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鎌倉市とは?

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鎌倉市旗 | 鎌倉市章
昭和27年11月3日制定

【国】
日本
【地方】
関東地方
【都道府県】
神奈川県
市町村コード
14204-2
法人番号
3000020142042
【面積】
39.67km

【総人口】
172,763[編集]
(推計人口、2020年8月1日)
人口密度
4,355人/km
【隣接自治体】
横浜市逗子市藤沢市
【市の木】
ヤマザクラ
【市の花】
リンドウ
【他のシンボル】
-
鎌倉市役所

【市長】
松尾崇
【所在地】
248-8686
神奈川県鎌倉市御成町18番10号
北緯35度19分9.3秒東経139度32分48.1秒座標: 北緯35度19分9.3秒 東経139度32分48.1秒

【外部リンク】
公式ウェブサイト

― 政令指定都市 / ― 市 / ― 町 / ― 村

市庁舎位置


【特記事項】
市外局番:0467(市内全域)
ウィキプロジェクト
鎌倉大仏(高徳院)
建長寺
鎌倉宮(大塔宮)
荏柄天神社

鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する

三浦半島西側の付け根にあり、鎌倉を中心部とする。

地理

鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。三方が低い山で囲まれ海に面する地であり、かつては鎌倉幕府が置かれ政権の要の地となり、日本史の時代区分でもある「鎌倉時代」の由来にもなった。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。

江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。

明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現横浜市戸塚区)に置かれた。明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。ゆえに中世以来の建造物はほとんど存在せず、文化遺産として価値の高い中世都市の遺構の多い地域といえる。

河川

市内を流れる河川は主な物で三本。全て二級河川である。これに支流や準用河川が加わる。

二級河川
準用河川

歴史

地形が天然の要害でもあり、古代、鎌倉郡の郡衙が設置された場所であり、また豪族の鎌倉氏の本拠でもあった。

平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。

貞応3年6月28日(1224年7月16日)には北条泰時執権に就き、連署評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉から宇都宮辻子に移し、貞永元年(1232年)には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした。元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕に呼応した上野国(群馬県)の河内源氏義家流新田義貞は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した桓武平氏北条氏の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させた(東勝寺合戦)。1953年(昭和28年)に鈴木尚の調査では大量の刀創などのある人骨が発掘されている。

京都で後醍醐天皇の建武の新政が始まると義貞は召還され、京都の六波羅探題を滅亡させるなど討幕に効のあった一族の足利尊氏の弟である足利直義や一門の細川氏などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。北条氏一族の残党が中先代の乱を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け九州落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の足利基氏が鎌倉へ派遣されて鎌倉府を設置し、以後鎌倉公方として関東統治を行う。

室町時代には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する関東管領とも対立したことなどにより上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦などの騒乱が起こる。享徳4年(1455年)には享徳の乱足利成氏が下総国古河へ移り古河公方を成立させたことにより鎌倉は衰退する。

戦国時代には小田原の北条早雲が鎌倉地域に進出して、玉縄城を築いて東相模地域を支配する軍事拠点とした。北条氏綱の治世時代に安房の里見氏との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。上杉謙信武田信玄・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入った。

近世には江戸が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興が始まる。江戸の庶民によって、大山阿夫利神社江の島江島神社などへの参拝を目的としたが結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。

1889年(明治22年)に東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で横須賀線が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。

明治中期に観光地化される少し前の1883年(明治16年)に「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した長与専斎が、神奈川県の鎌倉の地域の海を地形的な特徴から「海水浴場として最適」と紹介した。当時は海水浴が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであったが、今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされ、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に設営され、湘南の一部として一般に認識されている。

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災では鎌倉の市街地も大きな被害を受けた。

昭和に入ると、久米正雄など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。

1928年(昭和3年)の鎌倉山の分譲を嚆矢に、1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。とりわけ、高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。

文士と鎌倉

「#鎌倉文士」も参照。

国木田独歩

国木田独歩1902年(明治35年)に鎌倉を訪れ、最初は御霊神社内の貸家に居を構えたが友人の押川春浪が紹介した貸別荘が気に入って賃貸することにし、後に代表作の一つとなる『運命論者』をここで執筆した。間もなく、妻子を呼び寄せ、「鎌倉ほど住みやすい所はない」「風光明媚なる為、どうしても(鎌倉を)離れられない」と述べたが、数ヶ月後に就職口が見付かって帰京することになる。

