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隅田川花火大会とは?

【概要】

【開催時期】
7月最終土曜日
【初回開催】
1978年
【会場・場所】
隅田川近辺(浅草向島周辺)
1.桜橋下流 - 言問橋上流
2.駒形橋下流 - 厩橋上流
【打ち上げ数】
20,000 - 22,000発
【主催】
隅田川花火大会実行委員会
【協賛】
アサヒビール
【協力】
テレビ東京
【人出】
959,000人(2019年)
【外部リンク】
公式サイト
備考:
当日中止の場合は翌日に順延(翌日が国政選挙の投票日の場合は順延せずに中止)。
広重「名所江戸百景」に描かれた両国花火

隅田川花火大会(すみだがわはなびたいかい)は、東京都隅田川沿い(台東区浅草(右岸)・墨田区向島(左岸)周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる花火大会である。毎年8月に開催される江戸川区花火大会とともに東京二大花火大会の一つに数えられる。

概要

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出典検索: "隅田川花火大会"ニュース 書籍 スカラー CiNii J-STAGE NDL dlib.jp ジャパンサーチ TWL
(2013年7月)

隅田川花火大会は、江戸時代、隅田川での船遊びが許された納涼花火解禁期間の開始日に、花火師の鍵屋・玉屋が、自身の花火を宣伝する目的で大々的に花火を打ち上げたことに由来する。

創られた「伝承」

この大会の起源として、これまで広く流布していた言説に次のようなものがある。

隅田川花火大会は、大飢饉コレラの流行によって江戸で多くの死者が出た1732年、8代将軍・徳川吉宗が大川端(現在の隅田川河畔)で催した「川施餓鬼」(死者の霊を弔う法会)に遡る。1733年7月9日(享保18年5月28日)、幕府は前年にならって川施餓鬼とあわせ、慰霊悪病退散を祈願する目的で、両国の川開きの日に水神祭を実施。その際に花火を打ち上げたのが、現在の花火大会のルーツとされる。

この半ば定説化していた「伝承」は、明治時代中期から昭和初期(1890年代~1930年代)にかけて徐々に創られていったものであり、歴史的事実とはかけ離れている。例えば、コレラの日本国内での流行は、1822(文政5)年に西日本一帯で起きたのが最初であり、1732年に流行したというのは事実に反する。

下に引用した清水晴風の文章は、この「伝承」が形成される途上の1907(明治40)年に書かれたものである。江戸時代の文献には一切登場しない「享保18年」や「死者供養の花火打ち上げ」などといった情報が記載されている一方、大正時代に突如登場する「水神祭」というワードは、まだ見られない。

両国の夏の納涼花火」 隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733)5月28日の両国川開きにまで溯る。大飢饉や疫病による死者供養と災厄除去を祈願して、花火師、6代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりだった。明治期には11代目鍵屋弥兵衛が、外国から輸入された新しい薬剤を使って赤、青などの発色花火の打ち上げに成功し、また、マニラから持ち帰ったスターマインを、初めて両国川開きで打ち上げた。明治30年(1897)8月には、見物客の重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きた。この事故を契機に両国橋は旧橋より上流に鉄橋で架けられた。打ち上げ花火、冠菊(しだれ柳)と両国橋(鉄橋)の絵あり。「昔両国の川開きは五月廿八日に限りたるも今は一定の日はなし花火を打上る前警察署の認可を得て後に執行と虽とも此納涼今に至るも東京名物の一なりと定む」と記載あり。50丁表に「江戸一流元祖南京 龍田〇〇ち 男山〇〇〇 むさしの〇〇 安部野らんきく 宮城野乃萩横山町壱丁目 花火せん香かきや弥兵衛」と記載がある花火師、鍵屋弥兵衛の広告あり。 — 清水晴風『東京名物百人一首』1907年8月「両国の夏の納涼花火」より抜粋

萌芽(明治20年代)

時間をかけて少しずつ形作られた、この「伝承」の萌芽は、明治20年代に現れる。1891(明治24)年の新聞記事では、多数の仕掛け花火の打ち上げが始まったのは「凡百六七十余年前」とあり、これに基づけば、1731(享保16)年頃以前に始まったことになる。「伝承」にあるような、1733(享保18)年という具体的な年は、この記事にはなく、また、死者供養と災厄除去を祈願する話も一切なく、隅田川で販売する花火の売り出し広告として川開き花火を始めたと書かれている。

翌年以降も似たような記事が新聞に掲載されるが、始期についての記述はまちまちで、1892(明治25)年の記事では「凡そ二百年前」、1893(明治26)年の記事では「百数十年前」、1896(明治29)年の記事では「明暦〔1655~58年〕以前」と一定していなかった。このように明治20年代の段階では、始期について、享保年間を含む約100年の「誤差」があり、「享保18年」というピンポイントの「設定」はまだ誕生していなかったのである。

「享保18年」の特定(明治30年代)

