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関東軍とは?

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2011年5月)
【関東軍】

新京の関東軍司令部(総司令部)

【創設】
1919年(大正8年)4月
【廃止】
1945年(昭和20年)
【所属政体】
日本
【所属組織】
大日本帝国陸軍
部隊編制単位
総軍
【所在地】
満州
【編成地】
旅順
通称号/略称 徳
【担当地域】
当初は南満州鉄道附属地
満州事変以降は満州
【最終位置】
新京
【主な戦歴】
満州事変-ノモンハン事件-
第二次世界大戦(ソ連対日参戦)

関東軍(かんとうぐん、旧字体:關東軍)は、大日本帝国陸軍総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前はの一つ)。

概要

旅順の関東軍司令部跡(現・関東軍旧蹟博物館)

大日本帝国中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国首都である新京に移転した(現在の長春市であり、司令部跡は中国共産党吉林省委員会本部となっている)。「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)、日本の関東地方とは関係ない。

張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの外交安全保障戦略を現地の佐官参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の日中戦争(支那事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす契機となった。なお、満洲事変は、参謀本部陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、明確な軍規違反であり、大元帥たる昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪であったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。

歴史

日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍朝鮮軍支那駐屯軍などと同じたる関東軍として独立した。司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した。当初の編制独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。

1919年4月25日、関東都督府旅順陸軍軍法会議を関東軍旅順陸軍軍法会議に、関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称することを決定し同年5月1日に施行した。同年5月16日、関東軍憲兵隊を配置した。

1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し(易幟)、工作は裏目となった。そのため1931年石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国する。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが海軍青年士官らによる五・一五事件により殺害され、次の斎藤実内閣日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年に満州国の首都新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。

一方で、1917年ロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、ソ連軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍極東軍管区の増強を続けていた。1938年張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第19師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年ノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった。なお、ノモンハン事件の引責で植田謙吉司令官・磯谷廉介参謀長ほか多くの将校が更迭・予備役編入されている。

これらの武力衝突によりソ連軍の脅威が認識されたことや第二次世界大戦欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌1937年の日中戦争(支那事変)勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達した。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われていたのはこの時期である。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

1942年10月1日には部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格。関東軍は支那派遣軍南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用され、また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘がなかったため関東軍も進んで南方軍に戦力を提供した。その埋め合わせに1945年になると在留邦人を対象にいわゆる「根こそぎ動員」(25万人)を行い、数の上では78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には至っていなかった。

1945年5月ドイツ敗北後、ソ連軍の極東への移動が活発になった。6月4日に前総司令官である梅津美治郎参謀総長は大連に赴き、日ソ開戦時、一部の満州地域を放棄し、防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を関東軍に命令した。

同年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。満州に侵攻してきたソ連軍に対し、10日大本営は朝鮮防衛と司令部の移転を命令した。14日関東軍司令部は通化に移転。これによって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった(殖民を守る部隊が全く存在しなかったゆえに葛根廟事件という悲劇まで起きた)。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日玉音放送を迎えた。正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐこととなる。また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第4練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。

関東軍が関係した戦闘・事件等

基本情報

人事

司令官・総司令官

  1. 立花小一郎 (大正8年 - 大正10年)
  2. 河合操 (大正10年 - 大正11年)
  3. 尾野実信 (大正11年 - 大正12年)
  4. 白川義則 (大正12年 - 昭和元年)
  5. 武藤信義 (昭和元年 - 昭和2年)
  6. 村岡長太郎 (昭和2年 - 昭和4年) - 張作霖爆殺事件
  7. 畑英太郎 (昭和4年 - 昭和5年)
  8. 菱刈隆 (昭和5年 - 昭和6年)
  9. 本庄繁 (昭和6年 - 昭和7年) - 満州事変
  10. 武藤信義 (昭和7年 - 昭和8年)
  11. 菱刈隆 (昭和8年 - 昭和9年)
  12. 南次郎 (昭和9年 - 昭和11年)
  13. 植田謙吉 (昭和11年 - 昭和14年) - ノモンハン事件
  14. 梅津美治郎 (昭和14年 - 昭和19年) - 1942年以後、総司令官。
  15. 山田乙三 (昭和19年 - 昭和20年) - 終戦時の総司令官。ソ連軍によって抑留される。

参謀長・総参謀長

参謀副長・総参謀副長

高級参謀・第1課長

※昭和6年10月5日から第1課長

作戦主任参謀

情報主任参謀・第2課長

※昭和16年10月5日から第2課長

後方主任参謀・第3課長

※昭和16年10月5日から第3課長

政策主任参謀・第4課長

※昭和16年10月5日から第4課長

報道部長

※報道部長は参謀の発令を受ける

経理部長

軍医部長

獣医部長

※以下、『日本陸海軍総合事典』第2版、350頁による。

法務部長

補給監

※補給監は昭和17年10月20日に新設され、参謀長が兼任した

補給監部参謀長

特種情報部長

※昭和13年8月1日に参謀部第2課別班として設置され、研究部と俗称された。
※昭和16年5月15日に特種情報部に改編
※昭和19年6月30日に特種情報隊に改編

築城部長

※創設当初は関東軍参謀部第2別班と称した
※昭和16年5月31日築城部へ改編
※昭和20年5月25日建設団へ改編

化学部長

※昭和14年8月1日に技術部から独立

防疫給水部長

関東軍防疫給水部の項参照

軍馬防疫廠

関東軍軍馬防疫廠の項参照

大陸鉄道司令官

※関東軍野戦鉄道司令官として設置
※昭和19年12月16日大陸鉄道司令官と改称

その他の主要な参謀

(順不同:主任参謀(課長レベル)になっていない者)

なお網羅的な資料が存在しないため、関東軍のすべての時代の参謀の氏名を把握することはできない。

関東軍総司令部の編制

終戦時の所属部隊

脚注

  1. ^ 『官報』第2014号、大正8年4月23日。
  2. ^ 『官報』第2025号、大正8年5月6日。
  3. ^ 『官報』第2039号、大正8年5月23日。
  4. ^ なお戦後、張鼓峰事件・ノモンハン事件は日本陸軍の一方的敗北であったと考えられていたが、ソ連崩壊により明らかになった文書によると、両戦闘におけるソ連側の損害は実は日本側を上回っていた事実が分かった。これにより特にノモンハン事件の評価に関して再検討が行われた。
  5. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『陸の荒鷲殊勲甲. 前篇』124頁 (編著者:皇輝会本部 出版者:皇輝会 発行:昭和16年(1941年)8月8日) (2018年11月3日閲覧。)
  6. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』405頁。
  7. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』553頁。

参考文献

出典:wikipedia
2020/07/02 21:26

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