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阪神タイガースとは?

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阪神タイガース
会社名 株式会社阪神タイガース
創設年度 1935年 (1935)
ロゴデザイン

所属リーグ

セントラル・リーグ


歴代チーム名

本拠地
阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)

収容人員 47,808人(阪神甲子園球場)
フランチャイズの遍歴

永久欠番


獲得タイトル
日本一(1回)

1985


リーグ優勝(9回)


成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)

クライマックスシリーズ(7回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)

1勝6敗




球団組織
オーナー 坂井信也(阪神電気鉄道代表取締役社長)
運営母体 阪神電気鉄道
(阪急阪神ホールディングス傘下)
監督 金本知憲

阪神タイガース(はんしんタイガース、英語: Hanshin Tigers)は、日本プロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。日本に現存する12球団の中で読売ジャイアンツに次いで2番目に歴史が長いプロ野球球団である。運営法人は株式会社阪神タイガース。親会社阪神電気鉄道(阪急阪神ホールディングス傘下)。兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場本拠地

目次

  • 1 球団の歴史
    • 1.1 戦前
    • 1.2 戦後 - 1940年代
    • 1.3 セ・リーグ加盟
    • 1.4 1960年代
    • 1.5 第1次村山監督時代
    • 1.6 第2次金田監督時代
    • 1.7 第1次吉田監督時代
    • 1.8 第2次後藤監督時代
    • 1.9 ブレイザー監督時代
    • 1.10 中西監督時代
    • 1.11 安藤監督時代
    • 1.12 第2次吉田監督時代
    • 1.13 第2次村山監督時代
    • 1.14 中村監督時代
    • 1.15 藤田監督時代
    • 1.16 第3次吉田監督時代
    • 1.17 野村監督時代
    • 1.18 星野監督時代
    • 1.19 岡田監督時代
    • 1.20 真弓監督時代
    • 1.21 和田監督時代
    • 1.22 金本監督時代
  • 2 所属選手・監督・コーチ
  • 3 チーム成績・記録
    • 3.1 その他の記録
  • 4 チームの特徴
    • 4.1 球団名称
    • 4.2 六甲颪
  • 5 試合開催地について
    • 5.1 本拠地
    • 5.2 地方開催
    • 5.3 主催ゲームの開幕戦
  • 6 マスコット
  • 7 デザイン
    • 7.1 シンボルマーク
    • 7.2 球団旗の変遷
    • 7.3 ロゴ
    • 7.4 ユニフォーム
      • 7.4.1 交流戦専用ユニフォーム
      • 7.4.2 交流戦以外の専用ユニフォーム
        • 7.4.2.1 「GREAT CENTRAL」
        • 7.4.2.2 「ウル虎の夏」
        • 7.4.2.3 「伝統の一戦 〜THE CLASSIC SERIES〜」
  • 8 関西代表球団への過程
    • 8.1 関西の球団中継数減少
  • 9 球団の伝統
  • 10 スポンサー
    • 10.1 ユニフォームスポンサー
    • 10.2 オフィシャルスポンサー
  • 11 歴代監督
  • 12 永久欠番
  • 13 ノーヒットノーラン達成投手
  • 14 主な歴代の球団歌・応援歌
  • 15 主なキャンプ地
    • 15.1 現在使用しているキャンプ地
    • 15.2 過去に使用されていたキャンプ地
  • 16 キーワード
    • 16.1 ミスタータイガース
    • 16.2 ダイナマイト打線
    • 16.3 バックスクリーン3連発
    • 16.4 いろは順背番号とポジション順背番号
    • 16.5 背番号11にまつわるエピソード
    • 16.6 代打の神様
    • 16.7 伝統の一戦
      • 16.7.1 年度優勝決定戦と太平洋ホームラン
      • 16.7.2 世紀の落球とV9
    • 16.8 史上最短試合と史上最長試合
    • 16.9 投手の偵察メンバー第1号
    • 16.10 2度の放棄試合
    • 16.11 村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合
  • 17 チームスローガン
  • 18 放送・メディア
    • 18.1 主催ゲーム・ロードゲームの中継制作局・番組
    • 18.2 主催ゲームのみの中継制作メディア
      • 18.2.1 主催ゲームの制作放送を行う無料BS放送メディア
    • 18.3 地元ケーブルテレビ局
    • 18.4 関連番組
      • 18.4.1 テレビ
      • 18.4.2 ラジオ
    • 18.5 阪神タイガースをテーマとした作品
      • 18.5.1 漫画・アニメ
        • 18.5.1.1 阪神タイガースに所属する(していた)野球漫画の登場人物
      • 18.5.2 小説
      • 18.5.3 映画
      • 18.5.4 ゲーム
  • 19 関連書籍
  • 20 脚注
    • 20.1 注釈
    • 20.2 出典
  • 21 関連項目
  • 22 外部リンク