「享保18年」という具体的な年が現れるのは、明治30年代になってからである。その嚆矢が1903(明治36)年の新聞記事であり、そこには「享保十八年五月旧幕府の免許を得て始めて挙行せし」と記されている。しかし、この記事には、「享保18年」に始まったことを裏付ける根拠は一切示されていない。それにもかかわらず、これ以降、「享保18年」という数字がその真偽を検証されることなく、独り歩きしていく。

ただし、すぐに享保18年説が確固たる地位を得たわけではない。1932(昭和7)年の新聞記事では、「天和二年〔1682年〕川開が始まつてから二百五十年」とあり、主催者がそれを記念して川開きを大々的に催すことにしたと書かれている。主催者が天和2年説を喧伝していることから、1932年の段階では、まだ享保18年説は十分に定着していなかったことが分かる。

「飢饉」への言及(明治40年代)

明治40年代には、上で引用した清水晴風『東京名物百人一首』などのように、「飢饉」との関連性を指摘する記述が登場する。

しかし、「飢饉→死者→慰霊→花火」というストーリーはまだ一般化していなかった。例えば、1911(明治44)年に出版された若月紫蘭『東京年中行事 下巻』には次のように書かれている。

享保十八年、八代将軍吉宗の時である。前年大飢饉の余勢をうけて米価しきりに騰貴し、山陽・西海・四国尤も甚しく、民の餓死するもの九十六万余人に及んだと言うにもかかわらず、漸く太平に慣れ、奢侈の風これより盛んならんとしたる江戸に於ては、この年五月二十八日を以て、今猶江戸名物の名残の一として数えられつつある、隅田川は両国の川開が初めて催されたのである。 — 若月紫蘭『東京年中行事 下巻』(春陽堂、1911年)より抜粋

若月は、飢饉について述べてはいるが、それが川開き(花火打ち上げ)のきっかけになったという書き方はしていない。それどころか、川開きは「奢侈の風」の象徴のように描かれており、慰霊や悪病退散とは正反対のイメージである。

また、若月は、対象地域や死者数等を具体的に示して享保の大飢饉を説明している。これらの内容は『徳川実紀』と完全に一致しており、そこから引用したものと考えられる。若月の文章において、「飢饉」は当時の世相を説明する一要因に過ぎず、「飢饉」と「川開き」との間に直接の結びつきは示されていない。しかし、この『徳川実紀』から引かれた詳細な飢饉状況の描写が、のちに「慰霊目的」説に取り込まれ、結果として「伝承」の強化・完成に寄与することとなった。

「水神祭」の登場(大正時代)

1923(大正12)年、その年の川開きを報じる新聞記事において、「水神祭」という語が初めて登場する。

享保時代水神の祭に旧五月廿八日の夜を涼みがてらの余興として鍵屋弥兵衛が一発ポーンと揚げ〔た。〕 — 読売新聞1923(大正12)年より抜粋

この記事では、飢饉による死者の慰霊のために云々という「慰霊目的」説は登場せず、花火は水神祭の「余興」という位置づけになっている。大正時代になっても、まだ「伝承」は完成していなかったのである。

「伝承」の確定(昭和初期)

あやふやだった花火大会の起源に関する「伝承」が確定し、流布していく画期が、1934(昭和9)年に訪れる。この年に刊行された公式プログラム『両国川開大花火番組』に「川開きと花火の沿革」という論考が掲載されたのである。

顧みますれば、今から二百余年前、享保十七年、八代将軍吉宗の時、前年の豊作に引かへて大飢饉が襲来し、米価頻りに騰貴して、山陽、西海、四国が尤も甚だしく、民の餓死するものが九十六万余人に達したといはれ、且つ江戸においてはコロリ病(現今のコレラ)が流行し、死者は路傍に打棄てられる有様であつたので、時の政府は、その慰霊且つ悪疫退散のため、両国川下に水神祭を催して死者の追善供養を行ひました。翌十八年、前年の水神祭、川施餓鬼に因んで、矢張り五月二十八日に川開きを行ひ、八月二十八日に至る三ケ月の間は、数限りもない屋形船、屋根船、伝馬、猪牙船などの納涼船が山谷、橋場、遠くは白鬚、水神のあたりから、一方深川辰巳花街から大川尻まで『吹けよ川風上れよ簾』とゆるゆると涼を追ふて明け易い夏の夜を、更くるまで水に親しみ、東都歳時記にも『今夜より花火をともす』とあるのを見ますから、五月二十八日の川開き以後、毎夜のやうに色々な趣向を凝らして大小の花火や仕掛花火を打あげたものであります。 — 三宅狐軒「川開きと花火の沿革」より抜粋

三宅は、先に引用した若月紫蘭の『東京年中行事』の記述を下敷きにしつつ、(1)コレラの流行、(2)慰霊と悪疫退散という目的、(3)時の政府(江戸幕府)による実施、(4)水神祭と川施餓鬼という4点を付け加えた。これまでばらばらだった断片がまとめあげられ、ここに「伝承」が完成したのである。

