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野球界の永久欠番とは?

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野球界の永久欠番(やきゅうかいのえいきゅうけつばん)では、野球の競技者・関係者などに対して適用される永久欠番について述べる。

目次

  • 1 メジャーリーグベースボールの永久欠番
  • 2 日本プロ野球(NPB)の永久欠番
    • 2.1 失効・消滅となった永久欠番
    • 2.2 準永久欠番
    • 2.3 審判員の欠番
  • 3 日本の独立リーグの永久欠番
    • 3.1 四国アイランドリーグplusの永久欠番
    • 3.2 ベースボール・チャレンジ・リーグの永久欠番
    • 3.3 BASEBALL FIRST LEAGUEの永久欠番
  • 4 日本のアマチュア野球の永久欠番
    • 4.1 大学野球
  • 5 韓国プロ野球界の永久欠番
  • 6 台湾プロ野球界の永久欠番
  • 7 野球ナショナルチームの永久欠番
  • 8 脚注

メジャーリーグベースボールの永久欠番

詳細は「メジャーリーグベースボールの永久欠番」を参照

野球界における永久欠番の歴史は1939年MLBアメリカンリーグニューヨーク・ヤンキースルー・ゲーリッグが使用していた4を欠番としたことに始まる。当時ゲーリッグは、不治の病とされのちに「ルー・ゲーリッグ病」とも呼ばれる筋萎縮性側索硬化症で引退を余儀なくされたが、永久欠番とすることでチームに居続けることができることに歓喜した。引退の際、 "Today, I consider myself the luckiest man on the face of the Earth."(「今日の私は自分を地球上で最も恵まれた男だと思っています」)と名言を残している。

ナショナルリーグではニューヨーク・ジャイアンツ1947年カール・ハッベル11を永久欠番に指定し、ナショナルリーグ初の永久欠番となる。ドジャース、レッドソックス、アスレチックスの3球団は、選手のアメリカ野球殿堂入り・チームが定める在籍年数など永久欠番とするための条件を有している。また、選手以外にもファン、オーナー、球場アナウンサーが永久欠番を与えられて顕彰されたり、永久欠番と同様の顕彰を受けているケースもある。

全球団共通永久欠番
黒人選手第1号であるロビンソンを顕彰し、1997年4月15日に制定。従来から使っていた選手のみが引退まで継続して使用することを認められた。これは、数字を統一する事で黒人と白人を区別をさせないという意味も含まれていると言われている。制定当時は選手・コーチを含めて該当者が20人前後いたが、移籍やマイナー行きなどの理由でその数は徐々に減っていった。
MLBで最後に42をつけた選手はヤンキースのマリアノ・リベラで、2013年シーズンを最後に現役引退したことにより欠番の例外となる人物はいなくなった。また、リベラの背番号も同時に欠番に指定された。カージナルスのブルース・スーターも現役時代の背番号が42で、2006年に殿堂入りを果たして欠番に指定されている。リベラとスーターの背番号は各々の球団でロビンソンの背番号と並立して称えられている。
日本のプロ野球で、特に外国人選手が42番を着けることが多いのは、42が「死に」につながり日本人選手が敬遠することが多いためだが、現在ではMLBでは着けることのできない番号だからという理由もある。
複数球団にまたがる一競技者の永久欠番

