隅田川(すみだがわ)は、東京都北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流する。古くは墨田川、角田川とも書いた。
当川の河道は、元は旧入間川が東京湾へ注ぐ下流部だったが、江戸時代には瀬替えの結果、荒川の本流が流れた。昭和時代に荒川の分流となり、隅田川が正式名となった。
古代には、隅田川は、旧利根川と旧入間川が現在の足立区千住曙町付近で合流し南流して東京湾へ注ぐ河道を指した。合流点の東岸を隅田(墨田)と呼んだ。2km下った墨田区向島5丁目北端付近から下流は砂州が散在する河口への分流地帯だったが、東京湾へ注ぐ主要河口への河道は、浅草方向へ向かう現在の河道から離れ横十間川の方向へ2km流れ現在の横川(墨田区)と亀戸(江東区)との間付近で東京湾へ注いだ。ただしこの河口河道は次第に土砂の堆積で河勢が弱まった。この隅田川は武蔵国(豊島郡)と下総国(葛飾郡)の当初の国境だった。南北2kmの合流区間は両国を繋ぐ接点として重要で、771年以降東海道が通り隅田川を渡船で隅田へ渡った。835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。
江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれた。1629年(寛永6年)に荒川を入間川に付け替える瀬替えにより隅田川の河道は荒川の本流となった。またこの頃には現在の河口への河道へほぼ一本化され、江戸の舟運に重要となった。横十間川の方向へ向かう流れへの分岐には堤が築かれた。
浅草茅町河岸、新柳河岸、元柳河岸、浜町河岸、尾上河岸、稲荷河岸、湊河岸、船松河岸などがあった。
明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、1965年3月24日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の以前からの河道は「隅田川」に改称された。
「川蒸気」明治18年(1885)、隅田川汽船株式會社によって、吾妻橋と永代橋の間に蒸気船が運航を始めた。船体が白色だったので白蒸気と、一区一銭という値段から一銭蒸気と、また、焼き玉エンジン特有のポンポンという音からポンポン蒸気ともいわれ庶民に親しまれた。33年(1900)には千住吾妻滊船株式會社が設立され、船体を青色に塗った青蒸気といわれた蒸気船が、吾妻橋と千住の間を往復した。「此切符本日限り 千住吾妻滊船株式會社」「自吾妻橋 至小松島 金參錢 通行税壹錢」と書かれた、川蒸気の乗船切符の表、裏が書き写されている。
— 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「川蒸気」より抜粋
隅田川の上流の古利根川の古い河道の一部はその後古利根川の本流が流れなくなったが、現在も古隅田川と呼ばれる二つの河川が残っている。
隅田川派川(すみだがわはせん)は分流であり、永代橋の下流で分岐して、相生橋の下流で晴海運河に注ぐまでの0.9kmをいう。
江戸期において防備上の視点から架橋が制限されたこともあり、明治期ごろまでは多くの渡しによって両岸が結ばれていたが、交通量の増加に伴い次第に木橋などで架橋が進んだ。大正期の関東大震災でその多くが被害を受けたために、国の予算による震災復興事業として鋼橋に架け替えられた。政府は東京復興のシンボルとして隅田川の架橋を全体的な構想の下に実行し、復興事業の技術面での総帥であった帝都復興院土木局長の太田圓三の部下で同院橋梁課長だった田中豊により、統一的なデザインモチーフのもと、それぞれ異なる橋梁形式が採用された。さらに、自動車時代の幕開けとともにより多くの橋の建設が行われた。
それぞれが特徴のあるデザインとなっている(#画像参照)。なかでも、下流側に位置する永代橋と清洲橋が震災復興時に架け替えられたときは、永代橋を上に張り出すアーチ橋とし、清洲橋を吊り橋形式にして際だった対比性を持たせ、構造技術面と環境デザイン面を両立させることに成功を収めている。近年では災害対策連絡橋を主とした橋や遊歩道的な歩行者専用橋なども架けられ、よりバリエーションが豊かになっている。
○ - 可能 × - 一般不可 ◆ - 歩行者専用
【】コイやギンブナなどの淡水魚の他に、河口に近い下流部にはサッパ・コノシロ・スズキ・ボラ・マハゼ・エイなどの汽水魚が生息している。また、冬になるとユリカモメが越冬のため飛来する。[1]
吾妻橋より上流のテラス部分には水質浄化のためにアシ原が作られ、小さな干潟を形成し、クロベンケイガニや数多くの水生昆虫の生息地域となっている。また、白鬚橋上流には人工的に湾処(ワンド)が作られ、ボラ、スズキ、マハゼ、クロベンケイガニ、テナガエビが生息し、それらを餌とするコサギやカワウが飛来している。
河口部と竹芝桟橋