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野村克也とは?

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)
【生年月日】
(1935-06-29) 1935年6月29日
【没年月日】
(2020-02-11) 2020年2月11日(84歳没)
【身長
体重】
175 cm
85 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
捕手
【プロ入り】
1954年
【初出場】
1954年6月17日
【最終出場】
1980年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1989年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


野村 克也(のむら かつや、1935年昭和10年〉6月29日2020年令和2年〉2月11日)は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ監督野球解説者野球評論家

愛称は「ノム」(ノムやん・ノムさん)「ムース」。血液型はB型。

選手としては、史上2人目・パ・リーグ初の三冠王達成(世界のプロ野球史上初の捕手による三冠王)、選手出場試合数歴代2位、監督出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位(捕手としては最多)、通算安打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算塁打数歴代2位、通算打席数1位(11970打席)、通算打数1位(10472打数)、通算犠飛数歴代1位(113犠飛)、通算併殺打1位(378打)、最多記録となるベストナインを19回受賞、パリーグ最多記録となる本塁打王を9回獲得、打点王を7回獲得、パリーグ最多記録となる最優秀選手を5回受賞などの記録を持つ。

また、監督としても「平成」(1989年1月8日 - 2019年4月30日)期間の最多勝利記録(1,053勝)を保持する。監督として1563敗は歴代1位。プロ野球では南海、ヤクルト、阪神、楽天の監督を歴任したほか、日本体育大学客員教授なども務めた。晩年の所属事務所はエフエンタープライズで、継子の団野村が運営するKDNスポーツジャパンがマネジメント代行を行っていた。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督(2012年まで)。

概要

野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ、1999年から2001年まで阪神タイガース、2003年から2005年まで社会人野球シダックス、2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督。2010年から亡くなるまでサンケイスポーツの野球評論家を務めた。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。

通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打本塁打打点塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。捕手を務めながら通算RCWINでも歴代5位を記録した球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献した。

愛称の「ムース」とはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。また「和製のベーブ」と呼ばれることがあった。

生涯で二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代(2017年死別)である。沙知代との間に息子・野村克則がいる。前妻との間にも息子が1人いる。継子(沙知代の連れ子)に団野村ケニー野村がいる。

生前、自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐していた通り、幼少の時から亡くなる直前まで、第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなすなど、仕事に対する執着心は非常に強かった。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3,017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3,204試合と3,000試合の大台に乗せている。また、通算打席数(11,970打席)と通算打数(10,472打数)も歴代1位記録である。

経歴

プロ入り前

京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)に野村要市・ふみ夫妻の次男として生まれる。実家の家業は食料品店。3歳のときに日中戦争に出征した父・要市が満州にて戦死。網野町は丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。看護師だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度も癌を患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄・嘉明と共に新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来た。

貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたが、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘への憧れや、出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた大友工投手(後に読売ジャイアンツ等で活躍)の影響もあり、次第に野球選手を志すようになるが、貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。野村は兄の通う京都府立峰山高等学校の工業化学科に合格したものの、母からは学業優秀な兄を大学へやるから中学卒業後は働くようにと言われたが、兄が大学進学を断念したうえで野村が奨学金をもらえるように同校の野球部長をしていた教員の清水義一に頼み込んだこともあり、野村は高校に進学することができた。

峰山高校の体育教師(糸井嘉男の祖父)は高校時代の野村を「あんな運動神経の発達した生徒はちょっとありません。排球をやらせたって、他の生徒とは群を抜いていますよ。あれなら水泳だって、柔道だってこなすでしょうし、角力取りにでもなれるかも知れません」と評している。しかし、野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村の在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高と、甲子園など夢のまた夢の無名校でプロ野球のスカウトが訪れるような環境ではなかったため、清水は野村のために各球団の監督に手当たり次第に推薦状を送った。その中で南海ホークスの鶴岡一人(当時は山本姓)監督だけが返事をくれ、1953年7月24日に西京極球場で行われた府予選(対花園高校)で、約束通り観戦に来た鶴岡の見守る中、野村はランニングホームランを放った。試合後に鶴岡は、秋に入団テストを実施するのでその時に彼を寄越して下さいと清水に伝えた。

