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連合国軍占領下の日本とは?

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日本国(連合国軍占領下)
 | 1945年(昭和20年)
9月2日 -
1952年(昭和27年)
4月28日 | 



(国旗) | (国章に準じる紋章)
国歌: 君が代

色が塗られている範囲が、
連合国軍占領下の範囲である。
公用語 日本語(事実上)
首都 東京都(事実上)
天皇
1926年(昭和元年) - 1989年(昭和64年) 昭和天皇
内閣総理大臣
1945年(昭和20年) - 1945年(昭和20年) 東久邇宮稔彦王
1948年(昭和23年) - 1954年(昭和29年) 吉田茂
変遷
太平洋戦争終戦 1945年(昭和20年)
8月15日
降伏文書調印 1945年(昭和20年)
9月2日
サンフランシスコ講和条約調印 1951年(昭和26年)
9月8日
【日本が主権を回復(サンフランシスコ講和条約発効)】
1952年(昭和27年)
4月28日

通貨

沖縄ではB型軍票(B円)
日本の歴史

1945年(昭和20年)9月27日
昭和天皇ダグラス・マッカーサーの会見

旧石器時代 | – 紀元前14000年頃
縄文時代 | 前14000年頃 – 前10世紀
弥生時代 | 前4世紀 – 後3世紀中頃
古墳時代 | 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 | 0592年 – 0710年
奈良時代 | 0710年 – 0794年
平安時代 | 0794年 – 1185年
王朝国家 | 10世紀初頭 – 12世紀後期
平氏政権 | 1167年 – 1185年
鎌倉時代 | 1185年 – 1333年
建武の新政 | 1333年 – 1336年
室町時代 | 1336年 – 1573年
南北朝時代 | 1336年 – 1392年
戦国時代 | 1467年(1493年)– 1590年
安土桃山時代 | 1573年 – 1603年
江戸時代 | 1603年 – 1868年
鎖国 | 1639年 – 1854年
幕末 | 1853年 – 1868年
明治時代 | 1868年 – 1912年
大正時代 | 1912年 – 1926年
昭和時代 | 1926年 – 1989年
GHQ占領下 | 1945年 – 1952年
平成時代 | 1989年 – 2019年
令和時代 | 2019年 –

Category:日本のテーマ史

連合国軍占領下の日本(れんごうこくぐんせんりょうかのにほん)は、第二次世界大戦における日本の敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの約7年間、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に置かれた日本である。

占領の形態について戦時占領説、保障占領説、特殊占領説がある。連合国は日本の占領を戦時占領とも保障占領ともとれる扱いを行っており、純粋な戦時占領や保障占領ではない特殊占領であるという見方が多い。

目次

  • 1 概要
  • 2 統治
  • 3 政策
    • 3.1 法制
    • 3.2 政治
    • 3.3 言語
    • 3.4 国号
    • 3.5 国旗
    • 3.6 領土
    • 3.7 戦犯裁判
    • 3.8 治安
    • 3.9 貿易
    • 3.10 教育
    • 3.11 文化・思想
    • 3.12 放送
    • 3.13 住宅事情
    • 3.14 交通
    • 3.15 占領軍への労務と物資の調達
    • 3.16 日本への食糧・物資援助と貸与
    • 3.17 占領軍等の犯罪
  • 4 キーパーソン
  • 5 マッカーサーへの手紙
  • 6 離日後のマッカーサーの米議会証言
  • 7 年表
    • 7.1 1945年(昭和20年)
    • 7.2 1946年(昭和21年)
    • 7.3 1947年(昭和22年)
    • 7.4 1948年(昭和23年)
    • 7.5 1949年(昭和24年)
    • 7.6 1950年(昭和25年)
    • 7.7 1951年(昭和26年)
    • 7.8 1952年(昭和27年)
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
    • 8.3 参考文献
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

