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長嶋茂雄とは?

【基本情報】

【出身地】
千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)
【生年月日】
(1936-02-20) 1936年2月20日(82歳)
【身長
体重】
178 cm
76 kg
【選手情報】

【投球・打席】
右投右打
【ポジション】
三塁手
【プロ入り】
1958年
【初出場】
1958年4月5日
【最終出場】
1974年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


監督・コーチ歴


野球殿堂(日本)
殿堂表彰者

【選出年】
1988年
【選出方法】
競技者表彰
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手 テンプレート


長嶋 茂雄(長島 茂雄、ながしま しげお、1936年2月20日 - )は、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)出身の元プロ野球選手(内野手)・プロ野球監督読売ジャイアンツ終身名誉監督日本プロ野球名球会顧問。血液型B型

闘志溢れるプレイと無類の勝負強さで巨人の4番打者として活躍し続け、多くの野球ファンを熱狂させた。「ON砲」として並び称された王貞治とともに巨人のV9に大きく貢献した。2001年より株式会社よみうり(現:株式会社読売巨人軍)専務取締役、巨人軍終身名誉監督2013年国民栄誉賞を受賞した。日本のプロ野球において400本塁打・2000安打の同時達成は大卒では史上初である。

目次

  • 1 経歴
    • 1.1 生い立ち
    • 1.2 中学時代
    • 1.3 高校時代
    • 1.4 大学時代
    • 1.5 現役時代
    • 1.6 現役引退
    • 1.7 第1次巨人監督時代
    • 1.8 第1次監督退任以降
    • 1.9 第2次巨人監督時代
    • 1.10 第2次監督退任以降
  • 2 選手としての特徴
    • 2.1 打撃
    • 2.2 守備
    • 2.3 走塁
  • 3 人物
    • 3.1 人柄・性格
    • 3.2 家族・親族
    • 3.3 交友関係
    • 3.4 趣味・嗜好
  • 4 エピソード
    • 4.1 村山実とのライバル関係
    • 4.2 サイン破りからサイン無しへ
    • 4.3 長嶋茂雄球場
    • 4.4 長嶋ゲート
    • 4.5 その他
  • 5 詳細情報
    • 5.1 年度別打撃成績
    • 5.2 年度別打撃成績所属リーグ内順位
    • 5.3 オールスター通算打撃成績
    • 5.4 日本シリーズ通算打撃成績
    • 5.5 年度別守備成績
    • 5.6 年度別監督成績
    • 5.7 通算監督成績
    • 5.8 タイトル
    • 5.9 表彰
    • 5.10 記録
      • 5.10.1 レギュラーシーズン
      • 5.10.2 日本シリーズ
      • 5.10.3 オールスターゲーム
      • 5.10.4 皇室観戦試合
      • 5.10.5 総合
      • 5.10.6 初記録
        • 5.10.6.1 節目の記録
    • 5.11 背番号
  • 6 著作
  • 7 出演
    • 7.1 テレビ番組
    • 7.2 映画
    • 7.3 テレビドラマ
    • 7.4 テレビアニメ
    • 7.5 ラジオ
    • 7.6 CM
    • 7.7 DVD, VHS
    • 7.8 音楽
    • 7.9 フィクション
  • 8 参考文献
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

経歴

生い立ち

1936年、千葉県印旛郡臼井町(現:佐倉市)に生まれた。父は「利(とし)」、母は「チヨ」。兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子である。生家は農家だったが。土地は貸し出し、父は臼井町役場の収入役助役をしていた。父は在所の世話役だけに短気ではなく、母は意志が強いしっかり者だった。

幼少時代、東急フライヤーズの青バットこと大下弘大阪タイガース藤村富美男のプレーを見て野球選手を志すようになる。藤村への憧れから、当時の関東在住者としては珍しく、幼少期は阪神ファンだった。小学4年生から兄の影響で野球を始めたが、当時は終戦間もなくということもあって道具があまり揃えられず、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらっていたという。また、グラブも母親の手縫いのもので、初めて握ったバット青竹を割った手製のものであった。

