辻 発彦(つじ はつひこ、1958年10月24日 - )は、佐賀県小城市牛津町出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)。愛称はハツ、はっちゃん。二塁手として歴代最多となる8度のゴールデングラブ賞を受賞している。2017年より埼玉西武ライオンズの監督を務める。
長男は、パチスロライターとして活動している辻ヤスシ(本名:辻泰史)。
辻は西武の前身である西鉄ライオンズのファンで、父の運転するトラックで度々佐賀から福岡の平和台野球場へ野球観戦に出かけていたという。佐賀市立昭栄中学校を卒業した時点では身長が161cmと小柄で高校での硬式野球をあきらめようとも思ったが、佐賀東高校では強い情熱で練習を積んだ。身長は182cmにまで伸び、日本通運浦和に進んで社会人野球でプレーした。辻はレベルの高さにプレッシャーを感じたが、やがて中軸打者として4番を打つようになり、守備では三塁手を務めていた。1983年のドラフト会議では2位で指名され、西武ライオンズに入団する。
辻の指名の経緯については身体能力の高さ、1983年の1年間に40回盗塁を企図して失敗0だった走塁センス、そして野球への熱意を評価したと根本陸夫は述べている。都市対抗野球大会では1試合だけ二塁手を務めており、これを見たスカウトからは大型二塁手としての素質を評価されていた。社会人時代には目立った実績がなく、上位指名に対して驚きの声もあった。
入団直後の1984年のメサでの春季キャンプでは当時の広岡達朗監督から激しいノックを受け、守備を鍛えられた。辻は新人ながら41試合に出場し、その内29試合は三塁手、4試合は二塁手だった。オフに二塁手のレギュラーだった山崎裕之が引退し、遊撃手には石毛宏典、一塁手にはスティーブ・オンティベロス(三塁手兼任)や片平晋作、三塁手には秋山幸二がいたため、チーム方針で辻も二塁手を目指すことになった。辻は当時について、広岡監督が自らグラブを持って手本を示したため厳しい指摘にも反論できなかった、と後に述懐している。
プロ2年目の1985年には出場した110試合中90試合で二塁手を務め、出場機会は大幅に増えた。日本シリーズ第2戦、7回裏一死一・三塁の場面でセーフティースクイズを敢行するが阪神タイガースの一塁手・ランディ・バースのファインプレーに遭い、三塁走者の秋山がホームでタッチアウトになった。辻は、「フライを恐れたがもっと強いバントをすべきだった」と後に反省している。オフの11月19日には郭泰源や通訳と同乗して西武球場へ練習に行く途中、所沢市内で追突されて全治1週間のむち打ち症となったが大事には至らなかった。
1986年は二塁手として全試合に出場し、初めてゴールデングラブ賞とベストナインに選出された。日本シリーズでは第1戦の7回に二盗と三盗を成功させ、シリーズ史上6人目となる1イニング2盗塁を達成した。この年は2試合だけ遊撃手のポジションにも入っている。
1987年、3月31日の阪神とのオープン戦で中田良弘のシュートを踏み込んで打ちに行って投球が当たり、右手人差し指を開放骨折した。飛び出た骨が見えるほどの重症で、一軍登録されたのは7月30日だった。この年は51試合の出場に終わっている。読売ジャイアンツと戦った日本シリーズ第6戦では8回裏2アウトから安打で出塁し、続く秋山がセンター前ヒットを放つと捕球したウォーレン・クロマティの緩慢な返球と、中継に入った川相昌弘が打者走者の二塁進塁を警戒して三塁側が死角になったことに乗じて、辻も一気に一塁から生還して駄目押しのホームを踏んだ。優勝目前の9回表2アウトの場面ではタイムをかけ、泣いていた一塁手の清原和博を慰めている。
1988年は前任の石毛に代わって西武の選手会長に任命され、オフには年俸が1,500万円増の4,300万円(推定)となった。同年から7年連続して二塁手でゴールデングラブ賞を受賞し、1990年まで3年間連続で全試合出場を果たした。1989年には初の3割を達成する。
