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足利義昭とは?

凡例
足利義昭
足利義昭坐像(等持院霊光殿安置)

【時代】
室町時代後期(戦国時代) - 安土桃山時代
【生誕】
天文6年旧11月13日(1537年12月15日)
【死没】
慶長2年旧8月28日(1597年10月9日)
【改名】
足利千歳丸→覚慶(法名)→足利義秋→足利義昭→昌山道休
【戒名】
霊陽院昌山道休
【墓所】
京都府京都市北区等持院
【官位】
従五位下左馬頭参議左近衛中将
征夷大将軍従三位権大納言准三后
【幕府】
室町幕府
第15代征夷大将軍(在任:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))
【氏族】
足利氏(将軍家)
【父母】
父:足利義晴、母:慶寿院(近衛尚通の娘)
猶父:近衛尚通
【兄弟】
義輝義昭周暠
【妻】
正室:なし
側室:さこの方(宇野氏)、小宰相局(大河内氏)、一対局、春日局、大蔵卿局、小少将局(いずれも出自不詳)
【子】
義尋一色義喬?、永山義在?、矢島秀行

足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府第15代(最後)の将軍(在職:永禄11年(1568年) - 天正16年(1588年))。

父は室町幕府第12代将軍・足利義晴。母は近衛尚通の娘・慶寿院。第13代将軍・足利義輝は同母兄。

足利将軍家の家督相続者以外の子として、慣例により仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り一乗院門跡となった。兄・義輝らが三好三人衆らに暗殺されると、三淵藤英細川藤孝ら幕臣の援助を受けて奈良から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。美濃国織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任する。やがて信長と対立し、武田信玄朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げる。一時は信長を追いつめもしたがやがて京都から追われ備後国に下向し、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。

信長が本能寺の変によって横死した後も将軍職にあったが、豊臣政権確立後はこれを辞し、豊臣秀吉から山城国槙島1万石の大名として認められ、前将軍だった貴人として遇され余生を送った。

目次

  • 1 生涯
    • 1.1 将軍への道
    • 1.2 幕府の再興
    • 1.3 織田信長との対立
    • 1.4 京都から追放
    • 1.5 備後国への下向
    • 1.6 京都への帰還
  • 2 年表
  • 3 人物・逸話
  • 4 系譜
  • 5 偏諱を受けた人物
    • 5.1 公家
    • 5.2 武家
    • 5.3 「義」の字
    • 5.4 「秋」の字
    • 5.5 「昭」の字
  • 6 脚注
    • 6.1 注釈
    • 6.2 出典
  • 7 参考文献
  • 8 参考論文
  • 9 義昭を題材とした作品
  • 10 関連項目

生涯

将軍への道

足利義昭像(東京大学史料編纂所蔵)。江戸時代に等持院像を粗描したもの

天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる。幼名は千歳丸。兄に嗣子である義輝がいた。

天文11年(1542年)11月20日、千歳丸は跡目争いを避けるため、あるいは寺社との結びつきを強めるために嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従って、外祖父・近衛尚通猶子となって仏門(興福寺一乗院門跡)に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名覚慶と名乗った。のちに興福寺で権少僧都にまで栄進している。このまま覚慶は高僧として生涯を終えるはずであった。

永禄8年(1565年)5月の永禄の変で、第13代将軍であった兄・義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠松永久通三好三人衆らによって暗殺された。このとき、覚慶も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視された。 しかし、義輝の側近であった一色藤長和田惟政仁木義政畠山尚誠米田求政三淵藤英細川藤孝および大覚寺門跡・義俊(近衛尚通の子)らに助けられて7月28日に脱出し、奈良から木津川をさかのぼり伊賀国へ脱出した覚慶とその一行は、さらに近江国六角義賢の許可を得た上で甲賀郡の和田城(伊賀 - 近江の国境近くにあった和田惟政の居城)にひとまず身を置き、ここで覚慶は足利将軍家の当主になる事を宣言した。11月21日には和田惟政と仁木義政の斡旋により六角義賢・義治親子の許可を得た上で、甲賀郡から都にほど近い野洲郡矢島村(守山市矢島町)に進出し、在所とした(矢島御所)。この際に上杉輝虎(謙信)らに室町幕府の再興を依頼している。また輝虎と武田信玄北条氏政の3名に対して和睦を命じたりしている。