小学校6年生の時に兄が所属していた地元の青年野球団のハヤテ・クラブに入団した。兄の下で遊撃手として育てられた。

中学時代

中学は臼井二町組合立中学校に入学した。終戦直後で野球の人気が凄かった頃で、長嶋も野球部に入部した。

中学3年間は同じ担任の先生であり、卒業時にはタンスをプレゼントされたほど生徒から慕われていたが、一人の生徒が選手のブロマイドを持ってきた事が発端となって激怒したことがある。以前生徒へのアンケートで将来の希望を書かせたらほとんどが「プロ野球選手」と書かれているのを見て、あまりに野球に熱中する姿に「もっと将来を現実的に考えろ」と生徒全員を机の上に正座させた。後年になってその先生は、「長嶋がプロ野球の大スターになるとは思わなかった。子供の夢を頭ごなしに否定してはならない」と反省したという。

高校時代

1951年4月、県内トップの進学校で甲子園出場経験もある千葉県立千葉高等学校の入学も考えたが、地元の名門千葉県立佐倉第一高等学校(現・千葉県立佐倉高等学校)に進学する。自宅から学校へは京成電鉄京成本線(京成臼井駅 - 京成佐倉駅間を利用)で通学していた。

2年生から4番打者を担う。高校時代はほぼ無名だったが、高校最後の大会地区予選で勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たす。第1回戦、熊谷高校との試合(1953年8月1日大宮球場)で、遊撃手の長嶋は試合前に負傷していた三塁手・鈴木英美に代わって三塁手を務めた。遊撃手で度重なるエラーをしていたことからのコンバートであり、以降、三塁手として定着。同試合には敗れたものの、6回表に福島郁夫投手から高校公式試合で自身唯一の本塁打を放った。このバックスクリーン下の芝生への鋭いライナー性の本塁打 を、当時の新聞は飛距離を350フィート(約107m)と推定した。

この特大の本塁打により長嶋は野球関係者から大いに注目を集めることとなった。この本塁打を見ていた1人に朝日新聞記者・久保田高行がいた。久保田からその話をきいた報知新聞記者・田中茂光が、内野手のスカウトにあたっていた富士製鉄室蘭野球部マネージャー・小野秀夫に話をした。小野は長嶋に富士製鉄室蘭への入社を勧めるも、長嶋の父親は進学を希望し、さらに上司から北海道からの新人が内定したとの連絡を受けたため、断念。小野はかわりに、自らの出身校・水戸商高の先輩にあたる砂押邦信が監督を務める立教大学への進学を勧めた。砂押の教育方針に感銘を受けた長嶋の父親は、読売ジャイアンツからのプロ入りのオファーも長嶋に知らせない上で、進学を理由に勝手に断っている。プロ入り志望の長嶋は激怒したという。

同年11月下旬、静岡の伊東スタジアムで行われた立教大学野球部推薦入学のセレクションが行われた。フェンス直撃を含む3本の安打を打ち(杉浦忠からも安打)、参加者80人中20人が甲子園出場組という中で推薦順位2位で合格し(1位は本屋敷錦吾、3位は杉浦)、砂押にも認められた。

大学時代

1954年、立教大学経済学部に進学。しかし同年6月に父親が急逝する。長嶋家は一家の大黒柱を失い困窮したが、当時の印旛地区では印旛地区内や印旛地区外から千葉・東京方面に野菜を販売する行商の数が盛んだったこともあり、母親が京成本線で千葉や東京に出向いて野菜売りの行商をするなどして生計を支えた。この時期、大学を中退してプロ入りすることも考えたが、母親から反対され断念している。

