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鎌倉とは?

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鎌倉(かまくら)は、現在の神奈川県鎌倉市の中心部に当たる地域。源頼朝を旗頭として、北条時政北条義時らによって鎌倉幕府が置かれた都市であり、三浦半島の付け根に位置し、相模湾に面している。古くは鎌府(れんぷ)とも呼ばれた。三方を山に、一方を海に囲まれている。

鎌倉大仏
鎌倉市中心部周辺の空中写真。南を相模湾、東・西・北の三方を山に囲まれた地形である。1988年撮影の8枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

目次

  • 1 概要
    • 1.1 天然の要害
    • 1.2 鎌倉幕府の都市計画:鎌倉六大路
  • 2 歴史
    • 2.1 源氏と鎌倉
    • 2.2 鎌倉時代の始まり
    • 2.3 室町・戦国 - 江戸時代以降
      • 2.3.1 略年表
  • 3 文化
    • 3.1 鎌倉文士
    • 3.2 唱歌
    • 3.3 金沢文庫
  • 4 鎌倉にあるおもな寺社
    • 4.1 山ノ内、扇ヶ谷、源氏山
    • 4.2 鶴岡八幡宮周辺
    • 4.3 二階堂、金沢街道方面
    • 4.4 小町、大町 ― 材木座
    • 4.5 長谷、腰越、深沢、大船
  • 5 その他の観光資源
    • 5.1 博物館等
    • 5.2 鎌倉のハイキングコース
  • 6 脚注
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

概要

鎌倉は、鎌倉時代には日本の政治において最も重要な位置のひとつを占めていた。12世紀末から14世紀半ばの1333年まで幕府が置かれ、鎌倉文化が全国に広がった。近代に入ってからの鎌倉には鎌倉文士と呼ばれる作家、美術家などの文化人が集まり住み、幾つかのドラマや小説などの舞台にもなってきた。 現在の鎌倉は中世の鎌倉とは断絶した地割りであるが、古都保存法によって乱開発が規制され、古社寺や史跡、神奈川県唯一の国宝建築である円覚寺舎利殿を含めた文化財が比較的多く残る。また市が観光振興に力を入れていることもあり、観光を主な産業として今なお繁栄する。

本項では「歴史都市」「文化都市」「観光都市」としての「鎌倉」について述べることとする。

天然の要害

鎌倉の市街地は東・北・西の三方を山で囲まれ、南は相模湾に面した天然の要害である。東・北・西のいずれから鎌倉に入るとしても「鎌倉七口」と呼ばれる、山を切り開いた狭い通路(切通し)を通らねばならず、防御のしやすい土地柄であった。鎌倉幕府初代将軍の源頼朝がここを拠点としたのは、父祖ゆかりの土地であったこととともに、こうした地理的条件による部分が大きかったと思われる。市街地の北西には源氏山(92メートル)があり、山並みは高徳院(鎌倉大仏)の裏手を通って稲村ヶ崎まで伸びている。市街地の北から東にかけては六国見山(147メートル)、大平山(159メートル)、天台山(141メートル)、衣張山(120メートル)などの低い山が連なり、逗子市との境に当たる飯島ヶ崎、和賀江島(わかえじま)方面へ伸びている。市街地周辺の山はいずれも標高100~150メートル程度だが、標高の低い割には急坂やアップダウンの激しい山道が多いとされ、市街地北方の尾根道には「鎌倉アルプス」の別称がある。

現代の鎌倉市域は、南は相模湾に面し、北は横浜市、東は逗子市、西は藤沢市に隣接した区域で、面積は39.5平方キロメートルである。これは周辺の腰越町(1939年合併)、深沢村(1948年合併)、大船町(おおふなまち、1948年合併)が合併した後の市域である。古代の鎌倉はこれよりずっと狭い地域で、前述の東・北・西の三方を山で囲まれた地域に相当し、いわゆる「旧鎌倉」(=鎌倉七口の内側)に当る。これは鎌倉市内の市街地郊外に位置する諸地域にも「北鎌倉」、「鎌倉山」、「西鎌倉」、「鎌倉逗子ハイランド」等、「鎌倉」を名乗る地区があり、これらと区別する場合にも用いられる。なお、「旧鎌倉」の外側にある北鎌倉地区(旧大船町)は、鶴岡八幡宮のすぐ西「巨福呂坂」切通を越えた地域にあるが、最も鎌倉らしい風情を残す地区の一つであると言える。


