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金田正一とは?

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金田 正一

【基本情報】

【国籍】
日本
【出身地】
愛知県中島郡平和村(現:稲沢市)
【生年月日】
(1933-08-01) 1933年8月1日(84歳)
身長
体重 184 cm
73 kg
【選手情報】

【投球・打席】
左投左打
【ポジション】
投手
【プロ入り】
1950年
【初出場】
1950年8月23日
【最終出場】
1969年10月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1988年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - )は、愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)出身の元プロ野球選手(投手)・監督解説者評論家実業家タレント。愛称は「カネやん」。

日本プロ野球史上唯一の通算400勝を達成、298敗の最多敗戦記録を持つ。引退後はロッテオリオンズ監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

目次

  • 1 概説
  • 2 経歴
    • 2.1 プロ入り前
    • 2.2 現役時代
      • 2.2.1 国鉄時代
      • 2.2.2 巨人時代
    • 2.3 引退後
      • 2.3.1 ロッテ監督時代
      • 2.3.2 監督退任後
  • 3 プレースタイル
    • 3.1 投球
    • 3.2 球速
    • 3.3 カーブ
    • 3.4 記録
    • 3.5 打撃
    • 3.6 存在感
  • 4 トレーニング法・コンディショニング理論
    • 4.1 コンディション管理
    • 4.2 トレーニング
    • 4.3 食事
  • 5 逸話
    • 5.1 対戦相手に関する逸話
    • 5.2 監督時代
    • 5.3 球界に対するスタンス
    • 5.4 家族
    • 5.5 影響
  • 6 詳細情報
    • 6.1 年度別投手成績
    • 6.2 通算打撃成績
    • 6.3 年度別監督成績
    • 6.4 タイトル
    • 6.5 表彰
    • 6.6 記録
    • 6.7 背番号
  • 7 関連情報
    • 7.1 出演番組
    • 7.2 CM
    • 7.3 著書
    • 7.4 金田正一を演じた俳優
  • 8 参考文献
  • 9 脚注
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

概説

少年時代のあだ名は「電柱」「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」と言われた。

現役時代は国鉄スワローズ読売ジャイアンツで活躍し、日本球界不滅の400勝を達成している。引退後はロッテオリオンズ監督(1973年 - 1978年, 1990年 - 1991年)を務め、1974年には前期リーグ優勝、日本一を達成している。現在はフリーの評論家、千葉ロッテマリーンズ取締役。2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所「カネダ企画」内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義金田星雄金田留広で、1軍経験があるのは留広のみ。息子は俳優金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

経歴

プロ入り前

 | この元プロ野球選手の経歴に関する文献や情報源が必要です。出典を明記するためにご協力をお願いします。(2009年11月)

1933年愛知県中島郡平和村(現・稲沢市)に生まれる。名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、卒業後は機械いじりが好きだったことから名古屋電気学校に入学するが、1年途中の1948年5月享栄商業高校へ編入。この時点では14歳で、本来の就学年齢より1年早い高校入学となった。 野球部長兼監督の芝茂夫と出会い、金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。同年の夏の甲子園に補欠で出場したが、登板機会はなかった。

2年次の1949年にはエースになったが、春夏ともに県予選で敗退。コントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となる。

1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズ西垣徳雄監督にスカウトされた。3年夏の予選で敗退するとすぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団。

現役時代

国鉄入団時の金田

国鉄時代

(柿沼 1958)長嶋茂雄デビュー戦を4打席4三振に封じ込めたと報じる新聞記事

プロ初登板は1950年8月23日広島戦(松山)で、押し出し四球でサヨナラ負けを喫した。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身もかつては各プロスポーツ関係者から手厚い待遇を受けており、特に自分に対する待遇は他の者よりも優遇されており「自分は特待生の中の特待生」だったと明かしている。金田の弁によれば、この制度によって様々な経済的援助を受けたことにより、「中学・高校を通して学費を払ったことが一切ない」という程だった。金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、半ばなかったことになってしまったという。

1951年は全107試合中44試合に先発登板し、9月5日の対大阪戦(大阪)タイガースでノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。