野球部では砂押監督に目をかけられ、ジョー・ディマジオヨギ・ベラなどのプレイを参考にしたメジャー流の練習や、杉浦の自宅に呼んでの練習など「特別扱いの猛練習」を重ね、正三塁手となる。翌年に先輩の大沢昌芳(大沢啓二)らが砂押排斥運動を起こす。

砂押の退任後、長嶋は辻猛の下で同期の杉浦忠投手(南海ホークス)、主将を務めた本屋敷錦吾内野手(阪急ブレーブス、阪神)と共に「立教三羽烏」と呼ばれ、東京六大学野球において、1956年(昭和31年)の春季リーグ戦と1957年(昭和32年)の秋季リーグ戦で首位打者を獲得する活躍を見せた。また1955年秋季から1957年秋季まで、5シーズン連続でリーグベストナイン(三塁手)に選ばれる。1957年には六大学リーグの通算新記録となる8本塁打を放った。東京六大学リーグ戦通算96試合に出場し、打率.286(304打数87安打)、8本塁打、39打点、22盗塁。打撃に加えて守備や俊足も野球関係者から高い評価を受け、石井連藏は大学時代の長嶋の守備について「早稲田も頑張って、ずいぶん三遊間にヒット性の打球を打ちましたが、ほとんど長嶋に捕られましたね。彼の守備範囲は普通の人の二倍くらいあったんじゃないでしょうか。しかも守備範囲が荒れていない」と評している。

高校時代から既にプロ入りが確実視されており、さまざまな球団が長嶋との接触を図っていた が、本命は南海ホークスとされていた。

そんな中、読売ジャイアンツ(巨人)が長嶋の家族に接触して説き伏せる作戦 に出ていて、母親から「せめて在京の球団に」と懇願されたのが決め手 になり、長嶋は南海から一転、巨人への入団を決め、11月20日に契約した。背番号は千葉茂(前年引退)のつけていた「3」に決まった。当初、川上哲治から「15」を勧められたが辞退している。川上が勧めた理由は、「14」は沢村栄治、「16」は川上哲治であるから、長嶋が「15」をつければ、「14」、「15」、「16」と3つ連続で永久欠番になるだろうという思いからだった。長嶋が辞退した理由は「恐れ多い」とも「一桁がよかった」からだとも言われている。契約金は当時最高額の1800万円(南海は2000万円を提示していた)、年俸は200万。

後に大沢啓二が語ったところによると、先に南海に入団していた大学の先輩でもある大沢と二人きりで話をし、「どうしても巨人に行きたいんです」と大沢に頭を下げたという。大沢は、「この事がなかったら、今の長嶋茂雄は無かっただろう」と語っている。しかし、この件もあってその後も大沢には頭が上がらなかったという。

長嶋の獲得に尽力していた南海ホークスの監督鶴岡一人にはオープン戦の時に南海行きを断ったことを謝罪。この時、鶴岡は「関東の男の子が関東のチームに入るのは、一番ええ」と笑って答えたという。

現役時代

雑誌『週刊ベースボール』1958年4月16日号。右は広岡達朗

オープン戦で7本の本塁打を放つなど、活躍の期待が高まるなかで開幕戦を迎えた。1958年4月5日、対国鉄スワローズ戦に、3番サードで先発出場してデビュー。国鉄のエース金田正一に4打席連続三振を喫し、そのすべてが渾身のフルスイングによる三振であったことが伝説的に語り継がれている。また、翌日の試合でもリリーフ登板した金田に三振を喫している。オープン戦の最中、ある解説者が長嶋を褒め称え「金田など打ち崩して当然」といった趣旨の発言をしていたのを偶然耳にした金田は激昂。この日の登板のために特訓を重ね、肩のピークがちょうど来るようにしたという。しかし、その後は金田を打つようになり、翌年の開幕戦では本塁打を放っている。長嶋の最終的な対金田通算対戦成績は、打率.313、18本塁打。