鎌倉時代後期には、「鎌倉」の範囲は、東=六浦(横浜市金沢区)、西=片瀬川(藤沢市境)、南=小坪(逗子市)、北=山内(横浜市栄区)にまで拡がった。 なお、現在の横浜市南西部(概ね戸塚区瀬谷区栄区泉区)や藤沢市の一部(概ね境川より東側)を含めた地域は鎌倉郡と呼ばれた(1948年消滅)。

鎌倉幕府の都市計画:鎌倉六大路

浜の大鳥居跡、現在の一の鳥居よりも約200m山側で歩道工事中に発見された。右下(および若宮大路向い側)の円形の石敷は柱根発掘地、上方は閻魔橋方向への車大路
町屋跡碑:大町四つ角近くの小町大路・魚町橋の先に建つ。大町大路のほか、米町、魚町、辻町等の名も記されている

現在の鎌倉市街地(「旧鎌倉」地域)の主要道路網は、鎌倉時代の都市計画に基づく「大路」の名残をかなりとどめている。即ち、鶴岡八幡宮から由比ガ浜に向かう都市計画上の中心線としての若宮大路がその代表といえる。このほか、東側を並行する小町大路(現在の通称:辻説法通り、三浦道等)、同じく西側の今大路(同:今小路)が、南北線の基幹大路を成していた。さらに東西線の基幹大路としては、北側(山側)から順に、三の鳥居前の横大路下馬四つ角を通る大町大路(同:由比が浜通り、大町通り、名越道等)、さらにその南側(海側)には浜の大鳥居跡(旧一の鳥居)前で若宮大路と交差する車大路(同:琵琶小路、本興寺裏辻子等)があった。このため、かなり歪んだ形ではあるが、南北3本・東西3本の六大路により碁盤の目状の道路網が形成されていた。

このうち、現在では「車大路」のみ、一部が廃道となっている(六地蔵近くから鎌倉第一小学校前・浜の大鳥居跡・鎌倉女学院前を通り、閻魔橋を渡った約100メートル先で中絶)。後世の横須賀線工事によるものであるが、「小町大路」の魚町橋と横須賀線三浦道踏切の間にある横断歩道から、再び東方向に名越方面に抜ける細い辻子が残っており、「車大路」の名残が窺われる。なお、この辺りの古町名を「辻町」という(大町のうち魚町橋以南から、踏切を越えて材木座のうち元八幡辺りまで)。かつてここが、「小町大路」と「車大路」の辻に当たっていたためであり、今も辻の本興寺辻の薬師堂等の名称にその縁を残している。

なお、上記の基幹大路の名と現在通称されている道路名とには紛らわしいものがあるので、注意を要する。特に紛らわしいのは、小町大路小町通である。小町大路筋替橋から材木座までの由緒ある大路で、その両側には幕府高官・御家人の屋敷が並び、とくに大町四つ角以南は当時の鎌倉随一の繁華街でもあった。このため、日蓮のいわゆる「辻説法」も、この大路の彼方此方で行われたものと考えられ、今も大路の2箇所に辻説法跡の記念碑(大町の本興寺門前、及び小町2丁目)が建てられている。今ではこの付近は閑静な住宅街となっている。一方、小町通りは、鎌倉駅前から鶴岡八幡宮までの比較的新しく名付けられた観光土産屋通りであるが、現在では多くの行楽客で賑わう一大観光スポットとなっている。

また、現在、「琵琶小路」と誤って呼ばれている第一小の前の道は、かつての「車大路」の一部である。なお、往古は、若宮大路のうち下馬四つ角から車大路四つ角の間の区間が琵琶状に歪曲していたことから、琵琶小路と呼ばれていたとされる。

歴史

鎌倉には縄文時代から弥生時代にかけての遺跡もあり、杉本寺長谷寺甘縄神明神社のように創建を奈良時代と伝える社寺も存在する。また、万葉集にも登場し、三浦半島から房総半島へ抜ける古代の東海道が通っていた。律令体制下、相模国鎌倉郡の行政の中心となった。