概要

降伏文書調印に向かう日本政府全権

日本政府は、1945年(昭和20年)8月原爆投下をうけ、8月10日に短波放送によりポツダム宣言の受諾を報知し、また8月14日には詔勅によりポツダム宣言を受諾した旨を連合国に通告した。翌8月15日正午、昭和天皇ラジオ終戦詔書日本国民に発表した(玉音放送)。

1945年(昭和20年)9月2日に、日本政府代表は戦艦ミズーリの船上で、イギリスアメリカオーストラリア中華民国、ソ連ら連合国との間で降伏文書に正式に調印した。日本の降伏により、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の占領下に入った。総司令官はアメリカ陸軍元帥ダグラス・マッカーサーであったが、その政治顧問として、国務省からはジョージ・アチソンがまたイギリスやオーストラリア、中華民国からも派遣された。

降伏文書の調印に先立ち、連合国軍は8月28日日本本土(北海道本州四国九州)に到着したアメリカ軍イギリス連邦軍(イギリス軍オーストラリア軍ニュージーランド軍イギリス領インド帝国軍)により日本への進駐を開始した。

当時「連合国は日本本土に対して軍政を実施する」との情報があり、重光葵外務大臣(東久邇宮内閣)は9月3日にダグラス・マッカーサーに面会し、直接具申しこれを撤回させた。

一方南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、本土復帰まで被占領の歴史を歩んだ。大陸や南方、北方の旧領土および占領地の日本軍はイギリス軍中華民国軍ソビエト連邦軍フランス軍などそれぞれ現地の連合国軍に降伏し、領土および占領地の行政権は連合国軍に剥奪された(日本本土除く)。占領軍は日本の外交権を停止し、日本人の海外渡航を制限し貿易、交通を管理した。漁業活動のための航海は、「マッカーサーライン」を暫定的に引き、「サンフランシスコ講和条約」を結ぶことによる廃止がなされるまでの間その制限下に置いた。

1951年(昭和26年)9月8日、日本政府は「サンフランシスコ講和条約」(正式名:日本国との平和条約)に調印した。同条約は1952年(昭和27年)4月28日に発効し、日本は正式に国家としての全権を回復した。外交文書上ではで正式に戦争が終わった日は1945年(昭和20年)9月2日であるが、その講和条約の発効日まで含めると1952年(昭和27年)4月28日が終戦の日である。

駐留した兵士らは休日になると街へ繰り出したが、その際に当時の日本には珍しいカラー写真や動画などで町並みや人を撮影しており、映像資料の少ない地方の様子を知る資料となっている。

統治

詳細は「日本の分割統治計画」、「アメリカ合衆国による沖縄統治」、および「アメリカ施政権下の小笠原諸島」を参照

第二次世界大戦末期に連合国軍は戦後の日本占領方式について、日本政府を通じた間接統治案や、マッカーサーグループによる直接統治案、1国あたりが担当するコストを減らすためにドイツと同様に主要連合国による日本本土の分割直接統治などが検討されていたが、間接統治の方針に決定した。占領下において日本は主権の一部を制限された状態ではあったものの政府が存続し続けた。終戦前に連合国軍により占領されていた沖縄県小笠原諸島はアメリカ施政権下に置かれた。

日本では連合国軍最高司令官総司令部GHQ (General Headquarters) 、稀にSCAP (Supreme Commander for the Allied Powers) と呼称する。最高機関として極東委員会を、最高司令官の諮問機関として対日理事会が設置され、その傘下に置かれたGHQが全面的に業務を行う。連合国はイギリスのクレメント・アトリー首相や中華民国の蒋介石総統、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン共産党書記長やアメリカのハリー・S・トルーマン大統領の承認のもとで、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥を連合国軍最高司令官に任命した。

日本に進駐した連合軍の中で最大の陣容は、約75パーセントの人員を占めるアメリカ軍で、その次に約25パーセントの人員を占めるイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍をはじめとするイギリス連邦の諸国軍であった。オランダ軍中華民国軍カナダ軍フランス軍、そして終戦土壇場になり日本へ侵略したソ連軍は、国力の問題や英米の反対により部隊を置かず、東京など日本国内数か所に駐在武官のみを送るに止めた。