現在までに11名が存在する。

複数の競技者を称えた永久欠番

現在までに5つのケースがある。

日本プロ野球(NPB)の永久欠番

球団設立順。人物名の後にある日付は制定日。

読売ジャイアンツ
  • 1:王貞治(一塁手) 1989年3月16日
    入団当初から監督退任までの30年間使用。同一人物による途切れなしでの30年間使用は2014年山本昌(中日、背番号34)が更新するまで日本最長であった。
  • 3:長嶋茂雄(三塁手) 1974年11月21日
    第2期監督時代の2000年 - 2001年にも使用している。
  • 4:黒沢俊夫(外野手) 1947年7月9日
    日本野球界初の永久欠番の一つ。同じチームだった千葉茂の著書や証言によれば、大半の主力選手を軍隊に取られた戦時下に、球団史上初のトレードで移籍後四番を打ち、戦後も病に倒れるまで五・六番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉を中心とする選手有志が提案し、戦死した沢村栄治と共に永久欠番になったとのこと。
  • 14:沢村栄治(投手) 1947年7月9日
    黒沢と同じく日本野球界初の永久欠番の一つ。引退する1943年まで使用していたが翌年に戦死。1946年今泉勝義坂本茂が使用している。1947年に黒沢の4とともに日本野球界初の永久欠番に指定された。
  • 16:川上哲治(一塁手) 1965年1月18日
    1958年の現役引退後、ヘッドコーチ時代(1959年 - 1960年)・監督時代の一部(1961年 - 1964年)で16を使用した。1965年野球殿堂入りが決定したことで永久欠番となり、77に変更した。
  • 34:金田正一(投手) 1970年4月2日
    巨人移籍前に在籍した国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)の34は欠番となっていない。
阪神タイガース
  • 10:藤村富美男(三塁手) 1958年11月30日
    球団創設以来、阪神で10をつけた選手は藤村のみ。これは選手に対する永久欠番で唯一の事例である。
  • 11:村山実(投手) 1972年11月2日
    第2期監督時代の1988年 - 1989年にも使用している。
  • 23:吉田義男(遊撃手) 1987年10月13日
    1969年の引退以降、ふさわしい人物の入団まで欠番とされたが、使用した選手はいなかった。日本一となった第2期監督退任に合わせて永久欠番とされた。
中日ドラゴンズ
  • 10:服部受弘(投手・捕手) 1960年3月20日
    二軍監督時代の1977年にも使用している。
  • 15:西沢道夫(一塁手・投手) 1959年3月15日
    ヘッドコーチ・監督時代の1963年 - 1966年にも使用している。

服部と西沢の欠番は、両選手を辞めさせる時の「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている。

北海道日本ハムファイターズ
  • 100:大社義規(日本ハム球団初代オーナー) 2009年2月1日
    野球殿堂入りを記念し、永久欠番に制定した。
    前身の東映フライヤーズ時代では、1962年に初優勝した時、当時のオーナー・大川博が「100」の背番号を付けたユニフォームを着用し、パレードなどに参加したことがあった。また日本ハムファイターズ時代の1993年から2005年までは、マスコットの「ファイティー」が付けていた。
広島東洋カープ
  • 3:衣笠祥雄(三塁手) 1987年9月21日
  • 8:山本浩二(外野手) 1986年10月27日
    第2期監督時代の2001年 - 2005年にも使用している。
  • 15:黒田博樹(投手) 2016年11月1日
    黒田が2008年にMLB移籍の際、広島に戻ってくる時に備えて2014年まで欠番となっていたが、2015年に黒田が広島への復帰時に再び着用。翌年(2016年)の引退時に、同年の日米通算200勝達成と25年ぶりのリーグ優勝貢献を称える形で永久欠番となった。

衣笠と山本は広島新入団時の背番号(衣笠は28、山本は27)から変更を経験している。

埼玉西武ライオンズ
  • 24:稲尾和久(投手) 2012年7月4日(決定発表は5月1日)
    引退後も1972年までは稲尾自身が監督として付け、1973年の福岡野球株式会社(太平洋クラブライオンズ→クラウンライターライオンズ)への売却時に稲尾が背番号を81に変更したことから欠番となった。当時稲尾が固辞したため球団は永久欠番とせず、「将来有望な選手が入団してきたら24番をプレゼントしたい」として暫く欠番とした後、1976年に古賀正明が使用した。
    その後、秋山幸二平野謙金村義明眞山龍松永浩典等様々な選手が使用したが、2012年の生誕75周年を機に永久欠番に指定(同年はライアン・マルハーンの退団により当初より欠番となっていた)。西武は7月1日のホームゲームと7月4日の福岡での試合において全選手・コーチが背番号「24」の西鉄・復刻ユニフォームを着用し、福岡での試合終了をもって永久欠番とした。
東北楽天ゴールデンイーグルス
  • 10:イーグルス・ファン 2004年12月17日
    スターティングメンバーの9人に続く10人目、サブメンバーの一人の意味。球団や球界に対する功績を残した特定人物を称える意味ではなく、不特定のファンのための番号を「永久欠番」と称したのは当時日本プロ野球界では初の試みであった。
    なお、球団創設の年に制定されたため、チーム発足以来背番号「10」を使用した選手・監督・コーチはいない。
    当初はドラフト4巡目で入団した西谷尚徳に与えられる予定だったが、入団発表直前に6に変更になった。
    球団マスコットの「クラッチ」がイーグルス・ファンの代表として、背番号10を着用している。