永禄9年(1566年)2月17日、正統な血筋による将軍家を再興するため、覚慶は矢島御所において還俗足利義秋と名乗った。当時の義昭のことを記した書物には、将軍家当主をさす矢島の武家御所などと呼ばれていたことが記されている。4月21日には従五位下左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官

矢島御所において義秋は、三管領家の一つである河内国畠山高政関東管領の上杉輝虎、能登国守護の畠山義綱(近江滋賀郡在国)らとも親密に連絡をとり、しきりに上洛の機会を窺った。特に高政は義秋を積極的に支持していたとみえ、実弟の畠山昭高を、この頃に義秋に従えさせた。六角義賢は当初は上洛に積極的で、和田惟政に命じて浅井長政織田信長の妹・お市の婚姻の実現を働きかけている。義秋や六角・和田の構想は敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、更には武田氏・上杉氏・後北条氏らを和解させ、彼らの協力で上洛を目指すものであったと考えられている。実際に和田惟政と細川藤孝の説得で信長と斎藤龍興は和解に応じ、信長は美濃から六角氏の勢力圏である北伊勢・南近江を経由して上洛することになった。 この義秋の行動に対して、三好三人衆三好長逸の軍勢3,000騎が突然矢島御所を襲撃してきたが、この時は大草氏などの奉公衆(親衛隊)の奮戦により、からくも撃退することが出来た。

しかし、永禄9年(1566年)8月、先の約束通り上洛の兵を起こした信長の軍は斎藤龍興の襲撃にあって尾張国に撤退し、さらに六角義賢・義治父子が三好三人衆と密かに内通したという情報を掴んだため、義秋は妹婿である武田義統を頼り、若狭国へ移った。斎藤龍興と六角義賢の離反がほぼ同時に起きているのは三好方による巻き返しの調略があったとみられている。しかし、京都北白川に出城も構え、応仁の乱では東軍の副将を務め隆盛を極めた若狭武田氏も、義統自身が息子との家督抗争や重臣の謀反などから国内が安定しておらず、上洛できる状況でなかった。

越前国一乗谷の足利義昭御所跡

9月には若狭から越前国朝倉義景のもとへ移り、上洛への助力を要請した。義秋は朝廷に義景の母を従二位にすることを上奏して、実現したりしている。朝倉義景は細川藤孝らによる覚慶(義昭)の奈良脱出の黒幕であったとする見方がある一方で、すでに足利将軍家連枝の「鞍谷御所」・足利嗣知(足利義嗣の子孫)も抱えており、仏門から還俗した義秋を奉じての積極的な上洛をする意思を表さなかったため、滞在は長期間となった。この頃、義秋のもとには上野清延大館晴忠などのかつての幕府重臣や諏方晴長飯尾昭連松田頼隆などの奉行衆が帰参する。 なお、義昭は朝倉氏よりも上杉輝虎を頼りにしていたという。しかし輝虎は武田信玄との対立と、その信玄の調略を受けた揚北衆本庄繁長の反乱、越中の騒乱などから上洛・出兵などは不可能であった。血筋や幕府の実務を行う奉行衆の掌握といった点で次期将軍候補としては対抗馬である従兄弟の足利義栄よりも有利な環境にありながらいつまでも上洛できない義昭に対し、京都の実質的支配者であった三好三人衆が擁する義栄は、義輝によって取り潰された伊勢氏(元政所執事)の再興を約束するなど朝廷や京都に残る幕臣への説得工作を続け、その結果、永禄11年(1568年)2月8日に義栄は摂津国滞在のまま将軍宣下を受けた。