1954年8月8日の試合で球審の国友正一に対して暴言を吐き自身初の退場処分となった。

1957年8月21日中日戦(中日)では完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも、達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。再開時にベンチを出る際、金田はチームメイトに「あと6球で終わりや、帰り支度しといてや」と豪語したという。なお、NPBの公式戦において左腕投手で完全試合を達成したのは未だに金田ただ1人である。

1958年4月5日の開幕戦(巨人後楽園)では長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ。」と感想を残した。次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋は1964年までの7年間で金田から打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。同年6月5日に通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。6月12日には開幕より僅か70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げ、いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64回1/3連続無失点の日本記録もこの間に達成。

1959年には王貞治が入団し、4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪った。王は同じく1964年までの6年間で打率.283、13本塁打を記録。金田は毎年最低1本は王に本塁打を打たれたが、特に最後の対戦となった1964年には1シーズンで7本塁打を打たれた。

1962年9月5日ウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。1963年6月30日に通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。この年はシーズン30勝を記録しているが、これ以降セ・リーグでは達成した投手はいない。1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。巨人戦通算65勝は歴代1位。国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている。国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝。巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。

巨人時代

1965年の開幕前、B級10年選手制度を行使して巨人に移籍。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社フジテレビが球団経営に参加した時に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、この年の移籍につながったと言われている。

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促しチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、金田が巨人に在籍した5年間で日本シリーズ第1戦先発に3度(1965年、1967年、1968年)、公式戦の開幕投手にも4度(1965年、1967~69年)指名している。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

4月10日の開幕戦(中日)で巨人移籍後初登板初勝利を果たす。翌々日の4月12日の阪神戦では、柿本実が長嶋に対して際どいシュートを投げたことから乱闘騒ぎになり、柿本を突いたとして柳田利夫と共に2度目の退場処分を受けた。この年は巨人への移籍により登板数が減るが、主戦投手として6月初旬までに6勝を挙げる。梅雨の到来とともに持病の左肘痛が悪化して調子を落とすと、約3ヶ月勝ち星から見放される。9月8日の対サンケイ戦で久々に7勝目を挙げると、閉幕までに5勝を重ねたがシーズンでは11勝に終わる。結局、連続シーズン20勝の記録は14年で途切れるが、防御率1.84で3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。なお、この年は不調の夏場に約1ヶ月間一軍選手登録を抹消され、9月4日の対東映戦では生涯唯一となる二軍での登板を果たした。

1966年は左肘の調子が思わしくなく4勝に終わる。1967年は復活し、城之内邦雄(17勝)に次ぐ16勝に防御率2.28(リーグ4位)を記録。以降は徐々に成績を落とし、1969年10月10日の中日戦で球界初の通算400勝を達成。同年限りで現役を引退。巨人での背番号34永久欠番に指定された。

金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに最終的には引退を受け入れたという。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。CS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったとのこと。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだったという。引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている。

引退後

ロッテ監督時代

引退後は日本テレビ(1970年 - 1972年)・ニッポン放送(1972年)で解説者を務める傍ら、タレントとしても活動していた。1973年 - 1978年までロッテオリオンズ監督も務め、

1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。1期目の就任当初は「あんな自分勝手な男が監督なんて出来るのか?」という声も上がっていたが、前年5位の投手陣を走り込み重視のトレーニングで鍛え上げ、Aクラスの3位に浮上させた。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男八木沢荘六木樽正明)もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。この頃から宮城球場を本拠地としながら各地で主催試合を行う時代の幕開けとなり、「ジプシー・ロッテ」と揶揄された。そんな中で金田は行く先々で大人気となり、前期優勝のかかった神宮球場の試合にはファンが殺到。入場しきれないファンが球場を取り巻き、テレビ局も急遽中継するほどのフィーバーぶりだった。1974年は前期こそ阪急に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、日本シリーズでは巨人のV10を阻止した中日を敗る。日本一になった際には「長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や」と喜び、外堀通りで行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。さんまのまんまに出演した際(1987年11月30日)には「どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた。」と語っている。

