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阿部勇樹とは?

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阿部 勇樹

レスター・シティ時代(2011年)

【名前】

【愛称】
アベちゃん
【カタカナ】
アベ ユウキ
【ラテン文字】
ABE Yuki
【基本情報】

【国籍】
日本
【生年月日】
(1981-09-06) 1981年9月6日(37歳)
【出身地】
千葉県市川市
【身長】
178cm
【体重】
77kg
【選手情報】

【在籍チーム】
浦和レッズ
【ポジション】
MF / DF
【背番号】
22
【利き足】
右足

【クラブ】


クラブ | 出場 | (得点)
1998-2006
ジェフ市原/千葉 |  214  | (36)
2007-2010
浦和レッズ |  120  | (14)
2010-2012
レスター・シティ |  52  | (2)
2012-
浦和レッズ |  229  | (22)
【代表歴】

2000
日本U-20 | 2  | (2)
2002-2004
日本U-23 | 13  | (3)
2005-2011
日本 | 53  | (3)
1. 国内リーグ戦に限る。2018年12月1日現在。
2. 2011年10月7日現在。
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj

阿部 勇樹(あべ ゆうき、1981年9月6日 - )は、千葉県市川市出身のプロサッカー選手Jリーグ浦和レッズ所属。ポジションミッドフィールダーディフェンダーで、双方における全ての守備的ポジションでプレーすることができるユーティリティープレイヤー。元日本代表

目次

  • 1 来歴
    • 1.1 プロ入り前
    • 1.2 ジェフユナイテッド市原
    • 1.3 浦和レッズ
    • 1.4 レスター・シティ
    • 1.5 浦和レッズ復帰
    • 1.6 日本代表
  • 2 評価
  • 3 エピソード
  • 4 所属クラブ
  • 5 個人成績
  • 6 タイトル
    • 6.1 チーム
    • 6.2 個人
  • 7 代表歴
    • 7.1 出場大会
    • 7.2 試合数
    • 7.3 ゴール
  • 8 書籍
  • 9 関連項目
  • 10 脚注
  • 11 外部リンク

来歴

プロ入り前

1981年、2男1女の第3子として出生。兄の影響で幼少の頃からサッカーに親しみ、休日で寝ている父親の枕を蹴り飛ばして起床させ父兄共にボールを蹴り合って遊んでいた。父親の感情豊かな感激屋の影響を受け、(5歳上の)兄からボールが取れないといっては泣き、試合内容が悪かったといっては涙し、勝利に貢献して褒められては目に涙を浮かべている何かと涙もろい子だった。

通っていた幼稚園の縁と父の勧めで柏イーグルス入団。小学4年生時に富美浜FCへ加入、小学5年生時、市川FCの選抜、2チームを掛け持ちする。小学校6年生時、ジェフのユースセレクションに合格する。

ジェフユナイテッド市原

市立船橋高校からの誘いもあったが、本人は大半の時間をジェフ市原ユースでのサッカーに注ごうとすべく通信制の高校に進学を希望するも、両親が反対した上に姉が激怒。高校進学に向けて塾に入れられ、受験勉強を猛スピードで行い、一般入試で東京学館浦安高校普通科に進学。

Jリーグ初出場は、1998年8月5日、Jリーグ1stステージ第16節のガンバ大阪戦(万博記念競技場)。当時のチームメイトの山口智の記録を破り、16歳と333日というJ1の最年少記録を打ち立てた。1999年4月10日 1stステージ第6節神戸戦(神戸総合運動公園ユニバー記念競技場)でJリーグ初得点を挙げた。

2003年イビチャ・オシムが新監督に就任すると、オシムは当時既に国際経験や実力を備えながらも前面に出ようとしていなかった阿部を21歳でキャプテンに抜擢。オシム就任当時、ベテラン選手のプレーに頼り切っている後輩という当時のチーム事情を憂慮、プレーも消極的で性格も大人しいがチーム内では人当たりの良い阿部を先輩後輩の垣根を取り除く役目も(本人には黙って)与える。後にジェフは看板選手を次々と放出、当時は監督の命令でキャプテンを務めるのが嫌で仕方なかったが試合を重ねるごとに阿部はキャプテンとしての頭角を現すことになる。