永禄11年(1568年)4月15日、義秋は「秋」の字は不吉であるとし、京都から前関白の二条晴良を越前に招き、ようやく元服式を行って義昭と改名した。 加冠役は朝倉義景が務めている。

やがて、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、三管領斯波氏の有力家臣であった織田信長を頼って尾張国へ移る。

幕府の再興

足利義昭の御所であった旧二条城跡

永禄11年(1568年)9月、北近江の浅井氏などの支持も受けた上で、直接には織田信長軍と浅井長政軍に警護されて上洛を開始した。途中、六角義賢の抵抗もあったが退け、父・義晴が幕府を構えていた桑実寺に遷座、そしてさらに進軍し無事京都に到着した。これをみて、三好三人衆の勢力は京都から後退した。また、9月30日には病気を患っていた14代将軍・足利義栄も死去した(『公卿補任』)。 10月18日、朝廷から将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。同時に従四位下、参議左近衛権中将にも昇叙・任官された。なお、当時の人々の間では新興勢力である信長は義昭に従う供奉者として認識されており、信長側でも信長は御供衆の1人であるという認識があった(池田本『信長記』)。

将軍に就任した義昭は義輝暗殺及び足利義栄の将軍襲職に便宜を働いた容疑で近衛前久を追放し、二条晴良を関白職に復職させた。近衛家は義昭の生母であった慶寿院以来、将軍の御台所を輩出してきたが、前久追放による関係の冷却化によって正室を迎えることが出来なくなった。 また、幕府の管領家である細川昭元や畠山昭高、朝廷の関白家である二条昭実偏諱を与え領地を安堵し政権の安定を計り、兄の義輝が持っていた山城国御料所も掌握した。また山城国には守護を置かず、三淵藤英を伏見に配置するなどし治めた。幕府の治世の実務には、兄の義輝と同じく摂津晴門政所執事に起用し、義昭と行動を供にしていた奉行衆も職務に復帰して幕府の機能を再興した。また伊勢氏当主も義栄に出仕した伊勢貞為を弟の貞興に代えさせて義昭に仕えさせたとされる。 このように幕府の再興を見て、島津義久喜入季久を上洛させて黄金100両を献上して祝意を表し、相良義陽毛利元就らも料所の進上を行っている。

義昭は当初、本圀寺を仮御所としていたが、永禄12年(1569年)1月5日、信長の兵が領国の美濃・尾張に帰還すると三好三人衆の巻き返しに晒され、本圀寺を襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同様の運命になるかとも思われたが、この時は奉公衆および北近江の浅井長政・摂津国池田勝正・和田惟政・伊丹親興三好義継らの奮戦により、これを撃退した。烏丸中御門御第の再興および増強は、このような理由で急遽行われた。なお、この変事の直後である1月7日、義昭は大友宗麟に毛利元就との講和を勧め、13日には互いに講和して三好氏の本拠である阿波に出兵させようとしたが、この計画は実現しなかった。

義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)を整備する。この義昭の将軍邸は、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに構築するなど防御機能を格段に充実させたため洛中の平城と呼んで差し支えのない大規模な城郭風のものとなった。この烏丸中御門第には、室町幕府に代々奉公衆として仕えていた者や旧守護家など高い家柄の者が続々と参勤し、ここに義昭の念願であった室町幕府は完全に再興された。

織田信長との対立

詳細は「信長包囲網」および「槇島城の戦い」を参照

新将軍として幕府を再興した義昭はまず信長の武功に対し幕閣と協議した末「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」の称号を与えて報いた。将軍就任直後の10月24日に信長に対して宛てた感状で、「御父織田弾正忠(信長)殿」と宛て名したことはことに有名である。

