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野茂英雄とは?

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野茂 英雄
Hideo Nomo

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
大阪府大阪市港区
【生年月日】
(1968-08-31) 1968年8月31日(49歳)
【身長
体重】
6' 2" =約188 cm
220 lb =約99.8 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1989年 ドラフト1位
【初出場】
NPB / 1990年4月10日
MLB / 1995年5月2日
【最終出場】
NPB / 1994年8月24日
MLB / 2008年4月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
2014年
【得票率】
82.4%(324票中243票)
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


オリンピック
男子 野球
 | 1988 | 野球

野茂 英雄(のも ひでお、1968年8月31日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産し、NPBMLBで活躍した。2016年2月からサンディエゴ・パドレスのアドバイザーに就任。長男は北海道日本ハムファイターズの球団通訳の野茂貴裕。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 近鉄時代
      • 1.2.1 近鉄退団
        • 1.2.1.1 球団との確執
        • 1.2.1.2 監督との確執
    • 1.3 ドジャース新人投手時代から移籍
    • 1.4 メッツ時代
    • 1.5 カブス傘下時代
    • 1.6 ブルワーズ時代
    • 1.7 タイガース時代
    • 1.8 レッドソックス時代
    • 1.9 ドジャース復帰
    • 1.10 ドジャース退団後
    • 1.11 現役引退後
  • 2 選手としての特徴
  • 3 社会現象
  • 4 野茂とキューバ
  • 5 NOMO ベースボールクラブ
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別投手成績
    • 6.2 タイトル
    • 6.3 表彰
    • 6.4 記録
    • 6.5 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 出演
      • 7.1.1 CM
  • 8 脚注
    • 8.1 注釈
    • 8.2 出典
  • 9 関連項目
  • 10 外部リンク

経歴

プロ入り前

小・中学校時代は全くの無名選手であったが、この若さで「体を捻って投げると直球の威力が増す」と理解し、後のトルネード投法の原型となるフォームで投げていた。高校時代の監督はその投法を振り返り、トルネードほど捻らないがその片鱗を感じたという意味で「つむじ風投法」と名付けた。近大附など名門野球部のセレクションをいくつか受けるも不合格となり、大阪府立成城工業高等学校(現・大阪府立成城高等学校)に進学する。高校では2年生からエースとなり、1985年7月19日全国高等学校野球選手権大阪大会2回戦の大阪府立生野高等学校戦で完全試合を達成。3年時はベスト16(5回戦)進出などの成績を残す。

高校卒業時に既にプロから誘いがあったが、新日本製鐵堺へ入社(勤務先は子会社の新日鐵化学)。新日鐵化学での当時の給料は額面で11万9000円、手取りでは9万円ほど。新日鐵堺での1年目にはスライダーを習得できなかったため、最大の武器となるフォークボールを習得。2年目にはチームを都市対抗野球大会に導き、日本代表に選出される。1988年ソウルオリンピックでは銀メダル獲得に貢献している。

名実共にアマチュアNo.1投手となった進路が注目される中で行われた1989年のNPBドラフトでは史上最多の8球団(阪神タイガースロッテオリオンズヤクルトスワローズ横浜大洋ホエールズ福岡ダイエーホークス日本ハムファイターズオリックス・ブレーブス近鉄バファローズ)から1位指名を受け、抽選の結果近鉄が交渉権を獲得した。推定契約金は史上初の1億円台となる1億2000万円、推定年俸は1200万円で、契約時に投球フォームを変更しないという条項が付け加えられた。

近鉄時代

1990年4月10日西武ライオンズ戦でプロ初登板。その後勝利の付かない試合が続くが、4月29日のオリックス戦で日本タイ記録(当時)の1試合17奪三振を記録し、完投でプロ初勝利を挙げた。同年は新人ながら最多勝利最優秀防御率最多奪三振最高勝率と投手四冠を独占したほか、ベストナイン新人王沢村栄治賞MVPにも輝き、パ・リーグの投手が沢村賞の選考対象となったのは1989年からで、野茂はパ・リーグからの受賞第1号となった(2010年までに新人王と沢村賞を権藤博堀内恒夫上原浩治が、木田勇が新人王とMVPのダブル受賞を果たしているが、新人王・沢村賞・MVPをトリプル受賞したのは野茂だけである。ただし木田は、当時の沢村賞の選定がセ・リーグのみだったため受賞対象者ではなかった)。奪三振に関してはシーズン2桁奪三振試合21回、5試合連続2桁奪三振(当時)、三振奪取率10.99(パ・リーグ最高記録)など従来の記録を次々に更新し、「ドクターK」の異名に違わぬ活躍を見せる。