なお、蘇我入鹿打倒を祈願するために常陸国鹿島神宮を訪れた藤原鎌足が、帰途に霊夢によって鎌を埋めた土地であることから「鎌倉」と命名されたとする伝説がある。これは鎌足の末裔である藤原頼経が将軍の地位に就いた鎌倉時代中期以後に成立した伝説とみられ史実ではないが、中世から近世にかけて多くの地誌に採録されて広く信じられていた。

平安時代末期には平直方が居館を構え、平忠常の乱鎮圧を源頼信に委ねて以来、河内源氏ゆかりの地となった。

しかし、鎌倉が歴史の表舞台に登場するのは源頼朝の登場以降である。奈良時代から平安時代中期にかけての鎌倉の実情については、資料が乏しく、あまり明確ではない。

源氏と鎌倉

伝源頼朝像

康平6年(1063年)源頼義は由比郷鶴岡(鎌倉市材木座)に「鶴岡若宮」として、河内源氏氏神である河内国石川郡壷井の壷井八幡宮を勧請した。この年は、頼義が陸奥安倍貞任を討ち、前九年の役が終結した翌年である。頼義は、氏神として信仰する八幡神に戦勝を祈願していた。そして、戦いの後、京都郊外の石清水八幡宮に勝利を感謝し、本拠地の河内国壷井に壷井八幡宮を勧請し、河内源氏の東国進出の拠点である鎌倉に八幡神の分霊を祀った。これが今も鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の起源である。

それから1世紀以上経た治承4年(1180年)、頼義の玄孫である源頼朝が鎌倉入りした。頼朝の父・義朝は、頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、頼朝の異母兄・義平大蔵合戦での活躍もあり関東に強い基盤を持っていたが、平治の乱(平治元年/1159年)で平清盛との戦いに敗れ、関東へ落ち延びる途中尾張国で殺害された。これが初陣であった若き頼朝も殺されるはずであったが、清盛の継母にあたる池禅尼の助命嘆願で許され、摂津源氏源頼政一族の知行国でもある伊豆蛭ヶ小島へ流された。それから20年後の治承4年(1180年)、以仁王が頼政の嫡子の「前伊豆守」源仲綱を通じて全国の源氏に発した令旨を奉じた頼朝は、流刑先の伊豆で平氏打倒の兵を挙げる。頼朝の軍は石橋山の戦い(神奈川県小田原市)では敗北して、いったん安房(千葉県南部)へ引き下がるが、ここで軍勢を整えて、続く富士川の戦いでは平維盛らの軍勢を圧倒する。関東を平定した頼朝は父祖ゆかりの地であり、天然の要害である鎌倉に入り、大倉(大蔵)という場所に館を設ける。現在の鶴岡八幡宮の東方、清泉女学院小学校のあたりがその館跡で、ここは後に「大蔵(倉)幕府」と呼ばれるようになる。

同じ治承4年(1180年)、頼朝は八幡宮(鶴岡若宮・由比若宮)を由比郷鶴岡から小林郷へ移す。小林郷は現在の鶴岡八幡宮の所在地であり、「鶴岡」は地名ごと移動してきたことになる(なお、由比若宮の旧地には、今も「元八幡」という小社が残る)。以後、鶴岡八幡宮は鎌倉の象徴となり、都市計画は八幡宮を中心に行われた。寿永元年(1182年)には八幡宮の表参道が整備された。現在も鎌倉のメインストリートである若宮大路がそれである。当時、水田の中の道だった若宮大路は、石を積んで周囲の地面よりかさ上げする工事が行われた。現在「段葛」(だんかずら)と呼ばれている、両脇の車道より一段高くなった歩道はその名残である。

鎌倉時代の始まり

鶴岡八幡宮と大イチョウ

「鎌倉時代」あるいは「鎌倉幕府」の始まりをどこに置くかは、研究者によって見解が分かれている。

  1. 頼朝が鎌倉入りした治承4年(1180年)とする。
  2. 後白河法皇から守護地頭の設置を許可され、平家(平氏の中の伊勢平氏庶流の平清盛一族のこと)が壇ノ浦で滅亡した文治元年(1185年)とする。
  3. 頼朝が征夷大将軍に任じられた建久3年(1192年)とする。

どの年を「鎌倉時代」の最初の年とするかについては、上に挙げた以外にも二、三の説があるが、武士の街としての鎌倉の始まりは頼朝が鎌倉に館を構えた1180年とみて大過ないであろう。この時点から日本の政治体制は変化し、明治維新まで700年近く続く、武家社会封建社会が始まったのである。

