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野村克也とは?

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野村 克也
南海選手時代(1959年1月)

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)
【生年月日】
(1935-06-29) 1935年6月29日(82歳)
身長
体重 175 cm
85 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
捕手
【プロ入り】
1954年
【初出場】
1954年6月17日
【最終出場】
1980年10月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1989年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 - )は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身の元プロ野球選手(捕手)・元プロ野球コーチ・元プロ野球監督で、ヤクルト阪神東北楽天の監督を歴任し、現在は野球解説者評論家日本体育大学客員教授も務める。所属事務所はエフエンタープライズ。

戦後初の三冠王かつ世界のプロ野球史上初の捕手の三冠王で、選手出場試合数歴代2位監督出場試合数歴代3位通算本塁打数歴代2位通算安打数歴代2位通算打点数歴代2位通算犠飛数歴代1位パ・リーグ通算安打数1位などの記録保持者。

血液型はB型。愛称は「ノムさん」。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督

目次

  • 1 概要
  • 2 経歴
    • 2.1 プロ入り前
    • 2.2 現役時代
      • 2.2.1 プロ入り〜レギュラー定着
      • 2.2.2 大選手への道/三冠王
      • 2.2.3 データ野球・駆け引き
        • 2.2.3.1 打者としての読み
        • 2.2.3.2 捕手としての駆け引き
      • 2.2.4 プレイング・マネージャー時代
      • 2.2.5 ロッテ・西武時代
      • 2.2.6 引退
    • 2.3 解説者時代
    • 2.4 専任監督時代
      • 2.4.1 ヤクルト監督
        • 2.4.1.1 就任時の状況
        • 2.4.1.2 ID野球
        • 2.4.1.3 セ・リーグ連覇と日本一
        • 2.4.1.4 リーグ優勝・日本一
        • 2.4.1.5 ID野球のミーティング
      • 2.4.2 阪神監督
        • 2.4.2.1 F1セブン
        • 2.4.2.2 F1セブンと平成の新少年隊
        • 2.4.2.3 阪神監督としての評価
      • 2.4.3 シダックス監督
      • 2.4.4 楽天監督
    • 2.5 監督退任後
  • 3 記録面でのトピック
  • 4 人物
    • 4.1 野球
    • 4.2 野村再生工場
    • 4.3 歌手デビュー
    • 4.4 テレビ出演でのエピソード
    • 4.5 野球マンガ・アニメにおける野村克也
  • 5 球界に対するスタンス
    • 5.1 現役時代に南海ホークスの本拠地移転を提案
    • 5.2 「南海ホークスOB」としてのスタンス
  • 6 語録
  • 7 詳細情報
    • 7.1 年度別打撃成績
    • 7.2 年度別監督成績
    • 7.3 タイトル
    • 7.4 表彰
    • 7.5 記録
    • 7.6 背番号
  • 8 関連情報
    • 8.1 栄典・野球以外での表彰
    • 8.2 著書
      • 8.2.1 単著
        • 8.2.1.1 単行本
        • 8.2.1.2 文庫本
        • 8.2.1.3 新書
      • 8.2.2 共著
    • 8.3 関連書籍
    • 8.4 CD
    • 8.5 出演映画
    • 8.6 出演番組
    • 8.7 出演CM
  • 9 参考文献
  • 10 脚注
    • 10.1 注釈
    • 10.2 出典
  • 11 関連項目
  • 12 外部リンク

概要

京都府京丹後市出身。野球選手としての現役生活は1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークスロッテオリオンズ西武ライオンズでプレーした。選手引退後は1990年から1998年までヤクルトスワローズ1999年から2001年まで阪神タイガース2003年から2005年まで社会人野球シダックス2006年から2009年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。2010年から2012年まで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督。2010年からはサンケイスポーツの野球評論家を務める。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。

通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打本塁打打点塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」と自負している。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。

前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがある。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。

二度結婚しており、2人目の配偶者が野村沙知代である。沙知代との間に息子・野村克則。1人目の配偶者との間にも息子が1人いる。継子には団野村ケニー野村がいる。

自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなす。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3204試合と3000試合の大台に乗せている。また通算打席数(11970打席)と通算打数(10472打数)も歴代1位記録である。