1991年には自身の記録を塗り替える6試合連続2桁奪三振を記録した他、1993年にも5試合連続2桁奪三振を記録。同時に1990年から1993年にかけ、史上初の新人年からの4年連続最多勝と最多奪三振のタイトル同時獲得を達成(新人からの4年連続最多奪三振は他に江夏豊がいるが、当時はタイトルではなかった)。

1991年のオールスターゲームでは第1戦(東京ドーム)に全パの先発投手としてマウンドに上がり、先頭打者の立浪和義をはじめ奪三振6を記録(1990年代の球宴では最多)する。第2戦(広島市民球場)では秋山幸二が自打球で負傷退場し、他に野手がいなかったため、代打で出場。結果は見逃し三振だったが、秋山が既に2ストライクだったため、記録上は秋山の三振。この時オリックスの中嶋聡のヘルメットを被って打席に立った。

1994年は開幕戦の西武戦で4回までに11奪三振、8回まで無安打に抑えたが、リリーフした赤堀元之伊東勤に逆転サヨナラ満塁本塁打を浴びて敗戦。7月1日の西武戦では1試合16与四球の日本記録を作ったが、191球を投げて3失点完投勝利を挙げた。右肩痛のためシーズン途中で戦線を離脱し、最多勝と最多奪三振の連続記録も途切れた。

近鉄退団

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球団との確執

1994年の契約更改では複数年契約と、団野村を代理人とした代理人交渉制度を希望したが、球団は肩を故障してシーズン後半を棒に振ったことを理由に拒否。この際「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放ったとされている。球団社長はマスコミに「年俸をもっとよこせ、ということでしょう」と述べ、要求はあくまで「年俸吊り上げのための口実」であり、「次の更改ではサインするでしょう」と楽観視していた。これに対し「お金の問題じゃないんです」と反論したが、この一連の動きに対してはマスコミも近鉄の意見に同調し、次第に孤立していった。更に仰木彬監督時代から球団に対して様々な不満があったことを語っている。

球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限り、トレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとした。自由契約にならない限り他球団でのプレーは出来ないためであるが、これがメジャーリーグへの挑戦を決意する1つ目の理由となった。

監督との確執

もう1つの理由は、同じ投手出身の監督・鈴木啓示との確執だった。野茂は近鉄への入団条件に「投球フォームの改造をしないこと」を挙げていた。当時の監督の仰木彬はこれを快諾し、調整方法も本人に任せたため、仰木を信頼して尊敬するようになった。これに関してはメジャー在籍時の晩年に「自分を信頼してくれた仰木さんを胴上げするためにチームに貢献しようと頑張っていたが、仰木さんが監督を辞められたことでその気持ちは薄れてしまった」と語っている。更に1993年に監督に就任した鈴木は、自身が主に先発で317勝と言う実績を挙げた投手出身と言うこともあってか、フォームや調整法など様々な事に関して干渉した。例として野茂は開幕戦で調子が整えばそれで良いという考え方で開幕前はスロー調整であったが、鈴木はオープン戦から結果を要求していた。立花龍司とのマンツーマン指導で遠投など自己流でスタミナを作っていたが、鈴木はひたすら走りこむことを要求し、「では一体何周走ればいいんですか?」と問うと鈴木は「何周とかと違う。野球選手はひたすら走るもんなんや」と持論を押し通した。近鉄投手陣は立花に信頼を寄せていたが、立花が鈴木の冷遇によって1993年に近鉄を退団したため、投手陣の反発を買った。

