金 廣鉉(キム・グァンヒョン、韓国語:김광현、1988年7月22日 - )は、大韓民国のソウル特別市出身のプロ野球選手(投手)。左投左打。MLBのセントルイス・カージナルス所属。
野球好きの父親の影響もあり、小学校3年時より野球を始める。安山工業高校時代より速球派の左腕として頭角をあらわす。
2005年はアジア青少年大会に出場し、チャイニーズタイペイ戦で勝利投手となる。平田良介らが率いる日本高校選抜チームにも5回をパーフェクトに抑えるなど2年生エースとして活躍した。打線が沈黙して2勝2敗だったが、防御率は1.04の好成績を残した。この大会で、堂々たるマウンドさばきを見せ、日本でも注目される存在となった。
2006年はハバナで開催されたAAA世界野球選手権大会にも出場した。準々決勝のチャイニーズタイペイ代表戦では完封勝利。準決勝のカナダ戦と決勝のアメリカ合衆国戦でもリリーフとして登板。大会通じて4勝、防御率0.87、奪三振22個の好成績で大会MVPを獲得した。
2006年のKBOドラフトの地域優先ドラフトでSKワイバーンズに1位指名され、入団した。
2007年はシーズン開幕直前に開かれた記者会見では、プロ入り1年先輩の柳賢振(前年度MVP、投手3冠)を指して「頭を使えばもっといい投手になれる」と発言し、韓国中の注目を集める。開幕から先発ローテーションに入ったものの後半は調子を落す。シーズン中は2軍落ちも経験、勝ち星も3つにとどまったが、8月に1軍復帰してからは本来の姿を取り戻したと評された。ワイバーンズはシーズン初めから好調を維持して韓国シリーズに進出。
斗山ベアーズとの韓国シリーズでは、チームが1勝2敗と追い込まれていた第4戦(10月26日)に先発登板。粘り強い投球でベアーズ打線を8回2死まで1安打、無失点に抑える好投を見せ、斗山のエースで今シーズンのタイトルを総なめにしたダニエル・リオスとの投げ合いを制した。ワイバーンズも韓国シリーズ球団史上初制覇を果たした。優勝祝勝会で監督の金星根からアジアシリーズ初戦の先発登板を告げられる。そのアジアシリーズのため来日。プロフィールのインタビューには「韓国シリーズで高校時代の自信を取り戻した」と答えている。開幕戦に先発し、7回まで中日打線を3安打、無得点に抑えた。ワイバーンズもそのまま6対3で勝利。日本のチームが敗れたのは大会初のことであった。決勝戦は2番手として登板、初戦で抑え込んでいた李炳圭に2ランを浴びて降板し、チームも9回表に勝ち越し点を許し敗れてしまった。
北京オリンピック・アジア予選には、代表選考のころ、不調で2軍落ちしていたため、出場できなかった。また、新人王のタイトルも、記者投票で斗山ベアーズの林泰勳(イム・テフン)に敗れ、受賞できなかった。
2008年はシーズン開幕前の3月に開催された北京オリンピック野球世界最終予選の韓国代表に選出された。同大会ではメキシコ戦、チャイニーズタイペイ戦に先発、いずれも勝利投手となり、韓国代表の五輪出場に貢献した。8月に開催された北京オリンピックの野球韓国代表にも選出されたが、この時韓国代表では最年少での選出だった。予選と準決勝の日本戦で先発。予選では6回を投げ、2失点で勝ち負けつかず、準決勝では8回2失点で勝利投手となって、韓国代表の金メダル獲得に貢献。韓国では「日本キラー」というあだ名がついた。
レギュラーシーズンでは、前年から一段成長した姿を見せ、ローテーションのエースとして活躍し、最多勝と最多奪三振のタイトルを手にし、レギュラーシーズンMVPにも選出され、期待された素質を開花させた。チームもベアーズとの韓国シリーズを制し、2年連続で韓国シリーズ優勝を果たした。アジアシリーズでは、日本シリーズを優勝した埼玉西武ライオンズとの試合で先発登板したものの、5回途中3失点で降板と振るわず、チームは勝利したものの満足のいく内容ではなかった。さらにチームも台湾シリーズを優勝した統一セブンイレブン・ライオンズに敗れ、決勝進出もならなかった。
2009年はシーズン開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の韓国代表に選出された。同大会では東京ラウンドの日本戦で先発登板した。韓国では北京オリンピックの再現が期待されたが、金をよく研究した日本打線の前に1回1/3を投げて8失点でKOされ、2対14で7回コールド負けをするきっかけとなった。本人曰く「僕の野球人生は長くないが、あんなに打たれたのは初めて」と悔しそうに語った。その後の同大会では先発登板することなく、2次ラウンドで3試合リリーフ登板した。日本との2次ラウンド順位決定戦では8回表に登板したが、勝ち越し適時打を打たれた。結局同大会では満足のいく結果は残せなかった。
