◆この
キーワードを
友達に教える
URLをコピー
野田市とは?
|
野田市旗
1987年10月1日制定 | 野田市章
1950年11月3日制定
【国】
日本
【地方】
関東地方
【都道府県】
千葉県
【
団体コード】
12208-4
【
法人番号】
4000020122084
【面積】
103.55km
【総人口】
152,792人
[編集](
推計人口、2018年10月1日)
【
人口密度】
1,476人/km
【隣接自治体】
柏市、
流山市埼玉県:
春日部市、
吉川市、
幸手市、
北葛飾郡杉戸町、
松伏町茨城県:
坂東市、
守谷市、
常総市、
猿島郡五霞町、
境町
【市の木】
ケヤキ
【市の花】
ツツジ
【市の鳥】
ひばり
【
野田市役所】
【市長】
鈴木有
【所在地】
〒278-8550
千葉県野田市鶴奉7番地の1
北緯35度57分18.3秒東経139度52分29.3秒
【外部リンク】
公式ウェブサイト
■ ― 政令指定都市 / ■ ― 市 / ■ ― 町 / ■ ― 村
ウィキプロジェクト野田市(のだし)は、千葉県北西部の東葛地域に位置する市。人口約15.2万人で、千葉県内では12位。東京都特別区部への通勤率は一割三分二厘(平成27年国勢調査)。
地理
千葉県の最北端の市である。関東平野のほぼ中央に位置しており、市の東を利根川、西を江戸川、南を利根運河によって、三方を河川に囲まれている。利根川を挟んで対岸が茨城県、江戸川をはさんで対岸が埼玉県である。
野田という地名の由来は諸説あり定まっていない。有力な説に「野田右馬助という武将が館を構えたことに由来する」というものがあるが、逆に「野田の地名を取って野田右馬助を名乗った」とする説も存在し、はっきりしない。
東武鉄道野田線(東武アーバンパークライン)「野田市駅」周辺はキッコーマンの創業地であり、ここから毎日、全国に醤油が出荷されている。
河川等
隣接している自治体
- 千葉県
- 茨城県
- 埼玉県
歴史
| | | | | | | |
東葛飾郡野田町 | A | 野田市
東葛飾郡旭村
東葛飾郡梅郷村
東葛飾郡七福村
東葛飾郡川間村 | C |
東葛飾郡福田村
東葛飾郡木間ヶ瀬村 | B | | D |
東葛飾郡二川村
東葛飾郡関宿町
| | | | | | | |
野田市と旧関宿町は合併したが、互いに異なった歴史を持ち、違った発展を遂げている。そのため、ここでは野田市と旧関宿町を別々に分けて説明する。
野田市
- 先史・古代・中世
野田は江戸時代以前の記録に乏しいが、小規模な遺跡が点在しており、古くから開かれていた土地であることがわかる。古代の遺跡としては野田貝塚、山崎貝塚などが残っており、中規模の集落があったとみられている。
中世の遺跡としては、後三年の役で活躍した鎌倉景正の居城や、古河公方の重臣・野田右馬助の居城があったと伝えられている。ただし遺構は発見されていない。
また尾崎には、鎌倉幕府の有力な御家人だった野本家定の城館と伝えられる、比較的規模の大きい城館跡も残っている。木野崎には、国人の一色数馬の城館跡が残っており、豊臣秀吉の派遣した軍との戦いがあったと伝えられている。
- 江戸時代
徳川家康の江戸入府後には、1590年(天正18年)に岡部長盛の居城が山崎に築かれ、のちに堤台に移ったと伝えられている。
これらの遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少ないため中世の情報はわからないことが多い。
野田は江戸時代に入るとやや記録が増える。これは、大消費地となった江戸に出荷する醤油産業が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として栄えていったためとされる。陸上交通として、日光東往還が通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。
- 近代以後
-
1889年(明治22年)4月1日
- 野田町・清水村・上花輪村・中野台村・堤台村・桜台村の飛地・今上村の飛地が合併して野田町が置かれる。
- 大殿井村・目吹村・鶴奉村(明治7年、鶴嶋新田と奉目新田が合併)・柳沢新田・宮崎新田・中根新田・横内村・花井新田の飛地が合併して旭村が置かれる。
- 山崎村(明治初期、亀山新田を編入)・今上村・桜台村・花井新田・堤根新田・宮崎新田の飛地・清水村の飛地・上花輪村の飛び地が合併して梅郷村が置かれる。
- 谷津村・吉春村・蕃昌新田・五木村・五木新田・岩名村・座生新田・尾崎村の飛地が合併して七福村が置かれる。
- 東金野井村・中里村・船形村・尾崎村が合併して川間村が置かれる
- 木野崎村・三ツ堀村・瀬戸村・二ツ塚村・上三ケ尾村・西三ケ尾村・下三ケ尾村・大青田村の一部(利根運河の北側)が合併して福田村が置かれる。
- 年表
-
1895年(明治28年)
- 梅郷村のうち江戸川右岸(今上の一部)を埼玉県北葛飾郡旭村に編入。