球団の歴史

株式会社阪神タイガース
HANSHIN Tigers Company, Limited
種類
株式会社
【略称】
阪神、タイガース
【本社所在地】
日本
663-8151
兵庫県西宮市甲子園町2番33号
【設立】
1935年12月10日
(株式会社大阪野球倶楽部)
業種
サービス業
法人番号
3140001070034
【事業内容】
プロ野球球団運営、プロ野球興行事業など
【代表者】
代表取締役会長オーナー 坂井信也
代表取締役社長 揚塩健治
【純利益】
9億65百万円(2018年3月期)
【純資産】
56億700万円
(2013年3月31日現在)
【総資産】
178億39百万円
(2018年3月31日現在)
【決算期】
3月末日
【主要株主】
阪神電気鉄道 100%
【外部リンク】
http://hanshintigers.jp/
特記事項:1961年4月1日に現商号へ商号変更。
阪急阪神ホールディングス連結子会社

戦前

1934年末に大日本東京野球倶楽部・球団名「東京巨人軍」が創立された。東京巨人軍の親会社である読売新聞社は、数球団で職業野球リーグを結成したいと考えていた。特に東京市大阪市名古屋市三大都市圏で試合を行うことを目指していた。誘いを受けた阪神電気鉄道が、当時日本最大の球場だった甲子園球場を本拠地とした球団を設立することとなった。

1935年10月22日門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信藤村富美男藤井勇といった中等野球のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、12月10日に商号「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名「大阪タイガース」(おおさかタイガース、Osaka Tigers)が発足した。

1936年1月9日に川崎コロムビアの若林忠志2月28日立教大学景浦將など有力選手と契約し、4月19日の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。2月5日には日本職業野球連盟が結成された。

1936年の公式戦は春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分け、東京・大阪・名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式で行われた。最初の春シーズンは、連盟結成披露試合として甲子園球場、鳴海球場宝塚球場にて3大会が行われた。東京巨人軍がアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しておらず、名古屋金鯱軍も途中内外遠征を行ったため、シーズン通しての優勝は決定しなかった。

夏、秋各シーズンでは各大会1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏シーズンの名古屋大会で1位になった。また親会社同士が競争関係にある阪急軍に勝てなかったことから、初代監督森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋に24勝6敗1分の成績を残し、シーズン優勝を決める勝ち点が2.5と東京巨人軍と並んだ。しかし、同年12月に洲崎球場で行われた優勝決定戦で、1勝2敗と惜敗した。

1937年秋、1938年春には御園生崇男に加えて37年春から西村幸生が加入したことにより安定した投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して、球団史上初かつ球団史上唯一の2シーズン連続の優勝を達成した。更にこの2年間は、春と秋のシーズン優勝球団の対決で年度優勝を決定していたが、2年とも対戦相手となった東京巨人軍を破り、年間優勝2連覇を達成した。このように、大阪タイガースは第二次世界大戦前から戦中は常に東京巨人軍と優勝争いを繰り広げる強豪チームだった。

1939年、この年は2位になったにもかかわらず、日本プロ野球史上初めて全球団に勝ち越しながら優勝を逃すという初めてのケースとなった。

1940年9月25日日米および日英関係の悪化に伴う日本野球連盟の方針により、敵性語とされた英語の使用自粛のため球団名を「阪神軍」(はんしんぐん)に改称した。日中戦争太平洋戦争の激化に伴う徴集および召集拡大化により選手数が不足する苦しい状況となる。1944年、監督兼主戦投手の若林忠志(当時37歳)が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化する中、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。

戦後 - 1940年代

第二次大戦後、日本のプロ野球は1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰。1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。

