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金田正一とは?


監督歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1988年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
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プロジェクト:野球選手 テンプレート


金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - 2019年10月6日)は、愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)出身のプロ野球選手(投手)・監督解説者評論家実業家タレント

国鉄スワローズ読売ジャイアンツで活躍し、日本プロ野球史上唯一の通算400勝達成投手にして、同時に298敗の最多敗戦記録をもつ。更に通算奪三振(4490奪三振)、通算完投(365完投)、通算イニング(5526回2/3)、通算対戦打者(22078打者)、通算与四球(1808与四球)はいずれも日本記録。NPB史上最年少ノーヒットノーラン達成者。史上2人目の沢村栄治賞3回受賞者。引退後はロッテオリオンズ監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

在日韓国人2世として出生し、後に日本帰化した。韓国名は金 慶弘(キム・ギョンホン、韓国語: 김경홍)。

目次

  • 1 概説
  • 2 経歴
    • 2.1 プロ入り前
    • 2.2 現役時代
      • 2.2.1 国鉄時代
      • 2.2.2 巨人時代
    • 2.3 引退後
      • 2.3.1 第一次ロッテ監督時代
      • 2.3.2 第二次ロッテ監督時代
      • 2.3.3 監督退任後
  • 3 プレースタイル
    • 3.1 投球
    • 3.2 球速
    • 3.3 カーブ
    • 3.4 記録
    • 3.5 打撃
    • 3.6 存在感
  • 4 トレーニング法・コンディショニング理論
    • 4.1 コンディション管理
    • 4.2 トレーニング
    • 4.3 食事
  • 5 逸話
    • 5.1 プロ入りに関する逸話
    • 5.2 対戦相手に関する逸話
    • 5.3 監督時代
    • 5.4 球界に対するスタンス
    • 5.5 家族
    • 5.6 交友関係
    • 5.7 秘宝
    • 5.8 影響
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別投手成績
    • 6.2 通算打撃成績
    • 6.3 年度別監督成績
    • 6.4 タイトル
    • 6.5 表彰
    • 6.6 記録
    • 6.7 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 出演番組
    • 7.2 出演映画
    • 7.3 CM
    • 7.4 著書
    • 7.5 金田正一を演じた俳優
  • 8 参考文献
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

概説

愛称は「カネやん」、「天皇」。少年時代のあだ名は「電柱」「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」と言われた。

現役時代は国鉄スワローズ・読売ジャイアンツでプレーし、日本球界不滅の400勝を記録。引退後はロッテオリオンズ監督(1973年 - 1978年, 1990年 - 1991年)を務め、1974年には前期リーグ優勝、日本一を達成している。千葉ロッテマリーンズ取締役のほか、2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所「カネダ企画」内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義金田星雄金田留広で、1軍経験があるのは留広のみ。息子は俳優金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。ちなみに留広は、金田が巨人で現役を引退した1969年に、右投手として東映フライヤーズへ入団。この年のオールスターゲームでは、正一がセントラル・リーグ、留広がパシフィック・リーグの監督推薦選手として出場していたことから、7月19日東京スタジアム(ロッテオリオンズの当時の本拠地)で開かれた第1戦では、「投手・留広対打者・正一」という(公式戦を含めても)生涯唯一の対戦が実現している(結果は正一が二塁へのフライで凡退)。

経歴

プロ入り前

 | 
この元プロ野球選手の経歴に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2009年11月)

1933年愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)に生まれる。名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、名古屋電気学校(旧制)を経て享栄商業高校へ編入。この時点では14歳で、本来の就学年齢より1年早い高校入学となった。但し、ロッテ監督時代の1990年に金田の担当記者であったスポーツニッポン大西純一曰く、本人から「2歳サバを読んでいた」と話されたことがあると言い、仮にこの話が正しければ金田は1931年生まれで享栄商編入時には就学年齢に達していたことになる。ちなみに、名古屋電気学校への在学中までは電気技師を志していたという。

享栄商では野球部長兼監督の芝茂夫と出会い、金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。同年の夏の甲子園に補欠で出場したが、登板機会はなかった。

2年次の1949年には、エースとして夏の甲子園県予選準決勝に進むが、瑞陵高徳永喜久夫に抑えられ完封負け。しかしコントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となる。