失効・消滅となった永久欠番

球団設立順。

横浜DeNAベイスターズ
  • 100:球団に対して貢献のある複数の著名人 1997年11月11日
    初めて与えられたのは1997年11月11日、前宜野湾市市会議員の桃原功
    2013年から2015年まで、育成選手の今井金太が使用したため失効となった。
大阪近鉄バファローズ
  • 1:鈴木啓示(投手) 1985年7月31日制定
    近鉄消滅時点でパ・リーグ唯一の永久欠番だったが、2004年11月10日、オリックス野球クラブ株式会社への営業譲渡により消滅した。
    合併前のオリックス時代から後藤光尊が使用していたことと、鈴木本人が永久欠番を継続しないことを了承したため。
    近鉄最後の監督となった梨田昌孝は選手に向けて「お前たちが付けている背番号は、全て近鉄バファローズの永久欠番だ」との言葉を残している。

準永久欠番

偉大な功績をあげた前任者を讃えた「名誉番号」「準永久欠番」を指定し、一定の期間空き番号としておく、前任者の「預かり」としておく球団もある。これは、米国でHono(u)red Number(名誉番号)と称されているものである。なお、これ以外にも特定の番号を「ふさわしい」選手が現れるまで空き番号とするケースがある。

球団創立順。球団で「名誉番号」「準永久欠番」「欠番とする」の類の公式発表がなされ、尚且つ1年以上の欠番があった場合のみ記載。現在、欠番でないものも含まれる。

読売ジャイアンツ
  • 55:松井秀喜(外野手)2003年 - 08年、14年 -
    ニューヨーク・ヤンキースに移籍した2003年から2008年まで準永久欠番だったが、2009年にドラフト1位で入団した大田泰示に継承された。2012年限りで現役引退した松井が翌年、長嶋茂雄と共に国民栄誉賞を授与されたことを機に55を永久欠番にする話もあったが、見送りとなった。しかし大田が2014年から背番号を44に変更し再び欠番となっている(その後、大田は2017年に日本ハムへ移籍)。
阪神タイガース
  • 6:金本知憲(外野手)2013年 - 15年
    引退時に連続フルイニング出場記録などの功績を称えて永久欠番にすることが検討されたが、阪神では景浦將藤田平和田豊などの名選手がつけていたこともあり球団内外でも意見が分かれ、かつ金本本人も固辞して欠番は見送りになったが(前述の3人は引退直後にそれぞれ富樫淳、和田、デリック・ホワイトが着用したため欠番にはならなかった)、2016年に金本が監督就任した際に再び着用している。
  • 31:掛布雅之(三塁手)1989年 - 91年、2014年 - 15年、2018年? -
    引退後3年間欠番とされた後、萩原誠広澤克実濱中治林威助らが掛布の後継者として期待されこの背番号を背負ったが(特にヤクルト・巨人で主軸打者として実績のあった広澤は球団から「31は掛布のイメージが強すぎるのでそれを払拭して欲しい」という要望を受け着用している)、2014年に林威助の退団と同時に掛布がゼネラルマネジャー付育成&打撃コーディネーター(DC)として阪神に復帰したのを期に、掛布の後を継ぐに足る選手の台頭と成長まで、この番号を凍結する方針を固めた。2016年、掛布は二軍監督に就任しこの番号を再び着用したが、2017年シーズン終了後に退任したため、来シーズン以降この番号をどう活用するかは未定である。
  • 53:赤星憲広(外野手)2010年 - 13年、15年 - 17年
    5年連続盗塁王などを果たすも、2009年に怪我の為引退。2014年に建山義紀が途中加入して着用したが、それ以降は再び空き番号になっていた。2018年シーズンから、「赤星2世」と呼ばれ、ドラフト4位で入団した島田海吏に与えられた。
オリックス・バファローズ
  • 3:長池徳士(外野手) 1983年 - 84年、86年 - 87年
    1979年の引退後もコーチとして着用し続け、82年の退団と共に欠番となったが、毎日放送野球解説者を経て、1985年に西武ライオンズのコーチに就任したため欠番ではなくなった。ただ、背番号自体は移籍した1985年の1年間こそジョー・ヒックスが着用したものの、阪急ブレーブスとして最後の年となった1988年に石嶺和彦が着用(29から変更)するまで2年間空き番となっていた(その石嶺がFAで阪神へ移籍した1994年からも3年間空き番に)。
  • 7:福本豊(外野手) 1991年 - 2000年