三宅は、日本料理に関する著書を何冊も出し、俳句も嗜む文化人であった。そのような人物が、主催者の公式プログラムに、享保の大飢饉の説得的な根拠を示して花火大会の起源を論じたため、これが「定説」として定着していく。木村荘八(画家、風俗史家)、朝倉治彦(江戸研究者)、『墨田区史』などがこれに追随し、流布されていったのである。


以上のように、隅田川花火大会の起源については、1891(明治24)年から1934(昭和9)年までの40年ほどの間に、花火業者の広告目的から慰霊と悪病退散のためへと趣旨がすり替わり、かつ、明暦以前開始説や天和2年開始説もあった中で、享保18年開始説が根拠もなく採用され、広まっていった。こうして、「伝承」という名の作り話が定着したのである。

鍵屋と玉屋

打ち上げは最初期は鍵屋が担当した。歴史は鍵屋のほうが古く、江戸での創業は1659年。7代目鍵屋の番頭(玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が暖簾分けで、1808年玉屋を創業し、2業者体制となり、双方が腕を競いあっていた。

鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、良いと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は幕末期(1843年)に失火事故を起こし、半丁ほどの町並みを焼失させた罪で、江戸処払い(追放)を命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。一方の鍵屋は、日本最古の花火会社「株式会社宗家花火鍵屋」として現存している。因みに、それまで難しい技術とされていた、同心円状に飛散する花火を明治期に及させたのが鍵屋である。

花火の起源

日本で最初に花火を観賞した人物は、一般的には徳川家康と言われている。江戸時代に書かれた「駿府政事録」などに、1613年、イギリス国王使節ジョン・セーリスが駿府城を訪れた際、中国人を使って、家康に花火を見せたという記述が残されている。この時の花火は現在の打ち上げ花火とは異なり、竹筒から火の粉が噴き出す単純なものであった。これを機に家康が三河の砲術隊に命じて、観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源とされる。

中断、復活、その後

両国川開きの花火は、明治維新第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年から1977年まで、交通事情の悪化や、隅田川の水質汚濁による臭害等により中断するが、1978年に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、以後毎年続けられている。

毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。

なお、3年に一度7月に参議院議員選挙が行われるため、その年の開催日(土曜日)の翌日が選挙投票日にあたる場合、開催日が雨天や強風の場合の順延はなし(事実上中止)となる。東京都知事選挙が実施された2016年も同様である。これは投票所が花火大会会場内にあるため、安全上の理由によるものである。

2000年(第23回大会)は、九州・沖縄サミットが開催された影響により、8月開催に延期された。なお、浅草サンバカーニバルは同年9月9日に開催された。

2011年(第34回大会)は東日本大震災の影響で都内の花火大会が次々と中止を決める中、東京都副知事猪瀬直樹8月27日に日程を変更して開催することを表明した。この開催延期の影響に伴い、浅草サンバカーニバルの開催が中止となる事態が発生した。

東京スカイツリー開業後初となる2012年(第35回)の隅田川花火大会の様子。

2013年(第36回大会)は、雨天および強風により大雨・洪水警報と雷注意報が発表され、開始30分足らずの19時40分に大会中止が発表され、途中打ち切りとなりコンクールも競技不成立となったが順延は行われなかった。1997年(第20回大会)に雨天による延期という例があったが、完全に中止となったのは2013年が初めてである。なお、翌年の2014年(第37回大会)は、雨は降らず予定通り開催され無事に終了した。

2018年(第41回大会)は、当初7月28日に予定されていたが台風12号の接近に伴い、7月29日に延期して開催された。なお、同日は2020年東京オリンピックパラリンピックを見据えて、本大会の警備に人工知能(AI)が初めて導入された。

2020年(第43回大会)は東京オリンピックの当初日程(7月24日 - 8月9日)と重なることから調整が行われ、例年より2週間前倒しした7月11日に開催予定であったが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の流行拡大の影響を受け、同年4月10日に中止が決定した。

2021年(第44回大会)についても東京オリンピックの日程(7月23日 - 8月8日)を避け、例年より3か月遅れの10月23日に開催予定である。

地域への影響

本大会の花火の眺望を期待して周辺のマンションを購入する動きも見られる。

2006年には、マンション分譲業者が花火の眺望を売りにして販売したにも関わらず、数年と経たない内に隣接地に別のマンションを建設して花火が見られなくなったとして、住人が業者を提訴した事例もある。東京地裁は、花火の眺望を「いかなる場合にも法的に保護すべき利益とまではいえない」としながらも、「信義則上の配慮義務がある売り主の会社自身が眺望を妨げた特殊な事案」であるとして、業者側に慰謝料の支払いを命じる判決を出している。

主な開催記録

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