シーズンでは、前年と同じくチームのエースとして活躍していたが、8月2日に金賢洙の放った打球が手の甲に直撃。ボールの跡がはっきりと分かるほどの痛烈なピッチャー強襲であり、負傷で戦線を離脱。その後も、プレーオフや韓国シリーズといったポストシーズンでも1度も登板することなくシーズンを終えた。だが規定投球回数に達していたため、初の最優秀防御率のタイトルを獲得した。
2010年は負傷から復活し1年を通して先発ローテーションを守り、SKのエースとして活躍し17勝で自身2度目となる最多勝のタイトルを獲得した。オフの11月に開催された広州アジア競技大会の韓国代表に選出されたが、顔面麻痺により辞退し、日韓クラブチャンピオンシップの出場メンバーからも外れた。
2011年は体調不良で開幕1軍に入れず、7月には肩の故障でたびたび戦線を離脱し4勝にとどまった。
2012年も体調不良が治らず、1軍初登板は6月後半からだったが、先発として起用され続け8勝をあげた。
2013年も開幕1軍に間に合わなかったが、4月中旬に初登板を果たし2010年以来3年ぶりとなる2ケタ勝利を記録し、規定投球回数にも達した。
2014年は13勝をあげ、復活を予感させた。オフにメジャーリーグベースボール(MLB)挑戦を表明し、11月にポスティングシステムの行使を要請。最高入札額200万ドルをつけたサンディエゴ・パドレスと入団交渉することになったが、12月12日に交渉期間内に契約がまとまらず、SKに残留した。
2015年オフの10月7日に第1回WBSCプレミア12の韓国代表選手28名に選出された。同大会では11月21日の決勝のアメリカ合衆国戦に先発し、5回を無失点に抑え韓国代表の優勝に貢献した。
2016年はプロ通算100勝目を含む11勝を記録した。オフの11月に初のフリーエージェント(FA)権を行使したが、SKと2017年からの4年契約を結び残留した。
2017年はシーズン開幕前の3月に開催された第4回WBCの韓国代表に選出されたが、肘の手術による長期間のリハビリのため辞退した。シーズンではSKで1試合も登板しなかった。
2018年は11勝を記録。SKは韓国シリーズに進出し、8年ぶりの韓国シリーズ優勝にも貢献した。
2019年オフの11月に開催された第2回WBSCプレミア12の韓国代表に選出された。同大会では2試合に先発登板した。韓国は決勝で日本に敗れ、準優勝となったが、同大会は東京オリンピック予選を兼ねており、開催国である日本を除きアジア・オセアニア最上位だったため韓国は出場権を獲得した。大会終了後の12月6日に自身2度目となるポスティングによるMLB移籍を申請した。
2019年12月17日にセントルイス・カージナルスと2年総額800万ドルで契約を結んだ。SKには譲渡金として160万ドルが支払われる。
2020年シーズン開幕戦となった7月24日のピッツバーグ・パイレーツ戦、3点リードした9回表に3番手で登板してメジャーデビュー。2点を失ったが、セーブを挙げた。8月23日のシンシナティ・レッズ戦で先発登板し、メジャー初勝利を記録。
長身・長いリーチと真上から振り下ろすオーバースローから、平均球速約147km/h・最速156km/hのストレートと縦に鋭く落ちる高速スライダーを武器にする先発左腕。他にフォークボール、カーブも投げることが出来る。
2018年までチェンジアップを時折使用していたが、18年オフに門倉健からフォークボールを教わり、同球種は使用しなくなった。
投球する時、足を高く上げ、腕を大きく振るフォームが特徴であるため、モーションが大きくクイックは苦手、故に盗塁をされやすいのが欠点である。
韓国では、「第2の柳賢振」や「微笑みサウスポー」の異名をとる。マウンド上では常に笑顔を絶やさず、韓国では「微笑みサウスポー」として知られるようになった。SKワイバーンズの金星根監督は、笑顔を見せることが相手打者に対する闘争心がないという印象を与えることを懸念し、できるだけ無表情で投球するように勧めている。
金はLGツインズのファンであったが、出身校の安山工高の所在地がSKワイバーンズのフランチャイズである京畿道であるため、地域優先ドラフトでワイバーンズに指名された。