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連邦準備制度理事会とは?

(連邦準備制度理事会から転送)
【本店】
ワシントンD.C.
20th Street and Constitution Avenue NW
位置
北緯38度53分34.8秒 西経77度2分44.8秒 / 北緯38.893000度 西経77.045778度 / 38.893000; -77.045778
連邦準備制度理事会議長
ジェローム・パウエル
【国】
アメリカ合衆国
【通貨】
アメリカ合衆国ドル
USD (ISO 4217)
基準貸付利率
0-0.25%
【預金基準金利】
3.5%
【ウェブサイト】
federalreserve.gov

連邦準備制度(れんぽうじゅんびせいど、英語: Federal Reserve System, FRS)は、アメリカ合衆国中央銀行制度である。ワシントンD.C.にある連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board, FRB)が全国の主要都市に散在する連邦準備銀行(Federal Reserve Bank, FRB)を統括する。連邦準備制度理事会は連邦議会の下にある政府機関であるが、予算の割当や人事の干渉を受けない。各連邦準備銀行は株式を発行する法人(body corporate)である。

目次

  • 1 前史
    • 1.1 ウォール街とスイス
    • 1.2 貿易金融の掌握
    • 1.3 フランスに学ぶ理由
  • 2 歴史
    • 2.1 FRB設立
    • 2.2 エッジ法
    • 2.3 世界準備制度
    • 2.4 銀証分離の緩和
    • 2.5 世界金融危機以降
  • 3 連邦準備銀行の株主
  • 4 主要業務
  • 5 組織
    • 5.1 連邦準備制度理事会
    • 5.2 連邦公開市場委員会
    • 5.3 連邦準備銀行
  • 6 歴代議長
  • 7 脚注
    • 7.1 注釈
    • 7.2 出典
  • 8 参考文献
  • 9 外部リンク

前史

ウォール街とスイス

1776年の建国以来、アメリカ合衆国では第一合衆国銀行第二合衆国銀行のような試みはあったものの、アンドリュー・ジャクソンら分権主義者の反対で取り潰される等して(Bank War)、中央銀行は成立せず、個々の銀行等が米国債や金準備を使って紙幣を発行していた。もっとも、インディアナ州においては連邦準備制度の原型とみられる金融制度が採用されていた。

分権主義を逆手にとって、欧州資本が進出してきた。1834年ロスチャイルドが大規模に合衆国公債を引受け、翌1835年までにボストン・ニューヨーク・フィラデルフィアボルチモアにロスチャイルドの利益を代表する支店または代理商がおかれ、さらにロスチャイルドは500万ドルのアメリカ公債を保有した。1837年恐慌で州立銀行がデフォルトすると、代わりにウォール街の金融が栄え出した。州債発行額は1835年から著しく増加して1842年をピークに漸減したが、それは恐慌にかまわず公債が欧州へ輸出されたことを意味する。この現象は綿花の売上げ低下と関係する。恐慌をすぎて合衆国銀行はニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)の主導により、綿花受入・販売のためリヴァプールに、州債売却のためロンドンに、各代理店を同時に置いた。そして買いつけた綿花を代理店に蓄え相場の上がるまで卸さず、またその間の信用は手形を代理店に送って州債を担保に調達した。1839年10月の州債デフォルトによりビドル体制は行き詰まりだした。ベルギープロイセンザクセンの綿産業が(メリノ種羊毛と競い)不況となったからである。デニソン商会(Denison & Co.)とロスチャイルド、そしてホープ商会は合衆国銀行に1220万ドルの州債を担保に追加するよう求めた。1840年3月に州債を連邦で保証する法案が否決され、ペンシルベニア州債が利子の支払いを遅滞するとベアリングス銀行が連邦保証を求めた。6月からベアリングはニューヨーク(市と州)とオハイオ州の公債を売りまくった。1841年2月に合衆国銀行が営業停止となってフリーバンキング時代が到来した。しかしホープ商会とベアリング家が買収を支援したルイジアナ州では地金型金貨を銀行に準備させる制度が採られた(The Forstall System)。

