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関東大震災とは?

関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒ごろ(日本時間、以下同様)に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。

目次

  • 1 概要
  • 2 状況
  • 3 避難
  • 4 被害
    • 4.1 人的被害
      • 4.1.1 関東大震災により死去した著名人
      • 4.1.2 関東大震災犠牲者の慰霊施設
    • 4.2 鉄道事故
    • 4.3 火災
    • 4.4 建物の倒壊
    • 4.5 首都機能の麻痺
  • 5 地震の混乱で発生した事件
    • 5.1 司法・法制の動き
    • 5.2 軍活動
    • 5.3 震災後の殺傷事件
      • 5.3.1 流言の拡散と検証、収束
      • 5.3.2 治安維持緊急勅令の発布
      • 5.3.3 戒厳令発布
      • 5.3.4 自警団による暴行
      • 5.3.5 被害者数
    • 5.4 紙幣の焼失
  • 6 復興
  • 7 影響
    • 7.1 諸国住民からの援助
    • 7.2 耐震建築と不燃化
    • 7.3 遷都論議
    • 7.4 人口動態
    • 7.5 歴史認識問題
    • 7.6 文化
  • 8 参考文献
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 関連項目
  • 11 外部リンク

概要

当時の東京府東京市(東京15区)
円太郎バス(旧:交通博物館蔵)
1931年(昭和6年)に開学した大阪帝国大学(現:大阪大学)

神奈川県および東京府(現:東京都)を中心に隣接する茨城県千葉県から静岡県東部までの内陸と沿岸に及ぶ広い範囲に甚大な被害をもたらした。

大震災と呼ばれる災害では死因に特徴があり、本災では焼死が多かった。また阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では圧死東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では溺死が多い。本災において焼死が多かったのは、日本海沿岸を北上する台風に吹き込む強風が関東地方に吹き込み(風害参照)、木造住宅が密集していた当時の東京市(東京15区)などで火災が広範囲に発生したためである。

この災害は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災以前の日本においては、史上最大規模の被害をもたらした。府県をまたいだ広範囲にわたる災害で未曽有の犠牲者・被災者が発生し、政府機関が集中する東京を直撃して国家機能が麻痺したことから、政府も大規模な対応に追われた。しかし、内閣総理大臣加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死していたため、外務大臣の内田康哉内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁は世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止になった。

この震災により東京市・横浜市から東京府下埼玉県などの郊外に移り住む者も多く、「天災によるドーナツ化現象」が発生した(参照)。また、大阪府愛知県など、のちに三大都市圏となる地域に移住する者も多くみられ、特に1925年に近隣の郡部を編入した大阪市は東京市を超え、世界第6位の人口を擁する都市に躍進した。阪神間では阪神間モダニズム後期の大大阪時代を迎え、六大都市の序列に影響を与えた。また東京市電の機能不全を肩代わりさせるため、東京市がT型フォードを約800台輸入してバス事業を開始(円太郎バス)。すると、全国にバス事業が広まるとともに、輸入トラックを利用した貨物輸送も始まり、旅客および物流におけるモータリゼーションが到来した。電話の自動交換機も普及した。

状況

東京帝国大学理科大学教授寺田寅彦は、上野で開催されていた二科会の招待展示会に出向き、喫茶店で知人の画家津田青楓と歓談中に被災。その時の状況を以下の通り詳細に記録している。

T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の蹠を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。

主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。

— 寺田寅彦、『震災日記』

- 駐日フランス大使だったポール・クローデルは罹災しながら、

被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。 — ポール・クローデル、『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』

と当時の日本人の様子を書いている。

避難

日暮里駅(移転前)での8620形蒸気機関車牽引の避難列車。
靖国神社に設置された仮設住宅

東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査によれば、9月5日に避難民1万2千人以上を数える集団避難地は160か所を記録。もっとも多い場所は社寺の59か所、次いで学校の42か所だった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑宮城前広場などに設営された。また9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査では、市・区の管理するバラックが101か所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化した。一部ではスラム化の様相を見せたため、翌年には内務省社会局・警視庁・東京府・東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去にあたっては、東京市が月島三ノ輪深川区猿江に、東京府が和田堀・尾久王子に小規模住宅群を造成した(東京市社会局年報、東京府社会事業協会一覧(1927年〔昭和2年〕))。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。

軍は橋をかけ、負傷者を救護した。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」(佐藤春夫「サーベル礼讃」、雑誌『改造』大震災号)という評価は、町にも、マスコミにも溢れた。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた。

震災後、日本で初めてラジオ放送が始まった。避難の教訓からラジオは急速に普及し、国威発揚にも利用された。

被害

190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞読売新聞国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋京橋下谷浅草本所深川神田殆んど全滅死傷十数万」「電信電話電車瓦斯山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが続いた。