河内源氏の源頼朝の家の正系の将軍は3代で途絶え、3代将軍実朝が甥(実朝の兄である2代将軍頼家の子)の公暁に殺害されてからは、北条氏が実権を握ることになる。この当時(12世紀末~13世紀初頭)は、京都の中央政府(院政)の力も衰えておらず、中央(都、首都)と鎌倉の二元的支配体制であったが、承久3年(1221年)の承久の乱(後鳥羽上皇が倒幕を企て、北条義時の追討を命じるが、失敗して隠岐に配流される)以後、鎌倉側の政治的優位は決定的となり、鎌倉は名実共に、日本の行政府所在地となったといえる。

北条氏は比企氏三浦氏和田氏など、ライバルとなるおそれのある一族を次々と滅ぼし、摂家将軍親王将軍を名目的な将軍として擁立し、自らは執権として幕府機構を掌握した。

鎌倉幕府は13世紀中頃以降は元冦という大事件があったものの、政治体制は一応安定していた。13世紀後半には建長寺円覚寺をはじめとする禅寺が建てられ、鎌倉大仏が造立され、鎌倉五山の成立や、日蓮が活躍するなど、仏教文化が大いに栄えた。

その後、元寇をきっかけに幕府財政は逼迫し、内管領長崎氏の専横などで、地方では悪党が活動する。こうした中で後醍醐天皇は倒幕を企てる。元弘3年(1333年)、天皇の意を受けた新田義貞軍は鎌倉を陥落させ、北条高時ら一族と家臣は東勝寺合戦において自決し、鎌倉幕府は滅亡した。

室町・戦国 - 江戸時代以降

明徳2年/元中8年(1391年)時点の鎌倉公方管轄国

建武の新政においては関東統治のため鎌倉将軍府が置かれ、足利尊氏の弟である直義成良親王を奉じて派遣される。35年に北条氏の残党勢力による中先代の乱が起こり鎌倉が奪還されると、討伐のために赴いた尊氏が戦後に鎌倉を拠点に建武政権から離反する。足利軍は36年に京都を奪還し、京都に武家政権を成立させ、南北朝時代貞和5年(正平4年、1349年)には、鎌倉へ尊氏の子の基氏が派遣され、東国支配のための出先機関として鎌倉府が設置される。(その長官が鎌倉公方)。

室町時代には鎌倉府は京都の幕府と対立し、永享の乱などが起こる。康正元年(1455年)、5代公方の足利成氏室町幕府側と対立し、下総国古河(茨城県古河市)に逃れて、以後「古河公方」となる。永正9年(1512年)には北条早雲が現在の鎌倉市大船小田原城の支城である玉縄城を築いた。 明応7年8月25日(1498年9月20日)に発生した明応地震で、鎌倉は津波に襲われた。高徳院大仏殿は津波で倒壊して、鎌倉の大仏が露坐となったとする説がある。

太田道灌江戸を形作り、近世には武家政権が成立し、鶴岡八幡宮は徳川家康秀忠の保護を受け社殿の修理も行われたが、太田道灌を輩出した鎌倉が、以降の政治の表舞台に立つことはもはやなかった。

江戸時代中期、貞享2年(1685年)に徳川光圀が自身の鎌倉紀行を基に編纂させた『新編鎌倉志』が刊行されると鎌倉の名所・史跡の数々が世に知られるようになり、鎌倉は江戸近郊の遊楽地となった。「鎌倉七口」「鎌倉十橋」「鎌倉十井(じっせい)」などのいわゆる「名数」もこの書に基づいている。なお、1706年(宝永3年)刊行の書物 「風俗文選」(森川許六選)の「鎌倉の賦」の項には、鎌倉の名所や短歌などが記載されている。

近代になると、鎌倉は、海水浴場や観光地として栄えるようになる。また、鎌倉文士と呼ばれる多くの文人らが誕生した。現代の鎌倉は、多くの史跡、観光地、そして良好な自然環境を残す住宅地を有するエリアとして発展している。

略年表

文化

武家による社会の仕組みや文化は「武家の古都・鎌倉」から広がり、日本人の価値観や行動様式に大きな影響を与えてきた。これらの精神的文化的遺産は、政治・経済・宗教など様々な分野において、武家政権消滅後も日本人のよりどころとして多くのものが現在まで受け継がれている。