信長は上洛の恩賞として尾張・美濃領有の公認と旧・三好領であった堺を含む和泉一国の支配を望んだために義昭は信長を和泉守護に任じた。さらに、信長には管領代または管領の地位、そして朝廷への副将軍への推挙を申し入れた。しかし信長は受けず、弾正忠への正式な叙任の推挙のみを受けた。

この時その他の武将にも論功行賞が行われ、池田勝正を摂津守護に、畠山高政・三好義継をそれぞれ河内半国守護に、細川藤賢は近江守護に任じられた。山城国には守護はおかれず将軍家御領(上山城守護代として長岡藤孝、下山城守護代として真木島昭光)となる。後に山岡景友が守護に任ぜられたともされるが、実質は義昭と信長によって共同統治された。

しかし、幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は徐々に悪化していくこととなる。永禄12年(1569年)8月に信長は自ら伊勢国の北畠氏を攻め、本拠地である大河内城を包囲して攻撃したものの北畠氏の抵抗で城を落としきれず、信長の要請を受けた義昭が仲介に立つ形で10月に和睦が成立した(大河内城の戦い)。ところが、両者の意見の齟齬から、信長が自分の次男(後の織田信雄)を北畠氏の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する措置を取ったことがその不快感を招き、関係悪化の一因になったとされている。

信長は将軍権力を制約するために、永禄12年(1569年)1月14日、殿中御掟という9箇条の掟書を義昭に承認させた。さらに永禄13年(1570年)1月には5箇条が追加され、義昭はこれも承認した。この殿中御掟については近年、信長が単純に将軍権力を制約しようとしたのではなく、ほとんどの条文が室町幕府の規範や先例に出典が求められるもので、信長が幕府法や先例を吟味した上で幕府再興の理念を示したものだとする説も出されている。 また、義昭期の幕府機構を研究していく中で、義昭が信長の傀儡とは言えず室町幕府の組織が有効に機能しており、むしろ義昭個人の将軍権力の専制化や恣意的な政治判断による問題が浮上し始めていたとする指摘もある。だが、義昭が殿中御掟を全面的に遵守した形跡はなく、以後両者の関係は微妙なものとなっていく。

元亀元年(1570年)4月、信長は徳川家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍に勝利する。 信長は続いて、義昭と共に三好三人衆らを討伐に出るが(野田城・福島城の戦い)、途中で石山本願寺および浅井氏・朝倉氏が挙兵。信長は近江へ引き返したが、浅井・朝倉氏は比叡山延暦寺に立てこもり、さらに伊勢で一向一揆が蜂起するなど連合軍の巻き返しに遭い、12月には信長方から和睦を申し出た。その際、信長から朝倉方との和睦の調停を依頼された義昭は、旧知の関白・二条晴良に調停の実務を要請している。元亀2年(1571年)4月14日、烏丸光宣に嫁いでいた義昭の姉が急死するが、後難を恐れた光宣が出奔してしまう。これに激怒した義昭が同28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている。

信長に不満を持った義昭は、自らに対する信長の影響力を相対化しようと、元亀2年(1571年)頃から上杉輝虎(謙信)や毛利輝元本願寺顕如甲斐国の武田信玄、六角義賢らに御内書を下しはじめた。これは一般に信長包囲網と呼ばれている。この包囲網にはかねてから信長と対立していた朝倉義景・浅井長政や延暦寺、兄の敵でもあった松永久秀、三好三人衆、三好義継らも加わっている。ただし、松永久秀追討に義昭の兵が参加するなど、義昭と信長の対立はまだ必ずしも全面的なものにまではなっていなかった。この年の11月には、摂津晴門の退任後に空席であった政所執事(頭人)に若年の伊勢貞興を任じる人事を信長が同意し、貞興の成人までは信長が職務を代行することになった。