その後、『鎌倉夫人』や『空知川の岸辺』、『非凡の凡人』などの諸作品を執筆するが、1908年(明治41年)に、結核によってこの世を去った。享年38歳。

芥川龍之介

芥川龍之介は、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある海軍機関学校英語教授嘱託として12月付けで赴任することになり、東京から鎌倉町和田塚(現・由比ガ浜4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)沿線で下宿生活を始める。芥川は、この後、1917年(大正8年)9月にいったん横須賀市汐入町へ転居したが、1918年(大正7年)3月になって大町辻の小山別邸内に借家として新居を構え、1919年(大正8年)3月末に海軍機関学校を退職して田端の自宅(東京府北豊島郡滝野川町田端〈現在の東京都北区田端1-19-18〉。cf. 田端文士村)に戻るまで暮らした。

おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、1923年(大正12年)の関東大震災発生以降に本格化する文化人の鎌倉暮らし、いわゆる鎌倉文士の時代の先駆けとも見なされている。

大佛次郎

大佛次郎は、1921年(大正10年)2月に妻となる女優の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へと移住し、鎌倉女学校(現・鎌倉女学院)で教鞭を執った。大佛と言えば『鞍馬天狗』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは関東大震災の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも鎌倉の大仏にちなんだ物で、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際に、慌てて名付けた物とされる。

流行作家となった大佛は度々転居し、住まいを変えているが、これは生来の「ネコ好き」が原因だった模様で、ひととき住んでいた材木座の借家は退去する際、を変えた上に障子も新調して、「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、これは飼っていた十数匹の猫が残した酷い惨状でそうせざる得なかったというオチが付いている。この家を退去後、1928年(昭和4年)に雪ノ下(神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に鎌倉文庫設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた時も、ここが住まいであった。この鎌倉の邸宅は、大佛の没後、週末のみ「大佛茶廊」として2019年8月まで一般公開されていた。

1973年(昭和48年)に病没。死後は鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に葬られた。

年表

江戸時代以前

明治時代

  • 2月某日 - 極楽洞(極楽トンネル)の竣工。
  • 8月16日 - 江之島電気鉄道路線の鎌倉方面へ延伸し、極楽寺駅-大町駅(現在は廃駅)間が開通する。

大正時代

  • この大震災をきっかけとして、壊滅状態となった東京に比べれば遥かに被害の少なかった鎌倉と浦和(現在のさいたま市浦和区)に多くの文化人が居を移す時代が到来する。この時期を中心とした鎌倉と浦和の文化人をそれぞれに「鎌倉文士」「浦和画家」と呼ぶようになる。

昭和時代

  • 1月1日 - 腰越津村が単独で町制を施行し、腰越町を発足する。
  • 某月某日 - 鎌倉御用邸の閉鎖。
  • 2月11日 - 小坂村が単独で町制を施行し、大船町(第1次大船町)を発足。
  • 4月2日 - 大船町が玉縄村を編入し、改めて大船町(第2次大船町)を発足。
  • 7月 - 豪雨で砂押川が氾濫し、岩鎌倉食用蛙養殖場の食用蛙とアメリカザリガニが大量に逃げ、周辺環境に拡散されてしまう。
  • 12月 - 鎌倉町と藤沢町の間で、片瀬町と腰越町を合併するための争奪戦が発生。
  • 建設の際、「泣塔」と呼ばれる宝篋印塔を破却いようとしたところ、地元住民が反対するなか、様々な凶事と変事が立て続けに起こって祟りが噂されるうちに、当局は計画の微調整を余儀なくされ、塔に手を着けないまま敷地脇に残す形で工事を続けることとなった。
  • 1月1日 - 鎌倉市が深沢村を編入し、改めて鎌倉市(第2次鎌倉市)を発足
  • 6月1日 - 鎌倉市が大船町を編入し、改めて鎌倉市(第3次鎌倉市)を発足。これをもって鎌倉郡が消滅する
  • 3月29日 - 重要文化財(旧国宝)指定物件である、鶴岡八幡宮所蔵の太刀銘正恒(指定名称:太刀 銘正恒 附 糸巻太刀拵)が、国宝(新国宝)に指定される。
  • 11月3日 - 鎌倉市章の制定。
  • 2月8日 - 重要文化財(旧国宝)指定物件である、高徳院所有の鎌倉大仏(指定名称:銅造阿弥陀如来坐像)が、国宝(新国宝)に指定される。
出典:wikipedia
2020/09/26 23:54

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