主権行政権を留保した。日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言の文面では、当時のイギリスのウィンストン・チャーチル首相の提案によって、「日本領土」ではなく「日本領土内の諸地点」への「保障占領」となっていた。

政策

連合国軍最高司令官総司令部」も参照

法制

日本国憲法」も参照

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーの示唆により憲法改正の作業が開始された。連合国軍総司令部によって作成された草案を基に日本側による修正が数回行われ、手続き上は大日本帝国憲法の全面改正という形態をとり、1946年(昭和21年)11月3日に新憲法の日本国憲法が公布。1947年(昭和22年)5月3日に施行された。また民法など多くの法律(法体系:日本法)が戦前から引き継がれた。

象徴天皇制
昭和天皇
1946年(昭和21年)11月3日
連合国軍は皇室改革を指令し、天皇は憲法上における統治権力の地位を明示的に放棄し、日本国憲法第1条の規定により、「日本国および日本国民統合の象徴」となった。また、皇室財産が国や自治体等に下賜ないしは特別税として国庫に収容されることになるに伴い、多くの皇族皇籍離脱を余儀なくされた。また人間宣言によって天皇が現人神であることは否定されたが、多くの日本人はこの人間宣言と象徴天皇制を平静に受容した。
終戦直後の1946年(昭和21年)に毎日新聞が実施した世論調査では、象徴天皇制への支持が85%、反対が13%、不明2%となっており終戦直後でも国民の多くが皇室の存続を支持している。
平和主義(戦争放棄)
設立過程、解釈と体制を巡って現在もなお日本国内で論争が続いている。
1945年(昭和20年)10月5日付でスイス公使のカミーユ・ゴルジェがスイス外務省に送った電報によると、10月2日の会談でマッカーサーは第二次大戦中の「日本軍の残虐性」を強調し、敗戦後の日本が「軍事的には重要でなくなることを保証する。」と断言し、「国際社会で悲惨な地位を占めることになろう」と公使に語った。ただしこの頃の連合国は、条約による日本の武装制限あるいは完全非武装を計画してはいたが、方針は明確ではなく、憲法の条項に入れる案は持っていなかった。
幣原内閣
1945年(昭和20年)10月9日
1946年(昭和21年)1月7日、国務・陸軍・海軍三省調整委員会 (SWNCC) が日本の憲法改正に関する米国政府の指針を示す文書 (SWNCC228とSWNCC228/1) を伝達したが、連合軍最高司令官総司令部は、言論の自由に言及したSWNCC228/1指針を文書中に含めなかった。
SWNCC228文書には9条に相当する条項を加えるような内容は含まれておらず、諸草案の中で9条に類似する規定を示したのは帝国弁護士会と日本政府である。また「日本が再び米国の脅威とならぬ」よう「軍部を永久に文官政府に従属させるための正式の措置をとることが、望ましいであろう。」、「天皇の軍事に関する権能はすべて剥奪される。」とSWNCC228指令は指摘しているが、文民条項と天皇と軍の関係に触れたのみであり、明らかに軍を廃止することは念頭にない。アメリカ政府はこの文書の中で、改革や憲法改正は、日本側が自主的に行うように導かなければ日本国民に受容されないので、改革の実施を日本政府に「命令」するのは、「あくまで最後の手段」であることを強調している。イギリスおよびアメリカ政府は終戦前から西の対立を予測しており、日本の限定的再軍備の必要を論じていた。