監督就任直後、道上洋三のラジオ番組への出演で、鈴木は野茂に関して「三振は取るが四球が多すぎる。(投球)フォームを改造しなければ」「いまのフォームではいずれ通用しなくなる。その時に私に頭を下げてこられるかどうかだ」と野茂の制球力の悪さに不満を持ち、完全に野茂のフォームを否定していた。

こうした指導法が元で鈴木を毛嫌いするようになり、近鉄退団を決意する2つ目の理由になった。当時のチームメイトだった金村義明は著書「勝てる監督 負けるボス」で、野茂の「僕は、別にどうしてもメジャーでやりたかったわけじゃない。ただ、あの監督(鈴木)の下ではやれないと思った、それだけなんです」という発言を紹介している。

交渉が不調に終わった結果近鉄を退団し、メジャーリーグに挑戦する。自由契約ではなく任意引退扱いなので日本プロ野球界に帰った場合、近鉄に保有権があることになった。当時の野球協約68条第2項には、「全保留選手は、他の球団と選手契約にかんする交渉を行ない、または他の球団のために試合あるいは合同練習等、全ての野球活動をすることは禁止される」 となっていたが、任意引退前にコミッショナー事務局から任意引退による球団の保有権が外国の球団にまで及ばないことの言質を得ていたため、メジャー球団と契約することが可能になった(その後、任意引退による日本人選手の流出に危機感を感じたNPB側が1999年に協約を改正し、「外国のいかなるプロフェッショナル野球組織の球団をも含め」という条文を追加したため、現在では日本のみならずメジャー球団を含め、任意引退した選手は世界各国のプロ野球球団と契約することが出来なくなった)。なお、近鉄は2004年にオリックスと合併したため、保有権はオリックスに移行したと解釈されている。

ドジャース新人投手時代から移籍

1995年2月8日ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。年俸は近鉄時代の1億4000万円からわずか980万円になった。背番号16は、親交のあったとんねるず石橋貴明が、映画『メジャーリーグ2』で日本人選手役として付けていた背番号であることから選んだ。野茂が渡米した当時のMLBは前年(1994年)からの長期ストライキで1995年シーズンの開始が1ヶ月近く遅れていたものの、5月2日サンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし、村上雅則以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。6月2日ニューヨーク・メッツ戦でメジャー初勝利を挙げ、14日のピッツバーグ・パイレーツ戦で球団新人最多記録の16奪三振を記録し、24日のジャイアンツ戦では日本人メジャーリーガー史上初の完封勝利を記録。29日のコロラド・ロッキーズ戦まででサンディ・コーファックスを抜いての球団新記録となる4試合での50奪三振を達成。同月はピッチャー・オブ・ザ・マンスを獲得し、50.1イニングを投げ、2完封を含む6勝0敗・防御率0.89・WHIP0.82の好成績を残す。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99・WHIP1.07の好成績で折り返し、オールスターゲームに初選出されて先発投手を務め、2イニングを1安打無失点に抑えた。8月10日には自身が先発した試合が没収試合になりメジャーリーグで没収試合を経験した初の日本人ともなった。 後半戦も15試合の登板で7勝5敗・防御率3.03・WHIP1.03の成績を残し、シーズン通算で13勝6敗、グレッグ・マダックスに次ぐリーグ2位の防御率2.54・236奪三振、リーグ最多の3完封を記録して最多奪三振のタイトルを獲得し、チームの7年ぶりの地区優勝に貢献。日米で『NOMOマニア』という言葉が生まれる程の人気を誇った。また、実況はあまりにも野茂が三振を取ってしまうことから、彼が三振を取るたびに日本語でSANSHINと発言していた。シンシナティ・レッズとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、6回途中5失点で降板して敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退した。ルーキー・オブ・ザ・イヤーの投票ではチッパー・ジョーンズを抑えて受賞し、サイ・ヤング賞の投票でも4位に入った。

【映像外部リンク】

1996年9月17日
1度目のノーヒットノーラン
達成の試合(MLB.comによる動画)

