2011年3月27日放送の『3年B組金八先生ファイナル』に出演以降、芸能活動休止状態にある。2019年に元朝日放送プロデューサーの澤田隆治時代劇専門チャンネルでの『てなもんや三度笠』特別記念番組の出演依頼をかけたところ、体調不良を理由に出演を辞退されたといい、同年に財津自身もメディアのインタビューに応じ、財津の言によれば「脳出血など病気もやったことと、家内(妻)の具合が悪いことなどあり仕事は全て断っている」とのことである。

2015年、『熊本日日新聞』にて人生をふり返ったコラム「私を語る」を連載し、同年9月にそれを1冊にまとめた初の著書『聞いてチョウダイ 根アカ人生』を発売した。

人物

ギャグ

きびしーいっ
吉本新喜劇で用いられていたギャグ。

作品

シングル

アルバム

出演

テレビドラマ

西部警察スペシャル「燃える勇者たち」(1984年1月1日、テレビ朝日/石原プロ) 小山内

映画

アニメ

ラジオ

ナレーション

バラエティ

CM

著書

脚注

注釈

  1. ^ 当人を含め、財津家の男子の名には代々「永」の字が付いていた。
  2. ^ 鈴木亮平が主演ともされる。

出典

  1. ^ 財津一郎 2015, pp. 9-11
  2. ^ 財津一郎 2015, pp. 130-132「年表」
  3. ^ キナ線100年:済々黌人物誌(熊本日日新聞社編集局編著、熊本日日新聞社・刊 1982年12月)「異色の先輩 ~財津一郎さん~」より。
  4. ^ 【エンタがビタミン♪】「火垂るの墓」のよう。聞くものが目頭を押えた財津一郎の終戦直後の体験。(前編)”. Techinsight (2016年10月28日). 2016年9月15日閲覧。
  5. ^ 財津一郎 2015, p. 34
  6. ^ 財津一郎 2015, pp. 42-46
  7. ^ 財津一郎 2015, pp. 49-52
  8. ^ 財津一郎 2015, pp. 61-62
  9. ^ 財津一郎 2015, pp. 54-56
  10. ^ 財津一郎 2015, p. 56
  11. ^ 吉本興業 1989, p. 63.
  12. ^ 財津一郎 2015, pp. 64-71
  13. ^ 阿川佐和子「阿川佐和子のこの人に会いたい」『週刊文春』2010年11月18日号、文藝春秋、 128 - 132頁。
  14. ^ 「ふたたび swing me again」主演 財津一郎さん特別インタビュー”. PHILE WEB (2010年11月10日). 2019年8月16日閲覧。
  15. ^ “財津一郎、主演作「ふたたび」でいい秋にしてチョウダイ!”. 映画.com. (2010年10月27日). https://eiga.com/news/20101027/13/ 2019年8月16日閲覧。
  16. ^ 「3年B組金八先生 〜ファイナル 「最後の贈る言葉」4時間SP〜」2011年3月27日(日)放送内容”. テレビ紹介情報. 価格.com. 2019年8月16日閲覧。
  17. ^ “「ピアノ売ってちょーだい」のCMでお馴染み、俳優「財津一郎」は今どうしているのか”. デイリー新潮. (2019年8月16日). h
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    出典:wikipedia
    2020/06/30 11:10

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