1月24日、幣原首相がマッカーサーを訪問し、密談。この時、幣原喜重郎首相が「かねて考えた世界中が戦争をしなくなるには、戦争を放棄するということ以外にはないと考える。憲法にそういう条項を入れたい」と語ったとされる。幣原の親友の大平駒槌枢密顧問官が娘の羽室ミチ子に語った内容を、羽室がメモ(羽室メモ)を残している。
「戦争放棄」は幣原からの発案だったと後にマッカーサーが回顧録に書き、幣原は自身の回想録『外交五十年』の中で戦争放棄のアイデアは自発的だったと書き記している。しかし松本烝治は試案を作るまで幣原から指示はなかったと否定し、この条文に関わったケーディスらも「マッカーサーの発案」と否定している。また、委員会もマッカーサーが権力を逸脱し、日本に憲法を押し付けたのではないかと疑い、懸念を表していた。
1946年(昭和21年)2月3日にコートニー・ホイットニー民政局長に提示されたマッカーサー三原則には、自衛のための戦争まで禁じられており、「今や世界を動かしつつある崇高な理念(発足したばかりの国際連合を指すと思われる)」に防衛と保護を委ねる旨が記されてあった。
自衛権の禁止はチャールズ・L・ケーディスによって作られたマッカーサー草案8条では削除され、後者は日本国憲法前文に反映された。
最終草案がまとまった頃、極東委員会中華民国代表が芦田修正を見とがめたが、結局ソ連代表の提案で文民条項を要請することで収まった。日本国憲法第66条に第2項が書き加えられた。
1948年(昭和23年)1月6日、ジャパン・ロビーケネス・クレイボーン・ロイヤル長官が日本の過度の弱体化を進めるGHQの占領政策を批判する。同年2月、米国のジェームズ・フォレスタル国防長官ケネス・クレイボーン・ロイヤル陸軍長官に「日本と西ドイツの再軍備」を検討するよう指示。その3ヶ月後にロイヤル長官は「アメリカの人的資源の節約のためにも日本の再武装が望ましい。そのためには日本人が改憲することが必要だ。」と答弁する。この年から、米政府から日本に改憲と再武装を要求する圧力が強まり、警察予備隊(のちの保安隊自衛隊)設立の準備が進む。
サンフランシスコ講和会議に先立っては、ダレス国務長官から「主権回復後は日本も軍事面においても国際社会に貢献するように」と再武装を強く迫られるが、吉田首相はそれを回避し、激しいやり取りが起こった。このときマッカーサーは吉田を弁護したが、離任帰国直後に吉田に対して「日本は再武装すべきである」と書簡を送っている。
1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和条約に「日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。」と明記される。

