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週刊新潮とは?

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  • 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2011年5月)
  • 独自研究が含まれているおそれがあります。(2014年8月)
【週刊新潮】

『週刊新潮』創刊号の表紙

【刊行頻度】
週刊
【発売国】
日本
【言語】
日本語
【出版社】
新潮社
【発行人】
宮本太一
【刊行期間】
1956年2月6日 - 現在
【ウェブサイト】
http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/

週刊新潮』(しゅうかんしんちょう)は、株式会社新潮社から発行されている週刊誌1956年(昭和31年)2月6日(2月19日号)創刊。

発行部数53万部は週刊文春に次いで業界第2位。発売日は毎週木曜日(地域によっては金曜日・土曜日)。

目次

  • 1 創刊
  • 2 特徴
  • 3 表紙絵
  • 4 注目を集めた記事
  • 5 批判を受けた記事・問題となった記事
    • 5.1 批判を受けた皇室関連記事
  • 6 その他
  • 7 読み物
    • 7.1 主な連載小説
    • 7.2 主な連載漫画
  • 8 コマーシャル
  • 9 脚注
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

創刊

昭和20年代の『週刊朝日』を始めとした新聞社系週刊誌が全盛の中、1954年に副社長の佐藤亮一らにより週刊誌が企画され、佐藤が編集長、編集者に斎藤十一が加わって、1956年に発刊。『週刊朝日』とは異なる路線を目指した。

創刊号(2月19日号)のラインナップは、

創刊号は40万部を売るが、その後は20万部程度になる。谷崎の連載はモデル事件により6回で中断し、代わって石原慎太郎「月蝕」を連載。続いて柴田錬三郎「眠狂四郎無頼控」の連載も開始、11月12日号からは「吉田茂回顧録」も連載し、部数は50万部に達した。五味、柴田の人気は、剣豪小説ブームの引き金ともなった。

当時の編集方針を斎藤十一は後に「俗物主義」と呼び、新聞社が扱わないニュース、金と女に着目するものだった。創刊時から起用したライターには草柳大蔵がおり、アンカーマンとして特集記事をまとめるようになる。代表的な記事には、カメラマンとして土門拳が参加した「八月六日の遺産-初めてルポされたABCC(原爆傷害調査委員会)の実態」(1957年8月11日号)、「特別レポート 横綱審議会-大義名分を巡る攻防の五時間」(1958年2月10日号)などがある。その後に参加したライターには井上光晴、編集者として江國滋もいた。こうして次第に独自のスタイルを築き、部数は上向き、1959年新年号は100万部を発行するまでになった。

2010年11月時点での公称部数は50万部。

特徴

1997年まで統括責任者を務めた斎藤十一が確立した路線は、政治的には保守系・右派であり、現在では日本で最も保守的な立場を採る週刊誌となっている。自民党読売新聞などのスキャンダルも採り上げるが、基本ターゲットは左派の政党、議員、メディアである。政治家や芸能人のスキャンダル、殺人事件などの社会事件も数多く採り上げている。

日本の新宗教団体・創価学会とは敵対関係にあり、斎藤も彼らを当初から嫌って批判を繰り返していた。最近の政府を批判する記事では創価学会が支持する政党・公明党絡みであることも少なくない。以前は創価学会と敵対関係にある公明党元書記長矢野絢也のコラムを掲載していた。その攻撃的な記事から団体・個人から名誉毀損訴訟など数多くの訴訟を起こされている。

表紙絵

谷内六郎
郷愁と安らぎを感じさせる抒情詩的で独自の画風の表紙絵は、創刊時より谷内六郎が担当。谷内は当時は田園地帯であった世田谷で少年時代を送り自然豊かな環境で育ったのちに喘息の持病を持ちながら電球工場、町工場、看板屋、雑誌社給仕と転職を繰り返し、そのかたわら雑誌新聞に投稿を繰り返し、1955年には「漫画讀本」に発表した「行ってしまった子」で第1回文藝春秋漫画賞を受賞し画壇デビューを果たす。翌1956年には「週刊新潮」創刊と同時に表紙絵を担当。以降25年間にわたって59歳で急逝する1981年まで表紙絵を担当。

成瀬政博
1997年よりは、横尾忠則の弟で1989年長野県北安曇郡松川村に移住した成瀬政博が担当。2004年には安曇野アートラインにある個人美術館「Museum Cafe BANANA MOON」を開館。1F展示室に表紙絵原画季節ごとに作品の入れ替えを行いながら展示、販売している。

注目を集めた記事

批判を受けた記事・問題となった記事

批判を受けた皇室関連記事

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