経歴

プロ入り前

実家の家業は食料品店。日中戦争に出陣した父・要市は3歳のときに満州にて戦死したというが、実際は道端の供え物のを食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。網野町丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。看護師だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度もガンを患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄とともに新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来た。

貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたが、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘への憧れや、出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた大友工投手(後に巨人等で活躍)の影響もあり、次第に野球選手を志すようになる。

中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより、野村は京都府立峰山高等学校に進学した。その後に内緒で野球部に入部したことが母にばれ、退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。

野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村が在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、甲子園など夢のまた夢だった。当時は廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人(当時は山本姓)だけが返事をくれた。

現役時代

プロ入り〜レギュラー定着

1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。野村は巨人の大ファンであったが、巨人は藤尾茂捕手が活躍していたため断念。捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えた。同期入団には皆川睦雄宅和本司がいる。

当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが秋季キャンプ中に正捕手(松井淳)が交通事故、2番手捕手(筒井敬三)が高橋ユニオンズトレード、3番手捕手(蓜島久美)が怪我(頭部に死球を受けた)をしたことで捕手不足となり残留。「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだが、若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。

しかし肩が弱かったため秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目は1軍出場こそなかったものの、2軍で打率2位の成績を残し、 シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。

この時代、まっすぐ投げれていないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。こういう経験から、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。

3年目の1956年ハワイ春季キャンプで一軍に抜擢され、以降正捕手に定着した。なお、この段落にある経緯を鶴岡は、『私の履歴書』では若干異なる趣旨のことを書いている。

大選手への道/三冠王

打撃不振に陥った頃、テッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に出会い、その中で「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という一言があり、これをきっかけに投手のクセを研究するようになった。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。このことが後に野村本人が確立するID野球の基礎となった。

1957年山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王タイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。南海は1959年1961年1964年1965年1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。

1962年別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。1963年には小鶴誠(松竹)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としては2001年タフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。

その後、8年連続本塁打王、1965年には戦後初の三冠王に輝く。また、1977年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、これによって野村は最高打率(首位打者)と最低打率の両方を経験した初めての打者となった。

しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった。

打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と抑え込まれている。

また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。

データ野球・駆け引き

打者としての読み

上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。

投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。当初はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手のクセを盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久とは、野村が苦心の末にクセを見破ると、稲尾はそれに気付いてさらに対策を講じるという、ハイレベルな駆け引きを繰り広げた。

捕手としての駆け引き

野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど、現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため蔭山和夫尾張久次とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。

捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にして(著書「野村の遺言」には、阪急の山下健と書いている)始まったといわれる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、次は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更された。東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという。

このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。白仁天はささやきによる集中力低下を避けるために耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。一方で大杉勝男にささやきかけると「うるさい!」と一喝されたものの、その一喝は野村のささやきをそれだけ気にしていた結果であった。また、張本勲は対策として空振りと見せかけて野村の頭をバットで殴るという手段を取ったと述べているが、野村自身は著書でこれを否定しており、別の理由でささやきをやめたと記している(詳しくは張本の項を参照)。

ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。王貞治はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。長嶋茂雄は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と違う話を持ちかけたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じず、動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。ホームインした長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の榎本喜八に対しては、榎本独特のオーラに呑まれて、野村自身余裕をなくして戦術を実行できなかった。また、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない高井保弘は、打席で「何(のボールを)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという。

オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村との駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。

プレイング・マネージャー時代

1965年オフ以降、恩師であった鶴岡一人との確執が表面化しはじめ、同年11月に自身の理解者であった蔭山が急逝する。1968年からはコーチ兼任となり、同年オフに母親と死別。また、この頃に関係がうまくいっていなかった前妻とは別居状態となった。

1970年、戦後初の最下位に終わり飯田徳治監督が辞任し、野村が後任の監督に就任した。川勝傳オーナーから「南海再建を託せるのは君しかいない」と熱心に口説かれ承諾。この時に野村が挙げた条件がドン・ブレイザーをヘッドコーチにすることだった。野村は「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。捕手というポジションで野球を突き詰めて考えていた野村は、以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと思っていた。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。野村の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている)。

監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉に及ばなかった。同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。1972年には打点王を獲得した。この頃には、後の妻、野村沙知代との愛人関係が始まっている。