元亀3年(1572年)10月、信長は義昭に対して17条の意見書を送付した。 この意見書は義昭の様々な点を批判している。

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一、足利義輝様は宮中への参内を怠りがちでした。それゆえ、神の加護も無しにあのような不幸な最期を遂げられました。信長は日頃から義昭様に参内を怠りなく勤められるようにと申し上げておりましたのに、義昭様は近年怠りがちのようで信長は遺憾に思っております。

一、諸国の大名に催促して、馬を献上させていることは聞こえが良くないので、再考なさったほうが良いでしょう。必要がある時には、信長に申し付けてくださればそのために奔走すると約束なさったではありませんか。このように信長に対して内密に事を進めるのは宜しくないと思います。

一、義昭様は幕府の忠臣に対しては恩賞を与えず、身分の低い新参者に恩賞を与えておられます。このようなことでは忠誠心など不要となってしまいます。人聞こえも悪いでしょう。

一、最近、信長と義昭様の関係が悪化したと噂になっております。将軍家の家宝類をよそへお移しになった事は京の内外に知れ渡っております。これでは信長が苦労して建造して差し上げた邸宅も無駄になってしまいます。とても残念なことです。

一、賀茂神社の社領を没収して岩成友通にお与えになり、岩成に賀茂神社に対し経費の負担をするよう表向きは厳命なさり、裏では「それほど気にかけなくても良い」とお伝えになったそうですね。そもそも寺社領を召し上げるという行為は良いことではないと思っております。岩成がもし所領に困っているのであれば、私が都合のいいように取り計らったでしょうに。このように内密に行動されるのは良くないですね。

一、信長に対して友好的な者にはどんなに下位の身分のものであっても不当な扱いをなさるそうで、彼らは迷惑しているそうです。そのような扱いをするのには、どういった理由があるのですか。

一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広(かんぜくにひろ)・古田可兵衛・上野豪為(うえのひでため)のことです。

一、若狭国・安賀庄の代官の不行跡について、粟屋孫八郎が告訴しましたが、私も賛同して義昭様に進言いたしましたのに、音沙汰の無いまま今日に至っております。

一、小泉が妻の家に預けてあった刀や、質に入れてあった脇差までも没収なされたようですね。彼が謀反を企てたりしたのなら別ですが、彼は喧嘩で死んだだけです。この措置は法規的に処理されておらず、人々は義昭様を欲深い将軍だと考えるでしょう。

一、「元亀」の元号は不吉なので改元したほうがいいと、民意を参考に義昭様に意見を申し上げました。宮中からも催促があったようですが、改元のためのほんの少しの費用も義昭様が出費なされないものですから今も滞ったままです。

一、烏丸光康を懲戒された件ですが、その息子・光宣に対する処置は妥当と感じるものの、信長は光康は赦免なさったほうが良いと申し上げたはずです。どなたか存じ上げませんが、密使を光康へ遣わして金銀を受け取って再び出仕を許されたそうです。嘆かわしいことです。今や公家は彼らのような者が普通なのですから、このような処置はよろしくないと思います。

一、諸国から金銀を集めているにも関わらず宮中や幕府のためにお役立てにならないのは何故でしょうか。

一、明智光秀が徴収した金銀をその地の代官に預けておいたところ、その土地は延暦寺領だと言って差し押さえになったようですね。そのような行いは不当です。

一、昨年の夏、兵糧庫の米を売って金銀に変えられたと聞きました。将軍が商売をなさるなど前代未聞、聞いた事がありません。兵糧庫に兵糧がある状態こそ、世間の聞こえも良いのです。義昭様のやり方には驚いてしまいました。

一、幕府に仕えている武将たちは戦など眼中に無く、もっぱら金銀を蓄えているようで、これは浪人になった場合への対策と思われます。義昭様もいざとなれば御所から逃げ出してしまうものと見受けられます。そのために金銀を蓄えていらっしゃるのでしょう。「上に立つものは自らの行動を慎む」という教えを守ることは義昭様にとっても簡単なことでしょう。