1839年にベルギーが永世中立を保障されてから、欧州綿産業は大雑把に表現すれば次のように展開した。1843年にプロイセンのケルンとベルギーのアントウェルペンが鉄道で結ばれた。1848年スイス連邦が分離同盟戦争を経て成立した。その北部ではカルヴァン派をふくむ宗教改革派が産業革命を達成した。それはチューリッヒを核とする勢力であったが、ミュルーズと高ライン地域に綿工業ベルトをつくっていた。製品を南へ出荷することは戦争のほとぼりが冷めるまで難しかったから、西・北・東でベルト地帯に接するフランスバーデン王国ヴュルテンベルク王国バイエルン王国オーストリアのいずれかを取引先とした。これらの輸出先もカトリックをルーツにもっていたが、当時は啓蒙思想による改革が進み、割り切った輸入がなされていた。

貿易金融の掌握

1861年にアメリカで南北戦争が起こり、綿製品需要が生じた。スヘルデ川の航行権を回復したベルギーから、ベルト地帯の製品が取引先を経由して戦地へ輸出された。綿ブローカーが戦地アメリカで利権を築こうとし、ドイツの証券市場が盛況となった。するとアメリカでも販路開拓の動きが起こった。1864年、New York Guaranty and Indemnity Company という信託会社が生まれた。1870年の普仏戦争でミュルーズをふくむアルザスドイツ帝国のものとなり、輸出経路の国境が取り払われてベルトは回転速度を増した。

世界的な大不況が進行するにつれて欧州各国で金本位制が採用されていった。その前半に三国同盟が成りスイスの商圏が広がった。合衆国への拡大は時間の問題であった。1891年、相互生命(Mutual Life Insurance Company of New York、現アクサ)が先に英名で書いた信託会社の経営権を取得し、5年後にその信託会社をギャランティ・トラスト・カンパニー(1959年からモルガン・ギャランティ・トラスト)へ改名した。ギャランティは1897年にロンドン支店を開設し、巨大な外国部もニューヨークへ置いた。

1901年、ハートリー(Marcellus Hartley)が地元コネチカットの認可を受けて貿易金融会社(International Banking Corporation)をつくった。エドワード・ヘンリー・ハリマンやアイザック・グッゲンハイムを重役としてアジア開発を仲介した。競争相手のギャランティから1904年にアジアの三支店を譲り受けたが、1907年恐慌は主力のロンドン支店を窮地へ追いやった。

ギャランティは恐慌をすぎてから急速に総資産額を伸ばした。1909年時点で、ギャランティは次の銀行とコルレス契約を結び、証券の発行・引受・償還を代行していた。ナショナル・シティ、チェイス・ナショナル、そしてメロン・ナショナルである。このころのギャランティが擁した主要な重役を並べてみる。リーヴァイ・モートン、ジェームズ・デューク(James Buchanan Duke)、ジェイ・グールドの息子(George Jay Gould I)、ダニエル・グッゲンハイム(Daniel Guggenheim)、トーマス・ラモント(Thomas W. Lamont)、C.A.ピーボディ(C.A.Peabody)J.D.ライアン(J.D. Ryan)、ウィリアム・ダグラス・スローン(エミリー・ソーン・ヴァンダービルトと結婚)、アルバート・ウィギン(Albert H. Wiggin)、A.W.フェリン(Augustine William Ferrin, 米外交官)。