1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズ西垣徳雄監督にスカウトされた。同年夏も県予選準決勝に進むが一宮高に1-2で惜敗。この時のチームメートには一塁手高木公男、後にプロで同僚となる二塁手鵜飼勝助がいた。予選敗退後すぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団。

現役時代

国鉄入団時の金田

国鉄時代

(柿沼 1958)長嶋茂雄デビュー戦を4打席4三振に封じ込めたと報じる新聞記事

プロ初登板は1950年8月23日の広島戦(松山)で、押し出し四球でサヨナラ負けを喫した。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身もかつては各プロスポーツ関係者から手厚い待遇を受けており、特に自分に対する待遇は他の者よりも優遇されており「自分は特待生の中の特待生」だったと明かしている。金田の弁によれば、この制度によって様々な経済的援助を受けたことにより、「中学・高校を通して学費を払ったことが一切ない」という程だった。金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、半ばなかったことになってしまったという。

1951年は全107試合中44試合に先発登板し、9月5日の対大阪タイガース戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録であり、昭和生まれ初の達成となった。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。タイトルでは無かったが、自身初の最多奪三振を達成する。

1952年、2年連続で最多奪三振を達成。

1953年、3年連続で最多奪三振を達成。

1954年8月8日の試合で球審の国友正一に対して暴言を吐き自身初の退場処分となった。

1955年、自身4度目の最多奪三振を達成。

1956年、自身5度目の最多奪三振を達成。さらに自身初の沢村栄治賞を受賞する(昭和生まれ初)。

1957年8月21日の中日戦(中日)では完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも、達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際、金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。なお、NPBの公式戦において左腕投手で完全試合を達成したのは未だに金田ただ1人である。また、この年は自身初の最多勝最優秀防御率を獲得し、 自身初のベストナインを受賞。さらに2年連続で沢村賞を受賞した。

1958年4月5日の開幕戦(巨人後楽園)では長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」と感想を残した。次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋は1964年までの7年間で金田から打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。同年6月5日に通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。6月12日には開幕より僅か70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げ、いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64回1/3連続無失点の日本記録もこの間に達成。この年も最多勝と最優秀防御率を獲得。自身6度目の最多奪三振を達成。ベストナインも受賞。さらに史上初の3年連続沢村賞受賞を達成した。

1959年には王貞治が巨人に入団し、4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪った。王は同じく1964年までの6年間で打率.283、13本塁打を記録。金田は毎年最低1本は王に本塁打を打たれたが、特に最後の対戦となった1964年には1シーズンで7本塁打を打たれた。この年も自身7度目の最多奪三振を達成。

1960年自身8度目の最多奪三振を達成。

1962年9月5日にウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。

1963年6月30日に通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。この年はシーズン30勝を記録しているが、これ以降セ・リーグでは達成した投手はいない。 この年は、最多勝を獲得し、自身9度目の最多奪三振を達成。ベストナインも受賞する。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。巨人戦通算65勝は歴代1位。国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている。国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝。巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。この年は自身10度目の最多奪三振を達成。同年シーズン終了後に残留交渉がまとまらず12月21日に15年間慣れ親しんだ国鉄を退団することとなった。

巨人時代

1964年12月24日、B級10年選手制度を行使して巨人への移籍が正式に発表された。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社フジテレビが球団経営に参加した時点に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、この年の移籍につながったと言われている。

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促してチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、金田が巨人に在籍した5年間で日本シリーズ第1戦先発に3度(1965年、1967年、1968年)、公式戦の開幕投手にも4度(1965年、1967~69年)指名している。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

4月10日の開幕戦(対中日)で巨人移籍後初登板初勝利を果たす。またこの試合では6回に自ら試合を決める本塁打も放っている。翌々日の4月12日の阪神戦では、柿本実が長嶋に対して際どいシュートを投げたことから乱闘騒ぎになり、柿本を突いたとして柳田利夫と共に2度目の退場処分を受けた。この年は巨人への移籍により登板数が減るが、主戦投手として6月初旬までに6勝を挙げる。梅雨の到来とともに持病の左肘痛が悪化して調子を落とすと、約3ヶ月勝ち星から見放される。9月8日の対サンケイ戦で久々に7勝目を挙げると、閉幕までに5勝を重ねたがシーズンでは11勝に終わる。結局、連続シーズン20勝の記録は14年で途切れるが、防御率1.84で3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。なお、この年は不調の夏場に約1ヶ月間一軍選手登録を抹消され、9月4日の対東映戦では生涯唯一となる二軍での登板を果たした。南海との日本シリーズでも開幕戦に先発して完投勝利を飾るなど、2勝を挙げている。