その2日後の4月7日国鉄戦で三林清二から初安打、4月10日の対大洋ホエールズ戦で権藤正利から初本塁打を放ち、8月6日の対広島戦から、巨人の中心打者であった川上哲治に代わる4番打者となり、チームのリーグ優勝に貢献した。

9月19日に行なわれた対広島戦(後楽園)では、鵜狩道夫から新人記録となる28号本塁打を放ったが、一塁ベースを踏み忘れて、本塁打を取り消された(記録はピッチャーゴロ)。もしこのベースの踏み忘れがなければ、新人にして「トリプルスリー(打率3割・本塁打30本・30盗塁)」の記録が達成されていた。長嶋は翌9月20日の対大阪戦で28号を打ち直し、新人本塁打プロ野球新記録を達成。

最終打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王打点王の二冠を獲得。打率は、大阪タイガース田宮謙次郎と首位打者争いをしたが、田宮がシーズン終盤に欠場して以降、全試合出場を続ける長嶋は打率を下げ、最終的にはリーグ2位の.305に終わった。しかし長嶋は最多安打を記録、盗塁もリーグ2位の37と活躍し、新人王に選ばれた。

同年は全イニング出場を達成したが、新人での全イニング出場は1956年佐々木信也(高橋ユニオンズ)に次ぐ史上2人目、セ・リーグでは史上初だった。新人選手の全イニング出場はその後1961年徳武定之(国鉄スワローズ)が、2017年源田壮亮(埼玉西武ライオンズ)が記録したが、以後現在に至るまでこの4人だけである。また、新人の89得点は戸倉勝城の90得点に次ぐ歴代2位で、新人のセ・リーグ記録。そのほかにも新人選手として34二塁打は歴代1位、290塁打は歴代1位、153安打はセ・リーグ記録、92打点はセ・リーグ記録であり、打率・本塁打・盗塁もそれぞれ新人歴代5位以内に入っている。

1959年6月25日後楽園球場で行われた対阪神戦は、昭和天皇が試合を観戦する日本プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は阪神が1点を先制するが、5回に長嶋と5番打者の坂崎一彦が2者連続で本塁打を放って巨人が逆転した。6回には阪神が3点本塁打で試合をひっくり返したが、7回に6番打者・王貞治が2点本塁打を放って同点とした。試合はそのまま進み、4対4で9回裏を迎える展開となる。この際、決着が着かず延長戦になった場合、時間が押している天皇をどうするか、9回を迎えた時に関係者が深刻に悩み始めていた。9回裏、打席に立った先頭打者の長嶋は、カウント2ストライク2ボールから2番手・村山実が投じた5球目・内角高めに食い込んできたシュートを叩いた。打球は左翼スタンドへ伸びて劇的なサヨナラ本塁打となり、同天覧試合は巨人の勝利で幕切れとなった。

この試合は、大学野球時代からスーパースターであった長嶋が放ったサヨナラ本塁打ということもあり、そのドラマ性も相まって大きく報道され、長嶋の勝負強さが日本中に知れ渡るようになった。それまでは大学野球が一番人気で、金銭を取って野球をするプロ野球は軽んじて見られている面があったが、以降は国内におけるプロ野球の人気が高まっていった。「この試合からプロ野球の隆盛は始まった」ともいわれている。

この時の長嶋のサヨナラ本塁打は左翼ポール際の上段に突き刺さるものであり、村山は1998年に死去するまで、このエピソードについて問われるたび「あれはファウルだった」と言い続けていた。なお、同試合では当時ルーキーであった王貞治も本塁打を打っている。これは106回あったON(オーエヌ)アベックホームランの第1号である。

2年目となった同年シーズンは、2位・飯田徳治の.296を大きく引き離す打率.334を記録し、自身初の首位打者を獲得。本塁打はリーグ3位の27本塁打、打点はリーグ4位の82打点を記録した。