    通算盗塁世界記録を達成した1984年に永久欠番となることが決定したが、本人が現役のため固辞。コーチ・二軍監督時代の1989年 - 1990年にも使用している。2000年までの10年間、田口壮小川博文・イチローの3名が7を打診されるも全て固辞、谷佳知は入団時に7を希望するも却下され、欠番となっていた。2001年横浜からトレードで移籍した進藤達哉が福本公認の下で使用し、欠番でなくなった。
  • 41:小瀬浩之(外野手)2010年 -
    2010年の春季キャンプ中に宿舎から転落死。それから現在に至るまでオリックスで41を着用した選手はいない。
  • 51:イチロー(外野手) 2001年 -
    イチローのMLB移籍後、誰も使用しないまま現在も欠番となっており、イチロー本人も「誰も僕の番号を付けたがる選手はいないでしょうね」と語っている。2005年にオリックスの監督に復帰した仰木彬監督に51着用を勧めたが「そんな番号は恐れ多くてつけられん」と拒否された。2010年に移籍してきた坪井智哉は、同学年のイチローからリップサービスからか51着用を勧められたことがあった(球団が却下しお流れに)。
福岡ソフトバンクホークス
  • 9:小久保裕紀(内野手) 2004年 - 06年、13年 - 14年
    2003年シーズン終了後、巨人へ無償トレードされてから、将来的な復帰を想定して「監督預かり」となっており、小久保がホークスに復帰した2007年から引退する2012年まで再び使用した。引退以降は再び欠番となっていたが、2015年からは柳田悠岐が着用。
  • 15:藤井将雄(投手) 2001年 -
    1999年に「炎の中継ぎ」としてダイエーホークス初の日本一に貢献するも、翌年10月に現役のまま病死。藤井以降に15を使用した選手はおらず、チームの親会社がソフトバンクに変わった現在も欠番のままとなっている。
  • 30:鶴岡一人(監督)1966 - 1979年
    1947年より、一旦監督を辞任した1965年まで着用し、1966年以降は後任監督の蔭山和夫に禅譲する予定だったが、蔭山が就任して5日後に急死したため(南海蔭山新監督急死騒動)、球団挙げての復帰要請で急遽監督に復帰した鶴岡は1968年に再度辞任するまで31を着用した。その後は長期に渡って空き番だったが、1980年に台湾出身の高英傑が着用し、14年振りに復活した。
  • 52:川崎宗則(遊撃手)2012年 - 2016年
    川崎のMLB移籍後欠番となっていたが、2017年シーズン開幕直後の4月1日に復帰して再度着用している。
  • 89:王貞治(監督) 2009年 -
    「野球(やきゅう)」とも読めるこの背番号で福岡移転後の監督としては最多の、3度のリーグ優勝と2度の首位、2度の日本一達成。監督退任後、次期監督の秋山幸二に継承を打診も、秋山本人が辞退。
  • 90:景浦安武(外野手) 1973年 - 2015年
    水島新司の野球漫画『あぶさん』に登場する架空の野球選手。連載開始とともに欠番となる。原作上では南海時代からソフトバンク時代まで約35年以上にわたり現役として活躍した。景浦の引退後も欠番が引き継がれていたが、漫画の連載終了後に水島の了解を得た上で2016年からロベルト・スアレスが着用し、長年にわたる欠番に終止符が打たれた。
北海道日本ハムファイターズ
  • 11:ダルビッシュ有(投手)、大谷翔平(投手・指名打者)2018年 -
    前者は八面六臂の活躍でタイトルを総なめ、後者は二刀流で話題をさらう。大谷のメジャー移籍後、ふさわしい選手が出るまでは欠番にすることを表明した。
  • 41:稲葉篤紀(外野手・一塁手)2015年 - 17年
    引退後、スポーツ・コミュニティ・オフィサーに就任した際、背番号41がそのまま引き継がれていたため、事実上の欠番扱いとなっていたが、2018年はブライアン・ロドリゲスが使用する。
  • 86:大沢啓二(監督)1985年 - 92年、95年 -
    「ハム」とも読めるこの背番号は大沢自身が決めて着用し、監督としてファイターズ初のリーグ優勝を達成。球団史上、86番を着用したのは大沢のみである。
千葉ロッテマリーンズ
横浜DeNAベイスターズ
  • 18:三浦大輔(投手) 2017年 -
    現役引退時に球団が「横浜ナンバー」と称して、「準永久欠番」にすることを発表した。「プレー・振る舞いの両面でチームを牽引するとともに、チームの象徴となるべき存在の選手が付ける番号」と意味付ける趣旨としている。