フランスに学ぶ理由

アメリカの国法銀行発行の銀行券と同時期の日本の国立銀行紙幣

中央銀行を欠いた時代の金融技術とはコルレス制度のことであった。地方銀行は手形の取立支払のためニューヨーク市銀行に預金を蓄積した。この蓄積をバンカーズ・バランス(bankers' balance, 以下ババ)と呼ぶ。この手法は1830年代に相当発展していたが、1864年国法銀行法(National Bank Act 1864)により追認された。1887年まではニューヨークが唯一の中央準備市であったが、同年シカゴセントルイスも加えられた。1890年から1910年の間には、ニューヨークの地位をそのままに、新しい中央準備市へも個人預金とババが動いた。1902年から1914年まで個人預金総額に対するババの割合は、中央準備市銀行の場合1910年を除いて7割をくだることがなかったし、特に1908年は9割に近かった。準備市銀行、地方銀行、非国法銀行は順に割合が低くなっていくが、どれも横ばいで、順に書いて二割強、二割弱、一割未満であった。ニューヨーク市国法銀行に限っていえば、1870年で69%もあったのが1900年で100%を超えて、その後も割合が増えていった。その内訳に着目すると、ニューヨーク市国法・州法銀行は70-100行に及ぶが、そのうち上位6-9行がババの半分以上を保有していた。この意味で、ニューヨーク市のメガバンクは金融界の頂点であった。ニューヨーク市国法銀行は巨額のババを財源に、貸付総額の1/3から1/2を占めるコールマネーを証券ブローカーに与えた。コールマネーは銀行間取引でも下位の銀行に貸し出されたが、その額は恐慌のときだけでなく連邦準備制度設立の直前にも跳ね上がった。

メガバンクにも焦る局面は存在した。1864年国法銀行法は国法銀行券を発行するときに米国債を担保とするよう定めた。1866年7月、州法銀行券に10%課税されるようになり、州法銀行券は駆逐されていった。これをもって発券が国法銀行に独占されたのは事実であったが、州法銀行は預金通貨の普及により1880年代に金融界での地位を回復しつつあった。それに、独占したはずの発券業務は手形を担保にすることができなかった。1880年代は国債の償還が進み、国債を担保とする国法銀行券が減り、国債と銀行券の流通量減少が国債価格を騰貴させた。すると発券用に調達する国債の利回りが減り、また銀行券の流通減少で市場金利が上昇、機会費用を差し引いた通貨発行益が目減りすることになった。国法銀行券発行益の減り具合は、農業地帯の西部・南部で深刻なものとなった。なぜなら券の発行総額は上限を法定された上で、人口等の経済規模にしたがって各州に配分されたからである。

通貨の不足した農業地帯はミシシッピ川流域を指す。ここはジョン・ローのときモーゲージを貸しこまれ、19世紀末の時代人にフランスをモーゲージ大国と呼ばせたエリアである。そこでフランスの金融制度を研究することになった。

歴史

詳細は「en:History of the Federal Reserve System」を参照

FRB設立

ジョージ・コーテルユー財務長官は、金融業界を保護するために、経済の安定を維持する国家主導の十分な能力が必要であると考えた。その対策として、まずオルドリッチ・ヴリーランド法(1908年)でアメリカ通貨委員会を設立。1910年11月22日、ジョージア州沿岸のジキル島J・P・.モルガンが所有するジキル島クラブで秘密会議が開かれ、FRBを設立する計画が討議された。計画は、彼らが掌握した貿易金融を促進すべく、アメリカの国際的な手形交換制度を建設した。

ギャランティなどが担う綿・穀物の貿易金融とは一見独立して、国内の工業系大企業は自己金融による輸出を拡大していた。デュポンコダックゼネラルモーターズゼネラルエレクトリックNCRレミントンランドウェスタンエレクトリックウェスティングハウスなど約30社は、1910年にアメリカ製造業者輸出協会(American Manufacturers Export Association)を結成した。

1913年中に、この段すべての出来事がおきた。まずアメリカ合衆国憲法修正第16条アメリカ合衆国憲法修正第17条が批准された。ジキル島での会合時すでに修正が議論されていた2つの変革は、各州の財政力と政治力をそぎ落とした。基礎工事が済むと、J.P.モルガンやポール・ウォーバーグジョン・ロックフェラーの後ろ盾の下に、ウッドロウ・ウィルソン大統領がロバート・オーウェンカーター・グラスの提出したオーウェン・グラス法に署名した。こうして、多くの上院議員が休暇で不在の隙を突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。「準備」とは預金準備のことを意味する。