翌年の1960年も打率.334で首位打者を獲り、4番打者ながらリーグ2位の31盗塁を記録。

1961年には打率.353で2位・近藤和彦の.316に大差をつけて3年連続となる首位打者を獲得し、28本塁打で本塁打王も獲得。打点はリーグ2位の86打点で、打点王の桑田武には8打点及ばなかった。

1962年は打率.288でリーグ5位(首位打者は森永勝治の.307)に終わるが、本塁打と打点はそれぞれリーグ2位、盗塁はリーグ3位を記録する。本塁打王と打点王のタイトルは同僚の王貞治が獲得し、同年以降、長嶋と王は巨人の中軸打者としてON砲(オーエヌほう)と称された。これはメジャーリーグベースボールニューヨーク・ヤンキースにおけるミッキー・マントルロジャー・マリスにつけられたMM砲になぞらえた愛称である。打順は通常、3番王、4番長嶋であったが、両者のコンディションの良し悪しにより、長嶋が3番、王が4番のように、しばしば入れ替わることもあった。巨人は1965年から1973年まで日本シリーズを9連覇し(V9)、2人はこの間のチームを代表するプレイヤーであった。

1963年は打率.341・37本塁打・112打点で首位打者と打点王を獲得。本塁打は王の40本塁打に次ぐリーグ2位で、王の打点も長嶋に次ぐリーグ2位だった。

1964年はリーグ3位タイの31本塁打を残し、打率と打点はリーグ4位を記録。1965年も王の104打点に次ぐリーグ2位の80打点を残すなど活躍した。

1966年6月8日、村山はあと4つと迫った通算1500奪三振に際し、「1500奪三振は長嶋さんから獲る」と宣言。一方、長嶋は試合前に「バントしてでも三振はしない」と報道陣に語った。村山は5回までに3つの三振を獲り、6回表に長嶋との対戦となった。長嶋は2ストライク1ボールのカウントから4球目のフォークボールを空振り、三振。2球目と4球目に計2回スイングしたが、どちらもフルスイングで、三振を喫した4球目のスイングではヘルメットが脱げた。長嶋は試合後、「あれは打てなくても仕方ない」と語り、予告を達成したライバルへ敬意を示した。村山はその後の1969年8月1日、通算2000奪三振も長嶋から奪っている。2人は現役時代は口も利かなかったが、引退後には意気投合し、お互いに「チョーさん」「ムラさん」と呼び合う仲になった。村山の死後、長嶋は「彼(村山)は一球たりともアンフェアな球(ビーンボール)を投げなかった」と述懐している。

長嶋はこの1966年シーズンを打率.344で終え、5度目の首位打者を獲得。26本塁打・105打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。秋には、日米野球で来日したドジャースのオマリー会長が「長嶋を譲って欲しい。2年間でいい」と正力松太郎社主に打診したが、「長嶋がいなくなると、日本の野球は10年おくれる」と断ったため、メジャー移籍は実現しなかった。

1967年は入団以来初めて打率ベストテンから漏れるなど、不調に終わった。

1968年9月18日の阪神とのダブルヘッダーの第2試合。巨人が序盤からリードし、5対0となった4回表の場面、3番の王に対して、阪神のジーン・バッキーが2球続けて死球寸前のボールを投げてきた。王はマウンドに詰め寄って抗議し、ベンチからも選手、コーチ陣が飛び出し乱闘となる。この乱闘でバッキーと巨人の荒川博打撃コーチが退場となった。そしてバッキーに代わって権藤正利が登板したが、王の後頭部を直撃する死球をぶつけてしまう。王は担架で運ばれ、試合は20分中断された。乱闘に参加しなかった長嶋は、その直後、権藤の投じたカーブを打ち返し、35号の3ランを打った。さらに8回にも2ランを放ち決着をつけた。