1996年スプリングトレーニング中に3年430万ドルで契約を延長。4月13日フロリダ・マーリンズ戦ではコーファックスに次ぐ球団史上2位となる17奪三振を記録し、完投勝利を挙げた。7月5日のロッキーズ戦では8回5安打1失点の投球でNPB/MLB通算100勝を達成。9月1日フィラデルフィア・フィリーズ戦でメジャー史上3人目となる1年目から2年連続200奪三振を達成。17日のロッキーズ戦では雨で試合開始が2時間遅れたが、途中3回からトルネードを封印しセットポジションに終始した投球でノーヒッターを達成した。高地で空気が薄いためスタミナの消耗が早く、球場が広くない上にボールも飛びやすい「打者天国」として知られるクアーズ・フィールド(野茂自身も、同球場では過去僅か2回の登板経験ながら防御率11.17と相性が悪かった)での達成者は、2017年時点で野茂のみであり、「完全試合に匹敵する」と報道したメディアもあった。また、現在クアーズ・フィールドではボールを湿らせることで打球を飛びづらくしているが、これは野茂の記録達成時に雨でボールが湿っていたことにヒントを得たという。この月には自身二度目となるピッチャー・オブ・ザ・マンスも獲得した。後半戦は15試合の登板で7勝4敗・防御率2.84・WHIP1.10と好調を維持し、最終的にチーム最多の16勝をマークした。チームはサンディエゴ・パドレスと地区優勝を争い、1ゲーム差で敗れたがワイルドカードを獲得。アトランタ・ブレーブスとのディビジョンシリーズでは第3戦に先発したが、4回途中5失点と力を発揮できずに敗戦投手となり、チームも前年に続き3連敗で敗退した。

1997年4月25日のマーリンズ戦では、ドワイト・グッデンの記録を更新して当時のメジャー最速記録となる444回2/3での500奪三振を達成。8月28日オークランド・アスレチックス戦でもグッデンに続きメジャー史上2人目となる新人年から3年連続の200奪三振を達成した。前半戦は18試合の登板で8勝7敗・防御率3.81・WHIP1.27の成績で折り返すが、7月26日のフィリーズ戦で打球を右肘に受けて退場、打撲と診断される。故障者リスト入りすることなく復帰したが、後半戦は15試合の登板で6勝5敗・防御率4.81・WHIP1.50と不調に陥る。9月14日アストロドームでのヒューストン・アストロズ戦以降はトルネード投法を封印し、前年のノーヒットノーラン達成試合以来となる終始セットポジションからの投球に切り替えたが相手3番ジェフ・バグウェルに初回裏先制2ラン浴び7回を奪三振11も勝敗付かず降板。最終的にリーグ4位の奪三振数を記録するも、チームはポストシーズン進出を逃す。オフには6月から張りがあったという右肘の遊離軟骨除去手術を受けた。

1998年は例年よりも1ヶ月早くロサンゼルス入りし、トレーニングを開始。スプリングトレーニングでは球速が91mph(約146km/h)まで回復するなど球威はあったが制球が悪く、計21回を投げ自責点19と開幕に不安を残した。4月3日のレッズ戦ではメジャー自己最多となる7連続奪三振を記録したが、18日のシカゴ・カブス戦では2/3回を8失点で降板。メジャー通算100先発となった28日のミルウォーキー・ブルワーズ戦の7回には日本人メジャーリーガー初本塁打を記録し通算45勝目をマークするも、5月9日のマーリンズ戦では右手中指のフェイクネイルの圧迫による痛みを訴え、途中降板。5月まで12試合の登板で2勝7敗・防御率5.05・WHIP1.40と不調。

メッツ時代

6月1日に退団の意思を示し、4日にトレードでメッツに移籍。7月に3連勝を記録したものの、1試合のリリーフ登板を含む17試合に登板し4勝5敗・防御率4.82・WHIP1.44の成績で、シーズン通算では6勝12敗・防御率4.92に終った。