この起用は周囲に譲りがちだったFKを自ら蹴り、積極的に攻撃に参加するといった成長をもたらす。2005年のJリーグ戦では守備的MFながら12得点(うち1回はハットトリック)を挙げ、常にJ2降格ラインにいたチームを2005年2006年ナビスコ杯2連覇に導いた立役者の1人になった。後にイビチャ・オシム監督との出会いによって、戦う姿勢が変わったことと、複数のポジションをこなせることを「ポリバレント」と称され、それが自分の強みと自覚できるようになったと語っている。

浦和レッズ

2007年1月12日、ジュニアユース時代から在籍した千葉から浦和レッズへの移籍を発表。国内最高額といわれる移籍金(推定3億5千万円)で1月22日に正式契約を結ぶ。2010年、浦和との3年契約が満了したため、海外移籍の噂もあったが1月31日、浦和と1年間契約延長をすることで合意。

千葉在籍時の2005年2006年、浦和在籍時の2007年と3年連続でJリーグベストイレブンに選出。サポーターからの人気も高く、2003年~2007年までJリーグオールスターサッカーに5年連続でサポーター投票で選出され、特に、2004年と2005年は最高得票数を獲得。2008年からJOMO CUPに替わっても、メンバーに選ばれ続けていた。

FIFAクラブワールドカップ2007では、浦和からただ1人、大会のMVP候補8人の1人に選ばれた。(この時MVPを獲得したのは当時ACミランの選手であったブラジル代表のカカ)。2010年7月、彩の国功労賞を受賞。また、市川市が市民栄誉賞を授与すると発表した。

レスター・シティ

2010年W杯終了後、オランダ・エールディビジフェイエノールトVVVフェンローから高い関心を示されており、阿部の関係者もオランダリーグへの移籍が近づいているとコメントするなどオランダ移籍が有力視されていたが、移籍期限の直前にイングランド2部・フットボールリーグ・チャンピオンシップレスター・シティFCが3年契約での正式オファーを出し、基本合意。最大の障害だった就労ビザの問題も解決し、2010年8月31日に移籍が正式に決定した。レスターシティでの初得点は、2011年5月7日 チャンピオンシップ最終節イプスウィッチ・タウンFC戦(ウォーカーズ・スタジアム)。2012年1月22日、日本に残していた家族を最優先したいとの理由でチームと双方合意の上で契約を解除した。

浦和レッズ復帰

2012年、1月24日に浦和に復帰。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督からチームキャプテンに指名された。2012年ではボランチとして全試合出場。退場となったJ1第4節川崎フロンターレ戦を除いてフル出場を果たした。チームも3位となり、ACLの出場権を獲得した。なお、阿部はJリーグ優秀選手賞も受賞した。2013年、J1第33節が11月30日に行われ、J1通算400試合出場を達成した。400試合出場は史上13人目。

2016年、4月16日に行われた1stステージ第7節の仙台戦において、史上12人目(GKを除くと3人目)となるリーグ戦100試合連続フル出場を達成した。10月1日、2ndステージ第14節のガンバ大阪戦でJ1通算500試合出場を達成した。奇しくもこの試合はデビュー戦と同一カードとなり、勝利し自身の記録達成に花を添えた。 また遠藤保仁を抜き史上最年少での500試合出場を達成、山田暢久に続く記録達成は同一クラブ二人目では史上初、海外移籍経験者の記録達成も史上初、下部組織出身選手の記録達成も史上初と記録づくめとなった。同試合で後半9分に遠藤からボールを奪取後倒された瞬間背中を右足で蹴られあまりの痛さにピッチ上でのたうち回ったがその後も試合終了までプレーし、次のJリーグカップ準決勝第1戦FC東京戦もフル出場したが試合終了後メディカルチェックを受けると右肋骨を骨折している事が発覚した。決勝ガンバ大阪戦では強行出場し浦和レッズ移籍後初の国内タイトルを手にした。ジュビロ磐田戦で山田暢久の出場記録を抜く通算502試合を達成した。