そうした折、野村は巨人のテスト生を募集する新聞広告を見つける。野村は巨人の入団テストを受けるつもりでいたが、清水から監督さんが約束通り見に来て下さった南海の入団テストを受けるようにと言われ、9月に一次テスト、11月に二次テストを受け、合格が決定した。ところが既に就職活動鐘紡国鉄(福知山鉄道管理局)から内定を得ていたこともあり、母と兄はプロ入りに反対した。特に兄は筒井敬三松井淳の両ベテランに加え、小辻英雄ら有望な若手もいて捕手の層が厚い南海では厳しいのではないかと心配したが、野村の決意は固く、清水もダメだったら私が責任を持って就職口を用意しますと取りなしたので、最終的には母も兄もプロ入りに同意した。

現役時代

レギュラー獲得まで

1954年、南海にテスト生として入団。背番号は60。同期入団には皆川睦雄宅和本司がいる。

当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会が無く、代打での初打席は三振、結局、一年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが、秋季キャンプ中に正捕手の松井淳が交通事故、2番手捕手の筒井敬三高橋ユニオンズトレード、3番手捕手の蓜島久美が頭部に死球を受けてケガをしたことで捕手不足となり残留した。

しかし肩が弱かったため、秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は、砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目は1軍出場や日本シリーズの出場こそなかったものの、2軍で打率2位の成績を残し、シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。この時代、まっすぐ投げることができていないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。こういう経験から、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。

3年目の1956年には背番号が19に変わる。ハワイでの春季キャンプで一軍メンバーに抜擢されると、そのまま正捕手に定着し、レギュラー1年目で早くもベストナインに選ばれた。なお、この段落にある経緯を鶴岡は、『私の履歴書』では若干異なる趣旨のことを書いている。

戦後初の三冠王

4年目の1957年には山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王タイトルを獲得。杉浦忠広瀬叔功、皆川睦雄らと共に南海の黄金時代に大きく貢献した。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

1960年中原宏の紹介で西宮で鉄工所を営む家の娘と見合いをし結婚。翌年には長男が誕生する。夫人は野村の体調管理に気を遣い、特に食事面に関しては年間を通じて献立を計画して夏場に胃腸の調子を崩さないように配慮した。野村も1965年の『週刊ベースボール』の取材に対して「(夫人の)料理は天下一品やもんね。スタミナつけてバリバリ打つように操縦されてるようなもんや」と語り、同年12月に刊行された初の自著の中でも「僕が安心してプレーできるというのも、家庭というバックボーンのお蔭である」と述べている。また、捕手兼四番打者としての重責に思い悩む野村に自家と付き合いのある天台宗の高僧・葉上照澄に相談することを勧めた。これにより野村は精神的なスランプの打開に成功し、葉上は野村の後援者となった。

こうして私生活の安定を得た野村は、迎えた1961年シーズンに中田昌宏(阪急)と並ぶ29本塁打を放って4年ぶりに本塁打王を獲得。この年から8年連続本塁打王を獲得するなど、以降は打撃タイトルの常連になっていった。1962年別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。この年からは打点王も6年連続で獲得し、6年連続二冠王となる。1963年には小鶴誠(松竹ロビンス)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年にタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。

1965年には戦後初の三冠王に輝く。捕手としての三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている。ところが、11月17日にこの年限りで退団する鶴岡に代わる新監督に就任したばかりの蔭山和夫が急死してしまう(南海蔭山新監督急死騒動)。野村は事態を収拾するため、直ちに杉山光平と共に鶴岡のもとを訪れて南海への復帰を懇願し、蔭山の死で気落ちした鶴岡を説得して監督復帰を受諾させた。後日催された球団による追悼式典の場で、野村は「蔭山さん、親分も帰ってきて下さいました。蔭山さんの遺志を僕たちは立派に継いでいきます。どうか安心してお眠り下さい」と弔辞を述べた。