1999年1月18日に1年292万5000ドルでメッツと再契約。しかし3月24日40人枠から外れ、3月30日に放出された。

カブス傘下時代

4月1日シカゴ・カブスとマイナー契約を結び、AAA級アイオワ・カブスに配属されたが、3試合に先発しただけで自由契約となった。

ブルワーズ時代

4月29日ミルウォーキー・ブルワーズと1年25万ドルで契約。AA級ハンツビル・スターズに配属された。調整登板で1試合を7イニング無失点に抑えると、5月9日にメジャー昇格。前半戦を13試合の登板で7勝2敗・防御率3.95・WHIP1.37の成績で折り返す。8月2日のメッツ戦ではドジャースとメッツでバッテリーを組んだマイク・ピアッツァと対戦。第3打席で本塁打を打たれるなど、5回9安打6失点で敗戦投手となり、試合後には「ずっとピアッツァを相手に投げたいと思っていた。彼にはもう少し良い球を投げたかった」と語った。9月8日アリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロジャー・クレメンス、グッデンに次ぎメジャー史上3番目のスピード記録となる147試合目でのメジャー通算1000奪三振を達成。後半戦は15試合の登板で5勝6敗・防御率5.06・WHIP1.46と調子を落としたものの、最終的にチーム最多の12勝を挙げた。

タイガース時代

2000年1月22日デトロイト・タイガースと年俸125万ドル+出来高225万ドルの1年契約(2年目は年俸550万ドルの球団オプション)を結ぶ。この年からツーシームとスライダーを習得した他、セットポジションでのフォームを改良し、クイックのタイムを1.5秒台から1.3秒台に縮めた。4月3日オークランド・アスレチックス戦では日本人初の開幕投手を務め、7回3安打3本塁打3失点で勝利投手となった。7月2日カンザスシティ・ロイヤルズ戦ではマック鈴木と投げ合い、7回0/3を無失点7奪三振で勝利。9日のブルワーズ戦ではイタリアンソーセージの着ぐるみで観客に牛肉を配り、ソーセージ・レースにも参加し優勝。観客にはレース後にアナウンスでこのことが知らされた。しかし前半戦は20試合の登板で3勝7敗・防御率4.74・WHIP1.48の成績で折り返し、8月に右手中指の炎症で初の故障者リスト入り。18日のアスレチックス戦で復帰し、5勝目を挙げた。

【映像外部リンク】

2001年4月4日
2度目のノーヒットノーラン
達成の試合(MLB.comによる動画)

レッドソックス時代

2000年12月15日ボストン・レッドソックスと年俸325万ドル+出来高75万ドルの1年契約を結んだ。

2001年4月4日ボルチモア・オリオールズ戦では電気系統の故障で試合開始が遅れた中、2度目のノーヒットノーランを記録。レッドソックスの投手としては、1965年9月16日にデーヴ・モアヘッドが対クリーブランド・インディアンス戦(フェンウェイ・パーク)で達成して以来、実に約35年半ぶり13人目(15回目)のノーヒットノーランであった。また、カムデン・ヤーズにおけるノーヒッターは2017年現在野茂が史上唯一の達成者であり、1996年に続き達成難度の高い球場での達成となった。この試合により両リーグにわたってのノーヒッター達成者となり、これはサイ・ヤングジム・バニングノーラン・ライアンに次ぐ史上4人目の快挙である。同月26日には、レッドソックスのMLB初試合から100周年目の試合となったミネソタ・ツインズ戦にも登板し、7回まで無安打の投球を見せた。5月2日シアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対決し、第1打席と第2打席を二ゴロ、中飛に抑え、第3打席には死球を与えた。25日のトロント・ブルージェイズ戦では7者連続を含む14奪三振1安打で完封勝利を挙げ、6年ぶりの無四球を記録。6月16日のブレーブス戦では3回にNPB/MLB通算2500奪三振を達成。前半戦を18試合の登板で8勝4敗・防御率3.83・WHIP1.21で折り返し、7月20日シカゴ・ホワイトソックス戦で2年ぶり5度目の10勝に到達した。7月は負けなしの5勝・防御率3.00・WHIP1.50の成績で、ピッチャー・オブ・ザ・マンスの投票ではマーク・マルダーに次ぐ2位となった。8月からは2勝6敗・防御率6.07・WHIP1.49と調子を落とした。しかしシーズンを通して奪三振率が9.00を切ることなくリーグ1位の奪三振率10.00を記録し、4年ぶりに200奪三振を越えて二度目の最多奪三振を獲得した。