1968年シーズンは王に次ぐリーグ2位の打率.318、王とデーヴ・ロバーツに次ぐリーグ3位の39本塁打を残し、リーグ最多の125打点を記録して打点王となった。1969年は王とロバーツに次ぐリーグ3位の打率.311、リーグ4位の32本塁打を残し、115打点で打点王を獲得。1970年は打率でリーグ10位と低迷するが、一方でリーグ5位タイの22本塁打を残し、リーグ最多の105打点を記録して3年連続の打点王となった。

苦手のコース・球種の無い長嶋は、敬遠を受けることが多かった。初年度の1958年には6試合連続敬遠を記録。1961年には年間敬遠数が35にも達し、8月29日の阪神戦では小山正明に走者無しの場面で敬遠された。1960年の国鉄との開幕戦では、5回二死1塁の場面で、カウント1ストライク2ボールとなったところで捕手の平岩嗣朗が立ちあがり、長嶋を敬遠しようとした。村田元一は捕手の構えた位置に投げたが、長嶋は強引にバットを振りに行き、左翼席中段への本塁打となった。同年7月16日には、投手が敬遠で投げた球を無理やり打ちに行き、二塁打を記録した。また、1962年7月12日の中日戦でも、9回表の2死ニ、三塁の打席で河村保彦の敬遠球を打ちにいき、レフト前に逆転タイムリーを放っている。

敬遠策への抗議として、長嶋は打席上で素手で構えたことがある。1968年5月11日の中日戦、二死2塁の場面で山中巽投手は敬遠策を取った。長嶋はこれに対して3球目からバットを持たずに打席に入り、素手だけで構えて抗議に出た。球場内はどよめいたが、絶対打つことができない長嶋を、山中はそのまま2球ボールを続けて歩かせた。1971年6月17日の広島戦では、7回二死3塁という場面で、広島の井上善夫水沼四郎のバッテリーは、敬遠策で長嶋との勝負を回避しようとした。3球続けてボールが投げられたところで長嶋はバットを捨て、素手で構えた。スタンドが騒然とする中、絶対に打撃はありえないにも関わらず4球目も敬遠のボールが投げられて四球となり、一塁に歩くこととなった。

1971年5月25日の対ヤクルトスワローズ戦にて、浅野啓司から史上5人目となる通算2000本安打を達成。1708試合での到達は、川上哲治に次いで歴代2位のスピード記録であり、右打者では歴代最速記録である。また、大学卒でプロ入りしたプロ野球選手では初の達成者となった。同年シーズンは2位の衣笠祥雄の.285を大きく引き離す打率.320を残し、6度目の首位打者となった。34本塁打、86打点はそれぞれ王に次ぐリーグ2位だった。なお、この年以降巨人の右打者の首位打者獲得は2009年にアレックス・ラミレスが、日本人右打者に限定すれば2011年に長野久義が獲得するまで非常に長い年数が経っていた。

1972年はリーグ3位の92打点、リーグ4位の27本塁打を放った一方、打率はベストテンから漏れた。同年からコーチを兼任。

翌年の1973年シーズンも成績が下降した。同年シーズン終了後、監督の川上より「生涯打率3割を切らないうちに引退したほうが良い」と引退を勧告されたが、それを拒否して翌年も現役を続けた。

現役引退

1974年10月12日、中日の優勝が決まり巨人のV10が消えた日、長嶋は現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝はまるで脇に追いやられてしまったという。引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「『あしたはきっと良いことがある』。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返った。

引退会見翌日の10月13日の中日戦ダブルヘッダーが長嶋の引退試合となる予定だったが、降雨で14日に順延となった。この日は中日の優勝パレードと同日であり、監督の与那嶺要以下、星野仙一高木守道ら主力はパレードへの参加を強制され、中日側は力の衰えた選手や一軍半の選手が出場することとなった。与那嶺、星野、高木らは電話で長嶋に非礼を詫びている。それに対して長嶋は「こっちのことより、(中日にとって1954年以来の)20年ぶりの優勝を思い切り祝ってくださいよ」と明るく答えたという。