1975年は開幕からピリッとせず、4月23日から5月5日まで心臓発作で休養し、二軍監督の高木公男が代行を務めた。6月26日近鉄戦(藤井寺)では矢頭高雄コーチを代理監督とし、ベンチ入り選手14人(投手:9人、野手:5人)で行い、1-4で敗戦して前期最下位が確定。金田や主力選手ら(有藤通世、木樽、弘田澄男山崎裕之ラファエル・バティスタビル・マクナルティ)は帰京して後期に向けた練習をしていたという状態で、後日リーグ理事会から手抜き試合であるとして厳重注意された。後期は2位に盛り返したが、総合4位に終わった。シーズンオフに韓国で現地のノンプロチームと対戦。

1976年江藤慎一が加入。村田兆治が最優秀防御率を獲得する活躍を見せたが、前後期ともに3位だった。1977年白仁天高橋博士安木祥二が加入。有藤が首位打者を、新加入のレロン・リーが本塁打王と打点王の二冠を獲得する活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフで阪急に敗退したため日本シリーズ出場はならず。

1978年には川崎球場を本拠地とし、八木沢に「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことで一気に求心力を失う。前期の終盤に15連敗を記録して5位に転落し、その低迷のイライラを選手にぶつけて更に孤立。後期もなかなか勝ち上がれず、8月22日のスポーツ紙には「金田更迭」の大見出しが載る。優勝の可能性が消えてからはゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、時には遅刻することもあった。最大の後見役であった重光武雄オーナーからの了承もあり、9月30日に辞表を提出。

監督辞任後はフジテレビ(1979年 - 1981年)・ニッポン放送(1979年 - 1983年)、日本テレビ(1981年 - 1989年)で解説者を務めた。1978年に日本プロ野球名球会を設立し、1981年の株式会社改組後は代表取締役を務めた。

1988年野球殿堂入り。

1990年から1991年までは再びロッテの監督を務めた。2期目の1年目は前田幸長小宮山悟の活躍もあったが、5位に終わる。4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得し、長年エースとして活躍した村田が引退。

1991年は観客動員100万人を達成したが、最下位に終わる。平井光親が首位打者を獲得。本拠地川崎球場の老朽化や観客動員低迷への抜本的打開策として、球団側は翌シーズンからの千葉県千葉市千葉マリンスタジアム(当時)移転を決めたため、川崎時代最後の監督となる。シーズン終了後に解任された。

監督退任後

2008年4月11日から13日までの巨人対ヤクルト戦は「川上哲治/金田正一シリーズ」(永久欠番シリーズ)として開催された。この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。

現在でも、金田の球歴を知る選手・OB・関係者にとっては畏れ多い存在である。2008年に金本知憲の2千本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れない様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には原辰徳監督が内海哲也に「あの方を知ってるか」と聞いたところ、「カネムラさん」と呼び間違えた上、(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」といった発言をしたことに、同行した広岡達朗が激怒したことがあった。

2009年、金田が会長を務めていた名球会に対し、金田のワンマン運営であるという批判が上がった結果、金田は名球会の代表取締役を退任。名球会事務局も金田の個人マネジメントを行う「カネダ企画」から移転した。2010年に名球会は一般社団法人となったが、この改組に反対した金田は名球会から退会状態になっている事が報じられた。

2012年11月14日、徹子の部屋に36年ぶりに出演した。2015年6月25日にはアウト×デラックスに出演し、「自分のことやから言うけど34歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」と発言。さっそく自らを絶賛し、山里亮太から「ダルビッシュとどっちが凄いんですか?」と訊かれると、「それは無礼だよ」と言い、矢部浩之から「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えた。