2017年5月14日、第11節のアルビレックス新潟戦で先発フル出場を果たし、当時J1最多となる「138」試合連続フル出場を果たした。

2018年8月11日、第21節のサガン鳥栖戦で途中出場し、史上4人目かつ史上最年少でのJ1通算550試合出場を果たした。

日本代表

ジュニアユース時代から各年代別で日本代表に選出されてきた。小野伸二稲本潤一遠藤保仁といった、いわゆる黄金世代が準優勝した1999 FIFAワールドユース選手権では、フィリップ・トルシエ監督の下、一つ下の世代から代表候補入りを果たしている。2004年アテネオリンピックには、キャプテンとして田中マルクス闘莉王松井大輔大久保嘉人駒野友一らと共に出場。山本昌邦監督に本職だったボランチから右サイドバックやリベロに起用され、これを機に、ユーティリティプレーヤーとして活躍することが多くなった。

2003年東アジアサッカー選手権でA代表初選出、2005年1月29日のカザフスタンとの親善試合(横浜国際競技場)でA代表初出場を果たした。A代表初ゴールは2006年8月16日のアジアカップ予選、イエメン戦。ジーコイビチャ・オシム岡田武史、いずれの代表監督の下でも、代表に選出されて試合出場の機会を得ている。

2006 FIFAワールドカップではメンバーから漏れるが、2010年5月10日、2010 FIFAワールドカップで初選出 。大会では背番号「2」を背負い、全試合(カメルーン戦、オランダ戦、デンマーク戦、パラグアイ戦)にスタメン出場、パラグアイ戦にて中村憲剛と交代するまで、フル出場していた。それまで岡田武史監督の下、CBで起用され、巧く機能しないことが多かったが、W杯本戦では終始、アンカーとして出場し、堅固な守備陣の一角として日本のグループリーグ突破に貢献し、元日本代表中田英寿や、内田篤人からは今代表のMVPに挙げられた。

評価

評論家の後藤健生は阿部について、ディフェンダーとして、所属クラブでも日本代表でも起用され結果を残している事を認めつつ、「彼はやはり本来はMF」 だという見方を示している。

エピソード

所属クラブ

ユース経歴 (出身校)
プロ経歴

個人成績

【国内大会個人成績】

【年度】
【クラブ】
【背番号】
【リーグ】
【リーグ戦】
リーグ杯
オープン杯
【期間通算】

【出場】
【得点】
【出場】
【得点】
【出場】
【得点】
【出場】
【得点】

日本 【リーグ戦】
リーグ杯
天皇杯 期間通算
1998 | 市原 | 31 | J | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0
1999 | 29 | J1 | 30 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 33 | 1
2000 | 8 | 25 | 0 | 3 | 0 | 3 | 2 | 31 | 2
2001 | 6 | 17 | 3 | 2 | 0 | 2 | 0 | 21 | 3
2002 | 24 | 1 | 3 | 0 | 2 | 0 | 29 | 1
2003 | 27 | 3 | 3 | 0 | 4 | 0 | 34 | 3
2004 | 24 | 5 | 5 | 1 | 1 | 0 | 30 | 6
2005 | 千葉 | 33 | 12 | 10 | 5 | 1 | 0 | 44 | 17
2006 | 33 | 11 | 8 | 2 | 1 | 0 | 42 | 13
2007 | 浦和 | 22 | 33 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | 34 | 3
2008 | 33 | 6 | 1 | 0 | 1 | 0 | 35 | 6
2009 | 34 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 38 | 2
2010 | 20 | 3 | 2 | 1 | - | 22 | 4
イングランド 【リーグ戦】
FLカップ
FAカップ 期間通算
2010-11 | レスター | 22 | FLC | 36 | 1 | 2 | 0 | 2 | 0 | 40 | 1
2011-12 | 16 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 19 | 1
日本 【リーグ戦】
リーグ杯
天皇杯 期間通算
2012 | 浦和 | 22 | J1 | 34 | 4 | 4 | 0 | 3 | 0 | 41 | 4
2013 | 33 | 6 | 5 | 0 | 0 | 0 | 38 | 6
2014 | 34 | 4 | 7 | 1 | 1 | 1 | 42 | 6
2015 | 34 | 3 | 2 | 2 | 4 | 1 | 40 | 6
2016 | 34 | 1 | 4 | 1 | 1 | 0 | 39 | 2
2017 | 33 | 3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 34 | 3
2018 | 27 | 1 | 5 | 0 |  |  |  | 
【通算】
【日本】
J1 563 | 72 | 71 | 13 | 26 | 4 | 628 | 88
【イングランド】
FLC 52 | 2 | 4 | 0 | 3 | 0 | 59 | 2
総通算 615 | 74 | 75 | 13 | 29 | 4 | 687 | 90