1914年、USスチール社長でAMEA理事でもあったジェームズ・ファレル(James A. Farrell)が、連邦準備法に外国手形の割引特権と外国支店の設立(次節)が認められていることを指摘し、これらにより米系銀行による貿易金融が現実的となったことを喜び、また積極的な資本輸出を主張した。このAMEAは1917年、フランスの復興需要について報告書をまとめている。

外国手形の日本語訳はまちまちで、銀行引受手形(Bankers Acceptance)と書くことが比較的多い。それまで銀行引受手形の割引は(ニューヨーク銀行やギャランティ・トラストが)ロンドン市場で行っていたが、資金調達コストが割高であった。そこで、国内の銀行引受手形市場を整備・拡充することで資金調達コストを引き下げる努力がなされた。連邦準備制度が全面的にサポート、国債ディーラーも積極的に参加した。しかし肝心の清算銀行が資金を積極的には供給しなかった。1918年、連邦準備制度が手形を売戻条件付で買い入れた。こうして銀行引受手形がレポ市場の端緒となった。

1921年4月、ポール・ウォーバーグが国際引受銀行(International Acceptance Bank)をニューヨークで開業した。主要株主はクーン・ローブM・M・ヴァールブルク&CON・M・ロスチャイルド&サンズおよびその他であった。業務は銀行引受手形であり、合衆国では連邦準備局(連邦準備制度の旧名)とIAB が事実上独占した。ヨーロッパでは馴染みの貿易金融であった。

ロスチャイルド家だけでなくユニオン・バンクもIAB の経営を支えた。ロックフェラーのEquitable Trust Company(現・JPモルガン)やディロン・リードも協力し、IAB の短期信用網をティッセンなどが利用した。

エッジ法

FRBができるときにウォルター・エッジが、FRBの会員銀行は国際銀行業務とその他の国際金融業務に参入するため、連邦企業を組織できるようにするべきだと提唱した。この提案は、オーウェン・グラス法に附属する形で法律エッジ法となった。当時、欧州諸国は債務を抱え、合衆国からの輸入物をUSドルで買う余裕がなかった。そこでウォルター・エッジは、連邦企業がヨーロッパの輸入を金融し、短期貸しを長期貸しへロールオーバーしつつ、欧州経済の回復に応じて償還させるという提案をした。グラス・スティーガル法が通過した1933年、議会は連邦企業の商業銀行業務を制限するのを忘れた。

エッジ法は、大銀行がオフショア・ファンドや合同運用信託を使って1940年投資会社法を脱法するとき、連邦企業を通じて資金を供給した。1956年銀行持株会社法(Bank Holding Company Act)は銀行持株会社とその子会社による非銀行業務を原則禁止としていたが、オフショア・ファンド、つまりユーロ市場で活躍中の連邦企業は例外だった。

第二次世界大戦中はレポ取引が停止され、一方では大銀行だけでなく生保・年金までもが大量の米国債を消化していた。1951年に財務省との「アコード」が法制化して、連邦準備制度の金融政策の独立性を保障するとともに、米国債にかぎってレポ取引を再開した。こうしてアメリカの機関投資家へ資金が流れた。それは住宅ローンだけでなく、地方債と連邦債でも運用された。1962年、OECD資本移動自由化コードを設定し、多国籍企業にも資金を供給できるようになった。

1975年、会員銀行とその系列企業が20をこえ、それらは30以上の連邦企業(Edge Act corporation)を経営している。この連邦企業は普通、会員銀行の子会社である。FRBは国内の連邦企業について、会員銀行が行う海外事業に付随する業務しか行わないと約束してはいるが、しかしウォール・ストリート・ジャーナルをはじめとする経済各紙掲載の公告は、オフショア市場開発、穀物取引、ロンドンのよく分からない市場混乱、国際的な中期融資、国際的な不動産貸借、そして合衆国輸出入銀行の事業に対し、連邦企業が連邦政府を通して融資を行っている実態を示す。