1966年は左肘の調子が思わしくなく、開幕から3試合連続ノックアウトされて戦列を離れると、シーズンを通じて4勝に終わる。1967年は復活し、城之内邦雄(17勝)に次ぐ16勝に防御率2.28(リーグ4位)を記録。以降は徐々に成績を落とし、1969年10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成。同年11月30日に記者会見を行い、現役引退を正式に表明した。巨人での背番号34は球団では4例目となる永久欠番に指定された。

金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに、最終的には引退を受け入れた。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。CS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったという。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだった。

引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている。

1970年4月2日に後楽園球場で古巣・ヤクルトとのオープン戦にて引退試合が行われた。

引退後

第一次ロッテ監督時代

引退後は日本テレビ(1970年 - 1972年)・ニッポン放送(1972年)で解説者を務める傍ら、タレントとしても活動していた。

1972年11月17日ロッテの監督に就任した。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインした。1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。1期目の就任当初は「あんな自分勝手な男が監督なんて出来るのか?」という声も上がっていたが、前年5位の投手陣を走り込み重視のトレーニングで鍛え上げ、Aクラスの3位に浮上させた。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男八木沢荘六木樽正明)もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。この頃から宮城球場を本拠地としながら各地で主催試合を行う時代の幕開けとなり、「ジプシー・ロッテ」と揶揄された。そんな中で金田は行く先々で大人気となり、前期優勝のかかった神宮球場の試合にはファンが殺到。入場しきれないファンが球場を取り巻き、テレビ局も急遽中継するほどのフィーバーぶりだった。

1974年は前期こそ阪急に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、日本シリーズでは巨人のV10を阻止した中日を破る。日本一になった際には「長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や」と喜び、外堀通りで行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。さんまのまんまに出演した際(1987年11月30日)には「どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた。」と語っている。

1975年は開幕からピリッとせず、4月23日から5月5日まで心臓発作で休養し、二軍監督の高木公男が代行を務めた。6月26日の近鉄戦(藤井寺)では矢頭高雄コーチを代理監督とし、ベンチ入り選手14人(投手:9人、野手:5人)で行い、1-4で敗戦して前期最下位が確定。金田や主力選手ら(有藤通世、木樽、弘田澄男山崎裕之ラファエル・バティスタビル・マクナルティ)は帰京して後期に向けた練習をしていたという状態で、後日リーグ理事会から手抜き試合であるとして厳重注意された。後期は2位に盛り返したが、総合4位に終わった。シーズンオフの11月には韓国へ遠征し、24日・25日に東大門野球場で現地のノンプロ選抜チーム「全韓国」と対戦。2試合戦っていずれも勝利している。

1976年江藤慎一が加入。村田兆治が最優秀防御率を獲得する活躍を見せたが、前後期ともに3位だった。1977年白仁天高橋博士安木祥二が加入。有藤が首位打者を、新加入のレロン・リーが本塁打王と打点王の二冠を獲得する活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフで阪急に敗退したため日本シリーズ出場はならず。

1978年には川崎球場を本拠地とし、八木沢に「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことで一気に求心力を失う。前期の終盤に15連敗を記録して5位に転落し、その低迷のイライラを選手にぶつけて更に孤立。後期もなかなか勝ち上がれず、8月22日のスポーツ紙には「金田更迭」の大見出しが載る。優勝の可能性が消えてからはゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、時には遅刻することもあった。最大の後見役であった重光武雄オーナーからの了承もあり、9月30日に辞表を提出し10月2日正式に退任した。なお、重光オーナーは金田の後任候補として前年オフに南海を追放された野村克也を入団させており、選手兼任監督として就任要請をするも野村は尊敬していた金田の代わりは恐れ多いと固辞し、退団。結果としてもう一人の監督候補だった山内一弘が後任として監督就任。また、1981年オフにロッテから監督候補として挙がっていたが再任は見送られた。