鎌倉時代には、鎌倉文化が栄えた。仏教では、従来からあった真言宗律宗に加え、鎌倉新仏教(禅宗浄土宗時宗日蓮宗など)が興隆し、全国に広まり、その後の日本人の宗教のあり方や方向性に多大な影響を与えてきた。また、同時代において制定された武家政権独自の法である御成敗式目は、 土地占有者にその所有を認める土地制度や、法理と根拠に基づく裁判という考え方を形作り、現代にまで引き継がれている。

この時代には、東国の鎌倉と西国の京という二つの中心ができ、武士が日本各地の土地を支配した。遠隔地間や南宋との貿易も盛んになり、銭貨が輸入されたことにより、貨幣経済が広がった。これら背景に為替制度が誕生するなど、鎌倉時代はその後の日本における経済的発展が準備された時代ともなっていった。

鎌倉文士

鎌倉文士とは、神奈川県鎌倉市に住む(あるいは住んでいた)文学者の総称。早くから横須賀線が通り、東京の出版社へのアクセスも良かった鎌倉は、多くの文学者や美術家・芸術家に好まれた。夏目漱石芥川龍之介国木田独歩川端康成大佛次郎をはじめとする文人らが鎌倉に住み、あるいは鎌倉を舞台とした作品を残している。

21世紀に入ってからは、40年ぶりに鎌倉ペンクラブが復活し、新鎌倉文士と呼ばれる複数の有名作家が鎌倉に移住したが、養老孟司は移住者ではなく生まれも育ちも鎌倉である。鎌倉文士の一覧については、リンク先を参考のこと。

唱歌

1900年(明治33年)5月発表の『鉄道唱歌』第1集東海道編(大和田建樹作詞、全64番)では、東海道本線を外れてわざわざ横須賀線(当時は東海道線の支線)に入り、鎌倉に4番を割いている。作者が京都近江八景太宰府天満宮など歴史的な土地に相当な執着を持っていたからと言われ、鎌倉に関しては後には葉山に別荘を構えたりもした。

  • 6.横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておるる大船の つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や訪ね見ん
  • 7.八幡宮の石段に 立てる一木の大鴨脚樹(いちょう) 別当公暁のかくれしと 歴史にあるは此(この)蔭よ
  • 8.ここに開きし頼朝が 幕府のあとは何(いず)かたぞ 松風さむく日は暮れて こたえぬ石碑は苔あおし
  • 9.北は円覚建長寺 南は大仏星月夜 片瀬腰越江の島も ただ半日の道ぞかし

金沢文庫

北条実時が邸宅内に造ったとされる武家の文庫。鎌倉の東の結界である六浦称名寺(横浜市金沢区)よって長らく護られてきた。吾妻鏡の主要編纂地でもある金沢文庫は、現在の行政区分では鎌倉市ではなく横浜市に属するが、鎌倉文化を語る上で欠くことができない。

伊藤博文らによる復興を経て、現在は鎌倉時代を中心とした所蔵品を展示公開する、神奈川県立の歴史博物館となっている。称名寺からの寄託品を中心とする、国宝・重要文化財を含む古書籍等の文化財を保管し、調査研究、展示するための施設である。2007年には当文庫に保管されていた木造大威徳明王像(称名寺の塔頭・光明院の所有)が運慶作であることが判明して話題になった。