1968年からはコーチ兼任となる。この年はジョージ・アルトマン(東京)と僅か1打点差で打点王を逃し、連続打点王と二冠王が途切れる。同年オフに母親が逝去。また鶴岡がこの年限りで監督を退任した。1969年、野村は試合中に二度も重傷を負い、しばしば欠場に追い込まれたうえに怪我の後遺症に苦しめられ、22本塁打、52打点と例年の半分程度の数字しか残せなかった。そのため連続本塁打王も途切れ、さらにはレギュラー獲得以来13年連続で守り続けてきたベストナインの座も岡村浩二(阪急)に明け渡した。チームの大黒柱である野村の故障が主因となって、南海は戦後初の最下位に終わり、飯田徳治監督は責任を取って一年限りで辞任した。

当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった。

打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。また、1977年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、これによって野村は最高打率(首位打者)と最低打率の両方を経験した初めての打者となった。

通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。中学生までは足が速かったと語るが、誰も信用してくれないという。1972年には、二度ホームスチールを試み、二度とも成功させている(因みに、福本豊は七度挑戦して成功は一度)。「盗塁は足でするものではなく、頭でするもの」が持論であった。ただし、ホームスチールに関しては21回試みていたことから、14回も失敗しているワースト記録もある。

データ野球・駆け引き

打者としての読み

上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。

投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。当初はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手のクセを盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久とは、野村が苦心の末にクセを見破ると、稲尾はそれに気付いてさらに対策を講じるという、ハイレベルな駆け引きを繰り広げた。

捕手としての駆け引き

野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど、現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため蔭山和夫や尾張久次とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。

捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にして(著書「野村克也 野球論集成」では日比野、「野村の遺言」には、阪急の山下健と書いている)始まったといわれる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、今度は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更した。東京都であれば銀座、大阪府であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという。

このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。白仁天はささやきによる集中力低下を避けるために耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。一方で大杉勝男にささやきかけると「うるさい!」と一喝されたものの、その一喝は野村のささやきをそれだけ気にしていた結果であった。

ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。王貞治はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。長嶋茂雄は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と意に介さずに会話を続けたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じなかった。さらに動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ、1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。そしてホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の榎本喜八に対しては、榎本独特のオーラに呑まれて、野村自身余裕をなくして戦術を実行できなかった。また、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない高井保弘は、打席で「何(のボールを)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという。

オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村さんとの駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。また、稲尾はマスコミや周囲に「自分の決め球はスライダーである」と吹聴していたが、実際はスライダーは見せ球で、本当の決め球はシュートであった。これを見抜いていたのは野村だけだった。

プレイング・マネージャー時代

飯田徳治監督の後任には西沢道夫青田昇が候補にあがっていたが、川勝傳オーナーから「南海再建を託せるのは君しかいない」と熱心に口説かれ、1969年11月1日、34歳の若さで選手兼任監督に就任した。この時に野村が挙げた条件がドン・ブレイザーをヘッドコーチにすることであり、野村は「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。捕手というポジションで野球を突き詰めて考えていた野村は、以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと思っていた。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。野村の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている)。投手コーチに日通名古屋の監督であった古谷法夫、打撃コーチには日刊スポーツ記者の傍らTBS解説者として人気を博していた沼澤康一郎を招聘。

監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉に及ばなかった。同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。1972年には打点王を獲得した。この頃には、後の妻、野村沙知代との愛人関係が始まっている。

監督就任1年目は新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となったが、2年目は勝率が5割を切って4位で終わる。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした。トレードで東映から江本孟紀、巨人から山内新一松原明夫を獲得した。弱体化していたチームを立て直し、1973年にリーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった。監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。

阪急の1番打者として活躍していた福本豊盗塁を阻止するため、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法の重要性自体は三原脩が既に提唱していたが、南海投手陣にその意識をもたせてリーグ戦で使い、パ・リーグ全体に普及させたのは野村だった。この頃は現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。