監督辞任後はフジテレビ(1979年 - 1981年)・ニッポン放送(1979年 - 1983年)、日本テレビ(1981年 - 1989年)で解説者を務めた。1978年に日本プロ野球名球会を設立し、1981年の株式会社改組後は代表取締役を務めた。

1988年野球殿堂入り。

第二次ロッテ監督時代

1989年10月27日ロッテの監督に復帰した。2期目の1年目は前田幸長小宮山悟の活躍もあったが、5位に終わる。4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得し、長年エースとして活躍した村田が引退。オフのドラフトで8球団の競合だった小池秀郎をくじ引きで交渉権を得るも、入団を拒否される。この入団拒否は、元々ロッテが小池の意中の球団でなかったことと、金田の選手育成方針や言動などに小池が不信感を持ったことが原因と言われている。

1991年は4年目の堀幸一がレギュラーに定着し、観客動員100万人を達成したが、前年ブレークしかけた伊良部秀輝が不振で、主砲のマイク・ディアズが骨折によりシーズン途中で離脱するなど、最下位に終わる。平井光親が首位打者を獲得。本拠地川崎球場の老朽化や観客動員低迷への抜本的打開策として、球団側は翌シーズンからの千葉県千葉市千葉マリンスタジアム(当時)移転を決めたため、川崎時代最後の監督となる。シーズン終了後の11月5日に辞意を表明した。皮肉にも、引退勧告を行ったことがきっかけで第一次時代に監督を辞任するきっかけとなった当事者であった八木沢に追い落とされる形となってしまった。

監督退任後

2008年4月11日から13日までの巨人対ヤクルト戦は「川上哲治/金田正一シリーズ」(永久欠番シリーズ)として開催された。この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。

現在でも、金田の球歴を知る選手・OB・関係者にとっては畏れ多い存在である。2008年に金本知憲の2000本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れない様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には原辰徳監督が内海哲也に「あの方を知ってるか」と聞いたところ、「カネムラさん」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった。

2009年、金田が会長を務めていた名球会に対し、金田のワンマン運営であるという批判が上がった結果、金田は名球会の代表取締役を退任。名球会事務局も金田の個人マネジメントを行う「カネダ企画」から移転した。2010年に名球会は一般社団法人となったが、この改組に反対した金田は名球会から退会状態になっている事が報じられた。

2012年11月14日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)に36年ぶりに出演した。

2015年6月25日には『アウト×デラックス』(フジテレビ)に出演し、「自分のことやから言うけど34歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」と発言。さっそく自らを絶賛し、山里亮太から「ダルビッシュとどっちが凄いんですか?」と訊かれると、「それは無礼だよ」と言い、矢部浩之から「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えた。歯に衣着せぬキャラクターでロッテ監督退団後も引き続きタレントとして活動していた。

2019年10月6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で死去。通夜告別式は近親者のみで営み、後日「お別れの会」を予定している。86歳没。

プレースタイル

投球

20年の現役生活において、用いた球種は速球縦に鋭く割れるカーブのみであった。

特に速球については「手元から離れても最後まで速度が落ちない快速球」と言われるほど、凄まじい球威を持っていたとされ、数々の逸話を残している。

投球術については、国鉄-巨人の現役時代を通じて捕手からのサインの指示を受けず、自らの判断のみで投球内容を決定する「ノーサイン」を貫き通した。金田の巨人移籍当時の正捕手であった森祗晶は、国鉄の捕手であった根来広光から「金田はノーサインだから捕球が大変だぞ」と忠告を受け、金田に今後の方針について相談したところ「巨人に来たからにはサインに従う」と述べたものの、実際の試合では森のサインに全く従わなかったため、最終的に森が折れる形で引退までノーサイン投球を継続したという。