1947年、若林が44年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞 (MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初、通算4度目の優勝を飾った。1番・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は、「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番・藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「(初代)ミスタータイガース」と称された。1948年、藤村が対金星戦(甲子園)で日本プロ野球初のサイクル安打を達成。

1949年には、チーム順位が6位にも関わらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし、最終的には反対派に回り、2リーグ分裂に際して読売ジャイアンツなどと共にセントラル・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。更に遊撃手長谷川善三西鉄クリッパースへ、門前眞佐人大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。

セ・リーグ加盟

1950年-1958年

1950年、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男藤村隆男梶岡忠義白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。

一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、吉田義男渡辺省三小山正明田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。

この間、松木は1954年限りで監督を退任。球団は後任にプロの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。助監督だった藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村の監督退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2か月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。

1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。

1955年、2軍チーム(阪神ジャガーズ)結成。ウエスタン・リーグに加盟。

1959年

6月25日の対巨人11回戦(後楽園)は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄のサヨナラ本塁打で、4-5で敗戦。 4年連続の2位に終わる。〈1959年は中日と同率の2位〉。

1960年代

1960年

藤本勝巳が最多本塁打・最多得点の二冠を獲得したものの、チームは3位に終わる。

1961年

フランチャイズ制度の導入に伴い保護区域を兵庫県と定められた関係で、チーム名から「大阪」を外し、4月1日に商号を「株式会社阪神タイガース」、球団名も阪神タイガース(はんしんタイガース、Hanshin Tigers)と変更した。しかし成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した監督・金田正泰がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた藤本定義が監督に就任した。この年は、4位に終わる。

1962年

藤本の下、小山・村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分裂後では初、通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦した。村山先発で2連勝した後、3戦目にも村山を無理にリリーフ登板させたが打ち込まれ引き分けに終わったことが響き、その後4連敗。結果、2勝4敗1分で敗退した。

1963年

巨人と中日の首位争いに加わることができず、3位に終わる。

1964年

エース小山と毎日大映オリオンズの4番・山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋めた。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という状況で、最後に9連勝し公式戦最終日の9月30日に逆転で6回目の優勝。しかし日本シリーズでは、リーグ優勝決定の翌日から開催という強行日程になり、南海ホークスに先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫するなどして、3勝4敗で敗れている。

1965年-1969年

1965年から1967年まで3年連続の3位。1968年と1969年は、いずれも巨人と優勝争いを繰り広げるも、結果はいずれも巨人が優勝で、1968年は巨人と5ゲーム差、1969年は巨人と6.5ゲーム差の2年連続2位。1966年、藤本は杉下茂投手コーチに監督を譲り総監督となるが、同年8月に復帰。1968年まで監督を務め、同年オフに勇退。後任には後藤次男が就任。

第1次村山監督時代

1970年-1972年

1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊田淵幸一のバッテリー、吉田義男に代わって遊撃手のレギュラーとなった藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手がそろったが、巨人が9年連続日本一のV9時代で、1970年・2位→1971年・5位→1972年・2位と優勝する事ができなかった。1971年のオールスターでは、江夏が9者連続奪三振を記録。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退した。

第2次金田監督時代

1973年

金田が正式な監督に就任して巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日ドラゴンズ戦で、2対4で敗戦、甲子園での最終戦でも0対9と敗れて、巨人が9年連続優勝となった。

1974年

田淵が本塁打を量産し、オールスター戦時点では首位に立った。しかし、夏の長期ロードで大きく負け越して後退、最終的にはBクラスの4位でシーズンを終える。シーズン後に金田は退任。

第1次吉田監督時代

1975年

吉田義男が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、江夏の不調などから3位に終わった。オフに江夏を江本孟紀島野育夫らとのトレードで南海へ放出。

1976年

当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣が好調で、ハル・ブリーデンマイク・ラインバック掛布雅之らの活躍で巨人と激しく優勝争いを演じるが、結局2位に終わる。

1977年

序盤は好調だったが、4月には6連勝のあと6連敗、6月には6連敗のあと8連勝と、大型連勝と大型連敗を何度も繰り返すなどチームの調子が安定せず、特に対中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わる。この年のオフに吉田は監督を辞任。