1990年の日本シリーズでは第1戦から3試合連続で一番打者としての第1打席に安打で出塁し、いずれも得点に結びついて、4連勝での日本一に大きく貢献し(第4戦も一番打者としての第1打席に四球で出塁)、優秀選手賞を獲得した。 1991年オフには年俸が1億1,100万円となり、初めて1億円の大台を超えた。1992年の日本シリーズ最終戦では、7回裏一死満塁の一打出ればヤクルトスワローズが勝ち越す場面で杉浦享の放った強烈なゴロを捕り本塁で広沢克己を補殺し、大ピンチを救うプレーで日本一に貢献した。
1993年は腰痛で出遅れ、チームも4月は低調だったが、上半身の力を抜き下半身でタイミングを取るような打撃フォームにした事もあり、初の打撃タイトルとなる首位打者を獲得。年俸は3,900万円増の1億7,200万円(推定)となっている。こうしてチームとともに円熟期を迎えたが、1995年には腰痛もあって前半戦の出場機会が減り成績も低迷した。当時2億円(推定)の高年俸がネックとなった事や、若返りを図るチーム事情から戦力外通告を受けた。近鉄バファローズとの最終戦前日に東尾修監督と浦田直治本部長から監督室に呼ばれ、本人の意思を全く確認せずに二軍守備走塁コーチ就任を打診された経緯もあり、現役続行を希望して自由契約となった。
西武退団後は、ヤクルトスワローズの野村克也監督と千葉ロッテマリーンズの広岡GMからそれぞれ入団を誘われた。ヤクルトは5,000万円、ロッテは8,000万円の年俸を辻に提示してきたが、辻は先に声を掛けられていたことと野村の下で野球を勉強したい気持ちからヤクルトへの入団を決めた。
移籍1年目の1996年はキャンプから若手と同じメニューをこなし、オープン戦にも2月25日の初戦から出場した。が、疲労などからオープン戦の打率は.227と低調で更に4月7日には対横浜戦の試合前の練習で右手人差し指を骨折してしまった。復帰した5月10日の対中日戦で猛打賞を記録すると以後は安打を量産する。規定打席には達しないながらも6月上旬には4割近い打率で、オールスターゲームにも出場した。後半戦規定打席到達後は徐々に打率を下げてしまったが自己最高の.333を記録した。しかし、惜しくも7厘差でアロンゾ・パウエルに及ばず、セ・パ両リーグでの首位打者にはならなかった。
1997年は再び首位打者争いを目指し好調なスタートを切り、序盤こそ打撃成績ベストテン圏内に名を連ねていたものの、体力の衰えもあり下降線をたどり、スタメンでの出場機会が減った夏場以降は代打なども経験しつつ稲葉篤紀に打撃理論、宮本慎也に守備を助言するなど若手選手をサポートする役割も担った。 1998年には一塁手を4試合務めて12年ぶりに二塁手以外の守備に就いたほか、打数は少ないものの打率.304と代打の切り札的存在だった。 1999年はキャンプで左肩を痛め、その後も左わき腹や左太ももなどの故障が続いてプロ入り以来最少の17試合出場に終わり、同年限りで現役を引退した。
引退後は2000年から2年間ヤクルトで二軍守備・走塁コーチを担当した。2002年からは横浜ベイスターズの一軍守備・走塁コーチを2年間務め、二塁手の種田仁や遊撃手の石井琢朗の控えだった内川聖一の守備などを鍛えた。しかし、チーム全体では失策数が大幅に増え、2年連続で最下位に低迷した。翌2004年は二軍打撃コーチに転身する。2005年からはテレビ埼玉・NHK・BSの野球解説者および日刊スポーツ野球評論家を務めた。
2006年には、2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表内野守備・走塁コーチ(三塁ベースコーチ)を務めた。大会期間中はノックだけでなく打撃投手なども行っていた。同大会で守備が印象に残った遊撃手として朴鎮萬の名を挙げている。11月1日に中日ドラゴンズの二軍監督に就任した。
2007年には就任1年目にしてウエスタン・リーグ優勝とファーム日本選手権制覇を果たし、9月29日のファーム日本選手権で巨人を破り日本一になる。2008年は振るわなかったものの、2009年シーズンでは山本昌や井上一樹らのベテラン勢、一軍を多く経験した若手の活躍もあり、2年ぶりにウエスタン・リーグとファーム日本選手権を制覇した。
2010年は一軍総合コーチに異動し、森繁和ヘッドコーチとともに、野手部門のヘッドコーチ格として落合博満監督を支えた。2011年シーズン途中からは笘篠誠治一軍外野守備走塁コーチに代わって三塁ベースコーチも担当した。2011年シーズン終了をもって契約満了により退団。