金田の投球フォームは、軸足(右足)の踏み出しと同時に弓を引くように左肩を後方に大きく引きつけて、上半身を大きく前方に倒れこませるようにしてリリースする事が特徴のオーバースローで、軸足を前方に踏み出す際に余り大きな足の上下動を伴なっていないにも関わらず、野球記者からも豪快であると評される事が多く、今日のバイオメカニクス上の分類ではパンチャー・タイプに分類される本格派投手であった。しかし、金田自身は「投手にとって最も大事な要素は下半身」という持論を持っており、自身の鍛錬や村田兆治ら後進への指導の際には走り込みを最も重視しており、監督時代には「足で投げろ!」と檄を飛ばすほど下半身主導の投球の大切さを説いていた。金田のオーバースローは、左手の掌はテイクバックの際に上を向くアーム式で、軸足の膝はリリース後のフォロースルーまで真っ直ぐに突っ張ったままという、今日では古典的とされるフォームでありながらも、リリースの寸前まで後方に引き付けられた左肩の大きな可動域と、上半身主導の強い遠心力を支え切る強靭な足腰が、20年に渡る現役生活で肘以外に大きな故障を起こすこと無く大記録を達成する原動力となった。

なお金田は自身の投球フォームを確立するに当たり、高校時代より藤本英雄の深く沈み込むフォームの写真を参考にしたという。球は速いが制球が悪すぎてチームメイトからすら「(危険過ぎるため)もう金田を投げさせないでくれ」と監督に懇願されるほどであった自身の欠点を克服する為、毎晩銭湯の鏡の前で藤本のフォームの写真を見ながらシャドーピッチングを行った。この時身に付いた「重心の低いフォーム」が、後年8種類とも自称した多彩なカーブの切れ味に貢献したという。

球速

高校時代、金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際、捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。

プロデビューした年、長野における阪神戦で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。投手と捕手との間隔が短過ぎるのではないか」とクレームをつけたためゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は規定通りであった。

全盛期の金田と対戦した経験がある選手たちは異口同音に「間違いなく150km/h台の後半か、160km/h台を出していただろう」と証言しており、川上哲治も「最も速い球を投げる日本人投手は誰か」と問われた際「自分が実際に見た中で言うなら、金田だと思いますね。若い頃はもう、本当に速かった」と答えている。

ライバルであった投手の側からの評価も非常に高く、金田に次ぐ350勝を挙げた米田哲也は「(金田の球速は)当時で160km/hぐらいはあったと思う。(自身も)目標にしていた。」と述べており、320勝を挙げた小山正明は「カネさん(金田)とヨネ(米田)は軽く投げて160km/h台。僕がその少し下くらい(自己評価では150km/h台は軽く越えた、としている)やろうね。」と述べていた。

金田は自身の現役最末期、当時解説者をしていた青田昇の元を訪ね「青さん、ワシと沢村栄治さんと球どっちが速かった?」と尋ねたことがある。青田は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝し、金田はその答えに憮然としながら去ったというが、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当はカネやんのほうがすごかったかもしれんなあ」と述懐している。但し青田は1942年の巨人入団で、沢村と巨人で共にプレーしたのは短い期間であり、その頃には兵役に就いていた影響で沢村は全盛期のような快速球を既に投げることが出来なくなっていた。そうした事情もあって青田は実際に見た目から「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している。

カーブ

剛速球の評価もさることながら、カーブを讃える者も多い。

有本義明は戦後最高のカーブの使い手として、堀内恒夫江川卓と並んで金田を挙げている。

佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と述べている。

野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。

金田のカーブは軌道の違いによって5種類あったといわれるが、特に「2階から落ちる」と言われた「モノになるのに10年かかった」という縦のカーブが武器だった。そのカーブは左肘に対する負担が大きく、毎年のように肘の痛みに苦しめられた。入団5年目辺りから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。序盤快調だったシーズンでも梅雨時や秋口に1か月くらい勝てないことがよくあった。

巨人に移籍後は球速が落ちたが、バックの守りが安定していたこともあり、フォークやスラーブ、カットボール気味の速いカーブ、稀にシュートや超スローボールなども用いるようになり、球威の衰えをテクニックでカバーする技巧派の一面も見せている。

1973年にロッテ・オリオンズ監督(第1期)に就任した後、ブルペンで現役当時を彷彿させる落差のあるカーブを投げてみたところ、当時のロッテの正捕手がその球を捕球できなかったという。

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出典:wikipedia
2019/10/17 06:45

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