- 旭村が埼玉県中葛飾郡金杉村大字金杉の飛地を編入し大字金杉を設置。
-
1899年(明治32年) - 川間村が茨城県猿島郡中川村の一部(利根川以南)を編入し大字小山・筵内・長谷を設置。
-
1917年(大正6年) - 高梨家・茂木家など在郷醤油醸造家が合同して設立されていた野田醤油醸造組合が株式会社となる。
-
1921年(大正10年) - 野田醤油労働争議が勃発。全国から労働運動家が来訪。
-
1923年(大正12年) - 福田村事件が起こる。
-
1950年(昭和25年)5月3日 - 野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、野田市となる。
-
1951年(昭和26年)1月1日 - 川間村の一部を野田市に編入する。
- 1951年(昭和26年)七福地区に大字七光台を設置。
-
2003年(平成15年)6月6日 - 関宿町を編入合併し、現在の野田市となる。
-
2006年(平成18年)
- 9月 - 野田地区に清水公園東一丁目・清水公園東二丁目を設置。
- 10月 - 野田地区に桜の里一丁目・桜の里二丁目・桜の里三丁目を設置。
1970年代以降、国道16号沿線に工場や物流施設が多数移転し、東武野田線を通勤路線として東京のベッドタウン化が進む。しかし、1990年代以降都心回帰現象の影響を受け、青年男子層が進学・就職を機会に市外に流出、高齢化の進展を見ている。
近年都市再生機構が市南部みずき(旧山崎)地区に開発を進めている野田みずきの街や、つくばエクスプレスの開業により東京都心へのアクセスが早くなった事から、人口は再び増加に転じている。
旧関宿町
- 関連項目
人口
平成27年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、1.23%減の153,583人であり、増減率は県下54市町村中18位、60行政区域中24位。
野田市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 野田市の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 野田市
■緑色 ― 日本全国
| ■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
野田市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より
行政
- 郷土の自然を愛し、平和で安全な環境を守ります
- たがいに助け合い、すべての市民の幸福を願います
- からだをきたえ、仕事に励み、楽しい家庭をつくります
- きまりを守り、信頼と愛情を深め、心豊かな社会を築きます
- 教養と文化を高め、自由と希望に満ちた郷土をめざします
市長
公共施設
国の機関
- 国土交通省
-
関東運輸局千葉陸運支局野田自動車検査登録事務所
- 関東地方整備局江戸川河川事務所(本部)
- 国土交通省利根川上流河川事務所目吹出張所
- 厚生労働省
県の機関
市の主要施設
- 野田市役所
- 野田市立図書館
- 野田市文化会館
- 野田市総合公園
- 野田市関宿総合公園
-
いちいのホール(旧関宿町役場庁舎)
- 欅のホール
- 北コミュニティセンター
- 南コミュニティセンター
- 野田市市民会館(国の登録有形文化財)
立法
市議会
- 定数:28名
- 任期:2014年(平成26年)5月31日~2018年(平成29年)5月30日
- 議長:竹内美穂(政清会、4期)
- 副議長:内田陽一(公明党、4期)
【会派名】
【議席数】
議員名(◎は代表)
|
政清会 | 12 | ◎中村利久、鶴岡潔、平井正一、古橋敏夫、山口克己、深津憲一、染谷信一、竹内美穂、小俣文宣、鈴木有、野口義雄、邑楽等
公明党 | 5 | ◎西村福也、中村あや子、椿博文、内田陽一、吉岡美雪
みん清クラブ | 1 | 舩橋繁雄
日本共産党野田市議団 | 2 | ◎織田真理、星野幸治
市民ネットワーク | 1 | 小室美枝子
民主連合 | 4 | ◎石原義雄、小倉良夫、滝本恵一、小椋直樹
新社会党 | 1 | 長南博邦
無所属の会 | 1 | 遠藤達也
新しい風 | 1 | 栗原基起
計 | 28 |
- 定数:2名
- 任期:2015年(平成27年)4月30日~2019年(平成31年)4月29日
【氏名】
【会派名】
当選回数
|
礒部裕和 | 千葉民主の会 | 3
木名瀬捷司 | 自由民主党千葉県議会議員会 | 4
2015年(平成27年)8月3日現在。
経済
農業
- 全国有数の枝豆の生産地
- 県内最大の麦の作付面積を誇る
農協
工業
醤油業界最大手のキッコーマン株式会社と白醤油部門では業界最大手のキノエネ醤油株式会社があるため、国内3分の1程度のシェアで生産する日本最大の醤油生産地。
- 工業団地