政治

民主的傾向の復活
占領を早く終わらせるために、満州事変以降政界から引退していた幣原喜重郎総理大臣に擁立し、幣原内閣(1945年(昭和20年)10月9日 - 1946年(昭和21年)5月22日)を発足させる。ポツダム宣言の「民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべきこと。言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること。」の条項に従い、占領軍の指示を待たずに大正デモクラシー時代の幣原の盟友達を集めた。新任挨拶のために総司令部を訪れた幣原首相に、マッカーサーの会談記録および会談の中でマッカーサーが口頭で五大改革指令を伝えた。(1) 女性の解放 (2) 労働者団結権の保障 (3) 教育民主化 (4) 秘密警察の廃止 (5) 経済の民主化である。婦人参政権労働組合法農地改革などの改革はデモクラシー時代の政界の懸案でもあり、いくつかは法案化が済み、またすでに閣議決定していた事柄でもあったため、憲法改正案が成立するより早い時期に明治憲法下で法制化され、実行に移された。
結党の自由と政治犯の釈放
治安維持法が廃止され、これにより「思想犯」として捕らわれていた徳田球一をはじめとする共産党員などが解放された。結党の自由も保障されたが、後に元「政治犯」の多くは日本共産党などの左翼政党を結成した(日本共産党はこの時再建された)。これに加え国内経済の疲弊による労働運動の激化、また1949年(昭和24年)の中華人民共和国の成立(中国における共産主義政権の樹立)や朝鮮半島情勢の悪化(米ソ両軍による南北分割占領を経た韓国北朝鮮といった朝鮮における分断国家成立および朝鮮戦争の勃発)もあり、その後GHQは共産党員とその支持者を弾圧する方針に転じた(レッドパージ逆コース)。これら左翼政党は右翼政党や英米に対し対立姿勢を強めていく。
財閥解体
太平洋戦争遂行の経済的基盤」になった財閥の解体による、第二次世界大戦以前の日本の資本家勢力の除去が目的とされる経済民主化政策である。これにより多くの新興企業が生まれたが、後に解体された財閥の一部は企業グループとして元の形に戻る。
産業解体
SCAPはドイツと同様に日本の脱工業化を図り、重化学工業産業を解体した。初期の極東委員会は賠償金を払う以上の日本の経済復興を認めなかった。マッカーサーも1945年(昭和20年)9月12日の記者会見で「日本はこの大戦の結果によって、四等国に転落した。再び世界の強国に復活することは不可能である。」と発表し、他のアジア諸国と同様に米国および欧州連合国に従属的な市場に解体するべく、極度な日本弱体化政策をとった。こうして各地の研究施設工場を破壊し、工業機械を没収あるいはスクラップ化し、研究開発と生産を停止させ、農業漁業衣類を主力産業とする政策をとった。工業生産も、東南アジア諸国などへの賠償金代わりの輸出品の製造を主とした。石油産業についても、占領初期は国産原油の精製しか許されず、原油と石油製品の輸入に関与することは禁止されていた。
1945年(昭和20年)に来日した連合国賠償委員会のポーレーは、日本の工業力移転による中間賠償を求め、賠償対象に指定したすべての施設を新品同様の状態に修繕し、移転まで保管する義務を日本の企業に命じた。1946年(昭和21年)11月、ポーレーは最終報告として「我々は日本の真珠湾攻撃を決して忘れない」と報復的性格を前文で明言し、「日本に対する許容工業力は、日本による被侵略国の生活水準以下を維持するに足るものとする。右水準以上の施設は撤去して有権国側に移す。」とした。軍需産業と指定されたすべてと平和産業の約30%が賠償施設に指定され、戦災をかろうじて免れた工業設備をも、中間賠償としてアジアへ次々と強制移転させた。大蔵省(現在の財務省金融庁)によると、1950年(昭和25年)5月までに計1億6515万8839円(昭和14年価格)に相当する43,919台の工場機械などが梱包撤去された。受け取り国の内訳は中国54.1%、オランダ(東インド)11.5%、フィリピン19%、イギリス(ビルママライ)15.4%である。
ポーレーの最終案は極東委員会内でも議論が湧いて意見の一致を見ず、米国内のメディアからさえ非現実的と批判を浴びた。そのため1947年(昭和22年)1月、米陸軍省派遣のストライク調査団が来日した。調査団は、日本非武装化を目的とした中間賠償はすでに役割を終えているとし、日本がすでに500億ドル以上の在外資産を放棄していることや、日本の自立による東アジアの安定への寄与効果などを重視し「1935年の国民生活水準を考慮し自給自足に足る経済を残す。」として、工業再建の許容水準を引き上げるとともに、賠償計画の見直しを勧告する内容の報告書を GHQ に提出し、ポーレー案の緩和を促した。が、これはドイツに対して行われた過酷な産業解体よりさらに低い水準、つまり大恐慌時代の日本のレベルを上限として残りを賠償とする弱体化政策の一環であった。例をあげると、日本の製油所は全部解体・分割して、製品輸入に依存することが初期案には示されていた。1946年(昭和21年)の日本経済は1930年(昭和5年)〜34年(昭和9年)の18%のレベルで、47年でもまだ40%にしか回復しなかった。