一、世間一般の人々は「将軍は欲深いから人がなんと言おうとも気にしない」と口々に言っております。ですから、しがない農民でさえ義昭様を「悪御所」と呼んでいるそうです。かつて足利義教様がそう呼ばれたように。何故下々の者達がこのように陰口を叩くのか、今こそよくお考えになったほうが良いと思います。

以上

これによって義昭と信長の対立は抜き差しならないものになり、義昭は挙兵。東では武田信玄が上洛を開始し、12月22日の三方ヶ原の戦いで信長の同盟者である徳川家康の軍勢を破るなどすると、信長は窮地に陥り、義昭は寵臣・山岡景友(六角義賢の重臣で幕府奉公衆でもある)を山城半国守護に任命する。だがその後、朝倉義景が12月3日に越前に撤退してしまったため、義昭は翌年2月に信玄から遺憾の意を示されて義景に重ねて出兵するように求めている(『古証記』)。義昭も義景、あるいは朝倉一族に対して5,000から6,000の兵を京都郊外の岩倉の山本に出兵するように命じている(『牧田茂兵衛氏所蔵文書』天正元年2月29日付義昭文書)。

元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として義昭に和睦を申し入れたが、義昭は信じず、これを一蹴した。義昭は近江の今堅田城石山城に幕府の軍勢を入れ、はっきりと反信長の旗を揚げた。しかし攻撃を受けると数日で両城は陥落している。その頃、東では信玄の病状が悪化したため、武田軍は4月に本国への撤退を始める。信玄は4月12日には死去した。

槇島城の石標

信長は京に入り知恩院に陣を張った。幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り、信長についた。しかし義昭は(おそらく信玄の死を知らなかったため)、洛中の居城である烏丸中御門第にこもり、抵抗を続けた。信長は再度和睦を要請したが、義昭は信用せずこれを拒否した。信長は威嚇として幕臣や義昭の支持者が住居する上京全域を焼き討ちにより焦土化し、ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。さらに信長はふたたび朝廷に工作した末、4月5日に勅命による講和が成立した。

しかし7月3日、義昭は講和を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興らの他に日野輝資高倉永相などの武家昵近公家衆に預けた上で、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣・真木島昭光の居城でもあったが、烏丸中御門第で最後まで籠っていた三淵藤英も10日に降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。

信長は他の有力戦国大名の手前、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(人質の意味もあった)が、後に信長の憂慮が去ると反故にされている。

京都から追放

信長は義昭の京都追放を実行し、足利将軍家の山城及び丹波・近江・若狭ほかの御料所を自領とした。続いて7月28日に天正への改元を行う。8月には朝倉氏、9月には浅井氏も滅亡し、信長包囲網は瓦解した。一方で信長は、これまで幕府の政所や侍所が行ってきた業務を自己の京都所司代である村井貞勝に行わせ、続く天正2年(1574年)には塙直政を山城・大和の守護に任じ、畿内の支配を固めた。それまで信長は義昭を擁することで、間接的に天下人としての役割を担っていたが、義昭追放後は信長一人が天下人としての地位を保ち続けた。

しかし、義昭が京都から追放されたとは言っても、かつて10代将軍であった足利義稙明応の政変で将軍職を解任された後も大内義興らによって引き続き将軍として支持を受けて後に義興に奉じられて上洛して将軍職に復帰したように、義昭が京都に復帰する可能性も当時は考えられていた。実際に義昭は征夷大将軍であり続けたと公式記録(『公卿補任』)には記されている。また義昭も将軍職としての政務は続け、伊勢氏高氏一色氏上野氏細川氏大館氏飯尾氏松田氏大草氏などの幕府の中枢を構成した奉公衆や奉行衆を伴い、近臣や大名を室町幕府の役職に任命するなどの活動を行っていた。 そのため、近畿周辺の信長勢力圏以外(関東・北陸・中国・九州・奥州)では、追放前と同程度の権威を保ち続け、それらの地域の大名からの献金も期待できた。また、京都五山住持任命権も足利将軍家に存在したため、その任命による礼金収入は存在していた。