エッジ法は国際銀行法(International Banking Act of 1978)によって修正され、国際銀行業務へ参入する要件を緩和した。シティバンクは代表的な連邦企業であるが、ユーロ債市場を牽引したことでも有名である。

2002年9月、エッジ法によりニューヨーク連邦準備銀行の監督で即時決済銀行(CLS)がサービスを開始した。CLSは国際銀行間通信協会のネットワークを利用した、世界で唯一の多通貨決済システムである。為替差損を回避するため、参加通貨を発行する各中央銀行の重なった営業時間帯に、CLSが中央銀行にもつノストロ口座を利用してPVP決済する。国内決済のように、流動性供給銀行という通貨不足を互助する仕組みがある。CLSは通貨取引開発税をめぐる議論でも言及されている。

世界準備制度

1928年12月14日の国際連盟理事会で、金融委員会からの勧告が採択された。勧告の内容は、金購買力変動を調査する委員会を設置するものであった。アルベルト・ヤンセン(Albert-Édouard Janssen)を議長とする委員会に、ジョージ・ロバーツ親子(父がGeorge E. Roberts、子はミドルネームだけが父と異なりBassett)が委員として参加した。1930年6月に最初の中間報告書が提出された。報告書は金本位制の準備金が世界的に不足している計算結果を示した。さらに各国の準備金保有割合も弾き出した。1928年時点で、主要15カ国が世界の準備金100億3500万ドルの91.2%をもっており、そのうちアメリカだけで37.3%を占めるというのである。FRB が報告書の公表に強く反対したので、公表は1930年9月となった。報告書は準備金節約の手段として、郵便諸制度の活用を推奨したり、金為替制度の拡大を追認したりした。前者はライヒスバンクに、後者はフランス銀行に有利な主張であった。準備金の偏在と世界恐慌との関係は、後にも委員会の権限外として調べられることがなかった。

1934年、金準備法(Gold Reserve Act)が成立して、アメリカの金輸出は固定価格で金売買を行っている外国中央銀行に対してだけなされることになり、1974年12月まで民間の金兌換はできなくなった。財務省は通貨安定基金を使いドル相場を統制できるようになった。また物価の安定を名目とした外国為替介入や公開市場操作も可能となった。こうした手段は準備金の輸出を直接規制しうるものであった。固定化するドル安に、欧州各国はデフレ政策と通貨切り下げで応戦した。1936年9月25日、英仏が白旗をあげてアメリカと三国通貨協定(Tripartite Agreement)を結んだ。この策定にパウル・ファン・ゼーラントらベルギー勢が尽力した。

第二次世界大戦中の1938年、FRB はフランス銀行から準備金600トンの移送を受け入れた。戦後経済ではキューバが米州機構を脱退するまでにファンド・オブ・ファンズ知的所有権保護合同国際事務局ジュネーヴ金融が台頭した。

ブレトンウッズ体制下の1962年7月21日、FRB はスイス国立銀行と結んだスワップ協定を公表した。ニクソン・ショックより9年も早いドル防衛である。二者の他にスイス銀行国際決済銀行が連携して、ニューヨーク連邦準備銀行に4.32億スイスフランを集め、その反対債権を利用して米国債に1億US ドルをもっていき兌換を阻止した。技術的に同様のスワップ協定は少し前に英仏オランダベルギーカナダと結んでいた。イングランド銀行は年始に金プールの代理人として参加国中央銀行から承認され、プール引き出しを連銀に報告しなくてよいことになっており、協力的な立場にあった。それにしても7月21日協定は直ちにプロセスの半分を履行するという電撃的なものであった。公表から2週間ほどの間に国際決済銀行はさらに1千万ドルのスワップを追加した。そして少し後に連銀と西ドイツブンデスバンクの間に5千万ドルのスワップ協定が結ばれた。