詳細は「クイックモーション#歴史」を参照
詳細は「福本豊#他球団の福本対策」を参照

監督としての野村はトレードに対しては積極的であった。トレードの理由としては単に戦力的な面だけではなく、実は選手を借金地獄から救うためや、チーム内での交友関係を思い、移籍先に頭を下げて引き取ってもらったこともあったという。西岡三四郎は投手コーチと衝突したためトレードに出して欲しいと直訴してきた。野村は「自分が球を受けているから、主力でいられるんや」と慰留したが、本人の意思が堅かったために止むなく放出する。西岡はわずか数年で2球団を渡り歩き、ユニフォームを脱いだ。逆にトレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、「お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、球場にこいや」と言ってポンと現金を渡した。以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。一方で放出した選手の一部には恨まれることもあった。

1972年、チームでは、一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して、強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た(最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久のいる太平洋クラブに引き取られた)。

1975年オフ、長嶋茂雄が監督に就任した巨人はこのシーズン最下位に沈むと、コーチ陣のテコ入れのため、極秘で野村に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。ところが肝心の長嶋が同意しなかったため、“巨人・野村克也”は幻に終わった。

1976年に江本らとのトレードで野村自らが説得し阪神から獲得した江夏豊が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は1977年6月からリリーフに転向。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。

1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任される。当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、このことが野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った。野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執が原因の一つと考えられる。広瀬叔功は著書の中で「南海の監督を辞めてから鶴岡親分が監督人事に口を挟むことなど考えられなかったし突拍子もない言いがかりだと思った」、「当時を思い起こせば監督夫人が球場へ出入りしていろんなことに口出していてチーム内に不協和音が満ちていた。川勝傳オーナーが『泣いて馬謖を斬る』と、自分がもっとも信頼をおいていたノムやん解任に踏み切ったのも無理はなかったろう」と記している。江本は著書の中で沙知代が大阪球場に電話をかけてきて「なんであんな選手を使ってるの!」、「コーチを出しなさい」などと怒鳴り、選手起用が悪いからバッティング・コーチを電話口に呼び出せと言ったと言う。「えらいこと言うオバハンやな」、「公私混同でひっかきまわないでくれや」と選手もウンザリしていたという。1975年オフに選手会が緊急会合をもち、「野村監督に忠告しよう」と決議したもののベテランは尻込みし、中堅選手も次々に腰が引けたため、結局最後まで残った江本、西岡三四郎、藤原満の3人が大阪のホテルで野村に直談判し「監督、プレーイングマネージャーなんですから、公私の区別をきっちりつけて選手が納得できるよう収めてください。」と話をして野村は神妙な面持ちで聞き「やっぱり話の分かる人だな。」と江本ら安心して引きあげたが江本、西岡は同年オフトレードで移籍している。なお、後任の監督に広瀬が決定するまでの残り2試合は、当時二軍監督だった穴吹義雄が指揮を執った。1978年(昭和53年)、前妻との離婚が成立した野村は沙知代と再婚した。

この時のことについて野村は著書やテレビで後援会長の葉上照澄と会った時に、「野球を取るのか女を取るのか」と聞かれ、「女を取ります」と答えたと言っている。

監督解任時の会見でも沙知代の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」を否定。「コーチ会議に出した覚えもないし、それほど常識のない女とも思っていません」と発言している。

解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年にダイエーに身売りされた。また、ホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。

ロッテ・西武時代

南海退団直後の1977年11月17日、金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。 金田は野村を戦力としては期待しておらず、野村の豊富な知識と経験、長年にわたって蓄積したデータを丸ごと手に入れることが獲得の目的だったと言われる。また金田は同時に江夏の獲得を臨み、実際に野村を介して江夏にロッテ移籍を打診するも、江夏が金田の下でプレーすることを拒み、破談。野村は代替案として柏原獲得を進言するも、金田が拒否し、結局野村単独での移籍となった経緯がある(但し前述の通り、高畠は打撃コーチとして野村と共にロッテへ移籍)。 当時ロッテの投手だった村田兆治は「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」、また村田によると「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んでロッテへ移籍してきた」と述べている。ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという。ところが金田から「若手らにい

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出典:wikipedia
2020/12/05 23:01

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