埼玉西武ライオンズ
  • 3:大下弘(外野手) 1960年 - 67年
    1960年3月1日の引退試合後、「大下選手の名に恥じない選手が出ればその選手に渡す。またその際には大下選手の同意を求める」という当時の西亦次郎球団社長の意向で当分の間欠番となっていた。 1968年、大下の東映フライヤーズ監督就任と同時期に、中日から移籍の広野功が使用。
  • 6:中西太(三塁手) 1970年 - 72年
    引退後、相応しい選手が出るまで欠番とされていたが、福岡野球株式会社への売却後に「もう新球団になったんだからいいじゃないか」と、当時の監督・稲尾和久の推薦で菊川昭二郎(33から変更)が使用した。
  • 27:伊東勤(捕手) 2004年 - 06年
    伊東の引退と監督就任に伴い、自らが後継者として認める正捕手が出るまで欠番とされた。2006年に細川亨が継承。細川の移籍後、2012年より炭谷銀仁朗が着用。
  • 89:森慎二(投手→投手コーチ) 2018年 -
    2017年6月28日逝去。生前、コーチとして指導し、西武の2位入りに貢献した。
広島東洋カープ
  • 1:前田智徳(外野手) 2014年 -
    引退を機に欠番となる。次の着用者を選定する時は前田に決定権がある。
  • 7:野村謙二郎(遊撃手) 2006年 - 12年
    野村の「預かり番号」とされていたが、2013年より堂林翔太に継承された。
  • 9:緒方孝市(外野手) 2010年 - 2013年
    ふさわしい選手が現れるまで欠番とされていたが、2014年に丸佳浩に継承された。
  • 20:北別府学(投手) 1995年 - 2002年
    北別府の推薦する選手が出るまで欠番とされていたが、2002年に永川勝浩に継承された。
東京ヤクルトスワローズ
  • 1:若松勉(外野手) 1990年 - 91年、2000年、2007年 - 09年、2012年 - 2015年
    原則として球団生え抜きで、なおかつそれに見合う実績を挙げた選手にのみ使用させる「準永久欠番」。背番号1は「ミスタースワローズ」という称号とワンセットになっている。自身が使用を熱望し、若松の推薦もあったことから池山隆寛(36から変更)が使用していたが、若松が監督に就任した際、池山が返上して36番に戻したため1年間欠番となった後、2001年からは岩村明憲が使用。岩村のMLB移籍後に再び欠番となり(ヤクルト復帰時は入団時と同じ48を着用)、2010年から青木宣親が使用したが、2011年限りでMLBへ移籍したため、再度欠番となった。2015年には日本ハムから移籍してきた大引啓次に提示されたが、本人は辞退して2を選択した。そして、2016年から前年にトリプルスリーを達成した山田哲人が着用することになった。
  • 6:宮本慎也(遊撃手・三塁手) 2014年 -
    2017年オフにヘッドコーチとしてヤクルトに復帰した際は背番号86を着用。
  • 8:大杉勝男(一塁手) 1984年
    引退を決めた1983年11月9日「保留欠番とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた」と球団から発表された。1年間欠番の後1985年から広沢克己が着用し、その後は移籍選手の辻発彦佐藤真一を経て2004年から武内晋一が着用。
  • 27:古田敦也(捕手) 2008年 -
    名誉番号で、(生え抜き・移籍を問わず)球団と古田本人のいずれかが推薦する捕手が出るまで欠番となる。2009年に相川亮二が入団した際に提示されたが本人が辞退。
東北楽天ゴールデンイーグルス
  • 18:田中将大(投手) 2014年 -
    球団が「ふさわしい選手が現れるまでは空きになる」として、準永久欠番扱いになると発表した。
  • 19:野村克也(監督) 2010年 - 2016年
    監督退任時に球団から永久欠番にする提案がなされたが、本人が固辞。球団の方針でふさわしい選手が登場するまで欠番となった。その後、暫く欠番が続いたが、2017年に入団した藤平尚真が着用。
  • 77:星野仙一(監督)2015年 -
    野村克也監督時代に打撃コーチを務めた池山隆寛が背番号77を着用していたが、2016年に復帰した際は88を着用している。なお、2018年1月に本人が死去したことを受け、永久欠番への昇格を楽天球団が検討しているとの報道があった。