第2次後藤監督時代

1978年

後藤が2度目の監督に就任したが球団史上初の最下位に終わり、後藤は責任を取る形で1シーズン限りで解任。オフに小津正次郎が球団社長に就任すると、低迷するチームの改革を図るために大規模な改革が必要と考え、田淵と古沢憲司西武ライオンズ竹之内雅史真弓明信若菜嘉晴竹田和史との交換トレードで放出。更に空白の一日事件で巨人がドラフト前日に江川卓ドラフト外で入団契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局は日本野球機構コミッショナー金子鋭(当時)の指示、いわゆる強い要望により江川を巨人に移籍させ、交換トレードの形で巨人の小林繁を獲得した。

ブレイザー監督時代

1979年

ドン・ブレイザーが監督に就任。掛布が48本塁打を放ち、小林が古巣の対巨人戦8勝を含む22勝を挙げるが、8月下旬に広島東洋カープに離されて4位に終わる。

中西監督時代

1980年

新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などでブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。後任には中西太が就任したが、5位に終わる。

1981年

優勝した巨人と8ゲーム差の3位。江本孟紀が「ベンチがアホやから野球ができへん」と首脳陣批判をして退団したのがこの年。

安藤監督時代

1982年

安藤統男が監督に就任。優勝した中日と4.5ゲーム差、2位の巨人と3ゲーム差で2年連続の3位(但し勝利数では優勝した中日を上回った)。山本和行がストッパーに転向したり、6月に11連勝する話題もあったが、一方でこの年は島野育夫柴田猛の両コーチが審判に暴行を加えて(横浜スタジアム審判集団暴行事件)無期限出場禁止処分を下されたり(翌年解除)、若菜嘉晴がスキャンダル問題で退団するなどトラブルも相次いだ。

1983年1984年

2年続けての4位。1984年オフ、安藤は監督を辞任、吉田義男が二度目の監督就任。

第2次吉田監督時代

1985年

1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(「第二次ダイナマイト打線」)が活躍し、4月17日の対巨人戦(甲子園球場)ではバース、掛布、岡田が巨人の先発の槙原寛己からバックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。この年は最終的に本塁打セリーグ記録を更新する219本塁打を記録し。夏場まで首位を快走していた。しかし、8月12日に発生した日本航空123便墜落事故で球団社長の中埜肇が犠牲となり、阪神タイガースのナインたちもこの事故機(JA8119)に直前のフライト(福岡羽田日本航空366便)で搭乗していたため、選手たちは大きな衝撃を受けて一時は大型連敗を喫して首位陥落した。しかし、強力打線に加えて中西清起福間納山本和行らのリリーフ投手陣も1年を通して大車輪の活躍をみせ、10月16日の対ヤクルトスワローズ戦(神宮)に引き分けて、21年ぶりのリーグ優勝が決定。バースが球団初の三冠王を獲得。西武との日本シリーズは4勝2敗で勝利、1リーグ時代から約38年ぶり、2リーグ制になってから初の日本一達成となる。

1986年

バースがシーズン打率.389、シーズン長打率.777、7試合連続本塁打、13試合連続打点の日本新記録をマーク、2年連続三冠王を獲得するが、掛布と池田親興の負傷による長期戦線離脱、更に岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島と巨人との優勝争いから脱落して3位に終わった。この年、川藤幸三が引退。

1987年

投手陣崩壊に加え、掛布・岡田の不振で最下位となり、吉田は監督を辞任、村山実が監督就任。勝率.331は球団史上最低勝率である。

第2次村山監督時代

1988年

少年隊トリオ」と呼ばれた和田豊大野久中野佐資を登用するなど世代交代を進めたが、バースが長男の病気問題で退団、代わって入団したルパート・ジョーンズの故障、掛布の引退が重なって2年連続最下位。

1989年

セシル・フィルダーが本塁打王争いをするが、シーズン途中に三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。5位に終わり、村山が監督を辞任、中村勝広が監督に就任。

中村監督時代

1990年

前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調で、特にパリッシュは8月まで本塁打王を狙える位置にいたが8月末に怪我を理由に突然の引退退団をしてしまった。投手陣は年間通して不振に終わり、主にロングリリーフを務めた3年目の ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出典:wikipedia
2018/08/06 07:01

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