引退試合前のミーティングで長嶋はチームメイトに「思い残すことはない。みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶。その後、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王にそっと「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とささやいた。それに対して王は笑って「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と答えている。

引退試合の第1試合は3番三塁で出場。第2打席に村上義則から現役最後の本塁打を放った。この試合では王も本塁打を放ち、王の言葉どおり最後(106本目)のONアベック本塁打を記録した。第1試合終了時、長嶋は外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、全く予定外の行動だった。長嶋はこの時の行動について「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている。

続く、第2試合は、4番三塁で出場。長嶋はこの試合の第3打席で現役最後の安打をセンター前に放った。最終打席は8回裏1死1、3塁で佐藤政夫から、ショートへの併殺打に終わった。試合は10対0で巨人が勝利。第2試合終了時、長嶋は名残惜しむように一人一人と握手し、最後は王と腰に手を寄せあいながらベンチに引き揚げた。

引退セレモニーのスピーチでは「我が巨人軍は永久に不滅です!」という言葉を残した。なお、当時8歳だった長男・長嶋一茂はこの引退試合を一切観ていない。当初長嶋は一茂に引退のことは告げずに始球式担当を持ちかけたが、事情を何も知らない一茂は「始球式でストライクが入らなかったら恥ずかしい」との理由で拒否した。当日の引退セレモニーの時間に一茂は歯科医にかかっていて、そこの女性係員から初めて長嶋の引退を知らされた。一方、長嶋は妻・亜希子へも球場に来るよう誘ったが、亜希子は「取り乱すから」との理由で断り、この日の長嶋家はいつもと変わらぬ1日であったという。

長嶋の引退は読売新聞の1974年十大ニュースの4位になるなど、スポーツに留まらない社会的事件であった。

同年11月21日、選手時代につけていた背番号3は読売ジャイアンツの永久欠番と認定された。

同年12月21日、長嶋の引退を記念したドキュメントLP(2枚組)『ミスターG 栄光の背番号3 長島茂雄・その球跡』がワーナー・パイオニアから発売され、オリコンLPチャートで最高16位を記録した。

後に長嶋はこの引退の理由について当時の時点では「まだ二~三年は選手としてやれる」と思っていたが、自身の成績の低下や、チームの連覇が途絶えてしまった事、「お金も名誉もいらないから選手としてやらせてほしい」という理由で断っていた巨人軍の監督のオファーが断れなくなった事を挙げている。

第1次巨人監督時代

1974年11月21日、巨人の監督に就任した長嶋は、「クリーン・ベースボール」を標榜した。前監督の川上が築き上げた確率野球(自らの失策を減らし、相手の失策を誘い、そこにつけこんで勝利するスタイル)を捨て、投、打の力量差がそのまま勝敗につながるという信念のもとにチームを再編。そのためヘッドコーチに関根潤三、投手コーチに宮田征典、守備・走塁コーチ補佐に黒江透修、バッテリーコーチに淡河弘などをそれぞれ招聘し、川上は作戦コーチの牧野茂、投手コーチの藤田元司に残るように要請し、森昌彦をコーチで残せ、堀内恒夫をトレードで出せとアドバイスしたが、長嶋は川上時代のコーチ陣を一掃し、川上のアドバイスをすべて蹴っている。長嶋は森は犬猿の仲であった。新背番号は「90」。新背番号を考えていた長嶋は当時小学生の息子の一茂に相談した際に「現役のときは3つの3があった(打順が3番、背番号3、3塁手)から、3を3つ足して9」と言われ、それをきっかけに「90」にした(当時背番号9は吉田孝司が付けていたため)。

長嶋は現役最終年時点で、引退後に即監督就任は考えておらず、現役を2・3年は続行したい思いがあったという。また、引退後の数年はバックネット裏から野球を研究したり、コーチを経験したりしてからの監督就任を考えていたが、チーム事情から引退後に即監督就任の運びとなった。