審判員の欠番

審判員が使用する肩番号(審判番号)はパ・リーグが1977年に、セ・リーグが1988年に制定したが、該当審判の退職以降に他の審判に引き継がれることがない番号が存在したため、これらは事実上の永久欠番となっていた。しかし2011年シーズンにセ・リーグとパ・リーグの審判部が統合された際、統合後の全審判員が一意になるように審判番号が振り直されたことにより、下記の番号全てが事実上の永久欠番ではなくなった。

セントラル・リーグ
  • 3:上本孝一(東京審判部所属)2006年5月5日、現役中に逝去したため。
  • 6:太田正男(関西審判部所属)1990年以降
  • 26:松橋慶季(東京審判部所属)1989年以降
パシフィック・リーグ

日本の独立リーグの永久欠番

四国アイランドリーグplusベースボール・チャレンジ・リーグで永久欠番を制定している球団が存在する。また、日本独立リーグ野球機構に所属していないが、BASEBALL FIRST LEAGUEの球団についてもここで取り扱う。

四国アイランドリーグplusの永久欠番

高知ファイティングドッグス
愛媛マンダリンパイレーツ
  • 77:弓岡敬二郎(監督) 2016年11月25日
    チーム初のリーグ総合優勝、独立リーグ日本一、前後期優勝とリーグ総合優勝を合わせた完全優勝を達成。

ベースボール・チャレンジ・リーグの永久欠番

リーグの全球団
  • 10
    リーグ発足前年、急死した新潟県在住の少年野球選手が生前「新潟のプロ野球球団を応援したい」という思いを抱いていたことを遺族の手紙でリーグ創設者の村山哲二が知り、それを励みにリーグを実現させたことから、少年が所属していた野球チームでキャプテンが使用する番号(少年が付けることを望んでいた)をリーグ全球団の永久欠番としている。リーグ発足当初は新潟アルビレックス・ベースボール・クラブだけが永久欠番としていた。2014年の時点では欠番に指定していたのは新潟と信濃グランセローズであった。この段階では10番を付けた選手が在籍する球団があったが、2015年の開幕前に石川ミリオンスターズおよび群馬ダイヤモンドペガサスの該当選手が番号を変更したことで、このシーズンよりリーグに10番の選手はいなくなった。
新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ
石川ミリオンスターズ
  • 12:木田優夫(投手) 2014年9月14日
    プロ野球選手として実働26年、56試合の独立リーグ最多登板を記録。独立リーグ日本一に貢献。
  • 34:森慎二(監督・コーチ・投手) 2017年9月2日
    監督としてチームを初の独立リーグ日本一に導く。2017年、西武コーチ在任中に急逝し、永久欠番指定された。

BASEBALL FIRST LEAGUEの永久欠番

兵庫ブルーサンダーズ
2010Happy Mail