2012年からは再びテレビ埼玉およびNHK・BSの解説を担当、2013年からはビーエスFOX(FOX SPORTS ジャパン)の解説者としても出演している。
2013年10月22日、2014年シーズンより一軍内野守備・走塁コーチとして中日ドラゴンズに復帰することが発表された。
2015年には一軍野手総合コーチに肩書きが変更されたが、チームは5位と低迷し失策数も12球団最多の94を記録するなど本拠地が人工芝のナゴヤドームに移ってからは最多失策となった。2016年には二軍野手総合兼内野守備コーチに異動。8月9日に谷繁元信監督が休養となり、森繁和監督代行を支えるため、ヘッドコーチ格の一軍作戦兼守備コーチに異動した。
2017年より古巣・埼玉西武ライオンズの一軍監督に就任した。山川穂高、外崎修汰、新人の源田壮亮ら若手選手が頭角を現した他、選手の走塁・守備意識を身に付ける方針が奏功し得点・失策数の改善(得点:619→690。失策:101→88)に成功する。8月5日には59年ぶりの13連勝を記録した。8月までは3位に位置していたものの、9月からの東北楽天ゴールデンイーグルスとの2位争いを制し、チームとして4年ぶりのAクラスとなるリーグ2位(79勝61敗3分)に貢献した。クライマックスシリーズ1stステージでは東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦したが、1勝2敗で1stステージでの敗退となりシーズンを終えることになった。
2018年はチームを開幕から1年間首位の座を明け渡さなかった。9月30日に福岡ソフトバンクホークスが敗れたことによって2008年以来、実に10年ぶりのパリーグ優勝を決めた。しかし、クライマックスシリーズのファイナルステージでは、そのホークスにアドバンテージも含めた2勝4敗で敗れ、日本シリーズ進出を逃した。試合後に行われた本拠地最終セレモニーのスピーチでは悔しさを抑えきれず号泣し、「悔しいです。まさか今日2018年シーズンが終了するとは考えてもいませんでした。去年の悔しさが今年の成長につながった。またこの敗戦から選手はパワーをためて、来年に向かっていけたらと思います。」とコメントした。
2019年、前年とは対照的に開幕から首位になれない日々が続く。投手陣の不調で我慢の日々が続くが、次第に調子を上げ、9月11日、最大で8.5ゲーム差あった福岡ソフトバンクホークスとのゲーム差を逆転、130試合目にしてシーズン初の首位となる。シーズンで遅い首位浮上は2001年西武の129試合目を抜くパリーグ最高記録であったその後、マジック2で迎えた9月24日、142試合目でマジック対象チームである福岡ソフトバンクホークスが敗れ、埼玉西武ライオンズが勝利したことによって2年連続のパリーグ優勝が決定した。球団の連続優勝は1997年、1998年の東尾修監督時代以来21年ぶりの快挙となった。
辻は社会人野球では4番を務めたが、西武ではAKD砲の脇を固めるつなぎ役(1980年代は主に9番、1990年代に入ってからは主に1番)となり、首位打者も獲得している。
1kg以上もある重いバットを短く持ち、気持ちで打ちに行くタイプだったと自ら評価している。実際、ヤクルト在籍時に監督の野村克也から狙い球の絞り方や、カウントに応じた対処法といった頭を使う部分をミーティングで伝えられたが、上手く理解できず、そのことを正直に話したところ「お前には必要ないわ!」と言われたことがある。
ヤクルト在籍時に当時の野村監督が嘆いたほどバントは苦手で、バントの代わりとしてインコースでも右方向にゴロを打てる技術を磨いた。
辻は現役時代、「パ・リーグの投手は2・3番手でも球威があるのに対し、セ・リーグの投手は変化球を主体に低めに投げてくる」と語っている。この傾向については、当時のセ・リーグの方が球場が狭くホームランが出やすいためではないかと分析していた。