球団としては戦後初の非日系の外国人選手 であるデーブ・ジョンソンを獲得し、自らの後継三塁手とした。なお、ジョンソンはメジャーリーグ情報を長嶋に伝えるパイプとしての役割もあり、度々長嶋家にメジャーの試合を録画したものを持ち寄り、長嶋一家とともに鑑賞していた。この場に立ち会っていた息子の一茂はメジャーに憧れ、野球(リトルリーグ)や、独学でウエイトトレーニングを始めた。

1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に終わった。当時巨人の選手だった柴田勲は、「長嶋さんが引退して森昌彦さん、黒江透修さんも引退し戦力が落ちたのもあるが、コーチ陣を一新したり、一体どういう野球をしたいのかがわからなかった」、「コーチ陣と上手くいっているように見えなかった」と述べている。この時、長嶋は自身の野球人生は「波乱万丈」だと思ったという。

そのため1975年のオフには「グリーン・ベースボール」「チャレンジ・ベースボール」を標榜し、勝つ野球へのシフトチェンジを行った。日本ハムファイターズから、「安打製造機」と呼ばれた張本勲高橋一三富田勝との交換で獲得。さらにトレードでライオンズから先発も抑えもできる加藤初も獲得した(このとき東尾修もトレード候補だった)外野の名手である高田繁を内野手の三塁に、当時としては異例のコンバートをし、ジョンソンを本来の二塁に移動するなど、チーム強化に着手した。コーチ陣も前年から一軍コーチで留任したのは黒江のみで打撃コーチには2軍監督だった国松彰が就任した。投手コーチに就任した杉下茂鈴木龍二セ・リーグ会長からの要請で就任した。ヘッドコーチには極秘で長島とは同学年である南海の選手兼任監督野村克也に接触し、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた野村は快諾した。ところが肝心の長嶋が首を縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わり、野村は選手兼任監督で南海に残留した。

翌1976年には最下位から一転、リーグ優勝を果たした。日本シリーズは阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れた。

1977年シーズン中にヤクルトから倉田誠との交換で当時巨人キラーと言われていた浅野啓司を獲得するなどし、「3年目こそ、長嶋の真価が問われる」という声の中、2位に15ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす(V2)。日本シリーズは1勝4敗で2年連続で阪急に敗れた。オフには大洋ホエールズからジョン・シピンを獲得し、正二塁手とした。

1978年はシーズン当初から低迷が続き、8月後半、一旦は首位に立つものの力尽き、結局、2ゲーム差でOBの広岡達朗が率いるヤクルトが優勝した。同年オフに江川事件が起きており、江川卓との交換トレードで、エースの小林繁が阪神に移籍。

1979年は5位に終わった。この年のオフ退団した張本は、低迷の要因を新聞記者に問われ、「言いたいことはたくさんある。これだけは断言できる。チームは間違えた方向に向かっている」と答えている。これについて著書で、「立つ鳥跡を濁さず、別れた女の悪口など言わないつもりでいたが、コーチ陣の保身が目立った。長嶋監督を助けようとはせず、多くのコーチがフロントにゴマをすって、地位を守ろうとしていた。巨人のコーチなら給料も高いし、マスコミにも多く取り上げられておいしい思いもできる。長嶋監督はナンバー2を置かなかったから、コーチ陣を一つにまとめ上げる人もいなかった。私が巨人のユニフォームを着た最後の年は5位に沈み、長嶋監督の次は王だろう。王にすり寄る連中も出てきた。私が間違った方向と言ったのは、そういったチーム内の雰囲気のことだった」と記している。

長嶋はV9時代を知らない若手軍団を「シンデレラ・ボーイ」と呼び、伊東スタジアムの秋季キャンプに集結させた。これは後に地獄の伊東キャンプと呼ばれるようになった。江川、西本聖角三男藤城和明鹿取義隆赤嶺賢勇山倉和博 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/10/15 04:29

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