京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面の惨状
1923年 関東地震の状況別被害集計(諸井・武村 (2004) より引用)
【】
住宅被害棟数 死者行方不明者数
【地域】
【全潰】
【非焼失】
【半潰】
【非焼失】
【焼失】
【流失埋没】
【合計】
【住宅全潰】
【火災】
【流出埋没】
【工場等】
合計
神奈川県 | 6万3577 | 4万6621 | 5万4035 | 4万3047 | 3万5412 | 497 | 12万5577 | 5795 | 2万5201 | 836 | 1006 | 3万2838
東京都 | 2万4469 | 1万1842 | 2万9525 | 1万7231 | 17万6505 | 2 | 20万5580 | 3546 | 6万6521 | 6 | 314 | 7万0387
千葉県 | 1万3767 | 1万3444 | 6093 | 6030 | 431 | 71 | 1万9976 | 1255 | 59 | 0 | 32 | 1346
埼玉県 | 4759 | 4759 | 4086 | 4086 | 0 | 0 | 8845 | 315 | 0 | 0 | 28 | 343
山梨県 | 577 | 577 | 2225 | 2225 | 0 | 0 | 2802 | 20 | 0 | 0 | 2 | 22
静岡県 | 2383 | 2309 | 6370 | 6214 | 5 | 731 | 9259 | 150 | 0 | 171 | 123 | 444
茨城県 | 141 | 141 | 342 | 342 | 0 | 0 | 483 | 5 | 0 | 0 | 0 | 5
長野県 | 13 | 13 | 75 | 75 | 0 | 0 | 88 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0
栃木県 | 3 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0
群馬県 | 24 | 24 | 21 | 21 | 0 | 0 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0
合計 | 10万9713 | 7万9733 | 10万2773 | 7万9272 | 21万2353 | 1301 | 37万2659 | 1万1086 | 9万1781 | 1013 | 1505 | 10万5385

この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:ヨコシネ ディー アイ エー)の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および横浜市中央図書館に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない。

人的被害

震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年解体、1972年博物館明治村に移築)

2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし近年、武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘された。その説が学界にも定着したため、理科年表では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千あまり」としている。

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故で100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。

関東大震災により死去した著名人

関東大震災犠牲者の慰霊施設

根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車

鉄道事故

詳細は「根府川駅列車転落事故」を参照

神奈川県足柄下郡片浦村(現小田原市の一部)の根府川駅ではそのときちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出した。さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。

火災

震災直後の被服廠跡地の避難民の遺体
震災直後の火災により東京で発生した巨大な積乱雲

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。一部の火災については、工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。ほか、現在の墨田区立両国中学校日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる)で起こった火災旋風を引き起こしながら広まり、旧東京市の約43%を焼失し鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、東京都復興記念館に収蔵・展示されている。

建物の倒壊

半壊した凌雲閣

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破、建設中だった丸の内内外ビルディングが崩壊し作業員約300名が圧死した。また大蔵省文部省内務省外務省警視庁など官公庁の建物や、東京帝大帝国劇場日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くを焼失した。神田神保町帝大図書館松廼舎文庫大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。

震源に近かった横浜市では官公庁やグランドホテルオリエンタルパレスホテル(現存しない)などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館のすべてを焼失、工場・会社事務所も90%近くを焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行房州銀行(ともに現在の千葉銀行の前身の一つ)が辛うじて残った以外は郡役所・停車場などを含むすべての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。

なお地震後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁、位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では、1日21時ごろから異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している。このころ気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

首都機能の麻痺

震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞がおもなものだった(ラジオ放送は実用化前で、電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)・報知新聞都新聞は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。

郵便制度も同様だった。普通切手はがき、そして印紙も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。

さらに、11月に発行を予定していた皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式記念切手東宮御婚儀」4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁(パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。

関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などといったやデマの情報が取り上げられた。

真鶴駅-根府川駅間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車

震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは熱海線(現在の東海道線)小田原-真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川-根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖-藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井-富浦間)。

地震の混乱で発生した事件

司法・法制の動き

#治安維持緊急勅令の発布」および「#戒厳令発布」を参照
各地裁判所及び刑務所の処置を報告する法曹会雑誌(10月)

司法省および法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの、解放された受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみだった。

なおこの9月7日は治安維持法の前身となる緊急勅令が出された日でもある。

政府による記事差し止めが解除されたことを受けて事件の詳細を報じる10月22日付東京時事新報

9月2日午後11時、下江戸川橋を破壊中の朝鮮人を警備中の騎兵が射殺。9月2日午後11時、南葛飾郡でこん棒などで武装した30人の朝鮮人が砲兵第七連隊第一中隊長代理砲兵中尉高橋克己のオートバイを包囲したが中尉は脱出に成功した。

軍活動

陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義自由主義の指導者を殺害しようとする動きもみられた。

甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊に殺害され)、亀戸事件では労働運動の指導者平澤計七ら13人が亀戸警察署で、近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤が斬首された。

震災後の殺傷事件

本庄事件 (1923年)」も参照
関東大震災朝鮮人虐殺事件」も参照
朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(1923年9月3日号外)
デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ
記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える東京時事新報(1923年10月22日)司法省が責任転嫁のために発表した実在性に疑問のある情報がベースとなっている。

震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した。

これらに対して9月2日に発足した第2次山本内閣は、9月5日、民衆に対して、朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した。

內閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ

大正十二年九月五日        內閣總理大臣

この内閣告諭第二号と同じ日、官憲は臨時震災救護事務局警備部で「鮮人問題ニ

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出典:wikipedia
2019/06/23 00:46

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