銀証分離の緩和

1968年から銀行引受手形市場は、ギャランティのユーロクリアが支配するユーロダラーに奪われていた。1971年、NY手形交換所(New York Clearing House)加盟銀行9行がCHIPSを稼動。これは、ユーロダラーやマネー・マーケット・ファンドコマーシャル・ペーパーと並んで、連邦準備制度が要求する預金準備率をメガバンクが無視する常套手段としてもてはやされた。

1970年代、エージェンシー(政府=ジニー・メイ)と政府支援機関(GSEs)がモーゲージを証券化するようになった。

1975年、連邦準備制度による通貨供給量の増加に歯止めをかけようと議会が挑み、金融政策の目標値を公表・達成させるために民主的統制を制度保障する合意を得た。しかし同年3月の両院共同決議を最初として、連邦準備制度は二方向から攪乱してきた。通貨の定義を複数設けて(M1A, M1B, M2, M3, L)、それぞれに目標値を出すようにした。しかも供給量伸び率目標値の変動幅を算定する式を年内に五回も変更した。

1976年、怒った議会は連邦準備制度の重役を連銀レベルまで調べあげて、民間銀行や大企業との具体的な人的関係を暴露した。連邦準備制度は同年からフェデラル・ファンド金利の変動許容幅を狭めて現金の不足を演出し、なおかつ供給量伸び率の変動許容幅を広げて存分に現金を注入、インフレを煽動した。

1978年アメリカで外国銀行の支店設置を一つの州に限るという法律ができたが、バークレイズは適用除外された。

1979年10月、オイルショックボルカー・ショックに発展した。そこで1982年後半から金融と規制を順に緩和した。

規制緩和について。グラス・スティーガル法第20条と1956年銀行持株会社法は、それぞれ異なる角度から銀証分離を定めている。これらに基づいて、銀行持株会社が所有できる非銀行子会社は、常識的な態様で銀行業務に付随し、かつ証券業務を主体としないものに制限されていたのである。ここで子会社の認可を出していたのはFRB であり、司法当局ではない。そして銀証分離はグラム・リーチ・ブライリー法ができる前からFRB が大幅に緩和していた。

1987年4月にFRB は、コマーシャル・ペーパー、モーゲージ担保証券、特定地方財源債の引受を業務に含む子会社に対する認可を求めてきた銀行持株会社に対し、これら業務を銀証分離の対象とした上で、それら業務からの収入がその子会社の総収入において5%以内であれば先の主体性を否定して認可するという態度を示した。この5%以内という収入制限は、1989年に10%、1997年には25%になった。子会社の営める証券業務範囲も1989年には社債、1990年には株式にまで拡大した。

このような緩和に伴い、地方債・モーゲージ証券・および国債をあつかうミューチュアル・ファンドへ資金が流入した。ファンドは以前から株式も積極的に購入しており、銀行は流れ出た預金を独自の投資信託で吸収していた。1863年国法銀行法(National Bank Act 1863)は銀行が事業会社株式を取得することを禁じていたが、投信は良い抜け穴であった。

このようなシャドー・バンキング・システムはグローバル化してゆき、世界金融危機までシステミック・リスクを高めた。

世界金融危機以降

FRBは世界金融危機に際し、TARPに紛れて16兆ドルもベイルアウトした。融資先は以下の15行。


2008年11月7日、ブルームバーグがベイルアウトなどの情報開示を求めてニューヨーク南部地区地方裁判所で連邦準備制度理事会を提訴した。翌年8月24日、FRB に対し開示命令が出た。27日、裁判所はFRB の打診を受けて9月30日までの履行延期を認めた。その間に手形交換所協会の加盟銀行が連絡をとり、訴訟に介入しFRB を弁護しはじめた。2010年5月4日に協会とFRB は控訴したが、いずれも8月20日に却下された。26日、合衆国最高裁判所は上告の準備として10月19日までの履行延期を認めた。訴訟は最終的に棄却され、2011年3月21日に再び開示命令が出た。FRB は5日以内にブルームバーグへ情報を提供することとなった。なお、ブルームバーグへはメリルリンチが30%資本参加している。