1947年(昭和22年)3月、マッカーサーが「占領目的はすでに達成している。今後の日本は復興に向かうべき時期である。」と主張し、早期講和条約を提唱した。さらに同年5月、ディーン・アチソン国務次官が「アジアおよびヨーロッパにおける2大工場として、この2大陸の究極の復興を左右する日独両国の復興を促進する」と方針を発表。日本の産業復興と国際社会への復帰に向かう動きが始まる。
1948年(昭和23年)1月6日、米国のロイヤル陸軍長官が「日本を反共の砦にする」と演説。6月、ヨーロッパでは共産勢力の台頭を防ぐためマーシャルプランが発令された。また日本については、日本と他のアジアの労働者の質を現実的に比較して、日本の工業施設を戦後賠償としてアジアに移転させてしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品による現物賠償が有力という現実的な判断が深まり、日本製造業の見直しの機運を盛り上げた。さらに、日本の経済的自立の立ち遅れがアメリカの占領費用負担に繋がるという納税者の論理も働いていた。
1948年(昭和23年)3月に来日したドレーパー米陸軍次官、 ジョンストンらは日本経済の実情を視察して、日本の産業復興を最大の占領目的として位置づけ、 貿易拡大・賠償削減・財閥解体の緩和などを提唱した報告書を出し、日本の産業復興が自由社会のパワーバランスに寄与し、アジア諸国に益するものと位置づけた。このような経緯を経て占領下の日本は経済復興の道を歩み始めた。同年12月、経済安定九原則が発表された。1950年(昭和25年)以降、朝鮮戦争勃発によって米軍航空機の修理の必要などから工業生産規制が緩和され、制限付きではあったが重工業の生産枠が拡大した。
他方で日本政府や実業家たちは敗戦直後から、主権回復後の経済復興に向けて、備蓄されていた技術や経験を生かしつつ「研究の徹底、生産技術の向上、経営の能率化」に重点を置いた長期プランを立てていた。1946年3月に外務省調査局特別調査委員会によってまとめられた「日本経済再建の基本問題」には、既に最先端テクノロジーを基盤とする主権回復後の経済復興の青写真が描かれている。
労働運動
1945年(昭和20年)10月2日、マッカーサーはカミーユ・ゴルジェ駐日スイス公使と会談した際、日本の工業力がまだ残存しており、戦後の日本が戦前のように安い労働力によって廉価な製品を輸出し、欧米諸国と並ぶ競争力を回復させ、またアジア市場を独占することに懸念を示していた。日本の経済進出を阻止するために、労働組合の組織化を通じて労働者の賃金を上昇させ、日本製品の価格を引き上げれば日本の競争力を低下させることができると、その必要性をスイス公使に力説し、「戦後日本は、国際社会であわれな地位を占めることとなろう。」と語っている。
この会談から9日後の10月11日、マッカーサーは就任したばかりの幣原喜重郎首相に、労働組合の結成を含む五大改革指令を指示したのである。
降伏直後、国内の多くの工場が賠償指定を受け生産を禁じられ、一部は限定された「平和産業」へと転換して生き残りを図ろうとしたが、生産制限を課せられる等、生産量の低下を余儀なくされていた。それによって失業や賃金低下をもたらされたため、全国各地で労働者による生産管理闘争や生産復興闘争が発生した。1946年(昭和21年)には、毎月平均30件の生産管理闘争が発生した。ストライキはほとんど行われなかった。皮肉なことに、占領軍の厳しい言論統制によって、日本の民主化を占領目的とする世論誘導が行われていたので、多くの労働者は、経済復興が遅れているのは、GHQの民主化を妨害するために資本家が生産サボを行っているせいだと信じていた。が、GHQによって弾圧されていった。
1946年(昭和21年)12月、極東委員会は労働運動16原則を発表し、占領目的を阻害する労働運動を禁じた。
1947年(昭和22年)、食糧輸送と占領軍へのサービスをストライキから除外した二・一ゼネストが計画されたが、マッカーサーの介入によって中止される。二・一ゼネストの中止以降、GHQと労働運動家たちの間に深刻な溝が生じる。
農地改革
地主
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出典:wikipedia
2020/01/21 21:30

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