- 野田工業団地(主な企業 大黒ヂーゼル工業所、坂自動車など)
- 南部工業団地(主な企業 雪印メグミルク、日立物流、日立建機レック、日鉄住金ステンレス鋼管、トオカツフーズ、梅郷電子など)
- 北部工業団地(主な企業 サンデリカ、リクシルなど)
- 中里工業団地(主な企業 LIXIL、敷島製パン(パスコ)、など)
- 関宿はやま工業団地(主な企業 味の素物流、セキノ興産など)
- 泉船形工業団地(主な企業 センコー、ロジパートナーズなど)
市内に本社を置く主な企業
市内に事業所がある主な企業
商業施設
他に市内には、野田地域(中心市街地)があるほか、旧日光街道沿い、川間駅周辺に商店が集中する。
温浴施設
かつて大利根温泉があったが、近年スーパー銭湯などの温浴施設が増えている。近隣市町村の温浴施設とも激しい競合が行われている。これらの温浴施設は半径5km以内に集中している。
- 野天風呂湯の郷
- グランローザ潮の湯(旧称、東武スパ・リゾート野田 潮の湯)
- 七光台温泉
宿泊施設
-
ホテルグランボワ(旧野田東武ホテル)
- クリアビューゴルフクラブ&ホテル
ゴルフ場
- 野田市パブリックゴルフ場(ひばりコース・けやきコース)
- 千葉カントリークラブ(野田コース・川間コース・梅郷コース)1954年~ 日本初の株主正会員制ゴルフクラブ・初の林間コース
- 紫カントリークラブ(すみれコース・あやめコース)1961年~
- クリアビューゴルフクラブ
テニスクラブ
- 野田・テニスクラブ(閉会)
-
生協テニスクラブ(閉会)1979~2014 野田醤油生協→エルコープ→パルシステム
- 川間グリーン・テニスクラブ
- オークランド・テニスクラブ 1983年~
- ロイヤルSC・テニスクラブ 1987年~
姉妹都市・提携都市
言語
| この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2007年6月)
金田一春彦の回想録によると東京方言との間に特筆すべき差がないとされているが、茨城県南西部や埼玉県南東部とともに下総国葛飾郡を構成していたためか、中・高年齢者には西関東方言(千葉県・埼玉県の他地域など)と東関東方言(茨城県など)が混合したような方言の話者が多い。この場合、アクセントも茨城弁ほどでないにせよ曖昧化・崩壊が見られ、東京式アクセントとはほど遠い。同様の方言は、隣接する流山市や埼玉県吉川市・三郷市などでも聞かれ(葛飾方言)、北へ行くほど東京式アクセントとの乖離が大きい傾向がある。
野田市や隣接する流山市・茨城県南西部などで話される言葉で他の地域ではあまり通じない言葉としては、
などがある。
地域
住宅団地
病院
図書館
教育
近代以前の野田の教育
江戸時代、野田(旧野田町地域)は天領や旗本の知行地で野田には支配者としての武士階級の者が住むことはほとんどなかった。したがって江戸時代の教育を支えた藩校といった教育機関もなく、幕末を別にすれば寺子屋といったものもあまりなかったとみられる。著名な学者を生んだとか学者が住んだというような歴史もなくごく平凡な農村地域であった。江戸時代の旧野田町地域は、教育が進んだ地域ではなく、読み書きができたのは村役人や僧侶、医者、浪人など限られていたとみられる。幕末には全国の傾向と同じく野田にも庶民に教える寺子屋が多くできたが、その大半は僧侶や医者が教えるもので、何を教えたのかについては不詳であるものの、わかっているものでは基本的な読み書きやそろばん算術など、女子には裁縫などを教えていたものとみられる。それに対して関宿地域は関宿藩の領地で武士も住み、武士の子弟の教育のため藩校も開かれ、それを教えるために学者も招かれていた。関宿では旧野田地域とは違い、武士ばかりではなく優秀であれば百姓町民も学ぶことができたようである。佐藤真著『のだしー歴史の中の野田ー』1981年聚海書林、120~125ページ
明治5年明治政府は学校制度の整備を始め、全国を8大学区256中学区53760小学校区にわけそれぞれに小学校を設けることにした。野田では明治6年の愛光小学校(これはすぐに野田小学校と改名し、さらに大口寄付者の名により茂木小学校と改名する)が開校するなど明治5年から8年にかけて小学校が次々と開校していった。しかし初期の教育制度は未整備で学校制度は様々な試行錯誤を重ねていく。佐藤真著『のだしー歴史の中の野田ー』1981年聚海書林、157~162ページ
幼稚園
- 野田幼稚園
- 中央幼稚園
- キッコーマン春風幼稚園(廃止)
- 宮崎幼稚園
小学校
- 野田地区
-
野田市立中央小学校(経済産業省認定近代化産業遺産)
- 野田市立宮崎小学校
- 野田市立東部小学校
- 野田市立南部小学校
- 野田市立北部小学校
- 野田市立川間小学校
- 野田市立福田第一小学校
- 野田市立福田第二小学校
- 野田市立清水台小学校
- 野田市立柳沢小学校
- 野田市立山崎小学校
・・・・・・・・・・・・・・・・・・