ドジャース復帰

2001年12月19日に2年1375万ドル(3年目は年俸900万ドルの球団オプション)で古巣ドジャースに復帰。

2002年4月2日のジャイアンツ戦では4回まで1安打に抑え、5回には2死満塁の場面で新庄剛志を迎えるが、新庄を二ゴロに抑え、ドジャース復帰後初勝利を挙げた。その後は打線と噛み合わなかったが、5月17日からは14勝1敗の活躍で、6月21日のレッドソックス戦でメジャー通算1500奪三振を記録。7月1日のダイヤモンドバックス戦ではランディ・ジョンソンと投げ合い、5回にジョンソンからタイムリー二塁打を放てば、投球でも8回5安打無四球無失点7奪三振の好投で自己最長タイの7連勝を記録。前半戦を18試合の登板で9勝5敗・防御率3.16・WHIP1.32の成績で折り返した。8月22日のマーリンズ戦では3回に突如制球を乱して敗戦投手となる。同年チームメイトだった石井一久とは与四球数において、メジャー全体で1・2位を記録した(1位は石井106個、2位は野茂103個)。

2003年は自身3年ぶりの開幕投手に指名され、開幕戦となった3月31日のダイヤモンドバックス戦で、ランディ・ジョンソンと投げ合い、完封勝利。4月20日のジャイアンツ戦でメジャー通算100勝を達成。前半戦を20試合の登板で9勝8敗・防御率2.97・WHIP1.12の成績で折り返す。9月に右肩回旋筋の炎症が見つかるも、故障者リスト入りはせずに療養し、14日に復帰。最終的に防御率はリーグ6位の3.09、得点援護率がリーグワースト3位ながらもリーグ5位の16勝を挙げ、チームメイトのショーン・グリーンが「ウチにはブラウニー(ケビン・ブラウン)とエースが二人いる」と絶賛する活躍を見せた。オフに肩の内視鏡手術を受けた。

2004年は球団がオプションを行使して残留。前年に続いて開幕投手を務めるも、オフに受けた肩の手術からの回復が遅れて球速が戻らず、2度の故障者リスト入りを挟み、4月17日から9月1日にかけて自己ワーストの10連敗を喫した。

ドジャース退団後

タンパベイ・デビルレイズ時代(2005年)

2005年は当時、創設八年目のタンパベイ・デビルレイズとマイナー契約。6月15日のブルワーズ戦でNPB/MLB通算200勝を達成するが、7月26日に解雇。27日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだ。NPB/MLB通算200勝を達成したことで日本プロ野球名球会入りの権利を得たが、この時は「今は返事をする必要がないと思う」として態度を保留した。

2006年3月3日にホワイトソックスとマイナー契約。4月17日にAAA級シャーロットの先発として初登板したが、右肘の炎症を理由として故障者リストに登録され、6月8日に契約解除。同月下旬には右肘を手術した。

2007年ドミニカ共和国でのウィンターリーグ参加を検討したが、回復が思わしくないことから断念。リハビリに専念するため、どのチームにも所属していない状態が続いた。その後、リーガ・ベネソラーナ・デ・ベイスボル・プロフェシオナルレオネス・デル・カラカスに入団し、ベネズエラでのウィンターリーグへの参加が認められる。10月20日のグアイラ戦では1年半ぶりの登板を果たした。

2008年1月4日にロイヤルズとマイナー契約を結ぶ。手術した右肘への負担を軽減するため、トルネードの大きな特徴であったワインドアップ・モーションをやめ、セットポジションに投法を統一する。オープン戦で防御率は思わしくなかったものの、16イニングを投げ16奪三振、四死球は4つにとどめるなど比較的安定して三振が取れていると評価され、4月5日にメジャー昇格 の後、同月10日、2005年7月15日以来1000日ぶりにメジャーで登板した。しかしその後結果は残せず、4月20日DFAとなった。

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出典:wikipedia
2018/08/14 22:33

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