その一方で、所領安堵と引換に信長に従った奉公衆や奉行衆などもおり、その中には最後の政所執事である伊勢貞興、侍所開闔を務めた経験を持つ松田頼隆、他に石谷頼辰小笠原秀清などがいた。ただし、そのほとんどがこれまでの幕府の職務から離れ、細川藤孝や明智光秀などの麾下に置かれた。これは幕臣たち所領の多くが彼らの支配下に置かれた事や個人的なつながりに由来すると考えられる。一方で、京都の統治を担当した村井貞勝の麾下に置かれた名のある幕臣はおらず、旧来の統治のノウハウが室町幕府から織田政権に継承されることはなかった。こうした一連の流れは、室町幕府の幕臣達は信長によって荘園制など中世的な秩序が解体されて将軍・幕府の権威を必要としない支配体制を構築されつつある中で、義昭の再上洛・復権に賭けるか、現実的な京都の支配者である信長に従って所領安堵を図るかの判断に分かれたとみられる。その一方で、信長側からみても幕臣が義昭に従う者と信長に従う者に二分された結果、政所や侍所など幕府機構の維持に必要な人材が不足して機能停止の状態に陥ったため、これらの機構に依拠しない支配体制を構築する方向性に進み、政所や侍所の職員だった幕臣も信長の下で新たな役割を与えられることで、京都における室町幕府の機構は完全に解体されることになった。

また、これまでの室町将軍の動座・追放の際にはそれまで将軍を支持して「昵近」関係にあった公家が随伴するのが恒例で、彼らを仲介して朝廷との関係が維持され続けていた。実際に義昭の越前滞在時にも未だに将軍に就任していないにも関わらず前関白(当時)二条晴良や飛鳥井雅敦らが下向し、義昭に追われる形となった前将軍・義栄にも水無瀬親氏が最後まで従っている。義昭の父・義晴や兄・義輝が近江へ動座した際にもまた、近衛稙家らが随伴していた。ところが、今回の義昭追放においては烏丸中御門第で信長に抵抗した日野輝資や高倉永相のような公家はいたものの、彼らは最終的には信長の説得に応じ、義昭に従って京都を離れた公家は皆無であった。これは義昭の将軍就任以降の5年間に元亀から新元号への改元問題を巡る朝廷との対立や近衛前久の出奔や烏丸邸の襲撃などによる伝統的に足利将軍家と「昵近」関係にあった公家との関係悪化があり、また、信長による公家への所領安堵があったとみられている。そして朝廷では追放後の義昭を従来通りの将軍の別称である「公方」「武家」と呼んで引き続き将軍としての地位を認め、新たに天下人となった信長に対してその呼称を用いることはなかったものの、義昭側に仲介となる公家がいなかったこともあり、両者の間に関係が持たれる事は無かった。

『公卿補任』によると、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、准三后となり正式に征夷大将軍を辞する天正16年1月13日(1588年2月9日)まで足利家の源義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されている。その一方で、200年余り続いた室町幕府の中で、征夷大将軍が足利家の家職であり「(足利家と同じ清和源氏であったとしても)他家の人間が征夷大将軍に就任する事はありえない」という風潮が確立されており、出家後の義昭をその死去まで将軍とみなす社会認識があったとして、そのことが朝廷が積極的に義昭の解任の動きを見せなかった理由、織田信長が義昭に代わる征夷大将軍の地位を求めなかった理由とする説もある。

備後国への下向

京都からの追放後、義昭はいったん枇杷荘(現:京都府城陽市)に退いたが、顕如らの仲介もあり、妹婿である三好義継の拠る河内若江城へ移った。護衛には羽柴秀吉があたったという。しかし信長と義継の関係も悪化したため、11月5日に和泉のに移った。堺に移ると信長の元から羽柴秀吉と朝山日乗が使者として訪れ、義昭の帰京を要請した。この説得には毛利輝元の家臣である安国寺恵瓊林就長もあたっている。しかし義昭が信長からの人質提出を求めるなどしたため交渉は決裂している。