監督就任1年目は新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りして2位となったが、2年目は勝率が5割を切って4位で終わる。ここで野村は他球団で燻っていた投手たちの獲得を目指すことにした。トレードで東映から江本孟紀、巨人から山内新一松原明夫を獲得した。弱体化していたチームを立て直し、1973年にリーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった。監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。

阪急の1番打者として活躍していた福本豊盗塁を阻止する為、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法の重要性自体は三原脩が既に提唱していたが、南海投手陣にその意識をもたせてリーグ戦で使い、パ・リーグ全体に普及させたのは野村だった。この頃は現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。

詳細は「クイックモーション#歴史」を参照

監督としての野村はトレードに対しては積極的であった。トレードの理由としては単に戦力的な面だけではなく、実は選手を借金地獄から救う為や、チーム内での交友関係を思い、移籍先に頭を下げて引き取ってもらったこともあったという。ある主力投手は投手コーチと衝突したためトレードに出して欲しいと直訴してきた。野村は「自分が球を受けているから、主力でいられるんや」と慰留したが、本人の意思が堅かったために止む無く放出する。その投手はわずか数年で2球団を渡り歩き、ユニフォームを脱いだ(西岡三四郎)。逆にトレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、「お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、球場にこいや」と言ってポンと現金を渡した。以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。一方で放出した選手の一部には恨まれることもあった。

1972年、チームでは、一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た。(最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久のいるライオンズに引き取られた)

1975年オフ、巨人はこのシーズン最下位に沈むと、コーチ陣のテコ入れのため、極秘で野村に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。ところが肝心の長嶋監督がクビを縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わる。

1976年に江本らとのトレードで阪神から獲得した江夏豊が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は1977年6月からリリーフに転向。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。

1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任される。当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、このことが野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った。野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執が原因の一つと考えられる。広瀬叔功は著書の中で「南海の監督を辞めてから鶴岡親分が監督人事に口を挟むことなど考えられなかったし突拍子もない言いがかりだと思った」、「当時を思い起こせば監督夫人が球場へ出入りしていろんなことに口出していてチーム内に不協和音が満ちていた。川勝傳オーナーが『泣いて馬謖を斬る』と、自分がもっとも信頼をおいていたノムやん解任に踏み切ったのも無理はなかったろう」と記している。なお、後任の監督に広瀬が決定するまでの残り2試合は、当時二軍監督だった穴吹義雄が指揮を執った。1978年(昭和53年)、前妻との離婚が成立した野村は沙知代と再婚した。

この時のことについて野村は著書で後援会長の葉上照澄と会った時に、「野球を取るのか女を取るのか」と聞かれ、「女を取ります」と答えたと書いている。

解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一と江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍。打撃コーチの高畠康真も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなく1989年ダイエーに身売りされた。また、ホークスの連続Bクラスは1997年まで20年続いた。

ロッテ・西武時代

1978年金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。当時ロッテの投手だった村田兆治は「足の遅い私にとっては鈍足の野村さんは憧れの選手」、また村田によると「野村さんは川勝オーナーが金田監督に頼んでロッテへ移籍してきた」と述べている。ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという。ところが金田から「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、金田から「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」と言われた。同年オフ、ロッテのオーナー重光武雄から「監督をやってくれませんか」、「ロッテを君に再生してもらうしかないんだ。本当の野球を教えてくれ」と言われ監督就任を要請されるが、金田が誤解すると察し、固辞し、同時に自由契約となる。ちなみにロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に山内一弘の監督就任を発表している。

1979年根本陸夫監督率いる西武へ移籍。1980年は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代1960年代1970年代1980年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に谷繁元信に抜かれるまで35年間、歴代1位だった。

引退

野村の著書によると、引退を決めたのは現役最後の年である1980年9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、一死満塁で迎えた野村の打席で、実働26年の選手生活で唯一の代打(鈴木葉留彦)を送られる。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし(野村は犠飛数のプロ野球記録保持者であり、横変化の球種をやや遅れ気味に打つという犠飛を打つコツも体得していた)、ベンチに下がった後、代打策の失敗を祈っていた。結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れた。野村は帰途の車中、自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてし

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出典:wikipedia
2018/01/03 23:08

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