名前の列挙された銀行は手形交換所協会の加盟銀行として上のような防戦を展開する一方で、サブプライム住宅ローン危機の引き金となった住宅ローン担保証券をめぐり次々と訴訟を提起されている。またベイルアウトを受けた銀行の多くは、手形交換所協会の加盟銀行であるHSBCの不祥事ロングターム・キャピタル・マネジメントの救済融資に登場する。

不祥事の一部が周知され、2015年5月13日に米上院銀行委員会の長が、FRBに対する議会の監査強化や大手金融機関の資産基準引き下げなどを盛り込んだ、多岐にわたる法案を提出する運びとなった。同年3月、FRB とその他主要中央銀行はブロックチェーンによる通貨のデジタル化と決済ネットワークの構築に関してIBM と非公式に協議していた。

2018年5月22日、下院がドッド・フランク法の規制を一部緩める改正案を通過させた。賛成258票、反対159票の賛成多数。法案審議は超党派で進められた。オバマ前政権による規制強化を転換させた。上院は同法案を3月中旬に既に可決しており、ドナルド・トランプ大統領が近く署名して成立する見通し。骨子は3点。第1に、ストレステスト(健全性検査)を受けなければならないなど、厳しい規制の対象となる銀行の基準が、現行の資産規模500億ドルから2,500億ドルに引き上げられ、その対象が狭められる。第2は、小規模銀行に対して、住宅担保貸出関連業務や証券トレーディングへの規制が緩和される。第3に、ボルカー・ルールは総資産100億ドル以下などの条件を満たせば適用しない。改正の見送られた項目もあるが、実質的な修正は連邦準備制度などが裁量をもっている。5月30日にボルカー・ルールを改定する「ボルカー・ルール2.0」が採決される。ドラフト作成を主導したのは、昨年トランプ政権が金融監督担当のFRB副議長に指名したクォールズ(Randal Quarles)である。

「ボルカー・ルール2.0」には2017年6月の段階で5つの要点を指摘されている。そのうち二つは先に掲げたドッド・フランク法改正の骨子(第2および第3)と共通している。残りの3点はシャドー・バンキング・システムの再拡大へ直結する(以下に箇条書き)。

連邦準備銀行の株主

連邦準備制度理事会は政府機関であるが、各連邦準備銀行は株式を発行する法人である。ただし、合衆国政府は連邦準備銀行の株式を所有しておらず、各連邦準備銀行によって管轄される個別金融機関が出資(=株式の所有)義務を負っている。また、個人や非金融機関の法人は連邦準備銀行の株式を所有できない。

個別金融機関による出資額は金融機関の資本規模に比例するが、連邦準備銀行理事を選出する際の投票権は出資規模に関わらず一票ずつであるため、大手銀行が主導権を握るといったことはできない。

連邦準備法により、連邦準備銀行の株主が連邦準備制度に及ぼす影響力はきわめて小さいものに限定されている。連邦準備法における連邦準備銀行の株主の位置づけは、9人の連邦準備銀行理事のうち6人を選定するにすぎない(他の3人は連邦準備制度理事会が指名)。また、連邦準備銀行理事の権限は理事長の選出のみであり、その理事長の権限も以下のものに限られている。

連邦準備制度は大統領の指名と議会の承認による連邦準備制度理事会の主導により運営されている。但し、連邦準備制度理事会が政府機関であるのに対し、連邦準備銀行が民間企業の形式を採っているのは事実である。とはいえ完全な民間企業とも言えず、両者を折衷した性格を持っている。

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出典:wikipedia
2018/12/13 10:44

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