その他の公式戦

【国際大会個人成績】
FIFA

【年度】
【クラブ】
【背番号】
【出場】
【得点】
【出場】
得点
AFC
ACL
クラブW杯

2007 | 浦和 | 22 | 12 | 3 | 3 | 0
2008 | 4 | 0 | -
2013 | 6 | 1 | -
2015 | 5 | 0 | -
2016 | 6 | 0 | -
2017 | 11 | 0 | 2 | 0
【通算】
AFC 44 | 4 | 5 | 0

その他の国際公式戦

タイトル

チーム

ジェフユナイテッド千葉
浦和レッズ

個人

代表歴

出場大会

試合数


日本代表
国際Aマッチ

【年】
【出場】
【得点】

2005 | 5 | 0
2006 | 8 | 1
2007 | 11 | 1
2008 | 9 | 0
2009 | 8 | 1
2010 | 9 | 0
2011 | 3 | 0
通算 53 | 3

ゴール

【#】
【開催年月日】
【開催地】
【対戦国】
【勝敗】
試合概要
1. | 2006年8月16日 | 日本新潟市 |  イエメン | ○2-0 | AFCアジアカップ2007 (予選)
2. | 2007年7月25日 | ベトナムハノイ |  サウジアラビア | ●2-3 | AFCアジアカップ2007準決勝
3. | 2009年5月27日 | 日本大阪市 |  チリ | ○4-0 | キリンカップ

書籍

関連項目

脚注

  1. ^ “阿部 勇樹”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_a/yuki_abe.html
  2. ^ このJリーグ記録は2002年FC東京呉章銀によって破られるまで保持。Jリーグ最年少日本人選手に限定すれば2003年サンフレッチェ広島高萩洋次郎に、J1最年少日本人選手に限定すれば2004年東京ヴェルディ1969森本貴幸に破られるまで記録を保持
  3. ^ 移籍理由は「レッズは(2006年Jリーグ優勝、及び2007年天皇杯優勝により)ACLに2年連続で出場することが確定している。海外の強いクラブと対戦し、自分自身を高めていける環境を、浦和レッズは備えていた」とインタビューで話している
  4. ^ 移籍が決定後、浦和側が阿部に対して、筆頭株主である三菱自動車製の車に乗り換えなくても良いと認めていたのだが、気持ちを一新させたいという阿部本人の意向で、千葉時代から所有する愛車ベンツを売却して三菱製のパジェロに乗り換えた。(http://www.nikkansports.com/soccer/p-sc-tp0-20070127-147703.html 浦和阿部、愛車も三菱に変更(日刊スポーツ))
  5. ^ 阿部の全力プレーがレッズに“勇気”を与える|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
  6. ^ 朝日新聞2010年7月8日付 31面 ちば東葛欄 読売新聞2010年7月8日付 29面 東葛欄
  7. ^ 阿部勇樹、イングランドへ|浦和レッドダイヤモンズ公式サイト
  8. ^ Foxes Swoop For Abe” (英語). レスター・シティFC公式. Leicester City (2010年9月3日). 2012年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月1日閲覧。
  9. ^ 過去の2人は服部公太水本裕貴
  10. ^ 記録開始は2013年5月11日のJ1第11節鹿島アントラーズ戦から
  11. ^ 選出が間際だったため、渡航に必要な予防接種が間に合わず、直前で参加を見送った(http://www.j-leaguers.net/special/nigeria/file012.html Jリーグサッカー協会の高田保則のインタビューでこのエピソードが語られている。同様の理由で池田学(浦和)、林丈統( ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2018/12/17 05:31

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