プレースタイル

投球

19年の現役生活において、用いた球種はホップする速球縦に鋭く割れるカーブのみであった。

特に直球については「手元から離れても最後まで速度が落ちない快速球」と言われるほど、凄まじい球威を持っていたとされ、数々の逸話を残している。

球速

高校時代、金田の投球を捕球出来る捕手がおらず、苦肉の策として投球練習する際、捕手をマウンドの上に座らせ自身がホームベース上に立って投球練習を行ったという。

プロデビューした年、長野における阪神戦で、阪神の主軸打者であった金田正泰が「あいつのボールは速過ぎる。投手と捕手との間隔が短過ぎるのではないか」とクレームをつけたためゲームは中断、金田正泰と審判とがメジャーで計ったところ、間隔は規定通りであった。

全盛期の金田と対戦した経験がある選手たちは異口同音に「間違いなく150km/h台の後半か、160km/h台を出していただろう」と証言しており、川上哲治も「最も速い球を投げる日本人投手は誰か」と問われた際「自分が実際に見た中で言うなら、金田だと思いますね。若い頃はもう、本当に速かった」と答えている。

金田は自身の現役最末期、当時解説者をしていた青田昇の元を訪ね「青さん、ワシと沢村栄治さんと球どっちが速かった?」と尋ねたことがある。青田は「アホ! 沢村さんに決まっとるやないか! お前と比べれるかい!」と一喝し、金田はその答えに憮然としながら去ったというが、後に「キツイこと言って悪いことしたな。沢村さんのことは大切にしなきゃいかんが、本当はカネやんのほうがすごかったかもしれんなあ」と述懐している。青田は沢村の全盛期の球威は知らず、「戦前のスタルヒン、戦後の金田」と評している。

カーブ

剛速球の評価もさることながら、カーブを讃える者も多い。

有本義明は戦後最高のカーブの使い手として、堀内恒夫江川卓と並んで金田を挙げている。

佐々木信也は「カネやんのカーブは、真上に投げているのかと思ったら急激に曲がってストライクになった。あんなカーブは他に見たことがない」と述べている。

野村克也は「バッターの直前まで頭の高さで球が来て、ボールになるかと思ったらストライクになった。同じ高さでストレートも投げるから簡単には打てなかった。(金田と対戦するとき)バットはグリップエンドから二握り分くらい短く持った」と語っている。

金田のカーブは軌道の違いによって5種類あったといわれるが、特に「2階から落ちる」と言われた「モノになるのに10年かかった」という縦のカーブが武器だった。そのカーブは左肘に対する負担が大きく、毎年のように肘の痛みに苦しめられた。入団5年目辺りから引退までずっと肘が悪く、梅雨時や秋口は特に痛かったと本人が証言している。序盤快調だったシーズンでも梅雨時や秋口に1か月くらい勝てないことがよくあった。

巨人に移籍後は球速が落ちたが、バックの守りが安定していたこともあり、フォークやスラーブ、カットボール気味の速いカーブ、稀にシュートや超スローボールなども用いるようになり、球威の衰えをテクニックでカバーする技巧派の一面も見せている。

記録

記録上における最大の特徴としては、奪三振の多さが挙げられる。

1957年、プロ入り8年目にして通算2000奪三振を達成した(金田が第1号)。

金田以前にもヴィクトル・スタルヒン、若林忠志野口二郎中尾碩志藤本英雄、別所毅彦、杉下茂などの本格派の大投手はいたが、彼らはいずれも2000奪三振は達成していない。

これは「打てば三振、守ればエラー」と言われるほど国鉄が弱く、「せっかく凡打に討ち取ってもエラーされては何にもならない」という思いから三振を奪うことに注力した結果であるという。通算400勝と並んで通算4490奪三振も歴代1位であり、来歴の項にある通り当時はMLBの記録をも凌駕していた。

奪三振は後にノーラン・ライアンが更新し、現在はライアンの他、ランディ・ジョンソンロジャー・クレメンスが金田の記録を上回る奪三振数を記録している。

金田が入団した当時の国鉄は弱く、金田は国鉄時代にリーグ最多敗戦を3度、20敗以上6度、入団以来国鉄に在籍した全てのシーズンに当たる15年連続で2桁敗戦、通算267敗を記録している。弱い国鉄にいながら敗戦数を大きく上回る353勝を挙げ、この間のチーム全体の勝星833勝の42%に相当する。この間の国鉄の順位は最高で3位が1回あるだけでそれ以外は全て4位以下だったが、最下位は3回にとどまっている。また、20年間の現役中、最高勝率のタイトルは1度も獲得できなかった。