辻は、二塁手として歴代最多の8度のゴールデングラブ賞を受賞し守備は日本プロ野球史上でも屈指のレベルに有る。守備の際は投手が打ち取った当たりを安打にせず確実にアウトを取ることが野手の責任と考え、基本的には浅めに守っていた。前方の弱いゴロへのダッシュなどは、三塁手時代の経験が活かされたという。ゴロについては「とにかく前にでて取りに行く」スタンスの持ち主である。理由は「ボールがバウンドする数が減るほどイレギュラーの確率が下がるから」で、今も自身が守備を指導するときは必ずそう説く。
極端なポジショニングは好まなかったが、打者の打球傾向や捕手のサインから常に打球の方向は予測していた。絶好調の時には打つ寸前のバットの角度から打球の方向が判断できたという。肩はそれほど強くなく、西武での晩年に強肩の松井稼頭央が遊撃手に入る場合は右中間の打球でも松井が中継に入るほどであったが、出足や判断力でカバーしていた。
二塁手というポジションについては送球方向が左右にわたり、盗塁の際にはタイミングを見極めて塁に入り、さらに外野手の守備位置によって打球を追う範囲が変わってくるなど高い集中力と瞬間的な判断力が要求されると辻は述べている。打球へ常に集中していたため、現役引退後に打撃練習で守備についていても条件反射で声が出たという。内野のコミュニケーションのためには二遊間を固定すべきと考えており、辻と合わせるのがうまかった遊撃手として宮本や奈良原浩の名を挙げている。現役当時重要視されたサイン盗みについて近藤昭仁に技術を学び、プレイ中に守備位置で味方に知らせていた。辻と石毛で完成させる6-4-3、4-6-3の二遊間のダブルプレーは文化放送のライオンズナイターでは「はっちゃんダブル」と形容された。
プレイヤーの目から見たもっとも良い球場として当時内野が土だったグリーンスタジアム神戸を挙げている。土の内野では二遊間へ飛んだ打球に対し、右足を滑らせて減速しながら正面で取れるが、人工芝ではスパイクが止まるため、なるべく前でシングルで補るか逆シングルで捕球する機会が増えたという。
プロ入り後、辻は山崎に紹介されたのを契機に久保田運動具店福岡支店長の江頭重利にグラブ作製を依頼し、引退まで関係は続いた。現役時代の16年間で練習には多くのグラブを使ったが、試合で用いたのは5個程度で、平均3-4年、長ければ5年使用したグラブもある。 なお、このように少ないグラブをできるかぎり長期間使うようにしていたのは辻のチームメイトで同じ内野手だった行沢久隆の影響もある。
捕球後すぐ投げるために手のひらで打球を受けることを基本とし、感覚を重視してグラブの手のひら部分は通常よりかなり薄くなっていた。他のプロ野球選手から見ると痛そうなほどの薄さだったという。ライナーやタッチプレーの時はディープポケットでつかみ、場合によっては土手の部分で捕るなど面の全てが使えることを理想とし、親指と小指の芯を硬くした以外は軟らかくしていた。サイズが小さめだった他は形状へのこだわりは少なく、正しい捕球を重ねる内に適当な形になったという。現役最後の2年間は守備範囲の減少をカバーするために大きめのグラブを用いた。
取り扱いには注意を払い、新品のグラブはボールを中に入れてタコ糸で縛り、水につけてから陰干しにして油を塗る工程を繰り返し、軟らかくなったものを練習で慣らし、およそ半年かけて使える状態にしていた。熱を持った人工芝で軟化したり雨で濡れることを嫌い、地面になるべく接さずに型を崩さないよう、指の部分を下に向けて立てていた。グラブが重くなるため油はあまり塗らず、雨の日の試合の翌日に限り、乾燥ボックスに一晩入れたあとで塗っていた。
捕球面を広く使うために、小指のヒンジ部分に3本のヒモを入れる独特のヒモの通し方は名前を冠して「辻トジ」と呼ばれ、福良淳一、馬場敏史、トニー・バナザード、今岡誠など様々な選手が同じ形状のグラブを使用した。現在でも久保田運動具店はこの名称を使用している。
辻は、1980年代後半から1990年代前半の西武ライオンズ黄金時代において石毛とともに鉄壁のディフェンスを支えた象徴的選手であった。千葉茂からは辻を「守備が上手くサインが盗める俊足のムードメーカーであり、最高のプロ好みの仕事人」と評された。また、野村克也が平成以降の日本プロ野球におけるベストナインを問われた時、辻は名だたる大選手達を押しのけ正二塁手として挙げられた。