鎌倉にあるおもな寺社

山ノ内、扇ヶ谷、源氏山

山ノ内
禅宗を保護した北条氏の所領であったため、多くの禅寺が往時の名残を伝える。建長寺、円覚寺など、鎌倉五山に列せられる格式高い大寺が建ち並ぶ古都の表玄関。
現在では北鎌倉と呼ばれるこの一帯は、精進料理の店や茶屋が建ち並び、一休みする観光客で賑わいを見せている。数々の名刹を巡り、鎌倉まで足をのばすのが、観光の定番コース。
  • 円覚寺 - 鎌倉五山第2位。臨済宗円覚寺派大本山。山号は瑞鹿山、開基は北条時宗、開山は無学祖元
  • 東慶寺 - 臨済宗。山号は松岡山、開基は北条貞時、開山は覚山尼。「縁切寺」の別称あり。著名人の墓が多い。
  • 浄智寺 - 鎌倉五山第4位。臨済宗。山号は金宝山、開基は北条宗政・師時、開山は兀庵普寧、大休正念(請待開山)、南洲宏海(準開山)。
  • 明月院 - 臨済宗。山号は福源山、開基は上杉憲方(寺伝では首藤経俊)、開山は密室守厳。「あじさい寺」として知られる。
  • 長寿寺 - 臨済宗。山号は宝亀山、開基は足利基氏、開山は古先印元。寺内は特別公開時を除き非公開。
  • 建長寺 - 鎌倉五山第1位。臨済宗建長寺派大本山。山号は巨福山(こふくさん)、開基は北条時頼、開山は蘭渓道隆
  • 円応寺 - 臨済宗。山号は新居山、開基は未詳、開山は智覚禅師(桑田道海)とも伝えるが未詳。閻魔王をはじめとする十王像を安置。
扇ヶ谷(おうぎがやつ)、源氏山
扇ガ谷から 化粧坂、そして 源氏山までは趣のある散策路が続いている。現在の鎌倉駅西側一帯である。
鎌倉駅西側はノスタルジックな雰囲気の小売店や銭湯などの残る御成通りが続き、古き良き時代の面影をよく残している。
  • 寿福寺 - 鎌倉五山第3位。臨済宗。山号は亀谷山、開基は北条政子、開山は栄西。寺内は特別公開時を除き非公開。
  • 英勝寺 - 浄土宗。開基は太田道灌の子孫で徳川家康の側室であった英勝尼。鎌倉に現存する唯一の尼寺。
  • 浄光明寺 - 真言宗泉涌寺派準別格本山。山号は泉谷山、開基は北条長時、開山は真阿。重要文化財の阿弥陀三尊像がある。境内地と裏山にある冷泉為相墓は国の史跡
  • 薬王寺 - 日蓮宗。山号は大乗山、開山は日像。
  • 海蔵寺 - 臨済宗。山号は扇谷山(せんこくざん)、開基は上杉氏定、開山は蘭渓道隆の法系の空外(くうげ)とも言い、寺伝では曹洞宗の僧・源翁禅師(心昭空外)とするが定かでない。「十六ノ井」という中世の岩窟(井戸とも墓所ともいう)がある。
  • 葛原ヶ岡神社(くずはらがおか) - 祭神は日野俊基。1887年(明治20年)頃の創建。
  • 銭洗弁財天宇賀福神社 - 祭神は宇賀神(弁才天と同一視される)。源頼朝の創建という。境内奥の洞窟の湧き水でお金を洗うと数倍になって戻ってくるという信仰がある。
  • 佐助稲荷神社 - 鎌倉幕府開設以前からの古社。当社の神霊が頼朝の挙兵をうながしたとされ、佐殿(すけどの、頼朝の呼称)を助けたとの意で佐助稲荷と名付けられた。

鶴岡八幡宮周辺

  • 鶴岡八幡宮 - 源頼義が河内源氏本拠地の壺井水八幡宮を勧請したもので、もと由比郷(鎌倉市材木座)にあり、源頼朝が現在地に移す。河内源氏の守護神であり、鎌倉の象徴的存在である。
  • 来迎寺(らいこうじ) - 時宗。山号は満光山、開基は未詳、開山は一遍または一向とも伝えるが未詳。法華堂(頼朝の持仏堂)旧蔵の如意輪観音像を安置。
  • 宝戒寺 - 天台宗。山号は金龍山、開山は円観(恵鎮)。本尊地蔵菩薩坐像は重要文化財。「萩の寺」として知られる。
  • 妙隆寺 - 日蓮宗。山号は叡昌山、開基は千葉胤貞、開山は日英。「鍋かむり上人」として知られる2世住持・日親の石像がある。

二階堂、金沢街道方面

観光客の多い鶴岡八幡宮周辺から東に延び、六浦(横浜市金沢区)へと続く道が、古に六浦路と呼ばれた金沢街道。幕府の交易港であった六浦湊の商人達が、塩や海産物を運ぶ〝塩の道〟として栄えていた。 鎌倉で最も古い歴史を誇る杉本寺など、風情の深い寺が多い。周辺は山深く、入り組んだ谷戸の中にひっそりと古刹が佇む。

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