通算400勝の金字塔は、今日の投手にとってはほとんど不可能な数字であり、「今とは時代が違う」ため同様に比較できないといった指摘もある。水道橋博士と雑誌で対談した際にそのことを指摘された金田は「この小童(こわっぱ)が!」と激高した。先発ローテーション確立前における、先発連投や先発救援兼任も当たり前だった、投手酷使時代の産物ではあるが、そんな中にあって、致命的な故障をせずに長期間勝ち続けた点に金田の真骨頂がある。この時代の投手でも200勝を達成した人間は数える程しかおらず、通算勝利数2位の米田哲也に50勝もの差をつけていることなどから、当時としても圧倒的だった。その勝利の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げていることも特筆に値する。当時国鉄と並ぶ弱小球団だった広島との対戦で通算90勝を挙げており、一人の投手が特定の1球団から挙げた勝ち星としては、自身の対大洋戦77勝、米田哲也の対ロッテ戦76勝を抑えて断トツである。広島に対しては通算30敗しかしておらず60の貯金があり、山田久志南海を相手に73勝28敗で貯めた45を抑えて1位である。

現役晩年、400勝と並んで金田が記録更新を目指したのがスタルヒンが持つ通算完封記録。金田の現役当時、スタルヒンの公式な完封数は84とされていた。金田は82完封で引退することになったが、金田の現役引退から数年後に集計ミスが発覚し、スタルヒンの通算完封数は83に訂正されている。仮に前記の集計ミスが金田の現役中に発見されて訂正されていたら、あとひとつまで迫っていただけに記録更新の可能性もあったとする意見がある。勝星を稼ぐために中継ぎ転向を勧められたこともあったが、金田はこの通算完封数の記録更新のために先発にこだわり続けたという。82完封のうち1/4以上を占める23試合で1-0のスコアで勝っており、通算1位である。既述のノーヒットノーラン、完全試合ともいずれも1-0である。0-1の完投敗戦21も史上1位である(0-2は9試合、1-2は17試合)。1-0での完封勝利の全て、0-1の完投敗戦も20敗までが国鉄時代に記録したものである。

通算400勝中132勝、国鉄時代353勝中114勝がリリーフでの勝利だったが、この時代のエース級投手はシーズン中、先発・リリーフの区別なく酷使されることも珍しくなく、稲尾和久は通算276勝中108勝、秋山登は193勝中89勝、杉浦忠は187勝中75勝がリリーフ勝利である。特に国鉄は弱小チームのため金田が投げなければ勝ちを稼げないという事情もあった。リリーフ登板の多さゆえサヨナラ本塁打を打たれることも多く、通算12本の被弾は10本で2位の稲尾和久を上回り歴代1位。国鉄時代に対戦相手となったセ・リーグ全5球団の試合で打たれていて、最初の1本は苦手にしていた阪神の吉田義男、最後となる12本目は巨人の長嶋茂雄だった。12本全て国鉄時代に記録されたものである。

入団翌年の1951年から国鉄在籍最終シーズンの1964年まで14年連続で「20勝以上・300投球回数以上・200奪三振以上」のプロ野球記録を達成しているが、前述の通り国鉄は弱小チームだったこともあり最多勝を獲得したのは1957年、1958年、1963年の3回だけである。

1952年8月9日の対巨人戦で、延長13回裏無死一・三塁から敬遠として投げた1球目が大きくそれてサヨナラ負けを喫したことがある。「敬遠球を暴投してのサヨナラ負け」は、30年後の1982年に阪神の小林繁が記録するまでプロ野球史上唯一の記録であった。入団当初は制球力に難があり、1950年11月4日の対巨人戦で1試合10四球、1952年には与四球197といういずれもセ・リーグ記録を作っている。無四球試合も最初の3年間は1度も記録できなかった。経験を積むにつれて制球難も徐々に解消され、後年はコントロールの巧みさに活路を見出すこととなった。