翌・天正2年(1574年)には紀伊国興国寺に移り、ついで田辺の泊城に移った。紀伊は室町幕府管領畠山氏の勢力がまだまだ残る国であり、特に畠山高政の重臣であった湯川直春の勢力は強大であった。直春の父・湯川直光は紀伊出身でありながら河内守護代をも務めたことがある実力者である。

天正3年(1575年)、信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信の三者に対して和睦をするよう呼びかけた(甲相越三和)。これに対する上杉家重臣・直江景綱河田長親の回答は、甲州(武田)との和睦はやぶさかではないが相州(北条)が加わるのは承服しかねるというものであった(『上越市史』)。北条・上杉間の不和により甲相越三和は実現しなかったものの、武田と上杉の和睦は10月中に成立しており、長篠の戦いの敗戦によって窮地に立たされていた勝頼は外交状況の改善に成功した。11月、義昭がかねてより望んでいた右近衛大将に信長が任官してしまう。

天正4年(1576年)、義昭は毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国に移った。鞆はかつて足利尊氏光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとっての由緒がある場所であった。また第10代将軍・足利義稙が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある足利家にとって吉兆の地でもあった。これ以降の義昭の備後の亡命政府は鞆幕府とも呼ばれる。鞆での生活は、備中国の御料所からの年貢の他、足利将軍の専権事項であった五山住持の任免権を行使して礼銭を獲得できたこと、日明貿易を通して足利将軍家と関係の深かった宗氏島津氏からの支援もあり財政的には困難な状態ではなかったと言われている。一方で、征夷大将軍として一定の格式を維持し、更に対信長の外交工作を行っていく以上、その費用も決して少なくはなく、また恒常的に保証された収入が少ない以上、その財政はかなり困難であったとする見方もあり、天正年間後期には真木嶋昭光・一色昭孝(唐橋在通)クラスの重臣ですら吉見氏山内首藤氏など毛利氏麾下の国衆への「預置」(一時的に客将として与えて面倒をみさせる)の措置を取っている。

とはいえ、近畿東海以外では足利将軍家支持の武家もまだまだ多かった。義昭はこの地から京都への帰還や信長追討を目指し、全国の大名に御内書を下している。6月12日には、武田、北条、上杉の三者に甲相越三和を命じる御内書を再度下した。前年とは違い、この時は毛利輝元の副状付きであった。また、毛利氏が上洛に踏み切らないのは、北九州で大友宗麟の侵攻を受けているからだと考えた義昭は島津氏龍造寺氏大友氏討伐を命じる御内書を下した。島津義久はこれを大友領侵攻の大義名分として北上し、日向国伊東義祐を旧領に復帰させるために南下しようとしていた大友宗麟と激突、天正6年(1578年)の耳川の戦いの一因になったとする説もある。 天正5年(1577年)9月の手取川の戦いで織田軍を破った上杉謙信も天正6年(1578年)3月に死去し、天正8年(1580年)には石山本願寺も信長に降伏した。天正10年(1582年)3月には武田勝頼が信長によって滅ぼされた(甲州征伐)。

しかし、義昭がまだ鞆に滞在中であった天正10年(1582年)6月2日に信長と嫡子の織田信忠本能寺の変で明智光秀に討たれた。光秀の家臣団には伊勢貞興や蜷川貞周といった、旧室町幕府幕臣が多くいた。同年、義昭は鞆城から居所を山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)へと移させる。

信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求めた。一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行なっていた。親秀吉派であった小早川隆景らが反対したこともあり、秀吉に接近しつつあった毛利氏との関

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出典:wikipedia
2018/11/17 03:45

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