打撃

打撃も優れていた。投手として登板しての36本塁打は史上1位。他に代打に起用されて2本の本塁打を記録しており、通算本塁打は38本、入団11年連続で本塁打を記録している。入団年の1950年に緒方俊明(西日本)から、プロ入り初本塁打を記録。17歳2ヶ月での達成は、野手を含めて未だにプロ野球最年少記録である。

投手でありながら8度敬遠 されている。1962年にはシーズン4度の敬遠をされた。巨人に移籍してからも、1967年8月19日の中日戦で代打で登場し、通算8度目の敬遠をされている。金田敬遠での次打者の成績は7打数4安打1四球となっている。

金田が打者として一番凄いと思った投手は権藤正利で、「彼のカーブは凄かった」と語っている。

通算登板数は944試合であるが、代打での出場なども全て合わせると通算1053試合に出場している。なお、1962年8月の巨人戦に代打として登場後に一塁を守ったことがただ一度ある(代打から投手は何度かある)。現役中に本格的に投手から野手に転向した選手を除く投手として登録された選手で通算1000試合以上に出場したのは、2リーグ制移行後のプロ野球では金田しかいない。

存在感

国鉄時代はその豪快な人柄と圧倒的な実力のため、監督以上に力のある選手だった。国鉄が球団創立となった年にシーズン途中入団して、球団名消滅(厳密には巨人への移籍元年に消滅)と共に去ったが、在籍した15年間のうち、開幕投手を実に10度も務めている。これは国鉄では最多回数で、開幕投手を複数回務めているのは金田だけである。先発して大量点を取られたり、審判の判定に不服だと自分から勝手にマウンドを降りてしまうこともあった。別所毅彦は現役時代の金田について「監督を監督していたのはあいつぐらいのものだ」と語っていた。守備でも味方がエラーをするとグラブを叩きつけて罵倒したという。

現役時代から傍若無人。監督が交代を告げる前に降板したことはおろか、監督が交代を告げる前にマウンドにのぼったこともあった。400勝のうち、リリーフでの勝ち星が132勝。

当時捕手の根来広光は後に「金田さんは機嫌を乱すと本当に荒れた、しかし彼ががんばらなければチームはどうしようもないので機嫌を直すのにとても苦労した」とインタビューで述べている。球場についても文句を言い、狭いことで有名な東京球場での対巨人戦に先発して本塁打を連発された際は「こんな狭い球場で投げれるか!」と叫んだことがある。のちにロッテ監督に就任した際も「あんな狭い球場いらんわい」と発言し、東京球場の閉鎖→取り壊しにつながっている。

国鉄時代同僚だった佐々木重徳によると「国鉄に入ってみたら金田さんは大エースで、歴史的に伝えられている通り、金田さんのワンマンチームでした」、「ある年(1960年)金田さんが「10年連続20勝」まであと1勝というゲームでその試合は4年目の島谷勇雄という投手が先発し、リードしたまま5回途中まで投げたところで金田さんが「わしが行く」というベンチを出て「ピッチャー金田」と自分で審判に告げて、マウンドに向かい、その試合で金田さんは勝ち投手になり10年連続20勝を達成しました。その時点でプロ未勝利だった島谷は通算0勝で引退したのですから、皮肉なものでした。今となってはいい想い出として、島谷も笑っていますけどね。とにかく金田さんは勝つための執念はすごかった。でもそれだけの実力を持った人でした。いろいろ批判はあるだろうけど、一番努力した人だと思いますね。僕らとは全然違い、誰にもできない練習量を一人でこなしていました。ワンマンだからと言って、チームメートから孤立しているとか、そういうことはなかったです。かわいがってくれましたよ」と語っている。

佐々木がある試合でエラーした時、金田がグラブをマウンドに叩きつけたので佐々木もマウンドにグラブを叩きつけて、「お前一人で野球をやってるんじゃないんだよ!」と言い返したところ、金田に「試合が終わったら待ってろ」と

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出典:wikipedia
2018/01/12 13:29

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